吾妻鏡入門第八巻

文治四年(1188)戊申十月小

文治四年(1188)十月小四日丙寅。以右衛門權佐定經奉書。被仰下之備前國福岡庄事。今日所被進御請文也。
 先日所被仰下候之備前國福岡庄事。被入没官注文。下給候畢。而宮法印御房難令勤修讃岐院御國忌之由。被歎仰候之間。以件庄可爲彼御料之由申候て。無左右不知子細。令 奉進候畢。此條非別之僻事候歟。而今如此被仰下候。早随重御定。可令左右候。御定之上。雖一事。何令及緩怠候。以此趣可令披露給候。頼朝恐惶謹言。
      十月四日                           頼朝〔在裏判〕
 進上  右衛門權佐殿〔定經〕

読下し                    うえもんのごんのすけさだつね ほうしょ  もっ    おお  くださる  の びぜんのくに ふくおかのしょう こと
文治四年(1188)十月小四日丙寅。右衛門權佐定經 の奉書を以て、仰せ下被る之備前國 福岡庄 の事、

きょう おんうけぶみ  しん  らる ところなり
今日御請文を進ぜ被る所也。

  せんじつ おお  くだされ そうろう ところの びぜんのくに ふくおかのしょう  こと  もっかんちうもん  いれられ  くだ  たま   そうら をはんぬ
 先日、仰せ下被 候 所之 備前國 福岡庄@の事、没官注文に入被、下し給はり候ひ畢。

  しか   みやのほういんんごぼう さぬきいん おんくにいみ ごんじゅせし がた  のよし   なげ  おお られそうろうのかん  くだん しょう  もっ
 而るに宮法印御房、讃岐院の御國忌を勤修令め難き之由、歎き仰せ被 候 之間、件の庄を以て、

   か   ごりょう   な   べ   のよし もう そうろう    そう な    しさい   しらず    しん たてまつ せし そうら をはんぬ  かく じょうべつのへきごと あらずそうろうか
 彼の御料と爲す可き之由申し候て、左右無く子細を知不に、進じ奉ら令め候ひ畢。 此の條別之僻事に非候歟。

  しか   いまかく  ごと  おお くだされそうろう はや  かさ   ごじょう  したが    そう せし  べ  そうろう
 而るに今此の如く仰せ下被候。早く重ねて御定に随ひ、左右令む可く候。

  ごじょうのうえ    いちじ  いへど    なん  かんたい  およ  せし そうろう こ おもむき もっ  ひろうせし  たま  べ  そうろう よりともきょうこうきんげん
 御定之上は、一事と雖も、何ぞ緩怠に及ば令め候。此の趣を以て披露令め給ふ可く候。頼朝恐惶謹言。

             じうがつよっか                                                         よりとも 〔うら   はんあ  〕
      十月四日                           頼朝〔裏に判在り〕

  しんじょう   うえもんのごんのすけどの 〔さだつね〕

 進上  右衛門權佐殿〔定經〕

参考@福岡庄は、一遍上人絵伝に市場の風景が描かれている。岡山県瀬戸内市長船町。

現代語文治四年(1188)十月小四日丙寅。衛門権佐定経の奉書で言ってこられた備前国福岡庄の事について、今日ご返事を送られました。

 先日、院が仰せになってこられた備前国福岡庄については、平家没官領に書かれていたので戴きました。それなのに元性宮法印坊さんが、讃岐院崇徳上皇の命日として讃岐国の儀式を勤仕するのが難しいと、嘆いてこられたので、その荘園をその資産としてお使いになられるように、余り深く考えずに寄付してしまいました。特にいけないことだったのでしょうか。それなのにこのように言って来られたので、早くお決めになっていただければ、それに従いましたのに。ご命じになっていただければ、たとえ些細な事でも、放って置くようなことはありません。このような趣旨でお伝えいただくように、頼朝が恐縮してお伝えします。
  十月四日           頼朝〔紙の裏に花押を書く〕
  差し上げます  右衛門権佐殿〔定経〕

文治四年(1188)十月小十日壬申。浮雲所々掩。雨僅灑即止。巳尅。窟堂聖阿弥陀佛房詣勝長壽院礼佛。退出之後。於路頓滅〔年八十四歳〕希有事。則爲當寺供僧良學沙汰入棺。亥尅。歛送以藁火葬云々。凡此間。人庶多以有頓死云々。

読下し                    うきぐもしょしょ  おお    あめわずか そそ  すなは や
文治四年(1188)十月小十日壬申。浮雲所々を掩う。雨僅に灑ぎ即ち止む。

