吾妻鏡入門第十四巻   

建久五年(1194)甲寅十月大

建久五年(1194)十月大一日戊子。大舎人允三善行倫。可記訴論人問註詞之由。被仰出之。日來父大夫属入道善信奉行職也。依他事計會。擧申行倫云々。

読下し             おおどねりのじょうみよしゆきとも  そろんにん もんちゅう ことば き   べ   のよし  これ  おお  い   らる
建久五年(1194)十月大一日戊子。大舎人允三善行倫@、訴論人Aの問註Bの詞を記すC可し之由、之を仰せ出で被る。

ひごろ  ちちたいふさかんにゅうどうぜんしん ぶぎょうしきなり  たごと けいかい      よつ    ゆきとも  きょ  もう    うんぬん
日來、父大夫属入道善信は、奉行職也。他事が計會するDに依て、行倫を擧し申すEと云々。

参考@三善行倫は、善信の末子。善信の息子は、康俊、康連、行倫。
参考A
訴論人は、訴人と論人で原告と弁論人。
参考B問註は、問注所で裁判所。但し武士以外の民間人の訴えは取り扱わない。
参考C
問註の詞を記すは、裁判記録を残す。
参考D他事が計會するは、色々と用事が出来て忙しい。
参考E
擧し申すは、推挙する。

現代語建久五年(1194)十月大一日戊子。大夫属入道三善善信の末子大舎人允三善行倫は、訴訟の裁判の記録係をするように、仰せになられました。
普段は、父の大夫属入道三善善信は責任者ですが、色々と用事が重なるので、行倫を推薦しましたとさ。

建久五年(1194)十月大九日丙寅。將軍家入御小山左衛門尉朝政之家。朝政兄弟以下一族群參。數輩祗候云々。於此所召聚弓馬堪能等。披覽舊記。相訪先蹤。令談流鏑馬以下作物射樣給。其故實。各所相傳之家説。面々意巧不一准。仍令前右京進仲業記彼意見給。是明年御上洛之次。有御參住吉社。爲果御宿願。以堪能之者。可令射流鏑馬給。京畿之輩。若及見物者。定以之可謂東國射手之本歟。然者無後難之樣。兼日能凝評議。有用捨。爲令學其宜躰於若輩。有此儀云々。
 其衆
  下河邊庄司行平   小山左衛門尉朝政
  武田兵衛尉有義   結城七郎朝光
  小笠原次郎長C   和田左衛門尉義盛
  榛谷四郎重朝    工藤小次郎行光
  諏方大夫盛澄    海野小太郎幸氏
  氏家五郎公頼    小鹿嶋橘次公業
  曾我太郎祐信    藤澤次郎C近
  望月三郎重澄    愛甲三郎季隆
  宇佐美右衛門尉祐成 那須太郎光助

読下し             しょうぐんけ  おやまのさえもんのじょうともまさのいえ にゅうぎょ
建久五年(1194)十月大九日丙寅。將軍家、小山左衛門尉朝政之家へ入御す。

ともまさきょうだいいか いちぞくぐんさん   すうやからしこう   うんぬん
朝政兄弟以下一族群參し、數輩祗候すと云々。

こ   ところ  をい  きゅうばたんのうら  め   あつ    きゅうき  み らる    せんじゅう あいとぶら   やぶさめ いか つくりもの  いさま  だん  せし  たま
此の所に於て弓馬堪能等@を召し聚め、舊記を覽披る。先蹤を相訪ひA、流鏑馬以下作物の射樣を談ぜ令め給ふ。

そ   こじつ おのおの そうでん  ところの かせつ  めんめんいぎょういちじゅんせず  よつ  さきのうきょうのしんなかなり  か   いけん  き せし  たま
其の故實、各 相傳する所之家説、 面々 意巧 一准不B。仍て、前右京進仲業を彼の意見を記令め給ふ。

これ みょうねんごじょうらくのついで  すみよししゃ  ぎょさん あ
是、明年御上洛之次に、住吉社Cへ御參有り。

 ごすくがん  はた    ため   たんのうのもの  もつ    やぶさめ  いせし  たま  べ     けいきのやから  も   けんぶつ およ  ば
御宿願を果さん爲、堪能之者を以て、流鏑馬を射令め給ふ可く、京畿之輩、若し見物に及ば者、

