吾妻鏡入門第八巻

文治四年(1188)戊申三月大

文治四年(1188)三月大二日戊戌。參州瘧病平愈之間。今日始出仕。專光房施効驗之由依被申。二品有御感。剩被遣御馬於彼坊云々。

読下し                   さんしゅう おこりやまい へいゆのかん  きょう はじ    しゅっし
文治四年(1188)三月大二日戊戌。參州の 瘧病 平愈之間、今日始めて出仕す。

せんこうぼう  くげん  ほどこ  のよし もうさる    よっ    にほん ぎょかんあ   あまつさ おんうまを か  ぼう  つか  さる   うんぬん
專光房が効驗を施す之由申被るに依て、二品御感有り。剩へ御馬於彼の坊@へ遣は被ると云々。

参考@は、坊とも書き、個人の部屋、個人の空間。得度した僧は世俗から離れ自立自治する。寺域から外に構えるのを里房。

現代語文治四年(1188)三月大二日戊戌。三河守〔蒲冠者範頼〕の瘧病((おこりやみ)悪寒やふるえのおこる病気)がなおって、今日始めて幕府へ出仕してきました。專光房良暹が加持祈祷をした効力があったので、頼朝様も喜び感心なされました。そればかりか、馬を彼の坊舎へ贈られたんださと。

文治四年(1188)三月大五日辛丑。所衆信房。去月之比。自鎭西進書状。貴賀井嶋渡事。條々言上。去年依窺得件形勢。海路次第令畫圖之。献覽。是可爲難儀之由。諸人依奉諷詞。頗雖思食止。御覽彼繪圖之後。強不可疲人力歟之由。更思食立云々。此間事。信房殊竭大功之間。今日所被加賞也。

読下し                   ところのしゅうのぶふさ さんぬ つきのころ  ちんぜいよ  しょじょう  しん     きかいじま   わた  こと じょうじょうごんじょう
文治四年(1188)三月大五日辛丑。 所衆信房、 去る月之比、鎭西自り書状を進ず。貴賀井嶋へ渡る事、條々言上す。

きょねん くだん けいせい うかが え     よっ    かいろ  しだい これ   がず せし    らん  けん
去年、件の形勢を窺い得るに依て、海路の次第之を畫圖令め、覽に献ず。

これ  なんぎたるべ   のよし  しょにんふうしたてまつ  よっ   すこぶ おも  め   とど     いへど   か    えず   ごらんののち
是、難儀爲可し之由、諸人諷詞奉るに依て、頗る思い食し止まると雖も、彼の繪圖を御覽之後、

あながち じんりき  つか      べからずか のよし  さら  おぼ  め   た    うんぬん
強ちに人力を疲れさす不可歟之由、更に思し食し立つと云々。

かく  かん  こと  のぶふさこと  たいこう  かっ    のかん  きょうしょう  くは  らる ところなり
此の間の事、信房殊に大功を竭する之間。今日賞を加へ被る所也。

現代語文治四年(1188)三月大五日辛丑。宇都宮所信房が、先月九州から手紙をよこしました。鬼怪島(硫黄島)へ渡る事について色々と述べてきております。去年その島への様子を探る事が出来たので、海を渡る海図を描いて見せるために送ってきました。この渡航はとても難しい事だと、色々の人の諌めの言葉によって、殆ど止めようかと思い始めていましたが、この絵図をご覧になった後は、無理に人々を疲れさせる程の事は無いと、尚更中止を改めて思われました。これ等の事によって、宇都宮所信房は大きな手柄を立てたので、今日恩賞を与えられました。

文治四年(1188)三月大六日壬寅。梶原平三景時。依年來宿願。日來令持戒淨侶。書寫大般若經一部訖。是奉爲關東御定運也。仍欲奉納鶴岳之間。於彼宮。可遂供養。稱御旨。可屈請導師并舞童等之由。言上之間。爲果公私祈祷。於若宮寳前。可供養大般若經。導師垂髪等可從景時招請之旨。賜御書於景時云々。

読下し                   かじわらのへいざかげとき ねんらい すくがん よっ    ひごろ じかい  じょうりょ  し    だいはんにゃきょういちぶ かきうつ をはんぬ
文治四年(1188)三月大六日壬寅。梶原平三景時、年來の宿願に依て、日來持戒の淨侶を令て、大般若經一部を書寫し訖。

これ かんとうごじょううん  おんためなり  よっ つるがおか ほうのう      ほっ    のかん  か   みや  をい    くよう  と     べ
是、關東御定運の奉爲也。仍て鶴岳へ奉納せんと欲する之間、彼の宮に於て、供養を遂げる可し。

