吾妻鏡入門第十六巻

正治二年(1200)庚申二月大

正治二年(1200)二月大二日戊午。陰。南風烈。申剋甚雨。雷鳴二聲。今日出御々所侍。仰波多野三郎盛通。被生虜勝木七郎則宗。依爲景時餘黨也。是多年奉昵近羽林之侍也。相撲達者。筋力越人之壯士也。盛通進出則宗之後懷之。則宗振抜右手。抜腰刀。欲突盛通之處。畠山次郎重忠折節在傍。雖不動坐。捧左手。取加則宗之擧於刀腕不放之。其腕早折畢。仍魂惘然而輙被虜也。即給則宗於義盛。々々於御厩侍問子細。則宗申云。景時可管領鎭西之由。有可賜 宣旨事。早可來會于京都之旨。可觸遣九州之一族云々。契約之趣不等閑(なおざり)之間。送状於九國輩畢。但不知其實之由申之。義盛披露此趣之處。暫可預置之由。所被仰也。

読下し                    くも    なんぷうはげ   さるのこくはなは あめ らいめいふたこえ きょう ごしょ さむらい しゅつご
正治二年(1200)二月大二日戊午。陰り。南風烈し。申剋 甚だ雨。 雷鳴二聲。今日御所の侍に出御す。

はたののさぶろうもりみち  おお      かつきのしちろうのりむね いけどられ    かげとき  よとうたる  よっ  なり  これ  たねんじっこん たてまつ うりんのさむらいなり
波多野三郎盛通に仰せて、勝木七郎則宗を生虜被る。景時の餘黨爲に依て也。是、多年昵近を奉る 羽林之侍也。

すもう   たっしゃ  きんりょくひと  こ     のそうしなり  もりみちすす  い  のりむねのうしろ   これ  いだ
相撲の達者、筋力人に越える之壯士也。盛通進み出で則宗之後から之を懷く。

のりむねみぎて  ふ   ぬ     こしがたな ぬ    もりみち  つ       ほっ    のところ  はたけやまのじろうしげただおりふしかたわら あ
則宗右手を振り抜き、腰刀を抜き、盛通を突かんと欲する之處、 畠山次郎重忠 折節 傍に在り。

 ざ  うごかず  いへど   ひだりて  ささ    のりむねのにぎ かたなをうで  と   くは  これ  はなさず  そ   うではや    お  をはんぬ
坐を動不と雖も、左手を捧げ、則宗之擧る刀於腕に取り加へ之を放不、其の腕早くも折り畢。

よっ たましいもうぜん    て たちま とりこまれ なり  すなは のりむねを よしもり  あた    よしもりみんまや さむらい をい  しさい  と
仍て 魂 惘然とし而輙ち虜被る也。即ち則宗於義盛に給ふ。々々御厩の 侍に於て子細を問う。

のりむねもう    い       かげとき  ちんぜい  かんりょうすべ  のよし  せんじ  たま    べ   ことあ
則宗申して云はく。景時、鎭西を管領可き之由、宣旨を賜はる可き事有り。

はや  きょうとに きた  あ   べ   のむね  きゅうしゅうのいちぞく  ふ   つか    べ     うんぬん
早く京都于來り會う可き之旨、九州之一族に 觸れ遣はす@可きと云々。

けいやくのおもむき なおざり  せずのかん  きゅうこく やから じょうをおく をはんぬ  ただ  そ   じつ  しらずのよしこれ  もう
契約之 趣 等閑に不之間、九國の輩に状於送り畢。 但し其の實を知不之由之を申す。

 よしもり こ おもむき ひろう    のところ  しばら あず お   べ   のよし  おお  らる ところなり
義盛此の趣を披露する之處、暫く預け置く可し之由、仰せ被る所也。