みのこく いわやどうひじり あみだぶつぼう しょうちょうじゅいん もう  れいぶつ   たいしゅつののち みち  をい  とんめつ 〔としはちじうよさんさい〕       けう   こと
巳尅、窟堂聖 阿弥陀佛房、 勝長壽院に詣で礼佛し、退出之後、路に於て頓滅B〔年八十四歳〕する。希有の事なり。

すなは とうじ ぐそう りょうがく   さた   な     にゅうかん いのこく  れんそう    わら  もっ   かそう    うんぬん
則ち當寺供僧良學の沙汰と爲し、入棺し亥尅、歛送@す。藁を以て火葬Aすと云々。

およ  こ   かん  じんしょおお  もっ  とんし あ     うんぬん
凡そ此の間、人庶多く以て頓死B有りと云々。

参考@歛送(れんそう)は、死者を埋め葬ること。しかし、その後「わらで火葬にした」とあるので、ここでは、野辺送りとしてみた。
参考A
藁を以て火葬は、玉葉の記事にも出てくるので、当時流行ったようだ。
参考B頓死は、急にあっけなく死ぬこと。頓滅は同じ意味と思われる。

現代語文治四年(1188)十月小十日壬申。浮雲が所々にたなびいています。雨が少し降りましたが直ぐにやみました。巳刻(午前十時頃)巌谷堂の聖(隠世僧)阿弥陀仏坊(浄土教らしい)が勝長寿院へ詣でて仏様を拝んだ後に、帰路の途中であっけなく急死しました〔八十四歳〕。珍しい事です。すぐに当寺の僧侶の良学の指図として、入棺し亥刻(午後十時頃)に野辺送りをして、藁で火葬にしたそうです。それにしても、近頃は人々の間に頓死が多くなって来たんだそうだ。

文治四年(1188)十月小十七日己夘。叡岳悪僧中。有俊章者。年來与豫州。成断金契約。仍今度窂籠之間。數日令隱容之。又至赴奥州之時者。相率伴黨等送長途。歸洛之後。企謀叛之由。有其聞。仍内々窺彼左右。可召進其身之旨。被仰在京御家人等云々。

読下し                      えいがく  あくそうちう   しゅんしょう     ものあ     ねんらいよしゅうと だんきん  けいやく  な
文治四年(1188)十月小十七日己夘。叡岳の悪僧中に、俊章という者有り。年來豫州与断金の契約を成す。

よっ  このたびろうろうのかん  すうじつこれ  いんようせし   また  おうしゅ おもむ いた  のときは   ばんとうら  あいひき  ちょうと  おく
仍て今度窂籠之間、數日之を隱容令む。又、奥州へ赴き至る之時者、伴黨等を相率ひ長途を送る。

きらくののち   むほん  くはだ  のよし  そ   きこ  あ
歸洛之後、謀叛を企つ之由、其の聞へ有り。

よっ  ないない  か    そう   うかが   そ   み   めししん  べ   のむね  ざいきょうごけにんら   おお  らる    うんぬん
仍て内々に彼の左右を窺ひ、其の身を召進ず可き之旨、在京御家人等に仰せ被ると云々。

現代語文治四年(1188)十月小十七日己卯。比叡山の荒くれ坊主共の中に、俊章と言う者がおります。以前から義経と強い交友関係を持っています。それなので、今回の義経が放浪しているのを数日かくまっていました。又、奥州平泉へ逃げていく時にも、子分たちを引き連れて長い旅路を送っていきました。京都へ戻る途中で、蜂起したと噂があります。そこで、内密にその行動を探って、ふんづかまえてしまうように、京都に在住の御家人達に命令を出されましたとさ。

文治四年(1188)十月小廿日壬午。景能此間於鶴岳馬塲邊搆小屋。是爲警固宮寺也。今日有移徙之儀。而其庭上多栽樹。各紅葉盛而如錦。太催興之由。依令申之。二品入御彼所。若宮別當參會。御酒宴之間。兒童及延年云々。

読下し                    かげよし こ  かん  つるがおか ばば へん  をい   こや   かま    これ  ぐうじ   けいご  ためなり
文治四年(1188)十月小廿日壬午。景能此の間、鶴岳の馬塲@邊に於て小屋を搆う。是、宮寺を警固の爲也。

きょう   いし の ぎ あ     しか    そ   ていじょう おお  き   う      おのおの こうようさかん  て にしき ごと
今日移徙之儀有り。而るに其の庭上に多く樹を栽える。各、紅葉盛にし而錦の如し。