さだ    これ  もつ    とうごく いて の ほん  い     べ   か
定めて之を以て、東國射手之本と謂ひつ可き歟。

しからば  こうなん な   のよう  けんじつ  よ   ひょうぎ  こら    ようしゃ あ      そ   よろ    ていを じゃくはい  まな  せし    ため  こ   ぎ あ    うんぬん
然者、後難無き之樣、兼日に能く評議を凝し、用捨有りて、其の宜しき躰於若輩に學ば令めん爲、此の儀有りと云々。

  そ   しゅう
 其の衆

    しもこうべのしょうじゆきひら       おやまのさえもんのじょうともまさ
  下河邊庄司行平    小山左衛門尉朝政

    たけだのひょうえのじょうありよし     ゆうきのしちろうともみつ
  武田兵衛尉有義    結城七郎朝光

    おがさわらのじろうながきよ       わだのさえもんのじょうよしもり
  小笠原次郎長C    和田左衛門尉義盛

    はんがやつのしろうしげとも       くどうのこじろうゆきみつ
  榛谷四郎重朝     工藤小次郎行光

    すわのたいふもりずみ          うんののこたろうゆきうじ
  諏方大夫盛澄     海野小太郎幸氏

    うじいえおごろうきんより         おがしまのきつじきんなり
  氏家五郎公頼     小鹿嶋橘次公業

    そがのたろうすけのぶ          ふじさわのじろうきよちか
  曾我太郎祐信     藤澤次郎C近

    もちづきのさぶろうしげずみ       あいこうのさぶろうすえたか
  望月三郎重澄D     愛甲三郎季隆

    うさみのうえもんのじょうすけなり     なすのたろうみつすけ
  宇佐美右衛門尉祐成  那須太郎光助

参考@弓馬堪能等は、馬上弓の名人達。
参考A
先蹤を相訪ひは、先例や古い故実を調べて。
参考B
面々意巧一准不は、それぞれ皆違っている。
参考C住吉社は、大阪府大阪市住吉区住吉 2丁目 9-89の住吉大社
参考D望月三郎重澄は、望月三郎重隆が正しいかもしれない。11941009重澄,11950815重隆,12010112重隆,12020921重隆,12030103重澄,12031009重隆,12040110重隆,12090106重隆、殆ど的始めなどでで出演しているので同一人と思われる。

現代語建久五年(1194)十月大九日丙寅。将軍頼朝様は、小山左衛門尉朝政の家へ入られました。朝政の兄弟を始めとする一族が集り、何人かがご機嫌を伺いました。この場所に、馬上弓の名人達を呼び集めて、昔からの伝え書きを見られました。先例や古い言い伝えを調べて、流鏑馬を始めとする的類の射方を語り合いました。その先例は、それぞれに伝えられている家の説は、それぞれ皆違っていて一つとして同じではありません。そこで、右京進中原仲業にそれぞれの意見を記録させました。これは、来年京都へ上るついでに、住吉大社へお参りをするので、願い事をかなえるために、名人達に流鏑馬を射らせるのです。関西の連中が見物をしていたならば、さぞかしこれを見て、さすがに東国こそ弓の本場だと言うのじゃないだろうか。それなので、後日恥をかかないように、良く見比べて選出し、その見事な腕前を若い連中の勉強とするように、この催しをすることになりましたとさ。
 その人々は
  下河辺庄司行平 対 小山左衛門尉朝政
  武田兵衛尉有義 対 結城七郎朝光
  小笠原次郎長清 対 和田左衛門尉義盛
  榛谷四郎重朝  対 工藤小次郎行光
  諏方大夫盛澄  対 海野小太郎幸氏
  氏家五郎公頼  対 小鹿嶋橘次公業
  曾我太郎祐信  対 藤沢次郎清近
  望月三郎重澄  対 愛甲三郎季隆
  宇佐美右衛門尉祐成 対 那須太郎光助

建久五年(1194)十月大十三日庚午。永福寺内新造堂事。今年中依可被遂供養。爲導師可被請申東大寺別當僧正之由云々。仍右京進季時爲其使節上洛云々。

読下し               ようふくじ ない  しんぞうどう  こと   ことしじゅう  くよう   と   らる  べ     よつ
建久五年(1194)十月大十三日庚午。永福寺内の新造堂の事、今年中に供養を遂げ被る可きに依て、