参考@觸れ遣はすは、景時が軍勢催促をしている。

現代語正治二年(1200)二月大二日戊午。曇りで南風は激しい。申の刻(午後四時頃)大雨。雷が二度。今日、将軍頼家は御所の侍だまりへお出になりました。波多野三郎盛通に命じて、勝木七郎則宗を捕まえさせます。梶原平三景時の味方だからです。又、長年おそばに仕えている頼家様の侍です。相撲が上手くて、その力は他人に勝る力持ちなのです。

盛通が前へ出て、則宗を後ろから抱えると、則宗は右手を抱えた手から抜いて、小刀を抜いて盛通を刺そうとしましたが、畠山次郎重忠がちょうど隣におりました。重忠は、座ったその場で左手を伸ばして、則宗の刀を持った手を腕に巻き込んで離さず、しかもその腕をへし折ってしまいました。則宗は痛みに耐えかね意識を失い、簡単にふん縛られてしまいました。すぐに侍所長官の和田義盛に預られました。

和田義盛は、御所の厩の侍だまりで取り調べを行いました。則宗が事情を云うのには、「梶原平三景時は、九州を支配するように京都朝廷から公式命令書の宣旨を貰おうと思って、早く京都へ集まるように、九州の一族に軍隊の出動を促そうとしました。約束をいい加減にしないために、九州の連中に手紙を送りました。ただし、何処まで本当なのかは、分かりません。」と云いました。和田義盛がこの内容を報告すると、しばらく預かっておくようにと、命令されました。

正治二年(1200)二月大五日辛酉。陰。和田左衛門尉還補侍所別當。義盛。治承四年關東最初補此職之處。至建久三年。景時一日可假其号之由。懇望之間。義盛以服暇之次。白地被補之。而景時廻奸謀。于今居此職也。景時元者爲所司云々。

読下し                   くも    わだのさえもんのじょう さむらいどころ べっとう  げんぽ
正治二年(1200)二月大五日辛酉。陰り。和田左衛門尉 侍所 の別當に還補す。

よしもり  じしょうよねんかんとう  さいしょ  こ   しき  ぶ   のところ  けんきゅうさんねん いた   かげときいちにち そ  ごう  かり  べ    のよしこんもうのかん
義盛、治承四年關東で最初に此の職に補す之處、 建久三年に至り、景時一日其の号を假る可し之由懇望之間、

よしもり ふく いとま のついで  もっ  あからさま  これ  ぶさる
義盛服の暇@之次を以て、白地に之を補被る。

しか    かげときかんぼう  めぐ      いまに こ  しき  い   なり  かげときもとは しょし たり  うんぬん
而るに景時奸謀を廻らし、今于此の職に居る也。景時元者所司爲と云々。

参考@服の暇は、喪に服している合間。建久三年は将軍宣下と実朝誕生と永福寺建立と熊谷直實出家があるが、和田義盛の喪にかかる記事はない。

現代語正治二年(1200)二月大五日辛酉。和田左衛門尉義盛が、軍事行政の侍所長官に返り咲きました。和田左衛門尉義盛は、治承四年に関東で初めてこの職に任命されたのですが、建久三年になって梶原景時が一日でよいから名前だけでも貸してくれないかと望んだので、和田義盛は喪に服して謹慎しなけりゃならないことがあったので、そのついでに、突然に任命されました。それなのに景時は、ずる賢く知恵を使って、うまく頼朝様に取り入り、今までこの職についていました。景時は、元は副長官の所司でしたとさ。

