吾妻鏡入門第八巻

文治四年(1188)二月大

文治四年(1188)二月大二日戊辰。所々地頭等所領已下事。自京都。或属強縁。或献消息。愁申人々多之。仍有其御沙汰。而廷尉公朝自去年冬在鎌倉。近日可歸落之間。得其意爲令披露訴條々。載篇目於一紙。可与公朝之由云々。彼公朝下向之次。消息等所有其沙汰也。御事書云。
 寳殿
  越後國奥山庄地頭不當事
 修理大夫家
  尾張國津嶋社板垣冠者不弁所當之由事
 右衛門佐御局
  信濃國四宮庄地頭不進弁年貢并領家得分由事
 大宮御局
  伊勢國志礼石御厨字輪田右馬允不當事
 賀茂神主
  大夫判官〔義經〕搜求之由事
  高雄上人背 宣旨押領神領由事
 新中將殿
  伊賀國若林御園内七町九段妨由事
   佐々木太郎方五町四段
   平六兵衛尉壹町五段
   阿保別府壹町
 公朝
  備前國吉備津宮領西野田保地頭職貞光事。任道理停止論人之妨。如本無相違欲令知行事
已上所々 尤可有御成敗之處。凡如此之訴訟。自君被仰下之時者。無左右雖令成敗。私付縁々於觸來者。全不可致沙汰法也。善惡於御定者。不能左右事也。以縁々令沙汰者。世間人定似偏頗之由令存歟。仍今度ハ無御沙汰也。

読下し                    しょしょ   ぢとうら   しょりょう いげ   こと   きょうとよ      ある    ごうえん  ぞく    ある    しょうそこ けん
文治四年(1188)二月大二日戊辰。所々の地頭等の所領已下の事、京都自り、或ひは強縁に属し、或ひは消息を献じ、

うれ  もう  ひとびちこれおお    よっ  そ   おんさた あ    しか   ていい きんともきょねん ふゆよ  かまくら  あ
愁い申す人々之多し。仍て其の御沙汰有り。而るに廷尉公朝去年の冬自り鎌倉に在り。

きんじつ きらくすべ  のかん  そ   い   えんためうった  じょうじょう ひろう せし    へんもくを いっし   の     きんとも  あた  べ   のよし  うんぬん
近日歸落可き之間、其の意を得爲訴への條々を披露令む。篇目於一紙に載せ、公朝に与う可し之由と云々。

 か   きんともげこうのついで    しょうそこら そ   さた あ  ところなり
彼の公朝下向之次に、消息等其の沙汰有る所也。

おんことがき い
御事書に云はく。

  ほうでん
 寳殿

    えちごのくに おくやまのしょう ぢとう ふとう  こと
  越後國 奥山庄@地頭不當の事

  しゅりたいふけ
 修理大夫家

    おわりのくに つしましゃ  いたがきかじゃ しょとう  わきまえざるのよし こと
  尾張國 津嶋社A板垣冠者所當を 弁不 之由の事

  うえもんのすけのおつぼね
 右衛門佐御局

    しなののくに しのみやのしょう ぢとう ねんぐなら   りょうけとくぶん  しんべんせさるよし こと
  信濃國 四宮庄B地頭 年貢并びに領家得分を進弁不由の事

  おおみやのおつぼね
 大宮御局

    いせのくに  しれしのみくりや あざ わだ  うまのじょうふとう  こと
  伊勢國 志礼石御厨C字輪田 右馬允不當の事

  かものかんぬし
 賀茂神主

     たいふほうがん 〔よしつね〕 さが  もと    のよし  こと
  大夫判官〔義經〕搜し求める之由の事

    たかおのしょうにん せんじ  そむ  しんりょう おうりょう   よし  こと
  高雄上人 宣旨に背き神領を押領する由の事

  しんちうじょうどの
 新中將殿

     いせのくに わかばやしのみそのない しちちょうくたんさまた よし  こと
  伊賀國 若林 御園内 七町九段D妨げる由の事

      ささきのたろうかた ごちょうよんたん
   佐々木太郎方五町四段

      へいろくひょうえのじょう いっちょうごたん
   平六兵衛尉 壹町五段

      あぼのべっぷいっちょう
   阿保別府壹町

  きんとも
 公朝

    びぜんのくに きびつのみやりょう にしのだのほう ぢとうしき  さだみつ こと
  備前國 吉備津宮領 西野田保E地頭職 貞光の事。

     どうり   まか  ろんにんのさまた   ちょうじ    もと  ごと  そういな   ちぎょう せし      ほっ  こと
  道理に任せ論人之妨げを停止し、本の如く相違無く知行令めんと欲す事