おんむね しょう    どうしなら     ぶどうら   くっしょうすべ  のよし  ごんじょう   のかん  こうし   きとう   はた      ため  わかみやほうぜん をい
御旨と稱し、導師并びに舞童等を屈請可し之由、言上する之間、公私の祈祷を果さんが爲、若宮寳前に於て、

だいはんにゃきょう  くようすべ    どうし  すいはつら かげとき しょうせい したが べ  のむね  おんしょを かげとき  たま      うんぬん
大般若經@を供養可し。導師、垂髪等景時の招請に從う可し之旨、御書於景時に賜はると云々。

参考@大般若経は、経の効果は悪鬼退散、飢饉疫病天変地異を鎮める。

現代語文治四年(1188)三月大六日壬寅。梶原平三景時が、前々からの願いによって、普段からの戒律を守っている清く自分を律している坊さんに頼んで、大般若経一巻を書き写し終えました。これは、関東の支配の安定をお祈りするためです。そこで、鶴岡八幡宮へ奉納したいと考えて、八幡宮で仏典供養の儀式を、頼朝様の意向として、指導僧や舞を奉納する稚児に命じてくださいと言上したので、幕府の公の行事としてと、梶原平三景時の私の祈りとを一緒にするために、八幡宮の神前で大般若経の奉納供養をするので、指導僧と稚児は景時の要請に従うように、命令書を景時にお与えになられましたとさ。

文治四年(1188)三月大十日丙午。東大寺重源上人書状到着。當寺修造事。不恃諸檀那合力者曽難成。尤所仰御奉加也。早可令勸進諸國給。衆庶縦雖無結縁志。定奉和順御權威重歟。且此事奏聞先畢者。此事未被仰下。所詮於東國分者。仰地頭等。可令致沙汰之由被仰遣。

読下し                    とうだいじ ちょうげんしょうにん しょじょうとうちゃく   とうじしゅうぞう  こと  しょだんな  ごうりき  たのまず  ば それなりがた
文治四年(1188)三月大十日丙午。東大寺の重源上人が書状到着す。當寺修造の事、諸檀那に合力を恃不ん者曽成難し。

もっと  ごほうが   あお ところなり  はや  しょこく  かんじんせし  たま  べ
尤も御奉加を仰ぐ所也。早く諸國に勸進令め給ふ可し。

しゅうしょたと けちえん こころざ な    いへど    さだ    ごけんい  おも    わじゅんたてまつ か
衆庶縦い結縁@の志し無しと雖も、定めし御權威の重さに和順奉る歟。

かつう こ  ことそうもん  さき をはんぬてへ      かく  こといま  おお  くだされ
且は此の事奏聞は先に畢者れば、此の事未だ仰せ下被ず。

しょせん  とうごくぶん  をい  は   ぢとうら  おお       さた いた  せし  べ   のよし おお  つか  さる
所詮、東國分に於て者、地頭等に仰せて、沙汰致さ令む可し之由仰せ遣は被る。

参考@結縁は、仏との縁を結ぶ。ご利益に預かる、成仏できる。

現代語文治四年(1188)三月大十日丙午。東大寺復興の重源上人から手紙が届きました。
「東大寺の修理復興については、色々な出資者に協力を頼まないと完成しそうにもありません。最もお力をお借りしたいお方なのです。どうか早くあちこちの国へ寄付を募る勧進するように言いつけてください。一般の人々は、仏縁との結びを考えてもいないかも知れませんが、頼朝様の権威の重さに従うことでしょう。但し、このことを後白河法皇に申し出ているのですが、未だに返事がありません。」
いずれにせよ、関東においては、「そちらから地頭達に命じられて、寄付するようにと命令を出した」と、重源上人に伝えられました。

文治四年(1188)三月大十四日庚戌。前廷尉康頼入道捧款状。是去年拝領阿波國麻殖保々司職。仍雖遣使者。地頭野三刑部丞成綱不能許容之間。乃貢空手之由載之。當保者。内藏寮濟物運上地也。成綱固抑留之間。度々被下 院宣訖。然者。除件所濟而康頼可中分之旨。被下御書云々。

読下し                     さきのていいやすよりにゅうどう かんじょう ささ    これ  きょねん あはのくに おえのほう   ほししき  はいりょう
文治四年(1188)三月大十四日庚戌。 前廷尉康頼入道 款状@を捧ぐ。是、去年 阿波國麻殖保Aの々司職を拝領す。