正治二年(1200)二月大六日壬戌。リ陰。雪飛風烈。今日。則宗罪名并盛通賞事。有其沙汰。廣元朝臣。善信。宣衡。行光等奉行之。爰有眞壁紀内云者。於盛通成阿黨之思。生虜則宗事。更非盛通高名。重忠虜之由憤申之。仍於石御壷。被召决重忠与眞壁之處。重忠申云。不知其事。盛通一人所爲之由。承及許也云々。其後。重忠歸來于侍。對眞壁云。如此讒言。尤無益事也。携弓箭之習。以無横心爲本意。然而客爲懸意於勳功之賞。成阿黨於盛通者。直生虜則宗之由。可被申之歟。何差申重忠哉。且盛通爲譜第勇士。敢不可惜重忠之力。已申黷譜第武名之條。不當至極也云々。内舎人頗赧面。不及出詞。聞之者感嘆重忠。其後。小山左衛門尉。和田左衛門尉。畠山次郎已下輩群集侍所。雜談移剋。澁谷次郎云。景時引近邊橋。暫可相支之處。無左右逐電。於途中逢誅戮。違兼日自稱云々。重忠云。縡起楚忽。不可有鑿樋引橋之計難治歟云々。安藤右馬大夫右宗〔生虜高雄文學者也〕聞之云。畠山殿者。只大名許也。引橋搆城郭事。不被存知歟。壞懸近隣小屋於橋上。放火燒落。不可有子細云々。亦小山左衛門尉云。弟五郎宗政者。年來當家武勇。獨在宗政之由自讃。而怖今度景時之威權。不加判形於訴状。墜其名條。可耻之。向後莫發言云々。宗政雖爲荒言惡口之者。不能返答云々。

読下し                   はれくも    ゆきと   かげはげ    きょう   のりむね  ざいめいなら   もりみち  しょう こと   そ   さた あ
正治二年(1200)二月大六日壬戌。リ陰り。雪飛び風烈し。今日、則宗が罪名并びに盛通が賞の事、其の沙汰有り。

ひろもとあそん  ぜんしん  のぶひら  ゆきみつら これ ぶぎょう    ここ  まかべきない   い   ものあ     もりみちを あとう の おも     な
廣元朝臣、善信、宣衡、行光等之を奉行す。爰に眞壁紀内@と云う者有り。盛通於阿黨之思いを成す。

のりむね  いけど  こと  さら  もりみち  こうみょう あらず  しげただとりこ   のよし  これ  いか  もう
則宗を生虜る事、更に盛通の高名Aに非。重忠虜にす之由、之を憤り申す。

よっ  いしのおんつぼ をい   しげただと まかべ  めしけっ  らる  のところ  しげただもう    い
仍て石御壷に於て、重忠与眞壁を召决せ被る之處、重忠申して云はく。

そ   こと  しらず   もりみちひとり  しわざの よし  うけたまは およ ばか  なり  うんぬん
其の事を知不。盛通一人が所爲之由、 承り 及ぶ許り也と云々。

そ   ご   しげただ さむらいに かえ  きた    まかべ  たい  い
其の後、重忠 侍于 歸り來り、眞壁に對し云はく。

かく  ごと  ざんげん  もっと  むやく  ことなり  ゆみやのならい  かかわ   よこごころな   もっ  ほんい  な
此の如き讒言、尤も無益の事也。弓箭之習に携り、横心無きを以て本意と爲す。

しかれども きゃく いを くんこうのしょう  かけ  ため  あとう   な   もりみち  をい  は   じき  のりむね  いけど   のよし   これ  もうさる  べ   か
然而、客は意於勳功之賞に懸ん爲、阿黨と成し盛通に於て者、直に則宗を生虜る之由、之を申被る可き歟。

なん  しげただ  さ   もう  や   かつう もりみち ふだい  ゆうしたり  あえ  しげただのちから おし  べからず
何ぞ重忠を差し申す哉。且は盛通譜第の勇士爲。敢て重忠之力を惜む不可。

すで  ふだい  ぶみょう  もう  けが  のじょう  ふとう  いた  きは  なり  うんぬん
已に譜第の武名を申し黷す之條、不當の至る極み也と云々。

うどねり すこぶ せきめん   ことば だ    およばず  これ  き   ものしげただ  かんたん
内舎人頗る赧面し、詞を出すに及不。之を聞く者重忠を感嘆す。

 そ   ご   おやまのさえもんのじょう わだのさえもんのじょう  はたけやまのじろう いげ やから さむらいどころ ぐんしゅう   ぞうだんとき  うつ
其の後、小山左衛門尉、和田左衛門尉、 畠山次郎 已下の輩 侍所 に群集し、雜談剋を移す。