いじょう  しょしょ  もっと ごせいばいあ   べ   のところ  およ  かく  ごと  のそしょう  きみよ   おお  くださるのときは   そう な   せいばいせし   いへど
已上の所々、尤も御成敗有る可し之處、凡そ此の如き之訴訟、君自り仰せ下被之時者、左右無く成敗令むと雖も、

 し   えんえん  つ   ふれきた   をい  は   まった  さた いた  べからず ほうなり  ぜんあくごじょう をい  は    そう  あたはずことなり
私の縁々に付け觸來るに於て者、全く沙汰致す不可の法也。善惡御定に於て者、左右に不能事也。

えんえん  もっ   さた せし  ば   せけん  ひとさだ    へんぱ  に   のよしぞん  せし  か   よっ  このたびは  ごさたな    なり
縁々を以て沙汰令め者、世間の人定めて偏頗に似る之由存じ令む歟。仍て今度ハ御沙汰無き也。

参考@奥山庄は、新潟県胎内市(旧中条町、黒川村)、寒河江市の旧紫雲寺町)地頭は、越後平氏か和田義茂?
参考A
津島社は、愛知県津島市神明町の津島神社、神社が荘園扱いされている。
参考B
四宮庄は、長野県長野市篠ノ井にあった篠宮神社。
参考C
志礼石御厨は、三重県いなべ市藤原町志礼石新田。
参考D
七町九反は、一町は1ヘクタール。一反は一町の1/10。
参考E西野田保は、大阪市福島区に西野田工科高校や西野田幼稚園有。

現代語文治四年(1188)二月大二日戊辰。あちこちの地頭達の所領での出来事を、京都から或る時は強い縁故を利用して、或る時は手紙をよこし、(横取りや占領され)嘆いてくる人々が多くおります。それなのでその審議をしました。ところで、検非違使大江公朝は去年の冬から鎌倉におりますが、近いうちに京都へ帰ると言うので、その大江公朝の思惑を了解され、訴えてきている数々の内容を(後白河法皇に)お知らせするために、箇条書きを一枚の紙に書き出し、公朝に渡すようにしなさいとのことです。実はその公朝が、鎌倉へ来るついでに数々の手紙を持ってきたのであります。その文書に書かれているのは、

 宝殿藤原忠良 越後国奥山庄の地頭が何か不当な事をした。
 修理大夫藤原定輔家 尾張国津島社 板垣三郎兼信が年貢を弁済していないとのこと。
 右衛門佐御局 信濃国四宮庄 
地頭が年貢と領家の取り分の双方を納付していないこと。
 大宮御局 伊勢国志礼石御厨字輪田 右馬允が不当な行為のこと。
 賀茂神社の神主 大夫判官義経を探しています。高雄文覚上人が賀茂神社への天皇家の文書を無視して賀茂神社の領地を横取りした事
 新中将殿藤原家房 
伊賀国若林御園の内の七町九反を横取りした事。佐々木太郎定綱の分五町四反。三浦平六兵衛尉義村の分一町五反。阿保別府一町。
 大江公朝 吉備津宮領西野田保の地頭職の貞光の事は、今までの例の通りに、被告人の言い訳を退けて、元の通りに間違いなく公朝の領地とすること。

以上の事柄は、きちんと判決を出すべきであろうけれども、しかしこのような訴訟は、後白河院から命じられたことなら、何をおいても判断いたしますが、私の縁故を頼って、私に伝えてきたものは決済すべきではないので、善悪については簡単に判断材料にしてはいけません。縁故で判断すれば、世間の人達はさぞかし偏った判断だと思うことでしょう。そこで、この度は判断いたしません。

参考(荘園領主の本所まで届けられるのを年貢、本年貢と呼び、中間搾取者の分は、得分・地子米・料米などと呼び、他に公事米などもある。

文治四年(1188)二月大四日庚午。法務大僧正公顯書状參着。去月十一日補五ケ寺〔法勝。最勝。成勝。延勝。圓勝〕別當職畢。朝恩之至自愛云々。是年來被仰付御祈祷事。毎度施驗徳。去文治元年。依御堂供養導師參向時。付憂喜可通信之由。有御約諾云々。仍被告申之云々。