よっ  ししゃ  つか     いへど    ぢとう のざのぎょうぶのじょうなりつな きょよう  あたはずのかん  のうぐ て  むな        のよしこれ  の
仍て使者を遣はすと雖も、地頭 野三刑部丞成綱 許容に不能之間、乃貢手を空しうする之由之を載せる。

とうほうは   くらりょう さいもつ  うんじょうち  なり  なりつなかた よくりゅうのかん  たびたびいんぜん くだされをなんぬ
當保者、内藏寮B濟物の運上の地也。成綱固く抑留之間、度々院宣を被下被訖。

しからば くだん しょさい  のぞ  て やすよりちうぶん すべ  のむね  おんしょ  くださる   うんぬん
然者、件の所濟を除き而康頼中分C可し之旨、御書を下被ると云々。

参考@款状は、官位を望む旨や、訴訟の趣を記した嘆願書。かじょう。
参考A麻殖保は、徳島県吉野川市鴨島町麻植塚。
参考B
内藏寮は、律令制で、中務省に属し、御座所に近い宝蔵を管理した役所。金銀・宝器などの管理や、佳節の膳、供進の服、祭儀の奉幣などのことをつかさどった。くらづかさ。うちのくらのつかさ。くらのつかさ。Goo電子辞書から
参考C中分は、年貢の半分だが、後に下地中分に発展していく。

現代語文治四年(1188)三月大十四日庚戌。元検非違使の平康頼入道が嘆願書を上申しました。
それは、去年阿波国
麻殖保(おえのほう)の管理者保司職を貰いました。そこで、徴税のため代理人を現地へ行かせましたが、地頭の小野三郎刑部丞成綱が入場を認めようとしないので、虚しく年貢をとれなかったと手紙に書いています。
この保は、京都朝廷の宝蔵管理の内蔵寮に収める費用を出す土地なのです。野三刑部丞成綱が納付物を差し押さえているので、何度か院から命令書を出しています。そういうわけなので、保の全体の納付額から内蔵寮への分を差し引いて、残った内の半分を康頼の分とする旨の、命令書を出してあげましたとさ。

文治四年(1188)三月大十五日辛亥。於鶴岳宮道塲。遂行大法會。景時宿願大般若經供養也。二品爲御結縁御出。供奉人々刷威儀。而臨御出之期。召武田兵衛尉有義。可役路次御劔之由。被仰之處。頗澁申之間。殊有御氣色。先年持小松内苻劔事。已謳歌洛中。是非源家耻辱哉。彼者他門也。是者一門棟梁也。對揚如何者。則召朝光賜御劔。有義不能供奉逐電云々。御出行列。
 先陣随兵八人
  小山兵衛尉朝政 葛西三郎C重     河内五郎義長  里見冠者義成
  千葉次郎師胤  秩父三郎重C     下河邊庄司行平 工藤左衛門尉祐經
 御後二十二人〔各布衣〕
  參河守     信濃守        越後守     上総介
  駿河守     伊豆守        豊後守     關瀬修理亮
  村上判官代   安房判官代      藤判官代    新田藏人
  大舎人助    千葉介        三浦介     畠山次郎
  足立右馬允   八田右衛門尉     藤九郎     比企四郎
  梶原刑部丞   同兵衛尉
 後陣随兵八人
  佐貫大夫廣綱  千葉大夫胤頼     新田四郎忠常  大井次郎實治
  小山田三郎重成 梶原源太左衛門尉景季 三浦十郎義連  同平六義村
 路次随兵三十人〔各相具郎等三人〕
  千葉五郎    加藤太        同藤次     小栗十郎
  八田太郎    澁谷次郎       梶原平次    橘 次
  曽我小太郎   安房平太       二宮太郎    高田源次
  深栖四郎    小野寺太郎      武藤次     熊谷小次郎
  中條右馬允   野五郎        佐野太郎    吉河次郎
  狩野五郎    工藤小次郎      小野平七    河匂三郎
  廣田次郎    成勝寺太郎      山口太郎    夜湏七郎
  高木大夫    大矢中七
御參之後。有供養儀。導師義慶房阿闍梨〔号伊与。若宮供僧一和尚〕請僧卅口也。先舞樂〔筥根兒五人。伊豆山兒三人〕次。供養事訖曳布施。源判官代。大舎人助。藤判官代取之。導師別祿銀劔一。自御前被出之。前少將時家豫候廻廊取之。筑後守俊兼。梶原平三景時豫候宮中行事云々。

