吾妻鏡入門第八巻

文治四年(1188)戊申十一月大

文治四年(1188)十一月大一日壬辰。鶴岳宮馬塲木無風而顛倒。景能申子細。仍二品御參。有御覽。仍奉神馬幣物。解謝給云々。

読下し                     つるがおかぐう ばば   き かぜな   て てんとう    かげよし しさい  もう    よっ  にほん ぎょさん    ごらん あ
文治四年(1188)十一月大一日壬辰。鶴岳宮馬塲の木風無く而顛倒す。景能子細を申す。仍て二品御參し、御覽有り。

よっ  しんめ へいもつ たてまつ げしゃ  たま    うんぬん
仍て神馬幣物@を奉り、解謝Aし給ふと云々。

参考@幣物は、神へ供える物。みてぐら。ぬさ。
参考A解謝は、謝ること。

現代語文治四年(1188)十一月大一日壬辰。鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の樹木が風も無いのに倒れました。大庭平太景能が状況を報告したので、頼朝様もお出かけになり、拝見されました。(これは何か神様が機嫌が悪いのだろうと)馬や供え物を奉仕して、神様にお詫びをしましたとさ。

文治四年(1188)十一月大九日庚子。二品外甥僧任憲參向。未知食之間。欲被尋仰之處。稱故祐範子息之由。仍召入北面客殿。有慇懃御談。彼祐範者。季範朝臣息。二品御母儀舎弟也。御母儀早世之時。毎迎七々忌景。請澄憲法印。爲唱導。讃嘆佛經。加之。永暦元年二品令下向伊豆國之時者。差郎從一人奉送之。毎月進使者。件功于今不思食忘。而其子息適參上。可爲記念之由。太令歡喜給云々。

読下し                      にほん  そとおいそうにんけん  さんこう
文治四年(1188)十一月大九日庚子。二品が外甥僧任憲、參向す。

いま   し      め   のかん  たず  おお  られ    ほっ    のところ  こすけのり  しそくの よし   しょう
未だ知ろし食ず之間、尋ね仰せ被んと欲する之處、故祐範@が子息之由を稱す。

よっ  ほくめん きゃくでん  めしい    いんぎん  ごだん あ    か   すけのりは   すえのりあそん  そく  にほん  おんははのぎしゃていなり
仍て北面の客殿へ召入れ、慇懃の御談有り。彼の祐範者、季範朝臣が息、二品の御母儀舎弟也。

おんははのぎそうせいのとき  なななぬか きけい  むか    ごと    ちょうけんほういん しょう   しょうどう な     ぶっきょう  さんたん
 御母儀 早世之時、七々の忌景Aを迎へる毎に、澄憲法印Bを請じ、唱導と爲し、佛經を讃嘆す。

これ  くは    えいりゃくがんねん にほん いずのくに げこうせし  のときは   ろうじゅうひとり   さ   これ  おく たてまつ  まいげつ ししゃ  すす
之に加へ、永暦元年 二品伊豆國へ下向令む之時者、郎從一人を差し之を送り奉り、毎月使者を進む。

くだん こういまに おぼ  め  わすれず  しか    そ  しそくたまた さんじょう   きねんたるべ   のよし  はなは かんきせし  たま    うんぬん
件の功今于思し食し忘不。而るに其の子息適ま參上す。記念爲可き之由、太だ歡喜令め給ふと云々。

参考@故祐範は、任憲の父。故祐範は頼朝の母の弟なので、任憲は、頼朝の従兄弟に当たる。
     季範
     ┌─┴─┐
義朝┬ 母   祐範┬ 女
  頼朝     任憲
参考A忌景は、死者の回向(えこう)などをする日。忌日。
参考B澄憲法印は、義朝と敵対した藤原信西の息子。

現代語文治四年(1188)十一月大九日庚子。頼朝様の甥(従兄弟の間違い)に当たる僧の任憲が参りました。未だに会った事も無く良く分からないので、質問してみると、故祐範の子供だと言っております。そこで、北の私邸の客間へお呼びになり、丁重にもてなしました。
その祐範は、季範様の息子で頼朝様のお母さんの弟です。お母さんが早死にした時に、七日目毎の供養に(故祐範が)澄憲法印をお呼びになり、成仏のためお経を唱えさせました。それだけにおわらず、永暦二年に伊豆国へ流された時に、下男一人を付けさせて送って来てくれ、それから毎月使いをよこしました。そのような恩義を忘れる事はありません。そこへその息子がたまたまやってきたので、これもご先祖様のおかげの良いかたみだと大変お喜びになられましたとさ。

文治四年(1188)十一月大十八日己酉。西風烈吹。雪降。今曉。於大庭平太景能宅庭。狐斃云々。依爲恠異以閇門云々。」今日。師中納言奉書到來。隱岐守仲國申國務間條々事。可尋成敗給之由云々。

読下し                        にしかぜはげ    ふ    ゆきふ    こんぎょう おおばのへいたかげよしたく  にわ  をい   きつねたお   うんぬん
文治四年(1188)十一月大十八日己酉。西風烈しく吹く。雪降る。今曉、大庭平太景能宅の庭に於て、狐斃ると云々。

