吾妻鏡入門第十七巻

建仁三年癸亥(1203)五月小

建仁三年(1203)五月小五日壬申。鶴岳臨時祭。將軍家御參宮。

読下し                   つるがおか りんじさい  しょうぐんけごさんぐう
建仁三年(1203)五月小五日壬申。鶴岳の臨時祭。將軍家御參宮。

現代語建仁三年(1203)五月小五日壬申。鶴岡八幡宮で、端午の節句のお祭りです。将軍頼家様もお参りです。

建仁三年(1203)五月小十八日乙酉。將軍家渡御鶴岡別當坊。伯耆少將。右近大夫將監親廣等扈從。有御鞠。人數如例。

読下し                     しょうぐんけ つるがおかべっとうぼう  とぎょ    ほうきしょしょう  うこんたいふしょうげんちかひろら こしょう
建仁三年(1203)五月小十八日乙酉。將軍家、鶴岡別當坊に渡御す。伯耆少將。右近大夫將監親廣等扈從す。

おんまりあ     にんずうれい  ごと
御鞠有り。人數例の如し。

現代語建仁三年(1203)五月小十八日乙酉。将軍頼家様は、鶴岡八幡宮の長官の住まいにお渡りです。伯耆少将藤原清基と源右近将監親広がお供をしました。蹴鞠があり、人数は何時もの連中でした。

建仁三年(1203)五月小十九日丙戌。子剋。阿野法橋全成〔幕下將軍御舎弟〕依有謀叛之聞。被召籠御所中。武田五郎信光生虜之。即被預于宇都宮四郎兵衛尉云々。

読下し                     ねのこく  あののほっきょうぜんじょう 〔ばっかしょうぐん ごしゃてい〕  むほんの きこ  あ     よっ
建仁三年(1203)五月小十九日丙戌。子剋。阿野法橋全成@〔幕下將軍が御舎弟〕謀叛之聞へ有るに依て、

ごしょちう   め   こ   られ    たけだのごろうのぶみつ これ  い   ど
御所中に召し籠め被る。武田五郎信光 之を生け虜る。

すなは うつのみやのしろうひょうえのじょうに あず  られ    うんぬん
即ち 宇都宮四郎兵衛尉A于預け被ると云々。

参考@阿野法橋全成は、元今若丸。駿河国阿野庄。沼津市西半分(東原付近)。東半分が大岡牧。
参考A
宇都宮四郎兵衛尉は、頼業。時政の娘婿の弟。

現代語建仁三年(1203)五月小十九日丙戌。夜中の十二時に、阿野法橋全成〔頼朝様の弟です〕が謀反と耳に入ったので、御所の中へ連れてきて監禁しました。武田五郎信光が捕まえました。すぐに宇都宮四郎兵衛尉頼業に預けられましたとさ。

建仁三年(1203)五月小廿日丁亥。將軍家以比企四郎。被申尼御臺所云。法橋全成。依企叛逆所生虜也。彼妾阿波局官仕殿内歟。早召給。有可尋問子細云々。如然事。不可令知女性歟。随而全成去二月比下向駿州之後。不通音信。更無所疑之由。被申御返事。不被出進之云々。

読下し                    しょうぐんけ ひきのしろう   もっ    あまみだいどころ もうされ  い
建仁三年(1203)五月小廿日丁亥。將軍家比企四郎を以て、尼御臺所に申被て云はく、

ほっきょうぜんじょう  ほんぎゃく くは      よっ  い   ど  ところなり  か  めかけ  あはのつぼね でんない かんじ    か
 法橋全成、 叛逆を企てるに依て生け虜る所也。彼の妾、 阿波局 殿内に官仕する歟。

はや  め   たま    たず  と   べ   しさい あ    うんぬん
早く召し給ひ、尋ね問ふ可き子細有りと云々。

しか  ごと    こと  じょせい  し   せし  べからず    か   したが て ぜんじょうさんぬ にがつころ すんしゅう げこうの のち  おんしん つうぜず
然る如きの事、女性に知ら令む不可こと歟。随っ而 全成 去る二月比、駿州へ下向@之後、音信を不通。