読下し                    ほうむだいそうじょうこうけん しょじょうさんちゃく
文治四年(1188)二月大四日庚午。法務大僧正公顯@が書状參着す。

さんぬ つきじういちにち ごかじ  〔ほっしょう さいしょう じょうしょう えんしょう えんしょう〕    べっとうしき  ぶ をはんぬ  ちょうおんのいた  じあい    うんぬん
去る月十一日五ケ寺〔法勝、最勝、成勝、延勝、圓勝〕の別當職に補し畢。 朝恩之至り自愛すと云々。

これ  ねんらい ごきとう  おお  つ   られ  こと  まいど けんとく  ほどこ
是、年來御祈祷を仰せ付け被る事、毎度驗徳を施す。

さんぬ ぶんじがんねん  みどうくよう   よっ  どうし さんこう   とき   うき    つ   しん  つう  べ   のよし  おんやくだくあ    うんぬん
去る文治元年、御堂供養Aに依て導師參向の時、憂喜に付き信を通ず可し之由、御約諾有りと云々。

よって これ  つ   もうさる    うんぬん
仍て之を告げ申被ると云々。

参考@公顯は、元三井寺の本覚院。後に天台座主にまでのぼる。
参考A御堂供養は、五巻文治元年(1185)十月大廿四日条の勝長寿院開眼供養に十月大廿日条で鎌倉へ到着。

現代語文治四年(1188)二月大四日庚午。法務大僧正公顕の手紙が着きました。先月十一日に五つの寺(法勝寺、最勝寺、成勝寺、延勝寺、円勝寺)の長官職に任命されました。大変名誉な事と誇らしく思っているとの事です。その理由は、数年来、朝廷からご祈祷を命じられるたびに、効験が著しかったからです。以前の文治元年に、勝長寿院の開眼供養式に指導僧として鎌倉へ来たときに、悲しみ喜びなど何かにつけお知らせください。と約束があったので、云ってきたんだとさ。

文治四年(1188)二月大八日甲戌。廷尉公朝歸洛。諸人莫不送餞物云々。

読下し                    ていい きんともきらく    しょにんせんぶつ おくらず な     うんぬん
文治四年(1188)二月大八日甲戌。廷尉公朝歸洛す。諸人餞物を送不は莫しと云々。

現代語文治四年(1188)二月大八日甲戌。検非違使大江公朝が、京都へ帰ります。皆、餞別を送らない人はいなかったんだってさ。

文治四年(1188)二月大十四日庚辰。甚雨降。遷鶴岳宮被行問答講。其最中大風抜樹。依之正殿御戸動搖頗傾云々。

読下し                      はなは あめふ    つるがおかぐう うつ  もんどうこう おこな らる     そ  さいちうおおかぜ き  ぬ
文治四年(1188)二月大十四日庚辰。甚だ雨降る。鶴岳宮に遷り問答講@を行は被る。其の最中大風樹を抜く。

これ  よっ  せいでん おんと どうよう  すこぶ かたむ   うんぬん
之に依て正殿の御戸動搖し頗る傾くと云々。

参考@問答講は、坊さん同士が仏教論議をするのを聞く講座。

現代語文治四年(1188)二月大十四日庚辰。土砂降りです。鶴岡八幡宮へ行って問答講を実施しました。その最中に大風が木を吹き飛ばしました。この風の影響で神殿の扉が揺れ動いてとても傾いてしまいました。

文治四年(1188)二月大十八日甲申。鎭西宇佐宮造營事。大宮司公房依有其咎。爲令贖之。被仰彼可造進歟。次東大寺修造。殊可合力上人事。兩條被申師中納言〔經房〕云々。

読下し                      ちんぜい   うさぐう   ぞうえい  こと  だいぐうじきんふさ そ  とがあ     よっ
文治四年(1188)二月大十八日甲申。鎭西の宇佐宮の造營の事、大宮司公房其の咎有るに依て、

これ  あなが せし    ため  か   おお  つく  しん  られ  べ   か
之を贖い令めん爲、彼に仰せ造り進じ被る可き歟。

つい  とうだいじしゅうぞう  こと  しょうにん ごうりきすべ  こと  りょうじょうそちのちうなごん 〔つねふさ〕   もうさる     うんぬん
次で東大寺修造、殊に上人に合力可き事、 兩條師中納言 〔經房〕に申被ると云々。