はなは きょう もよお のよし  これ  もうせし   よっ    にほん か ところ にゅうぎょ
太だ興を催す之由、之を申令むに依て、二品彼の所へ入御す。

わかみやべっとうさんかい    ごしゅえんのかん   ちご えんねん およ    うんぬん
若宮別當參會し、御酒宴之間、兒童延年Aに及ぶと云々。

現代語文治四年(1188)十月小二十日壬午。大庭平太景能は、先日から鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の辺りに小屋を建てました。これは、八幡宮警備の詰め所です。今日、頼朝様が初めて赴く儀式を行いました。その庭には沢山の木々を植えました。木々はちょうど紅葉の真っ盛りで錦のように綺麗なので、紅葉狩りの宴会に丁度良いですよと言われたので、頼朝様がその建物へ入られたからです。八幡宮代表の別当円暁が参加して、酒宴の間は稚児たちが延年の舞を踊っていましたとさ。

参考@馬塲は、流鏑馬馬場の出発点で、八幡宮国宝館脇の武道館辺りと思われる。但し発掘調査の結果後年八幡宮境は東に広がったようだ。
参考A延年は、延年の舞。寺院芸能の一。平安中期に興り、鎌倉・室町時代に最も栄えた。延暦寺・興福寺などの寺院で、大法会のあとの大衆(だいしゆ)の猿楽や稚児の舞などによる遊宴歌舞の総称。のちに遊僧と呼ばれる専業者が出現し、中国の故事に題材をとる風流(ふりゅう)や連事(れんじ)などは能楽の形式に影響を与えたといわれる。現在も地方の寺院にわずかに残っている。

文治四年(1188)十月小廿五日丁亥。可追討豫州之由。 宣旨状案文到着。於正文者。官史生可持向奥州云々。
 文治四年十月十二日  宣旨
 前伊豫守源義經。忽挿奸心。早出上都。恣巧僞言。渉赴奥州。仍仰前民部少輔藤原基成。并秀衡子息泰衡等。可召進彼義經之由。被下 宣旨先畢。而不恐皇命。猥述子細。普天之下。豈以可然哉。加之。義經當國之中廻出之由。慥有風聞。漸送月緒。委加搜索。定無其隱歟。偏与野心。非輕 朝威哉。就中泰衡。繼祖跡於四代。施己威於一國。境内之俗。誰不随順。重仰彼泰衡等。不日令召進其身。於有同意之思者。定遺噛臍之恨歟。專守鳳衙之嚴旨。不同梟悪之誘引。随其勳功。賜以恩賞。若從凶徒。猶圖逆節。差遣官軍宜令征伐。王事靡鹽。敢勿違越。
                          藏人右衛門權佐藤原朝臣定經〔奉〕

読下し                      よしゅう  ついろうすべ  のよし  せんじじょう あんもんとうちゃく
文治四年(1188)十月小廿五日丁亥。豫州を追討可き之由、宣旨状の案文到着す。

せいぶん をい  は   かん ししょう  おうしゅう も   むか  べ     うんぬん
正文に於て者、官の史生@が奥州へ持ち向う可しと云々。

  ぶんじよねんじうがつじうににち     せんじ
 文治四年十月十二日  宣旨

  さきのいよのかみみなもとのよしつね  たちま かんしん さしはさ  はやばや じょうと  い   ほしいまま ぎげん  たく    おうしゅう わた  おもむ
  前伊豫守源義經。  忽ち奸心を挿み、早〃と上都を出で、 恣に僞言を巧み、奥州へ渉り赴く。

  よっ  さきのみんぶしょうゆうふじわらのもとなり なら   ひでひら  しそく やすひらら  おお    か   よしつね  めししん  べ   のよし  せんじ  さき  くだされをはんぬ
 仍て 前民部少輔藤原基成 并びに秀衡が子息泰衡等へ仰せ。彼の義經を召進ず可し之由、宣旨を先に下被畢。

  しか    こうめい おそれず  みだ    しさい  の     ふてんのもと   あに  もっ  しか  べけ  や
 而るに皇命を恐不、猥りに子細を述ぶ。普天之下、豈を以て然る可ん哉。

   これ  くは    よしつねとうごくのなか  めぐ  いで  のよし  たしか ふうぶんあ
 之に加へ、義經當國之中に廻り出る之由、慥に風聞有り。

   ようや げっしょ  おく    くは    そうさく  くは      さだ    そ   かく  な   か   ひとへ やしん  よ         ちょうい  かろ        あらずや
 漸く月緒を送り、委しく搜索を加へば、定めて其の隱れ無き歟。偏に野心に与するは、朝威を輕んずるに非哉。