しぶやのじろうい
澁谷次郎云はく。

かげとき  きんぺん  はし  ひ    しばら あいささ  べ  のところ   そう な   ちくてん    とちゅう  をい  ちうりく  あ
景時、近邊の橋を引き、暫く相支う可き之處、左右無く逐電し、途中に於て誅戮に逢う。

けんじつ  じしょう  たが    うんぬん
兼日の自稱に違うと云々。

しげただ い      こと そこつ  お     ひ   うが  はし  ひ   のはか  あ   べからず  なんち か  うんぬん
重忠云はく。縡楚忽に起き、樋を鑿ち橋を引く之計り有る不可、難治歟と云々。

あんどううまのたいふこれむね 〔 たかお   もんがく  いけど   ものなり 〕  これ  き     い
安藤右馬大夫右宗〔高雄の文學を生虜る者也〕之を聞いて云はく。

はたけやまどのは ただだいみょうばか なり
 畠山殿者、只 大名許り也。

はし ひ  じょうかく  かま    こと  ぞんちされざるか   きんりん   こや を はし  うえ  こぼ  か     ひ   はな  や   おと
橋を引き城郭を搆うる事、存知被不歟。近隣の小屋於橋の上に壞ち懸け、火を放ち燒け落す。

しさい あ   べからず  うんぬん
子細有る不可と云々。

また  おやまのさえもんのじょうい    おとうとごろうむねまさは   ねんらい とうけ  ぶゆう   ひと  むねまさ  あ   のよし じさん
亦、小山左衛門尉云はく。弟五郎宗政者、年來當家の武勇、獨り宗政に在る之由自讃す。

しか    このたびかげときの いけん  おそ    はんぎょうをそじょう  くは  ず   そ   な   おと   じょう   これ  は   べ     きょうごはつげんな    うんぬん
而るに今度景時之威權を怖れ、判形於訴状に加へ不、其の名を墜すの條、之を耻ず可し。向後發言莫くと云々。

むねまさ こうげんあっこうのものたる  いえど   へんとう  あたはず うんぬん
宗政、荒言惡口之者爲と雖も、返答に不能と云々。

参考@眞壁紀内は、秀幹。内は内舎人の略。
参考A
高名は、功名。

現代語正治二年(1200)二月大六日壬戌。晴れたり曇ったりです。時々雪が舞い風が強い。今日、勝木七郎則宗の刑を決め、それと波多野三郎盛通の賞について、採決がありました。大江広元・三善善信・宣衡・藤原行光が担当しました。真壁紀内秀幹と云う者がおります。彼は盛通を恨んでいます。「則宗を生け捕ったのは、まったく盛通の手柄ではありません。畠山次郎重忠が捕まえたんです」と怒りながら言いました。そこで、石敷きの坪庭で、重忠と真壁を呼びつけて対決させましたところ、重忠が云うのには「そんな話は知りません。盛通ひとりの行いだと聞いているだけですよ」とのことです。その後、畠山次郎重忠は侍だまりに戻って、真壁に云いました。「このような悪口は、とても無駄な事です。弓矢を習う武士ならば、卑怯な心を持たないのが本当の武士なのです。しかし、あなたは意識を手柄や表彰においているために恨んでいた盛通ではありますが、ここは彼が直接則宗を生け捕ったと云ってやるべきじゃないでしょうか。なんで畠山次郎重忠を持ち出すのですか。盛通は、先祖代々の勇者です。なんで重忠の応援をいるでしょうか。それを先祖代々の勇姿の誉れを汚してしまうことは、とんでもない失礼なことでしょう」とのことでした。真壁はとても赤面して言葉も出ませんでした。この話を聞いてた人は、畠山次郎重忠に感心しました。