さら  うたが ところな  のよし    ごへんじ   もうされ  これ  い   すす  られず  うんぬん
更に疑う所無し之由、御返事を申被、之を出で進め不被と云々。

参考@駿州へ下向は、駿河国阿野庄へ行った。

現代語建仁三年(1203)五月小二十日丁亥。将軍頼家様は、比企弥四郎時員を使って、尼御台所政子様に申し入れたのは「法橋全成が、謀反をたくらんだので逮捕しました。彼の妻の阿波局が、母上の御所へ仕えておられますね。早く呼びつけてください。色々と訪ねたいことがあります。」とのことです。「そういう政治向きの事は女性に知らせる訳がないでしょう。それなので全成が先だっての二月に駿河国へ行って以来、連絡がありません。これ以上疑いようがないでしょう。」とご返事を申されて、阿波局を出すことはありませんでしたと。

建仁三年(1203)五月小廿五日壬辰。申尅。阿野法橋全成配常陸國。

読下し                      さるのこく あののほっきょうぜんじょう ひたちのくに はい
建仁三年(1203)五月小廿五日壬辰。申尅、 阿野法橋全成、常陸國へ配す。

現代語建仁三年(1203)五月小二十五日壬辰。申の刻(午後四時頃)、阿野法橋全成を、常陸国へ島流しにしました。

建仁三年(1203)五月小廿六日癸巳。リ。將軍家爲狩獵。御進發伊豆國。

読下し                     はれ  しょうぐんけ  しゅりょう ため  いずのくに  ごしんぱつ
建仁三年(1203)五月小廿六日癸巳。リ。將軍家、狩獵の爲、伊豆國へ御進發。

現代語建仁三年(1203)五月小二十六日癸巳。晴れです。将軍頼家様は、狩をするために伊豆国へ出発しました。

建仁三年(1203)五月小廿八日乙未。鶴岳宮供僧等。自去廿六日勤仕將軍家御施行御祈祷。仍爲政所沙汰。被下御布施。白布三十端。八木十果也。

読下し                   つるがおかぐう ぐそうら    さんぬ にじうろくにちよ しょうぐんけごせぎょう   ごきとう   ごんじ
建仁三年(1203)五月小廿八日乙未。鶴岳宮供僧等。去る廿六日自り將軍家御施行の御祈祷に勤仕す。

よっ  まんどころ  さた  な      おんふせ  くださる    しらふさんじったん  やき じっかなり
仍て政所の沙汰と爲し、御布施を下被る。白布三十端、八木@十果A也。

参考@八木は、米。米の文字を八と木に分けた。
参考A
一果は、一石一合。

現代語建仁三年(1203)五月小二十八日乙未。鶴岡八幡宮の坊さん達は、一昨日の二十六日から将軍頼朝様のお出かけの無事を祈る祈祷に励みました。それなので、政務事務所の負担として、お布施を与えました。白い布三十反・米を十石十合です。

建仁三年(1203)五月小廿九日丙申。雖爲御留守之程。隼人入道招請紀内所行景。冨部五郎。源性。義印等。有御鞠。

読下し                     おんるすの ほどたり  いへど   はやとにゅうどう   きなところのゆきかげ とみべのごろう  げんしょう  ぎんら  しょうせい   おんまりあ
建仁三年(1203)五月小廿九日丙申。御留守之程爲と雖も、隼人入道が、紀内所行景、冨部五郎、源性、義印等を招請し、御鞠有り。

現代語建仁三年(1203)五月小二十九日丙申。将軍頼家様は留守ですが、隼人入道三善康清が、紀内所行景・冨部五郎・大輔房源性・加賀房義印等を招待して、蹴鞠がありました。

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