吾妻鏡入門第十七巻

建仁元年(正治三年)辛酉(1201)二月小

正治三年(1201)二月小一日壬午。霽。宰相阿闍梨尊曉〔法眼圓曉弟子〕補鶴岳別當。今日始遂神拝。其後參賀于左金吾。大官令爲申次。

読下し                   はれる さいしょうあじゃりそんぎょう〔ほうげんえんぎょう  でし〕    つるがおかべっとう ぶ
正治三年(1201)二月小一日壬午。霄。宰相阿闍梨尊曉〔法眼圓曉の弟子〕を鶴岳別當に補す。

きょう    はじ    じんぱい  と       そ    ご   さきんごに さんが    だいかんれいもうしつぎ な
今日、始めて神拜を遂げる。其の後、左金吾于參賀す。大官令申次を爲す。

現代語正治三年(1201)二月小一日壬午。晴れました。宰相阿闍梨尊暁〔法眼円暁の弟子〕を鶴岡八幡宮寺の代表に任命しました。今日、その身分になって初めての神様への報告です。その後、左衛門督頼家様がお参りに来ました。大江広元が取次です。

説明尊曉は、鶴岡別当二代目。圓曉ー尊曉ー定曉ー公曉ー(貞曉はなってない。高野山で死んでしまう)ー度幸ー定豪ー定雅ー定親ー隆弁ー頼助(經時の子)その系統と続く。

正治三年(1201)二月小三日甲申。未尅。掃部入道。佐々木左衛門尉定綱。小山左衛門尉朝政〔爲大番勤仕在京〕等飛脚參着。申云。去月廿三日。天皇朝覲行幸仙洞〔二條殿〕。春宮。七條院。一宮同臨幸。爰越後國住人城四郎平長茂〔城四郎助國四男〕引率軍兵。圍朝政三條東洞院宿廬。朝政供奉行幸留守程也。所殘留之郎從等禦戰之間。長茂引退。即行幸還御以前推參仙洞。閇四門。申可追討關東之宣旨。然而依無勅許。長茂逐電。有C水坂之由。風聞之間。朝政等雖馳向。不知行方云々。彼使者先到着大官令亭。次參御所。此間。諸人群參。鎌倉中騒動。依被加制止。入夜靜謐云々。

読下し                  ひつじのこく かもんにゅうどう  ささきのさえもんのじょうさだつな おやまのさえもんのじょうともまさ 〔おおばんきんじ  ため ざいきょう〕   ら
正治三年(1201)二月小三日甲申。未尅、掃部入道、佐々木左衛門尉定綱、小山左衛門尉朝政大番勤仕の爲在京す等が

ひきゃくさんちゃく  もう     い
飛脚參着し、申して云はく

さんぬ つきにじうさんにち てんのう  せんとう 〔にじょうでん〕    ちょうかんぎょうこう   とうぐう  しちじょういん いちのみや おな   りんこう
去る月廿三日天皇、仙洞二條殿へ朝覲行幸す。春宮、七條院、 一宮 同じく臨幸す。

ここ  えちごのくにじゅうにん じょうのしろうながもち 〔じょうのしろうすけくに  よんなん〕 ぐんぴょう  いんそつ   ともまさ  さんじょうひがしとういん  すくろ  かこ
爰に越後國住人の城四郎平長茂城四郎助國の四男軍兵を引率し、朝政の 三條東洞院の宿盧を圍む。

ともまさぎょうこう   ぐぶ    るす   ほどなり  ざんりゅう   ところのろうじゅうら ふせ たたか のかん  ながもちひきの
朝政行幸に供奉し留守の程也。殘留する所之郎從等禦ぎ戰う之間、長茂引退く。

すなは ぎょうこうかんごいぜん せんとう  すいさん      しもん   と        かんとう  ついとう  べ   のせんじ  もう
即ち行幸還御以前に仙洞へ推參して、四門を閇ざし、關東を追討す可き之宣旨を申す。