現代語文治四年(1188)二月大十八日甲申。九州の宇佐神宮の修繕については、大宮司の公房が平家のために祈った罪があるので、その落とし前として、彼に作事を言いつけるのが良いでしょう。次ぎに東大寺の修理は、特に重源上人に協力をする事、この二つを吉田経房に手紙を出しましたとさ。

文治四年(1188)二月大廿一日丁亥。天野藤内遠景去月状昨日自鎭西參着。去年窮冬。令郎從等渡貴賀井嶋窺形勢訖。令追捕之條。定不可有子細。但雖相催鎭西御家人等。不一揆之間。頗以無勢。重可被下御教書云々。所衆信房。自身可渡海之旨。殊結搆。然而遠景加制止之間。遣親類等。尤爲精兵之由載之。此事兼日風聞于京都。仍自執柄家。有被諷諌申之旨。降伏三韓者上古事也。至末代者。非人力之所可覃。彼嶋境者。日域太難測其故實。爲將軍士。定有煩無益歟。宜令停止給之由云々。就之暫可令猶豫之旨。被仰遣遠景云々。

読下し                      あまののとうないとおかげ  さんぬ つき じょう  さくじつちんぜいよ  さんちゃく
文治四年(1188)二月大廿一日丁亥。 天野藤内遠景が 去る月の状、昨日鎭西自り參着す。

きょねん きゅうとう  ろうじゅうら   し   きかいじま    わた  けいせい うかが をはんぬ ついぶせし  のじょう  さだ    しさい あ   べからず
去年の窮冬、郎從等を令て貴賀井嶋へ渡し形勢を窺い訖。 追捕令む之條。定めて子細有る不可。

ただ  ちんぜい ごけにんら  あいもよお  いへど   いっきせずのかん  すこぶ むぜい  もっ    かさ    みぎょうしょ  くださる  べ     うんぬん
但し鎭西御家人等を相催すと雖も、一揆不之間、頗る無勢を以て、重ねて御教書を下被る可きと云々。

ところのしゅうのぶふさ みづか み   とかいすべ   のむね  こと  けっこう
 所衆信房、 自ら身を渡海可き之旨、殊に結搆す。

しかれども とおかげ せいし くは    のかん  しんるいら  つか      もっと せいへいたるのよし これ  の       こ   ことけんじつきょうとに ふうぶん
然而、遠景制止を加へる之間、親類等を遣はし、尤も精兵爲之由之を載せる。此の事兼日京都于風聞す。

よっ  しっぺいけ よ      ふうかんもうさる   のむねあ
仍て執柄家自り、諷諌申被る之旨有り。

さんかん  こうふく    は じょうこ  ことなり  まつだい  いた  ば   じんりきのおよ  べ  ところ あらず  か  しま さかいは  ひいきはなは そ  こじつ  はか  がた
三韓を降伏する者上古の事也。末代に至ら者、人力之覃ぶ可き所に非。彼の嶋の境者、日域太だ其の故實を測り難し。

はた    ぐんし   ため    さだ   わずら あっ  えきな   か   よろ    ちょうじせし  たま      のよし  うんぬん
將また軍士の爲に、定めて煩い有て益無き歟。宜しく停止令め給ふべし之由と云々。

これ  つ   しばら ゆうよせし  べ   のむね  とおかげ  おお  つか  さる    うんぬん
之に就き暫く猶豫令む可し之旨。遠景に仰せ遣は被ると云々。

現代語文治四年(1188)二月大二十一日丁亥。天野藤内遠景の先月の手紙が、昨日九州から届きました。
「去年の師走十二月に、家来達を鬼怪島(硫黄島)へ渡らせて、様子を伺いました。残党を追って侵略する事は、問題は無いでしょう。但し、九州の御家人達は、集るように軍勢催促の声をかけたけれども、集らないので、とても勢力がありませんので、もう一度将軍の命令書を出して戴きたいとの事でした。宇都宮所信房は、自ら渡海をしようと仕度をしました。しかし、天野藤内遠景が止めたので、宇都宮所信房は親戚の連中を行かせましたが、とても勇敢な連中です」と、手紙に書いてあります。この島への渡海がかねがね京都で噂に上っています。
これを聞いた摂関家の兼実から、諌めて来た事があります。「三韓征伐の話は昔話であり、今日に至っては、人の手の及ぶところではない。あの島は、日本国の範囲かどうか、その故実がはっきりとしない。将軍もまた、部下の軍隊にとっては、難儀ばかりで少しも利益にはならないのではないでしょうか。良くお考えになり、お止めになった方が宜しいのではないでしょうか」だとさ。
そう聞いたので、暫く延期しようと天野藤内遠景に言い送りましたとさ。