どうし   な   とうだいじ べっとうそうじょう う   もうさる  べ   のよし  うんぬん  よつ うきょうのしんすえとき そ  しせつ  な  じょうらく    うんぬん
導師と爲し東大寺別當僧正を請け申被る可し之由と云々。仍て右京進季時其の使節と爲し上洛すと云々。

現代語建久五年(1194)十月大十三日庚午。永福寺境内に新築するお堂について、今年中に竣工させるので、竣工式の開眼供養指導僧として東大寺代表の僧正に来てもらうようお願いすることにしましたとさ。それなので右京進中原季時をその使いとして京都へ上らせましたとさ。

建久五年(1194)十月大十七日戊戌。齒御療治事。頼基朝臣注申之。其上獻良藥等。藤九郎盛長傳進之。彼朝臣者。參河國羽渭庄。爲關東御恩。所令領知也。

読下し               は   おんりょうち  こと  よりもとあそん これ  ちう   もう     そ   うえ りょうやくら  けん
建久五年(1194)十月大十七日戊戌。齒の御療治の事、頼基朝臣@之を注し申す。其の上良藥等を獻ず。

 とうくろうもりなが これ  つた  しん    か   あそんは  みかわのくにはいのしょう    かんとうごおん  な     りょうちせし  ところなり
藤九郎盛長之を傳へ進ず。彼の朝臣者、參河國羽渭庄Aを、關東御恩と爲し、領知令むB所也。

参考@頼基朝臣は、丹波氏で典薬寮(くすりのつかさ)の長官の典薬督(くすりのかみ)。
参考A參河國羽渭庄は、宝飯郡御津町金野灰野坂(ほいぐんみとちょうかねのはいのさか)。
参考B
關東御恩と爲し、領知令むは、関東から領地を貰ったので。

現代語建久五年(1194)十月大十七日戊戌。歯痛の治療について、京都朝廷の医療機関典薬寮(くすりのつかさ)の長官の典薬督(くすりのかみ)の丹波頼基が、書き出しました。その上効き目のある薬を献上してきました。藤九郎盛長がこれを取次ぎました。
かの丹波頼基さんは、三河国灰野庄を関東から領地として貰って支配しているからです。

建久五年(1194)十月大十八日乙亥。上総介義兼爲御使。參日向藥師堂云々。爲齒御勞御祈也云々。

読下し               かずさのすけよしかねおんし   な    ひなたやくしどう  まい    うんぬん  は  おんいたはり おんき ためなり  うんぬん
建久五年(1194)十月大十八日乙亥。上総介義兼 御使と爲し、日向藥師堂@へ參ると云々。齒の御勞の御祈の爲也と云々。

現代語建久五年(1194)十月大十八日乙亥。上総介足利義兼は、代理として、日向藥師へお参りだそうです。頼朝様の歯痛治療のためだそうです。

参考@日向藥師堂は、神奈川県伊勢原市日向1644に、かつて真言宗の日向山霊山寺と云う、13もの子院を持つ大寺院だったが、廃仏毀釈で多くの堂宇が失われ、別当坊の宝坊と薬師堂がのこった。宝蔵には行基作の伝説を持つ薬師如来(鉈彫り・平安中期?)始め丈六の阿弥陀像や薬師如来像、十二神将像などが収蔵されている。

建久五年(1194)十月大廿二日己夘。葛西兵衛尉C重獻白大鷹一羽。無雙之逸物也云々。則被預結城七郎朝光云々。

読下し               かさいのひょうえのじょうきよしげ しろ  おおたかいちは  けん    むそう のえつぶつなり   うんぬん
建久五年(1194)十月大廿二日己夘。 葛西兵衛尉C重@、白い大鷹一羽を獻ず。無雙A之逸物也と云々。

すなは ゆうきのしちろうともみつ  あずけらる   うんぬん
則ち 結城七郎朝光に預被ると云々。

参考@葛西兵衛尉C重は、文治五年の奥州合戦後、奥州探題として居残ったことがあるので、奥州からの献上物かもしれない。
参考A無雙は、二つとない。比べる相手が居ない。

現代語建久五年(1194)十月大二十二日己卯。葛西兵衛尉清重が、白いオオタカ一羽を献上しました。較べるものの無いほど立派な鷹です。すぐに結城七郎朝光にお預けになられましたとさ。

