建仁三年癸亥(1203)七月小
建仁三年(1203)七月小四日庚午。未尅。鶴岳八幡宮。自經所与下廻廊造合之上。鴿三喰合落地。一羽死。 |
読下し
ひつじのこく つるがおかはちまんぐう きょうしょと
しもかいろう つく あわ のうえよ
はとさん くいあ ち お いちはし
建仁三年(1203)七月小四日庚午。未尅。
鶴岳八幡宮
の、經所与下廻廊の造り合せ之上自り、鴿三喰合い地に落ち、一羽死す。
現代語建仁三年(1203)七月小四日庚午。未の刻(午後二時頃)鶴岡八幡宮のお経所と回廊とをつないだ屋根の上から、鳩が三羽喰い争いながら落ちてきて、一羽が死にました。
建仁三年(1203)七月小九日乙亥。辰刻。同宮寺閼伽棚下。鳩一羽頭切而死。此事無先規之由。供僧等驚申之。 |
読下し
たつのこく どうぐうじ あかだな した はといちはあたまきら て し
建仁三年(1203)七月小九日乙亥。辰刻。同宮寺閼伽棚下に、鳩一羽頭切れ而死す。
かく こと せんきな のよし ぐそうら これ おどろ もう
此の事先規無き之由、供僧等之を驚き申す。
現代語建仁三年(1203)七月小九日乙亥。辰の刻(午前八時頃)鶴岡八幡宮寺のお参り用の桶閼伽桶や花を置く棚の下に、鳩が一羽頭が取れて死んでいました。こんなことは今までなかったことなので、坊さん達が驚いて報告してきました。
建仁三年(1203)七月小十八日甲申。御所御鞠也〔今日以後無此御會〕。北條五郎時房。紀内行景。冨部五郎。比企弥四郎。肥田八郎。源性。義印等參。 |
読下し ごしょ おんまりなり 〔 きょう
いご こ おんかい な 〕
建仁三年(1203)七月小十八日甲申。御所の御鞠也。〔今日以後此の御會無し〕
ほうじょうのごろうときふさ きないゆきかげ
とみべのごろう ひきのいやしろう ひたのはちろう げんしょう ぎいんら さん
北條五郎時房、紀内行景、冨部五郎、比企弥四郎、肥田八郎、源性、義印等參ず。
現代語建仁三年(1203)七月小十八日甲申。御所の蹴鞠です。〔この日以後、ほかの集まりは有りません〕北条五郎時房・紀内所行景・冨部五郎・比企弥四郎時員・肥多八郎宗直・大輔房源性・加賀房義印などが参加しました。
建仁三年(1203)七月小廿日丙戌。リ。戌尅。將軍家俄以御病惱。御心神辛苦。非直也事云々。 |
読下し はれ いぬのこく しょうぐんけにはか もっ ごびょうのう ごんしんしんしんく じきなること あらず うんぬん
建仁三年(1203)七月小廿日丙戌。リ。戌尅。將軍家俄に以て御病惱。御心神辛苦。直也事に非と云々。
現代語建仁三年(1203)七月小二十日。晴れです。戌の刻(午後八時頃)將軍頼家様が、急病です。かなり苦しそうです。ただ事ではありませんとさ。
建仁三年(1203)七月小廿三日己丑。御病惱既危急之間。被始行數ケ御祈祷等。而卜筮之所告。靈神之崇云々。 |
読下し ごびょうのうすで ききゅうのかん すうけ ごきとうら しぎょうされ
建仁三年(1203)七月小廿三日己丑。御病惱既に危急之間、數ケの御祈祷等を始行被る。
しか ぼくぜいのつげ ところ れいじんのたたり うんぬん
而るに卜筮之告る所は、靈神之崇と云々。
現代語建仁三年(1203)七月小二十三日己丑。将軍頼家様の御病気は、かなり重態なので、複数の祈祷を始めました。しかし、占いの結果は、神様のたたりだとのことです。
建仁三年(1203)七月小廿五日辛夘。相摸權守使者自京都到着。申云。去十六日。催遣在京御家人等。於東山延年寺。窺播磨公頼全〔全成法橋息〕令誅戮之云々。 |
読下し さがみごんかみ ししゃ
きょうとよ とうちゃく もう い
建仁三年(1203)七月小廿五日辛夘。相摸權守が使者京都自り到着す。申して云はく。
さんぬ じうろくにち ざいきょう ごけにんら もよお つか ひがしやまえんねんじ をい はりまこうらいぜん 〔ぜんじょうほっきょう そく〕 うかが これ ちうりくせし うんぬん
去る十六日、在京の御家人等を催し遣はし、東山延年寺に於て、播磨公頼全〔全成法橋が息〕を窺ひ、之を誅戮令むと云々。
現代語建仁三年(1203)七月小二十五日辛卯。相模権守源仲章の使いが京都から到着して申しあげました。「先日の十六日に京都に駐屯している御家人を派遣して、東山延年寺で播磨公頼全〔法橋全成の息子〕を探し出し、処刑しました。」とのことです。