文治四年(1188)二月大廿三日己丑。參河守〔範頼〕病惱。隔日令發。是瘧病云々。自今日。招請專光房覺淵。令加持云々。

読下し                     みかわのかみ 〔のりより〕  びょうのう   かくじつ  はっせし   これ おこりやみ  うんぬん
文治四年(1188)二月大廿三日己丑。參河守〔範頼〕病惱す。隔日に發令む。是、瘧病と云々。

きょう よ     せんこうぼうかくえん しょうせい     かじ せし    うんぬん
今日自り、專光房覺淵を招請し、加持令むと云々。

現代語文治四年(1188)二月大二十三日己丑。三河守〔蒲冠者範頼〕が病気になりました。一日おきに発病します。これは、瘧病(おこりやみ)(悪寒やふるえのおこる病気。マラリア性の熱病)らしいです。今日から、專光房良暹を呼びつけて、加持祈祷をさせたそうだ。

参考專光坊は良暹だし、覺淵は文陽房なので、取り違っているようだ。專光坊は、この後も奥州征伐の際の頼朝の持仏を祀るが、覺淵は、治承四年の二度の出演以来この名だけで終わるので、專光坊良暹が正しいようだ。

文治四年(1188)二月大廿八日甲午。鶴岳宮被始行臨時祭。二品御出。小山七郎朝光持御劔。着御廻廊之後。有流鏑馬。二騎〔幸氏盛澄〕射之。馬長三騎渡馬塲。遠近御家人爲營勤此會群參云々。

読下し                     つるがおかぐう りんじさい  しぎょうさる   にほんぎょしゅつ おやまのしちろうともみつ ぎょけん も
文治四年(1188)二月大廿八日甲午。鶴岳宮 臨時祭を始行被る。二品御出。 小山七郎朝光 御劔を持つ。

かいろう  ちゃくごののち   やぶさめ あ      にき  〔ゆきうじ  もりずみ〕  これ  い     あげうま さんき ばば  わた
廻廊に着御之後、流鏑馬有り。二騎〔幸氏、盛澄〕之を射る。馬長@三騎馬塲を渡る。

えんきん  ごけにん こ   え  いとな つと    ためぐんさん   うんぬん
遠近の御家人此の會を營み勤めん爲群參すと云々。

参考@馬長(あげうま)は、馬飾りを着け着飾った者が乗る。祭礼草子に馬上役と出てくる。「めのおさ」

現代語文治四年(1188)二月大二十八日甲午。鶴岡八幡宮の臨時の祭を始められました。頼朝様もお出ましになられました。小山七郎朝光が太刀持ちです。八幡宮の回廊にお座りになった後、流鏑馬があり、二騎〔海野小太郎幸氏と諏方大夫盛澄〕が射ました。着飾った馬長(あげうま)が三騎馬場を巡りました。

文治四年(1188)二月大廿九日乙未。右武衛被申云。与州事。爲被仰奥州泰衡。被遣勅使官史生國光院廳官景弘等。來三月可下向云々。

読下し                       うぶえい もうされ  い
文治四年(1188)二月大廿九日乙未。右武衛申被て云はく。

よしゅう  こと  おうしゅうやすひら おお られ  ため  ちょくしかん  ししょう くにみつ  いんのちょうかん  かげひろら  つか  さる    きた  さんがつげこうすべ   うんぬん
与州の事、奥州泰衡に仰せ被ん爲、勅使官の史生@國光、院の廳官の景弘等を遣は被る。來る三月下向可しと云々。

参考@史生は、律令制で、主典(さかん)の下で公文書の浄書・複写・装丁、四等官の署名を集めるなどの雑務に当たった下級の官。官位相当はない。ふびと。行署(こうしよ)。Goo電子辞書から

現代語文治四年(1188)二月大二十九日乙未。右武衛一条能保が云って来ました。義経の事ですが、奥州平泉の藤原泰衡に命令をするために、天皇家の使者勅使官の雑事務の国光と、院の役人の景弘を派遣します。来る三月の下旬に京から下るとのことだとさ。

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吾妻鏡入門第八巻

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