その後、小山左衛門尉朝政・和田左衛門尉義盛・畠山次郎重忠以下の連中が侍だまりに集まって、雑談をしていました。澁谷次郎高重が云うのには「梶原平三景時は、館の近所の橋を引き落として立てこもり、多少でも持ちこたえれば良いのに、何もせず逃げ出して、途中で殺されました。普段の彼の言い分と違うよね」とのことです。畠山次郎重忠は「事件が急に勃発したので、樋を削り橋を引いている暇が無かったのだろう。難しいことなんじゃないの」と云いました。

すると安藤右馬大夫右宗〔高雄神護寺の門覚上人を捕えた者です〕が、これを聞いて「畠山殿は、大大名でおられるから、城の橋を引いて防備を固めるような事は、ご存知ではないのでしょうかね。近所の小屋を壊して橋の上に乗せ掛けて、火をつけて焼け落してしまえば、造作の無い事ですよ」だとさ。

又、小山左衛門尉朝政が云うのには「私の弟長沼五郎宗政は、いつだって小山家で一番の武勇は、長沼五郎宗政一人であると自慢していました。ところが、今回梶原景時の権力を怖がって、花押を押さないで、武勇の名を落としました。これを恥と思って今後威張ったことを言わないように」だとさ。宗政は、荒っぽく悪口を言う奴ですが、さすがに反論できませんでしたとさ。

正治二年(1200)二月大廿日丙子。親長自京都歸參。具下國人播磨國惣追補使芝原太郎長保。是景時与黨也。佐々木左衛門尉廣綱相副郎從送進之。親長參御所申云。去二日入洛。同七日廣綱。基C相共。先追捕景時之五條坊門面宅。縛郎從。就其白状。於近江國冨山庄。生虜長保云々。於長保者。所被遣義盛之宅也。

読下し                   ちかながきょうとよ   きさん     くにうど はりまのくに そうついぶし しばはらのたろうながやす  ぐ   くだ
正治二年(1200)二月大廿日丙子。親長京都自り歸參す。國人 播磨國 惣追補使@芝原太郎長保Aを具し下す。

これ  かげときよとうなり  ささきのさえもんのじょうひろつな  ろうじゅう あいそ   これ  おく  しん
是、景時与黨也。佐々木左衛門尉廣綱B、郎從を相副へ之を送り進ず。

ちかながごしょ  まい  もう    い
親長御所へ參り申して云はく。

さんぬ ふつかじゅらく   おな    なぬかひろつな  もときよあいとも   ま   かげときの ごじょうぼうもんつら  たく  ついぶ    ろうじゅう  しば
去る二日入洛す。同じき七日廣綱、基C相共に、先ず景時之 五條坊門面C宅を追捕し、郎從を縛る。

そ   はくじょう  つ   おうみのくにとやまのしょう  をい    ながやす いけど    うんぬん  ながやす をい は   よしもり のたく  つか  さる ところなり
其の白状に就き、近江國冨山庄Dに於て、長保を生虜ると云々。長保に於て者、義盛之宅に遣は被る所也。

参考@惣追補使は、守護の事だが、文治二年に頼朝に与えられたのは、国単位の国総追補使、郡追補使、荘園や郷単位の追補使を任命する権利として総追補使を与えられた。その時点では「守護」の単語がなかったらしい。この文章から、国単位は、国領私領にまたがるので総追補使を使っていると推測する。
参考A芝原太郎長保は、播磨國芝原郷、兵庫県姫路市豊沢町。
参考B
佐々木左衛門尉廣綱は、定綱の長男。
参考C
五條坊門面は、京都の五条の坊門小路らしいが、面は道に向いた表側らしい。
参考D冨山庄は、砥山庄。天台座主行雲の領地。滋賀県栗東市上砥山。

現代語正治二年(1200)二月大二十日丙子。安達源三親長が京都から帰ってきました。地の豪族で播磨国の守護である総追補使の芝原太郎長保を連行してきました。この人は梶原景時の味方です。佐々木左衛門尉廣綱が部下を護衛に付けて送り届けてきました。
親長は御所へ出仕して報告をするのには「先日の二日に京都へ入りました。そして七日に佐々木広綱や後藤基清と共に、まず梶原景時の五条坊門の屋敷へ突入し、家来どもを縛りました。その者どもの自白の書付に基づき、近江国砥山荘で長保を捕まえました」とさ。長保は和田義盛に預けられました。