読下し                     つるがおかぐうどうじょう をい    だいほうえ  すいこう    かげとき  すくがん  だいはんにゃきょうくようなり
文治四年(1188)三月大十五日辛亥。鶴岳宮道塲に於て、大法會を遂行す。景時が宿願の大般若經供養也。

にほん ごけちえん  ためぎょしゅつ   ぐぶ  ひとびと いぎ   さっ
二品御結縁の爲御出す。供奉の人々威儀を刷す。

しか    ぎょしゅつのご  のぞ    たけだのひょうえのじょうありよし め    ろじ   ぎょけん えきすべ  のよし  おお  らる  のところ
而るに御出之期に臨み、 武田兵衛尉有義 を召し路次の御劔を役可し之由、仰せ被る之處、

すこぶ しぶ  もう    のかん  こと   みけしき  あ
頗る澁り申す之間、殊に御氣色有り。

せんねん こまつのないふ  けん  も   こと  すで  らくちう  おうか     これ げんけ  ちじょく  あらずや  か   もの  たもんなり  これはいちもん  とうりょうなり
先年、小松内苻の劔を持つ事、已に洛中に謳歌す。是源家の耻辱に非哉。彼の者は他門也。是者一門の棟梁也。

 たいよういかんてれ     すなは ともみつ  め   ぎょけん  たま      ありよし ぐぶ   あたはずちくてん   うんぬん  ぎょしゅつ ぎょうれつ
對揚@如何者れば、則ち朝光を召し御劔を賜はる。有義供奉に不能逐電すと云々。御出の行列。

参考@對揚は、釣り合う事。

  せんじん  ずいへいはちにん
 先陣の随兵八人

    おやまのひょうえのじょうともまさ   かさいのさぶろうきよしげ       かわちのごろうよしなが        さとみのかじゃよしなり
  小山兵衛尉朝政   葛西三郎C重    河内五郎義長    里見冠者義成

    ちばのじろうもろつね         ちちぶのさぶろうしげきよ       しもこうべのしょうじゆきひら     くどうのさえもんのじょうすけつね
  千葉次郎師胤    秩父三郎重C    下河邊庄司行平   工藤左衛門尉祐經

  おんうしろにじうににん  〔おのおの ほい 〕
 御後二十二人〔各 布衣A参考A布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。

    みかわのかみ             しなののかみ              えちごのかみ             かずさのすけ
  參河守       信濃守       越後守       上総介

    するがのかみ             いずのかみ               ぶんごのかみ             せきせしゅりのりょう
  駿河守       伊豆守       豊後守       關瀬修理亮

    むらかみほうだんだい        あわのほうがんだい           とうのほうがんだい           にったのくらんど
  村上判官代     安房判官代     藤判官代      新田藏人

    おおとねりのすけ           ちばのすけ              みうらのすけ              はたけやまのじろう
  大舎人助      千葉介       三浦介       畠山次郎

    あだちのうまのじょう          はったのうえもんのじょう        とうくろう                 ひきのしろう
  足立右馬允     八田右衛門尉    藤九郎       比企四郎

    かじわらのぎょうぶのじょう      おなじきひょうえのじょう
  梶原刑部丞     同兵衛尉

  こうじん  ずいへいはちにん
 後陣の随兵八人

    さぬきのたいふひろつな       ちばのたいふたねより         にたんのしろうただつね       おおいのいろうさねはる
  佐貫大夫廣綱    千葉大夫胤頼    新田四郎忠常    大井次郎實治

    おやまだのさぶろうしげなり      かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ  みうらのじうろうよしつら  おなじきへいろくよしむら
  小山田三郎重成   梶原源太左衛門尉景季   三浦十郎義連 同平六義村

   ろじ  ずいへいさんじうにん 〔おのおの ろうとうさんにん  あいぐ 〕
 路次の随兵三十人〔 各 郎等三人を相具す〕

    ちばのごる               かとうた                 おなじくとうじ              おぐりのじうろう
  千葉五郎      加藤太       同藤次       小栗十郎

    はったのたろう             しぶやのじろう             かじわらのへいじ           きつ  じ
  八田太郎      澁谷次郎      梶原平次      橘 次

    そがのこたろう             あわのへいた              にのみやのじろう           たかだのげんじ
  曽我小太郎     安房平太      二宮太郎      高田源次

    ふかすのしろう             おのでらのたろう            むとうじ                 くまがいのこじろう
  深栖四郎      小野寺太郎     武藤次       熊谷小次郎