建久五年(1194)十月大廿五日壬午。於勝長壽院。有如法經十種供養。是故鎌田兵衛尉正C息女所修也。且爲奉訪故左典厩御菩提。且爲加亡父追福。一千日之間。於當寺屈淨侶。令行如説法華三昧云々。願文信救得業草之。因幡前司廣元C書之云々。將軍家并御臺所爲御結縁令參給。導師大學法眼行惠。云經王功能。云施主懇志。所述旨趣。已褊富樓那之弁智。聽衆抑雙眼。霑兩衫云々。上野介憲信。工匠藏人。安房判官代高重等取布施。彼女性父左兵衛尉正C者。故大僕卿功士也。遂於一所終其身。仍今將軍家殊令憐愍給之間。雖被尋遺孤無男子。適此女子參上。以尾張國志濃幾。丹波國田名部兩庄地頭織令恩補給訖云々。

読下し               しょうちょうじゅいん をい   にょほうきょうじっしゅ くよう あ
建久五年(1194)十月大廿五日壬午。勝長壽院に於て、如法經十種供養有り。

これ  こかまたのひょうえのじょうまさきよ そくじょ しゅう  ところなり
是、故鎌田兵衛尉正C@が息女の修する所也。

かつう こさてんきゅう   ごぼだい  とぶら たてまつ ため
且は故左典厩が御菩提を訪ひ奉らん爲、

かつう ぼうふついぶく  くは   ため  いっせんにちのかん  とうじ   をい  じょうりょ くつ    にょほうほっけざんまい  おこな せし   うんぬん
且は亡父追福を加へん爲、一千日之間、當寺に於て淨侶を屈し、如説法華三昧を行は令むと云々。

がんもん  しんぐとくごうこれ  そう    いなばのぜんじひろもとこれ せいしょ  うんぬん
願文は信救得業A之を草すB。因幡前司廣元之をC書すと云々。

しょうぐんけなら   みだいどころ ごけちえん ため さん  せし  たま
將軍家并びに御臺所御結縁Cの爲參ぜ令め給ふ。

どうし    だいがくぼうぎょうえ   きょうおう こうのう  い     せしゅ   こんし   い     の    ところ  ししゅ   すで   ふるな の べんち  さみ   
導師は大學法眼行惠。經王の功能と云ひ、施主の懇志と云ひ、述ぶる所の旨趣、已に富樓那之弁智Dを褊すE

ちょうしゅうそうがん おさ  りょうそで  ぬら   うんぬん
聽衆雙眼を抑へ、兩衫を霑すと云々。

こうづけのすけのりのぶ たくみのくらんど  あわのほうがんだいたかしげら  ふせ  と
  上野介憲信、 工匠藏人、安房判官代高重等 布施を取る。

か   じょせい ちちさひょうえのじょうまさきよは  こだいぼくけいこうしなり  つい  いっしょ  をい  そ   み   お
彼の女性の父左兵衛尉正C者、故大僕卿功士也。遂に一所に於て其の身を終う。

よつ  いま  しょうぐんけこと  れんみんせし たま  のかん   いこ   たず  らる    いへど だんし な  たまたま こ   じょし さんじょう
仍て今、將軍家殊に憐愍令め給ふ之間、遺孤を尋ね被ると雖も男子無し。適、此の女子參上す。

おわりのくに しのき   たんばのくに たなべ りょうしょうぢとうしき  もつ    おんぶせし  たま をはんぬ うんぬん
尾張國志濃幾F、丹波國田名部G兩庄地頭職を以てH、恩補I令め給ひ訖と云々。

参考@鎌田兵衛尉正Cは、義朝の家令をしており、平治の乱の敗戦で共に落ち延び行くとき、知多半島の舅長田庄司忠致に主人共々殺された。
参考A信救得業は、太夫坊覚明で木曾義仲の軍略家。
参考B草すは、下書き、案文なので草案とも云う。
参考C
結縁は、仏との縁を結ぶ。ご利益に預かる、成仏できる。
参考D富樓那之弁智は、釈迦の十大弟子の一人。釈迦の父スッドーダナ王の国師の子で、釈迦と同月に生まれたという。弁舌が巧みで説法第一と称される。
参考E褊すは、「越える」とする解釈もあるが、褊は漢和辞典では小さな衣から狭いの意味なので、富樓那の弁舌に殆ど近いと考えたい。
参考F志濃幾は、愛知県春日井市篠木町(しのぎちょう)。
参考G
田名部は、京都府舞鶴市北田辺、南田辺。
参考H地頭職を以て、恩補令めは、地頭職を与えることを「地頭の職に着かせる」の意味で「地頭職に補す」と云う。
参考I恩補は、恩として新しく任命された地頭で。