正治二年(1200)二月大廿二日戊寅。陰。掃部頭廣元朝臣。并善信等申云。景時逐電關東之由。去一日披露京都。而仙洞即被始五壇御修法。不知其故云々。是尤可怪事也。景時逐電之由。誰人所申哉。兼經奏聞。欲上洛之條無異儀歟云々。及晩推問長保。々々申云。依爲播州守護。就彼吹擧。雖致奉公。敢不与叛逆云々。今日被召預長保於小山左衛門尉朝政也。

読下し                     くも    かもんのかみひろもとあそん なら   ぜんしんら もう    い
正治二年(1200)二月大廿二日戊寅。陰り。掃部頭廣元朝臣并びに善信等申して云はく。

かげとき  かんとう  ちくてん    のよし  さんぬ ついたちきょうと  ひろう
景時が關東を逐電する之由、去る一日京都に披露す。

しか    せんとうすなは ごだん   みずほう   はじ  らる    そ   ゆえ  しらず  うんぬん  これもっと あやし べ  ことなり
而して仙洞即ち五壇@の御修法Aを始め被る。其の故を知不と云々。是尤も怪む可き事也。

かげときちくてんのよし  だれひともう ところや  かね  そうもん  へ  じょうらく     ほっ    のじょう いぎ な         か   うんぬん
景時逐電之由、誰人申す所哉。兼て奏聞を經て、上洛せんと欲する之條異儀無きところ歟と云々。

ばん  およ  ながやす すいもん   ながやすもう   い
晩に及び長保を推問す。々々申して云はく。

ばんしゅうしゅごたる  よっ    か   すいきょ  つ     ほうこういた   いへど   あえ  ほんぎゃく よさず  うんぬん
播州守護爲に依て、彼の吹擧に就き、奉公致すと雖も、敢て叛逆に与不と云々。

きょう ながやすを  おやまのさえもんのじょうともまさ  めしあず  らる  なり
今日長保於 小山左衛門尉朝政 に召預け被る也。

参考@五壇は、密教の中で五大明王を個別に安置し国家安穏を祈願する修法。
参考A
修法は、密教で行う加持祈祷(きとう)などの法。本尊を安置し、護摩をたき、口に真言を唱え、手で印を結び、心に本尊を念じて行う。祈願の目的により増益(ぞうやく)法・息災法・敬愛法・降伏(ごうぶく)法・鉤召(くしよう)法などに分け、それぞれ壇の形や作法が異なる。すほう。ずほう。

現代語正治二年(1200)二月大二十二日戊寅。大江広元と三善善信が云うのには「梶原景時が関東から逃げたと先日の一日に京都へ知らされました。そしたら、上皇の御所仙洞で五大明王の護摩たき祈祷を始めたそうです。何を祈ったのかは分かりません。これは疑ってみるべきでしょう。梶原景時の逃亡を誰が云ったのかと思います。兼て上皇に申しあげた上で、景時が京都へ上ろうとした事は、疑いのないところです」だそうです。夜になって芝原長保に問い詰めてみました。長保の云うのには「景時は播磨の守護なので、彼に推薦してもらって、幕府に仕えて来たけど、叛逆には加わっておりません。」とのことでした。今日、長保を小山左衛門尉朝政に預り囚人(めしうど)にしました。