    ちゅうじょううまのじょう         のごろう                 さののたろう              きっかわのじろう
  中條右馬允     野五郎       佐野太郎      吉河次郎

    かのうのごろう              くどうのこじろう             おののへいしち            さかわのさぶろう
  狩野五郎      工藤小次郎     小野平七      河匂三郎

    ひろたのじろう              じょうしょうじのたろう         やまぐちのたろう            やすのしろう
  廣田次郎      成勝寺太郎     山口太郎      夜湏七郎

    たかぎのたいふ            おおやのちうしち

  高木大夫      大矢中七

ぎょさんののち   くよう   ぎ あ     どうし    ぎけいぼうあじゃり   〔 いよ    ごう     わかみやぐそういち  おしょう  〕  しょうそう さんじっくなり
御參之後、供養の儀有り。導師は義慶房阿闍梨〔伊与と号す。若宮供僧一の和尚〕請僧は卅口也。

ま   ぶがく  〔はこね   こ ごにん    いずさん    こ さんにん  〕  つぎ  くよう  ことをは   ふせ   ひ      みなもとほうがんだい おおとねりのすけ とうのごうがんだいこれ  と
先ず舞樂〔筥根の兒五人。伊豆山の兒三人〕次に供養の事訖り布施を曳かる。源判官代、 大舎人助、 藤判官代 之を取る。

どうし  べつろくぎんけんいち  ごぜんよ   これ  いださる    さきのしょうしょうときいえ あらかじ かいろう そうら これ  と
導師に別祿銀劔一。御前自り之を出被る。 前少將時家 豫め廻廊に候ひ之を取る。

ちくごのかみとしかね かじわらのへいざかげとき あらかじ みやなか そうら こと おこな   うんぬん
 筑後守俊兼、 梶原平三景時 豫め宮中に候ひ事を行うと云々。

現代語文治四年(1188)三月大十五日辛亥。鶴岡八幡宮の道場で、盛大な仏教儀式を行いました。梶原平三景時の前々から心の中にもっていた強い願いの大般若経をあげる儀式です。頼朝様も仏様との縁を結ぶためにお出ましになられました。お供の人々も礼式にかなった態度をとりました。それなのに、お出になる寸前に、武田兵衛尉有義をお呼びになり、道中の頼朝様の太刀持ちをするように命じられたところ、とても嫌がりましたので、頼朝様の癇に障る事になりました。大分前になるが、小松内大臣平重盛の太刀持ちをした事は京都中で有名になっている。それは、源氏にとっては恥にならないのか。あの重盛は平家の一門で、私は源氏の一門の長だぞ。釣り合いはどうなんだね。と云いながら、直ぐに小山七郎朝光をお呼びになられ剣を渡されました。武田兵衛尉有義はお供をするわけにもいかず、その場から立ち去りましたとさ。行列の次第は、

先払いの儀杖兵八人
  小山兵衛尉朝政 葛西三郎清重 河内五郎義長  里見冠者義成
  千葉次郎師胤  秩父三郎重清 下河辺庄司行平 工藤左衛門尉祐

頼朝様のすぐ後ろに二十二人〔それぞれ狩衣〕
  参河守(蒲冠者範頼) 信濃守(加々美遠光)  越後守(安田義資)  上総介(足利義兼)
  駿河守(伏見広綱)  伊豆守(山名義範)   豊後守(毛呂季光)  関瀬修理亮(義盛)
  村上判官代(基國)  安房判官代(能勢高重) 藤判官代(藤原邦道) 新田蔵人(義兼)
  大舎人助      千葉介(常胤)     三浦介(義澄)    畠山次郎(重忠)
  足立右馬允(遠元)  八田右衛門尉(知家)  藤九郎(盛長)    比企四郎(能員)
  梶原刑部丞(朝景)  同兵衛尉(景定)

殿の儀杖兵八人
  佐貫大夫広綱  千葉大夫胤頼     新田四郎忠常 大井次郎実治
  小山田三郎重成 梶原源太左衛門尉景季 三浦十郎義連 同平六義村

道に控えている武装兵三十人〔それぞれ家来三人を連れている〕
  千葉五郎(国分胤道) 加藤太(光員)   同藤次(景廉)  小栗十郎(重成)
  八田太郎(知重)   渋谷次郎(高重)  梶原平次(景高) 橘次(公成)
  曽我小太郎(祐綱)  安房平太     二宮太郎(朝忠) 高田源次
  深栖四郎      小野寺太郎(道綱) 武藤次     熊谷小次郎(直家)
  中条右馬允(家長)  野五郎(小野)   佐野太郎(基綱) 吉河次郎
  狩野五郎(親光)   工藤小次郎(行光) 小野平七    河匂三郎(実政)
  