かいい たる  よっ  もっ  へいもん   うんぬん
恠異爲に依て以て閇門すと云々。」

きょう   そちのちうなごん  ほうしょとうらい   おきのかみなかくにもう  こくむ   かん じょうじょう こと  たず  せいばい  たま  べ   のよし  うんぬん
今日、師中納言の奉書到來す。隱岐守仲國申す國務の間の條々の事、尋ね成敗し給ふ可き之由と云々。

現代語文治四年(1188)十一月大十八日己酉。西風が激しく吹いて、雪が降りました。今朝の夜明けに大庭平太景能の庭で狐が倒れて息絶えていましたとさ。怪しい出来事なので、門を閉じて謹慎しましたとさ。」
今日、法皇に命じられた師中納言吉田経房の手紙が届きました。(七月十三日条記載の)隠岐守仲国が訴えてきた国衙の役務についての内容(宮内権大輔重頼の横取り)を良く調べて処置してくださいとの内容なんだとさ。

文治四年(1188)十一月大廿二日辛亥。仲國朝臣訴事。被献御請文之上。所下知在廳等給也。
 去月廿七日御教書。今月十八日到來。謹令拝見候畢。隱岐守仲國申三ケ條事。是頼朝成敗候條。令成進上下文候也。於前司惟頼沙汰中村別苻者。左右只可有 勅定候也。以此旨。可令申上給候。頼朝恐々謹言。
      十一月廿六日                     頼朝
 下   隱岐國在廳等
  可早令犬來并宇賀牧外宮内大輔重頼知行所々國衙進止事
 右件所々。依爲平家領。以重頼補預所職候畢。而犬來宇賀牧外。非平家領之由。在廳等載誓状。訴國司。々々又依經 奏聞。自 院重所被仰下也。早彼兩牧外。停止重頼之沙汰。可爲國衙進止之由如件。以下。
   文治四年十一月廿三日
 下   隱岐國在廳資忠
  可早遂上洛遵行國司下知事
 右件資忠者。爲在廳之身。可專國務之處。背國司之命。不上洛。動難濟所當課役之由。依有其訴。自 院所被仰下也。資忠所爲甚以不當也。早遂不日之上洛。可令遵行國務之状如件。以下。
   文治四年十一月廿二日

読下し                        なかくにあそんうった   こと  おんうけぶみ けん  らる  のうえ  ざいちょうら   げち  たま ところなり
文治四年(1188)十一月大廿二日辛亥。仲國朝臣訴への事、御請文を献ぜ被る之上、在廳等に下知し給ふ所也。

  さんぬ つきにじうしちにち みぎょうしょ  こんげつじうはちにちとうらい   つつし   はいけんせし そうら をはんぬ おきのかみなかくに  さんかじょう こと  もう
 去る 月廿七日の 御教書。今月十八日 到來す。謹んで拝見令め 候ひ 畢。 隱岐守仲國 三ケ條の事を申す。

  これ  よりともせいばい そうろう じょう くだしぶみ しんじょうな  せし そうらうなり
 是、頼朝成敗し 候の條、下文を進上成さ令め候也。

  ぜんじこれより   さた      なかむらべっぷ  をい  は   さゆう ただちょくじょう あ   べ そうろうなり
 前司惟頼の沙汰する中村別苻に於て者、左右只勅定に有る可く候也。

  こ   むね  もっ    もう  あ   せし  たま  べ そうろう  よりともきょうきょうきんげん
 此の旨を以て、申し上げ令め給ふ可く候。頼朝恐々謹言。

            じういちがつにじうろくにち                                           よりとも
      十一月廿六日                     頼朝

  くだ         おきのくにざいちょうら
 下す   隱岐國在廳等

    はやばや  いぬき なら    うがのまき  ほか   くないたいふしげより  ちぎょう  しょしょ  こくが  しんじせし  べ   こと
  早〃と犬來并びに宇賀牧の外、宮内大輔重頼の知行の所々、國衙の進止令む可き事

  みぎ  くだん しょしょ  へいけりょうたる  よっ    しげより  もっ あずかりどころしき  ぶ そうら をはんぬ
 右、件の所々。平家領爲に依て、重頼を以て 預所職 に補し候ひ畢。

  しか    いぬき  うがのまき  ほか  へいけりょう  あらざ  のよし  ざいちょうら せいじょう   の    こくし  うった
 而るに犬來、宇賀牧の外、平家領に非る之由、在廳等誓状@に載せ、國司に訴う。

  こくし また  そうもん  へ     よっ    いんよ   かさ    おお  くださる ところなり
 々々又、奏聞を經るに依て、院自り重ねて仰せ下被る所也。

  はや   か   りょうまき  ほか  しげより の さた  ちょうじ    こくが  しんじたる べ   のよし くだん  ごと    もっ  くだ
 早く彼の兩牧の外、重頼之沙汰を停止し、國衙の進止爲可き之由件の如し。以て下す。