正治二年(1200)二月大廿六日壬午。リ。中將家御參鶴岡八幡宮。御除服之後初度也。於上宮被供養御經。導師弁法橋宣豪云々。
御出供奉人
 先陣隨兵十人
  結城七郎朝光     三浦平六兵衛尉義村
  宇佐美左衛門尉祐茂  野次郎左衛門尉成時
  佐々木小三郎盛季   加藤弥太郎光政
  榛谷四郎重朝     中山五郎爲重
  江間太郎頼時〔泰時〕 北條五郎時連
 次御劔役
  後藤兵衛尉基綱
 次御調度懸
  糟谷藤太兵衛尉有季
 次御甲着
  大井次郎實久
 次御冑持
  中野五郎能成
 次御後衆廿人〔束帶布衣相交〕
  相摸守惟義      武藏守朝政
  掃部頭廣元      前右馬助以廣
  源右近大夫將監親廣  江左近將監能廣
  中右京進季時     小山左衛門尉朝政
  後藤左衛門尉基C   八田左衛門尉知重
  嶋津左衛門尉忠久   所右衛門尉朝光
  和田左衛門尉義盛   笠原十郎左衛門尉親景
  山内刑部丞經俊    大友左近將監能直
  若狹兵衛尉忠季    千葉平次兵衛尉常秀
  天野右馬允則景    中條右馬允家長
 次後陣隨兵
  村上余三判官仲C   小笠原弥太郎長經
  武田五郎信光     泉次郎季綱
  安達九郎景盛     比企判官四郎宗員
  土屋次郎義C     土肥先次郎惟光
  葛西兵衛尉C重    江戸次郎朝重
 次廷尉
  新判官能員
 次殿上人〔參會宮寺〕
  伯耆少將

読下し                     はれ  ちうじょうけ つるがおかはちまんぐう ぎょさん   おんじょふく ののち はじ     はか  なり
正治二年(1200)二月大廿六日壬午。リ。中將家、鶴岡八幡宮 へ御參す。御除服@之後初めての度り也。

じょうぐう  をい  ごきょう   くよう さる    どうし  べんのほっきょうせんごう  うんぬん
上宮に於て御經を供養被る。導師は 弁法橋宣豪 と云々。

参考@除服は、喪明け。喪に服すのを除く=喪に服すのが明ける。

ぎょしゅつ  ぐぶにん
御出の供奉人

  せんじん  ずいへいじうにん
 先陣の隨兵十人

    ゆうきのしちろうともみつ          みうらのへいろくひょうえのじょうよしむら
  結城七郎朝光     三浦平六兵衛尉義村

    うさみのさえもんのじょうすけしげ     ののじろうさえもんのじょうなりとき
  宇佐美左衛門尉祐茂  野次郎左衛門尉成時(小野、横山党)

    ささきのこさぶろうもりすえ         かとういやたろうみつまさ
  佐々木小三郎盛季   加藤弥太郎光政

    はんがやつのしろうしげとも        なかやまのごろうためしげ
  榛谷四郎重朝     中山五郎爲重

    えまのたろうよりとき  〔やすとき〕      ほうじょうのごろうときつら
  江間太郎頼時〔泰時〕  北條五郎時連(後の時房)

  つぎ  ぎょけん やく
 次に御劔の役

    ごとうのひょうえのじょうもとつな
  後藤兵衛尉基綱

  つぎ  ごちょうどが
 次に御調度懸け

    かすやのとうたひょうえのじょうありすえ
  糟谷藤太兵衛尉有季

  つぎ  おんよろいつ
 次に 御甲 着き

    おおいのじろうさねひさ
  大井次郎實久

  つぎ  おんかぶとも
 次に 御冑 持ち

    なかののごろうよしなり
  中野五郎能成

  つぎ  おんうしろ しゅうにじうにん 〔そくたい  ほい  あいまじ  〕
 次に 御後の 衆廿人 〔束帶、布衣@相交る。〕

参考@布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。

    さがみのかみこれよし           むさしのかみともまさ
  相摸守惟義      武藏守朝政(平賀)

    かもんのかみひろもと           さきのうまのすけもちひろ
  掃部頭廣元      前右馬助以廣

    げんうこんたいふしょううげんちかひろ  えのさこんしょうげんよしひろ
  源右近大夫將監親廣A 江左近將監能廣

参考A親廣は、大江広元の子だが、土御門通親(村上源氏)の養子になっているので源。

    なかのうきょうのしんすえとき        おやまのさえもんのじょうともまさ
  中右京進季時     小山左衛門尉朝政

    ごとうのさえもんのじょうもときよ       はったのさえもんのじょうともしげ
  後藤左衛門尉基C   八田左衛門尉知重(朝重とも)