現代語建久五年(1194)十月大二十五日壬午。勝長寿院で、教義どおりにお経を十種類あげる法要を行いました。
これは、左典厩義朝様と一緒にお亡くなりになった鎌田兵衛尉正清の娘が主催したものです。
一つは、左典厩義朝様の菩提を弔うためと、一つは亡き父の冥福を祈るために、千日間この寺の坊さんが仏様の前にかがみこんで、教義どおりの法華経などを音読することをさせましたとさ。
法会を営むときの施主の願意を記す文は、信救得業が下書きをして、大江広元が清書をしたんだそうです。
将軍頼朝様も御台所政子様も、
仏との縁を結び、その加護に預かるために参加しました。
指導僧は大学法眼行恵です。お経の偉大なる効果も、施主の行き届いた志も、話している内容は、まるでお釈迦様の弟子で弁舌巧みな
富樓那の弁舌に殆ど近づいていました。聞いている人は皆、そのありがたさに目の涙をおさえ、涙で両袖を濡らすほどだったそうです。
前上野介憲信、工匠蔵人、安房判官代高重達が布施を渡しました。
この女性の父の
鎌田兵衛尉正清は、故左典厩義朝様の良き家来でした。とうとう同じ場所で一緒に亡くなったのです。
それで、将軍頼朝様は、特に哀れみを持って、その子供を捜しましたが男子は有りませんでした。そこへこの女性がやってきたので、尾張国(愛知県)志濃畿(春日井市篠木町)と丹波国(京都府)田名部(舞鶴市田辺町)の地頭職を、恩として任命しましたとさ。

建久五年(1194)十月大廿六日癸未。貢馬八疋。并砂金紫絹染絹綿等。御使雜色相具之令上洛。昨夕門出云々。

読下し                くめ はちひきなら   さきん むらさきぎぬ そめぎぬ わたら  おんし  ぞうしき これ あいぐ せし  じょうらく
建久五年(1194)十月大廿六日癸未。貢馬八疋并びに砂金、紫絹、染絹 綿等、御使の雜色之を相具令め上洛す。

さくゆう かどで    うんぬん
昨夕門出すと云々。

現代語建久五年(1194)十月大二十六日癸未。京都への税金としての馬八頭と砂金、紫染めの絹、模様染めの絹、真綿などを、使いの雑用が運んで京都へ向かいました。夕べ出発したのです。

建久五年(1194)十月大廿九日丙戌。東六郎胤頼子息等令祗候本所瀧口事。向後雖不申子細。進退可任意之旨。被仰下云々。

読下し               とうのろくろうたねより   しそくら  ほんじょ  たきぐち  しこうせし  こと
建久五年(1194)十月大廿九日丙戌。東六郎胤頼が子息等、本所@、瀧口Aに祗候令む事、

きょうご しさい   もうさず  いへど  しんたい い  まか  べ   のむね  おお  くださる   うんぬん
向後子細を申不と雖も、進退意に任す可しB之旨、仰せ下被ると云々。

現代語建久五年(1194)十月大二十九日丙戌。東六郎大夫胤頼の息子達が、荘園領主の本所や上皇の警固の侍の瀧口に勤める時は、今後は許可を取らずに、自分らの判断に任せるからと、仰せになられましたとさ。

参考@本所は、最上級荘園領主の事で、順に本所→領家→預所→下司→公文→名主→作人→小作人→在家と続き、実際の耕作は在家がやり、後は全員が中間搾取者。ひどいときは、それぞれの役に代官がついたりもする。
参考A瀧口は、京都朝廷の天皇直属の軍隊を白河法皇が作って、御所北側の鑓水の取り入れ口の滝のそばにに置いたので「滝口」と云い、北側なので北面の武士とも云う。後に後鳥羽天皇は西側にも「西面の武士」を置いた。
参考B進退意に任す可しは、許可を取らずに行っても良い。

説明本所、瀧口に祗候は、京都大番役の一種だと思われる。平C盛が始め三年だったのを頼朝は半年にした。後に時頼は三ヶ月にした。但し、むやみに朝廷や公卿に接近すると、無許可任官の疑いを掛けられるので、今までは許可を取っていたと思われる。

十一月へ

  

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