       ぶんじよねんじういちがつにじうさんにち
   文治四年十一月廿三日

参考@誓状は、神仏に誓約した文書。

  くだ         おきのくにざいちょうすけただ
 下す   隱岐國在廳資忠

    はやばや じょうらく  と   こくし   げち  じゅんこうすべ  こと
  早〃と上洛を遂げ國司の下知を遵行可き事

  みぎ  くだん すけただは  ざいちょうのみたり  もっぱ こくむすべ   のところ  こくしの めい  そむ    じょうらくせず
 右、件の資忠者、在廳之身爲。專ら國務可き之處、國司之命に背き、上洛不、

  ややも    しょとう  かえき  さい  がた  のよし   そ  うった  あ   よっ    いんよ   おお  くださる ところなり
 動すれば所當の課役を濟し難き之由、其の訴へ有るに依て、院自り仰せ下被る所也。

  すけただ  しょい はなは もっ  ふとうなり  はや  ふじつの じょうらく  と     こくむ  じゅんこうせし  べ   のじょうくだん ごと    もっ  くだ
 資忠の所爲甚だ以て不當也。早く不日之上洛を遂げ、國務を遵行令む可き之状件の如し。以て下す。

      ぶんじよねんじういちがつにじうににち
   文治四年十一月廿二日

参考文書の日付順が逆なのは、手紙の下書きに前へ前へと貼り足しているのであろう。尚、22日条ではなく26日条とすべきであろう。

現代語文治四年(1188)十一月大二十二日辛亥。隠岐守仲国が訴え(先日の手紙)について、ご返事を出された上で、国衙の役人在庁官人に命令をお出しになりました。

 先月二十七日のお手紙が、今月の十八日に受け取りました。謹んで拝見いたしました。隠岐守仲国が訴えている三つの事について申し上げます。それは頼朝が裁決をした命令書をお送りします。前任国司の惟頼が支配していた中村飛び地については、結論は法皇様からの手紙にあるとおりです。この内容でお伝えいただくように。頼朝が恐れながら申し上げます。
  十一月二十六日               頼朝

 命令する   隠岐国国衙の役人達へ
 早く、犬来牧と宇賀牧以外で、
宮内大輔重頼が支配している所は、国衙が支配する事
 右の所は、元平家が所有していたので、重頼を現地管理職に任命していました。ところが、犬来牧と宇賀牧以外は元平家の領地ではなかったと、国衙の役人達が神に誓って書いた上で、国司の仲国に訴えました。国司もそれを法皇様に訴えたので、後白河院が命令して来られました。早くその犬来牧と宇賀牧双方以外は、重頼の官吏をやめさせ、国衙の官吏とすることはこのとおりです。そこで命令します。
  文治四年十一月二十三日

 命令する 隠岐国国衙役人資忠へ
 早く京都へ上って、国司の命令を実行する事
 右の資忠は、国衙の役人であるのに、国司の仕事を手助けすべきところを、国司の命令を聞かないので京都へ行きません。場合によっては割り当てられた年貢を納付していないと訴えがあったので、後白河院からわざわざ言って来られました。資忠のやっていることはとんでもないことです。早く日をおかずに京都へ出かけて、国司の言う事をを守るように命令するのはこのとおりです。
  文治四年十一月二十二日

文治四年(1188)十一月大廿七日丙辰。景能父景宗墳墓在相摸國豊田庄。而群盜竸來。堀開彼塚。盜取所納之重寳等去畢。雖追奔之。不知其行方。思此事之始。去比狐斃之由。見出時也云々。人以不思儀云々。

読下し                        かげよし  ちちかげむね ふんぼ  さがみのくに とよたのしょう あ
文治四年(1188)十一月大廿七日丙辰。景能の父景宗の墳墓 相摸國 豊田庄@に在り。

しか    ぐんとうきそ  きた    か   つか  ほ   ひら    おさ   ところのちょうほうら  ぬす  と   さ  をはんぬ
而るに群盜竸い來り、彼の塚を堀り開き、納むる所之重寳等を盜み取り去り畢。

これ  ついふん     いへど   そ   いくえ   しらず
之を追奔すると雖も、其の行方を不知。

 こ   ことのはじ    おも      さんぬ ころきつねたお のよし  み   いだ  ときなり  うんぬん  ひともっ   ふしぎ   うんぬん
此の事之始めを思うに、去る比狐斃る之由、見い出す時也と云々。人以て不思儀と云々。

参考@豊田庄は、神奈川県平塚市豊田本郷。

現代語文治四年(1188)十一月大二十七日丙辰。大庭平太景能の父の景宗のお墓が、相模国豊田庄にあって、盗人の群れが攻め込んできて、その墓を掘り暴いて中に納めてあった金目の物を盗み取って行きました。追いかけて捜しましたが、逃げられて行方が分かりません。良く考えてみると、ことの始まりは先日の狐の行き倒れを見つけたことだろうと思われるので、人々は不思議な事だと思いましたとさ。

十二月へ

吾妻鏡入門第八巻

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