    しまづのさえもんのじょうただひさ     ところのうえもんのじょうともみつ
  嶋津左衛門尉忠久   所右衛門尉朝光

    わだのさえもんのじょうよしもり       かさはらのじうろうさえもんのじょうちかかげ
  和田左衛門尉義盛   笠原十郎左衛門尉親景

    やまのうちのぎょうぶのじょうつねとし   おおとものさこんしょうげんよしなお
  山内刑部丞經俊    大友左近將監能直

    わかさのひょうえのじょうただすえ     ちばのへいじひょうえのじょうつねひで
  若狹兵衛尉忠季    千葉平次兵衛尉常秀

    あまののうまのじょうのりかげ        ちうじょううまのじょういえなが
  天野右馬允則景    中條右馬允家長

  つぎ  こうじん  ずいへい
 次に後陣の隨兵

    むらかみのよざほうがんなかきよ      おがさわらのいやたろうながつね
  村上余三判官仲C   小笠原弥太郎長經

    たけだのごろうのぶみつ           いずみのじろうすえつな
  武田五郎信光     泉次郎季綱

    あだちのくろうかげもり            ひきのほうがんしろうむねかず
  安達九郎景盛     比企判官四郎宗員

    つちやのじろうよしきよ            といのせんじろうこれみつ
  土屋次郎義C     土肥先次郎惟光

    かさいのひょうえのじょうきよしげ       えどのじろうともしげ
  葛西兵衛尉C重    江戸次郎朝重

  つぎ ていい
 次に廷尉

    しんほうがんよしかず
  新判官能員(比企)

  つぎ てんじょうびと 〔ぐうじ  さんかい  〕
 次に殿上人〔宮寺に參會す〕

    ほうきのしょうしょう
  伯耆少將

現代語正治二年(1200)二月大二十六日壬午。晴れです。中将頼家様は鶴岡八幡宮へお参りです。頼朝様の喪が明けて初めてのことです。上の宮で、お経を奉納しました。指導僧は弁法橋宣豪だそうです。
お供の人達は、
 前を行く武装兵十人
  結城七郎朝光    三浦平六兵衛尉義村
  宇佐美左衛門尉祐茂 野次郎左衛門尉成時
  佐々木小三郎盛季  加藤弥太郎光政
  榛谷四郎重朝    中山五郎爲重
  江間太郎頼時(泰時)
 北條五郎時連
 次に太刀持ち
  後藤兵衛尉基綱
 次に弓矢持ち
  糟谷藤太兵衛尉有季
 次に鎧を着る者
  大井次郎實久
 次に兜持ち
  中野五郎能成
 次に将軍の後に従う二十人〔正装の束帯と礼服の狩衣が混ざっています〕
  大内相摸守惟義   平賀武蔵朝雅
  大江掃部頭広元   前右馬助以廣
  源右近大夫将監親広 大江左近将監能広
  右京進中原季時   小山左衛門尉朝政
  後藤左衛門尉基清  八田左衛門尉知重
  
嶋津左衛門尉忠久  所右衛門尉朝光
  和田左衛門尉義盛  笠原十郎左衛門尉親景
  山内刑部丞経俊   大友左近将監能直
  若狭兵衛尉島津忠季 千葉平次兵衛尉常秀
  天野右馬允則景   中条右馬允家長
 次に後を行く武装兵
  村上余三判官仲清 小笠原弥太郎長経
  武田五郎信光 泉次郎季綱
  安達九郎景盛 比企判官四郎宗員
  土屋次郎義清 土肥先次郎惟光
  葛西兵衛尉清重 江戸次郎朝重
 次に検非違使
  新判官比企能員
 次に殿上人〔八幡宮寺に来ています〕
  伯耆少将藤原清基

閏二月へ

吾妻鏡入門第十六巻

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