広田次郎(邦房)   成勝寺太郎    山口太郎(家任) 夜須七郎(行宗)
  
高木大夫      大矢中七

八幡宮へ行かれて、お経の儀式がありました。指導僧は義慶房阿闍梨〔伊予といいます。八幡宮勤務の坊さんの一人です〕、お供の坊さんは三十人です。まず、舞楽〔箱根権現の稚児五人、伊豆山権現の稚児三人〕を舞い、儀式の終えた後、坊さんへの寄付の布施を披露しました。源判官代安房高重と大舎人助が運びました。指導僧には、おまけに銀作の剣一振り。頼朝様の前からお出しになりました。前少将時家が前もって回廊に控えていて、これを手に取りました。筑後権守俊兼と梶原平三景時は、前もって八幡宮の中に待っていて担当しましたとさ。

文治四年(1188)三月大十七日癸丑。東大寺柱於周防國出杣之處。十本引失訖。仍被宛諸國者。還可爲懈緩之。因被宛諸大名者。存結縁可沙汰進歟之由。雖有 院宣。諸御家人趣善縁之類少者歟。有難澁思者。其大功難成歟之由。今日被進二品請文。次付庄々。有被申條事。先々雖令申給。未無左右仰云々。仍重被整事書云々。
 一陸奥國白河領〔元信頼卿知行後小松内府領〕事
   此所不輸知行候。但未弁本家。若爲 院御領者。可濟年貢候歟。將又随時可相營御大事候歟。可随仰候。
 一私寄進神社領事
   奉爲 朝家御祈祷。所寄進也。但濟本所年貢者。早可加下知候。
 一下野國中泉。中村。塩谷等庄事
   件所々。雖不入没官注文候。爲坂東之内。自然知行來候。年貢事子細同前。
 一常陸國村田。々中。下村等庄事
   或安樂壽院領云々。或八條院御領。年貢可沙汰何御倉候哉。

読下し                      とうだいじ はしらすおうのくに をい そま  いだ  のところ じっぽん ひきうしな をはんぬ
文治四年(1188)三月大十七日癸丑。東大寺の柱周防國に於て杣@を出す之處、十本引失い訖。

よっ  しょこく  あてられれば  かえっ けかんたるべ  のかん  しょだいみょう あてられれば  けちえん ぞん   さた しん  べ   かのよし  いんぜんあ    いへど
仍て諸國に宛被者、還て懈緩爲可き之間、諸大名に宛被者、結縁を存じ沙汰進ず可き歟之由、院宣有ると雖も、

しょごけにん ぜんえん おもむ のたぐい すくな ものか  なんじゅう おも  あ    ば   そ   たいこうな  がた  か のよし  きょう にほんうけぶみ  しん  らる
諸御家人善縁に趣く之類 少き者歟。難澁の思い有ら者、其の大功成し難き歟之由、今日二品請文を進じ被る。

つい しょうしょう つ     もうさる  じょう ことあ     さきざきもうせし  たま    いへど   いま   そう   おお  な    うんぬん
次で庄々に付き、申被る條の事有り。先々申令め給ふと雖も、未だ左右の仰せ無しと云々。

よっ  かさ    ことがき  ととの らる    うんぬん
仍て重ねて事書を整へ被ると云々。

参考@は、和製漢字の国字。自然林を指し、材木を切り出す一定の区域を定めたのが杣。平城京や平安京などの都市建設の際に大きな木は材木に、その他は燃料などに用いたので、当時は殆ど禿山だったらしい。

 ひとつ むつのくにしらかわりょう 〔もと  のぶよりきょうちぎょう  のち こまつないふりょう〕 こと
 一 陸奥國白河領〔元は信頼卿知行、後小松内府領〕

       かく  ところ  ふゆ  ちぎょう そうろう  ただ  いま  ほんけ  べん      も   いん  ごりょうたれば   ねんぐ   な   べ  そうろうか
   此の所は不輸Aの知行に候。 但し未だ本家を弁ぜず。若し院の御領爲者、年貢を濟す可く候歟。

       はたまた  とき  したが おんだいじ  あいいとな べ  そうろうか  おお   したが べ  そうろう
   將又、時に随い御大事を相營む可く候歟。 仰せに随う可く候。