  なかんづく やすひら そせきを よんだい  つ     すで   いを いっこく  ほどこ   けいだいのぞく  たれ  ずいじゅんせざる
 就中に泰衡、祖跡於四代に繼ぎ、己に威於一國に施す。境内之俗、誰か随順不。

  かさ    か   やすひらら  おお    ふじつ  そ   み   めししんぜし    どういのおも   あ     をい  は   さだ    ほぞ  か    のうら     のこ  か
 重ねて彼の泰衡等に仰せ、不日に其の身を召進令め。同意之思い有るに於て者、定めし臍を噛む之恨みを遺す歟。

  もっぱ ふうがの げんし   まも    きょうあくの ゆういん  どうぜずん   そ   くんこう  したが   おんしょう もっ  たま
 專ら鳳衙之嚴旨を守り、梟悪之誘引に同不ば、其の勳功に随い、恩賞を以て賜はる。

  も   きょうと  したが   なおぎゃくせつ はか     かんぐん  さ   つか    よろ    せいばつせし   おうじ もろ    な     あえ  いえつなか
 若し凶徒に從い、猶逆節を圖らば、官軍を差し遣はし宜しく征伐令む。王事鹽きは靡し。敢て違越勿れ。

                                                     くろうどうえもんのごんのすけふじわらのあそんさだつね 〔ほう〕
                          藏人右衛門權佐藤原朝臣定經〔奉ず〕

参考@史生は、律令制で、主典(さかん)の下で公文書の浄書・複写・装丁、四等官の署名を集めるなどの雑務に当たった下級の官。官位相当はない。ふびと。行署(こうしよ)。Goo電子辞書から

現代語文治四年(1188)十月小二十五日丁亥。義経を討伐するようにとの、京都朝廷の命令書宣旨の写しが届きました。本文は、朝廷の下級官吏が奥州平泉へ持って行きますとさ。

 文治四年十月十二日  宣告する
 前伊予守源義経は、悪心を起こして、早々に今日の都から出て、好き勝手に嘘を上手について、奥州平泉へ逃げていきました。それなので、前民部少輔藤原基成とその娘婿藤原秀衡に息子の泰衡達に命じる。例の義経を捕まえて差し出すように、前にも命令を出しています。それなにの天皇の命令を恐れもしないで、やたらと弁解ばかりしている。あまねく天の下は天皇の支配なのに、何を根拠にそのようなことをしているのだ。そればかりか、義経がその国の中へ逃げ込んだと、確たる噂を聞いている。月日を重ねて詳しく捜索をすれば、必ずや隠れている場所が顕かになるはずだ。義経の野心に加担するというのは、朝廷の権威を軽く見て命令に従っていないじゃないか。ことに泰衡は、先祖から四代目を継いで、その威力は陸奥一国に及んでいるではないか。支配下の世間で、従わないものがあろうか。なお、その泰衡に命じるが、日をおかずに義経の身柄を提出するように。もし、義経の見方をするのなら、さぞかし後悔しても遅い事になるだろうよ。一心に京都朝廷の命令を守って、悪人の義経に味方しなければ、その手柄に従って褒美を賜るであろう。もし、義経に従って、なおも反逆を企むのならば、官軍を出動させて征伐していまうぞ。天皇の命令は重いものである。これに逆らってはならない。
         蔵人右衛門権佐藤原朝臣定経〔命じられて書きました〕

文治四年(1188)十月小廿六日戊子。去十八日六條殿上棟云々。關東分所課勤仕之輩者。事終者則可下向。仍兼日可申置其由於奉行職事之旨。今日被仰遣親能許云々。

読下し                      さんぬ じうはちにち ろくじょうでんじょうとう  うんぬん
文治四年(1188)十月小廿六日戊子。去る十八日、六條殿上棟すと云々。

かんとうぶん  しょか  きんじのやからは   ことお     ば すなは げこうすべ
關東分の所課に勤仕之輩者、事終えれ者則ち下向可き。

よっ  けんじつ そ  よしを ぶぎょう  しきじ  もう  お   べ   のむね  きょう ちかよし  もと  おお  つか  さる    うんぬん
仍て兼日其の由於奉行の職事に申し置く可き之旨、今日親能の許へ仰せ遣は被ると云々。

現代語文治四年(1188)十月小二十六日戊子。先日の十八日に(後白河法皇の宅)六条殿の棟上式をしましたとさ。関東が負担している造作を勤めていた連中は、仕事が終えたらすぐに京都から帰るように、前もってその命令を担当責任者の事務方に告げて置くように、今日式部大夫中原親能のところへ通知を出させましたとさ。

十一月へ

吾妻鏡入門第八巻

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