しかれど ちょっきょ な   よ       ながもちちくてん きよみずざか  あ  のよし ふうぶん    のかん
然而、勅許に無き依って、長茂逐電し清水坂に有る之由風聞する之間、

ともまさら は   むか   いへど ゆくえ しれず  うんぬん
朝政等馳せ向うと雖も行方不知と云々。

か   ししゃ ま   だいかんれいてい  とうちゃく   つぎ  ごしょ  まい
彼の使者先ず大官令亭に到着し、次に御所に參る。

こ   かんしょにん かまくらちゅう ぐんさんそうどう   せいし  くは  られ    よっ  よ   い  せいひつ   うんぬん
此の間諸人鎌倉中に群參騒動す。制止を加へ被るに依て夜に入り静謐すと云々。

現代語正治三年(1201)二月小三日甲申。未の刻(午後二時頃)に掃部入道中原親能・佐々木左衛門尉定綱・小山左衛門尉朝政〔京都警護の大番役に勤務のため京都におります〕達の伝令が到着して、報告するのには「先月の二十三日に、土御門天皇が、後鳥羽上皇〔二条殿〕の仙洞に挨拶のため行幸されました。皇太子(順徳)・七条院(殖子、坊門信清の娘)、一宮も同様に出かけました。そしたら、越後国奥山庄の豪族城四郎長茂〔城四郎助国の四男〕が軍隊を率いて、小山朝政の三条東洞院の宿舎を取り囲みました。朝政は、天皇の行幸の警護をして留守中でした。屋敷に残っていた家来たちが攻撃を防いで戦ったので、長茂は退散しました。長茂はすぐに、天皇の行幸が帰る前に後鳥羽上皇の仙洞へ押し入って、四方の門を閉めて、関東を攻め滅ぼすように上皇の命令書宣旨を出してくれとせがみました。しかし、許可してくれないので、長茂は逃げて清水坂の方にいると噂があったので、朝政が走って向かいましたが、行方知れずだそうです。」とのことでした。この伝令は、まず大江広元の屋敷へ行き、それから御所に来たのです。それを聞いた人々が(戦が近いと)鎌倉中に群れ騒ぎました。心配ないので落ち着くように命じたので、夜になって静かになりましたとさ。

正治三年(1201)二月小五日丙戌。京都飛脚等歸洛。長茂事。可伺尋有所之由。被仰京畿御家人等云々。

読下し                   きょうと   ひきゃくら  きらく
正治三年(1201)二月小五日丙戌。都の飛脚等歸洛す。

ながもち  こと あ    ところうかが たず    べ   のよし  けいき ごけにんら  おお  られ    うんぬん
長茂が事有るの所伺ひ尋ねる可き之由、京幾御家人等に仰せ被ると云々。

現代語正治三年(1201)二月小五日丙戌。京都からの伝令が帰りました。長茂の事件や居場所を調べるように、京都周辺の御家人に命令を出しましたとさ。

建仁元年(1201)二月小廿二日癸夘。陰。南風烈。今日改元詔書到來。去十三日改正治三年爲建仁元年云々。大夫屬入道持參彼書於御所。即可令施行之由。所被仰也。

読下し                     くもり  なんぷうはげ
建仁元年(1201)二月小廿二日癸卯。陰。南風烈し。

きょう  かいげん  しょうしょとうらい    さぬ じゅうさんにち しょうじさんねん あらた けんにんがんねん な    うんぬん
今日、改元の詔書到來す。去る十三日 正治三年を改め 建仁元年と爲すと云々。

たいふさかんにゅうどう か  しょを  ごしょ   じさん    すなは しぎょうせし  べ   のよし  おお  られ  ところなり
大夫屬入道、彼の書於御所に持參す。即ち施行令む可し之由、仰せ被る所也。

現代語正治三年(1201)二月小二十二日癸卯。曇りで南風が激しい。今日、年号を変える改元の命令書が到着しました。先だっての十三日に正治三年を変えて建仁元年としたとのことです。大夫属入道三善善信がその書付を御所へ持ってきました。すぐに取り扱うように、仰せになられましたとさ。

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