参考A不輸は、荘園が租税の納入を免除されること。Goo電子辞書から

 ひとつ  し   きしん     じんじゃりょう こと
 一 私に寄進する神社領の事

       ちょうけ   ごきとう  おんため  きしん   ところなり  ただ  ほんじょ  ねんぐ   な   もの  はや   げち   くは  べ  そうろう
   朝家の御祈祷を奉爲、寄進する所也。但し本所の年貢を濟す者、早く下知を加う可く候。

 ひとつ しもつけのくに なかいずみ なかむら  しおや ら  しょう  こと
 一 下野國  中泉B、中村C、塩谷D等の庄の事

       くだん しょしょ  もっかんちうもん いれずそうろ  いへど   ばんどうのうちたり   じねん  ちぎょう  きた そうろう ねんぐ  こと   しさい  まえ  おな
   件の所々、没官注文に不入候うと雖も、坂東之内爲。自然に知行し來り候。年貢の事の子細は前に同じ。

参考B中泉庄は、栃木県下都賀郡壬生町中泉。文治元年(1185)十月九日に義経追討に京都へ行く土佐房昌俊に与えた。
参考C中村は、芳賀郡。
参考D塩谷は、栃木県塩谷郡塩谷町。

 ひとつ ひたちのくに むらた  たなか  しもむら ら  しょう  こと
 一 常陸國 村田E、々中F、下村G等の庄の事

       ある   あんらくじゅいん りょう うんぬん  ある   はちじょういん ごりょう  ねんぐ いず    ごそう   さた すべ  そうろうや
   或ひは安樂壽院H領と云々。或ひは八條院I御領。年貢何れの御倉に沙汰可く候哉。

参考E村田は、真壁郡村田庄なので、筑西市村田。
参考F
田中は、茨城県土浦市田中らしい。
参考G下村庄は、常陸大宮市下村田らしい。
参考H安楽寿院は、鳥羽離宮の東殿に鳥羽上皇が造営した仏堂を起源とする寺院。白河天皇が退位後の居所として造営。白河鳥羽後白河の院政の舞台。京都市伏見区竹田。
参考I八条院は、鳥羽天皇の娘で名はワ子(後白河の腹違いの妹)。母は美福門院、保元元年鳥羽上皇の遺領の大部分を伝領し、又母の遺領も伝領し、その所領(荘園)は二百四十箇所に及び、経済的にも政治的にも大きな勢力を有した。

参考この返事が四月十二日条の三月二十八日の院宣。更に六月四日の院宣。

現代語文治四年(1188)三月大十七日癸丑。東大寺の柱用の材木を周防国(山口県東部)で、山から切り出したのですが、十本がだめになってしまいました。そこで、諸国の国衙に割り当てていたのでは、力不足なのでかえって遅くなってしまうので、諸国の大きな豪族の大名主に宛てた方が、仏との縁を感じて協力するであろうと、院から手紙が行ったと思います。御家人達は仏との良い縁を思う事は、少ない者達なのでしょうか。もし、それを難儀だとお思いならば、この大事業は成し遂げられないかも知れないので、大名への割り当てを承知したと頼朝様は返事を出されました。

次ぎに荘園の事について、院から申し入れがありました。前に申し入れてきたが、未だに返事がないと云っているので、そこでもう一度内容を書き出しましたとさ。

一つ 陸奥国の白河院の領地について〔元は信頼(悪左府)の領地で、後に平重盛の領地となりました〕
   その領地は、租税の納入を免除されている所です。ですから未だに本家(本所)がどこだかわかりません。もし、後白河院が相続している領地ならば、本家(本所)分の年貢は納入いたします。あるいは、時節の代わりによって院の領地になっているのでしょうか、ご命令どおりにいたします。

一つ 私が寄付をした神社の領地について
    京都朝廷のために祈りを捧げるため寄付した所です。しかし、本所の年貢納付義務者には、早く命令を出しましょう。

一つ 下野国の中泉、中村、塩谷などの荘園について
    その荘園たちは、平家から取上げて戴いた没収地ではありませんが、関東の内ですので、普通に領地としております。本所の年貢については、前条に同じです。

一つ 常陸国の村田、田中、下村などの荘園について
    或る時は安楽寿院の領地とも云い、又或時は八条院の領地とも言います。年貢はどちらのお蔵に送ったらよいのでしょうね。

文治四年(1188)三月大十九日乙夘。遠江守義定使者參着。於當國所領。令下人等引用水之處。近隣熊野山領住民等相支之間。起鬪乱相互及刃傷。仍彼是搦進之云々。而熊野山定申子細歟。其程稱可被召置。被返遣之云々。

読下し                     とおとうみのかみよしさだ ししゃさんちゃく
文治四年(1188)三月大十九日乙夘。 遠江守義定 が使者參着す。

とうごくしょりょう  をい    げにんら   し   ようすい  ひ   のところ  きんりん くまのさんりょう じゅうみんら あいささ    のかん  とうらん  おこ  あいたが   にんじょう およ
當國所領に於て、下人等を令て用水を引く之處、近隣 熊野山領 住民等 相支うる之間、鬪乱を起し相互いに刃傷に及ぶ。

よっ  かれこれこれ  から  しん   うんぬん  しか    くまのさん  しさい  さだ  もう  か   そ   ほど め   お   べ    しょう   これ  かえ  つか  さる    うんぬん
仍て彼是之を搦め進ずと云々。而るに熊野山子細を定め申す歟。其の程召し置く可しと稱し、之を返し遣は被ると云々。

現代語文治四年(1188)三月大十九日乙卯。遠江守安田三郎義定の使いがやってまいりました。遠江国の領地内で、下働きの農民を集めて灌漑用水を掘って引いたところ、近隣の熊野権現の領地の豪族供が邪魔をしたので、乱闘になりお互いに殺し合いになってしまいました。そこで、この者達をまとめてひっ捕えて送ろうかとの事でした。しかし、それでは熊野権現で文句をつけてくると思うので、そちらで始末しておくようにと云って、帰らせましたとさ。

参考之を返し遣は被るは、@搦め進じた連中を鎌倉から遠江へ帰したのか、A使者だけが来たので、使者を帰したのか、二通りの解釈が出来るが、ここではAの使者のみが鎌倉へ来たので、使者を帰した説とした。

文治四年(1188)三月大廿一日丁巳。梶原平三於御所經營頗盡美。献盃酒垸飯。二品出御侍上。諸人群集。召聚就中去十五日供奉人所役輩。又若宮伊与阿闍梨義慶依請相具兒童等參入。御酒宴及歌舞。此事。去十五日宿願無爲遂行之間。所申慶也云々。

読下し                     かじわらのへいざごしょ  をい  けいえいすこぶ び   つく    はいしゅ  おうばん  けん   にほんさむらい かみ  しゅつご
文治四年(1188)三月大廿一日丁巳。梶原平三御所に於て經營 頗る美を盡し、盃酒、垸飯を献ず。二品 侍の上に出御す。

しょにんぐんしゅう  なかんづく さんぬ じうごにち ぐぶにん  しょやく  やから めしあつ   また  わかみや  いよのあじゃりぎけい   しょうそう  よっ   じどうら   ぐ   さんにゅう
諸人群集す。就中に去る十五日供奉人の所役の輩を召聚む。又、若宮の伊与阿闍梨義慶、請相に依て兒童等を具し參入す。

ごしゅえん    かぶ   およ    こ   こと  さんぬ じうごにち  すくがん むい   すいこう    のかん  よろこ もう ところなり  うんぬん
御酒宴、歌舞に及ぶ。此の事、去る十五日の宿願無爲に遂行する之間、慶び申す所也と云々。

現代語文治四年(1188)三月大二十一日丁巳。梶原平三景時が、御所内でのご馳走を贅沢に準備して、酒を用意し、大盤振る舞いを献上しました。頼朝様が侍所の上座にお出ましになられ、人々は群れ集りました。なかでも、先日の十五日にお供の役をした連中を呼び集めました。又、八幡宮の伊予阿闍梨義慶坊は、リクエストに答えて、稚児たちを連れてやってきて、宴会に舞を添えました。これは先日の十五日の願いの供養が無事に済んだので、お喜びになられたからだそうです。

文治四年(1188)三月大廿六日壬戌。諸國可奉造立四天王像之由。被 宣下。東國分事。今日被施行。大夫属入道奉行之。

読下し                     しょこく してんのうぞう   ぞうりゅう たてまつ べ のよし  せんげさる
文治四年(1188)三月大廿六日壬戌。諸國四天王像を造立し奉る可し之由、宣下被る。

とうごくぶん  こと  きょう せぎょうさる    たいふさんにゅうどうこれ  ぶぎょう
東國分の事、今日施行被る。大夫属入道之を奉行す。

現代語文治四年(1188)三月大二十六日壬戌。それぞれの国ごとに四天王の像を造り祀るように、朝廷から命令が出ました。関東の分については、今日始められました。大夫属入道三善善信が担当です。

四月へ

吾妻鏡入門第八巻

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