吾妻鏡入門第十九巻

承元二年戊辰(1208)四月

承元二年(1208)四月大二日辛丑。恩澤事有其沙汰。人々多以浴其恩云々。

読下し                   おんたく  こと  そ    さた あ    ひとびとおお  もっ  そ   おん  よく    うんぬん
承元二年(1208)四月大二日辛丑。恩澤@の事、其の沙汰有り。人々多く以て其の恩に浴すと云々。

現代語承元二年(1208)四月大二日辛丑。褒美の付与について、その裁決がありました。人々の多くがその恩恵にあずかりましたとさ。

説明@恩澤は、病気平癒の寺社への恩給であろうか。

承元二年(1208)四月大廿三日癸亥。小野大夫判官義成於京都煩時行。獲鱗之由風聞之間。親昵等揚鞭云々。

読下し                     おののたいふほうがんよしなり  きょうと  をい  はやりやまい  わずら  かくらんのよしふうぶんのかん  しんじつら むち  あ     うんぬん
承元二年(1208)四月大廿三日癸亥。小野大夫判官義成、京都に於て 時行 を煩い、獲鱗之由風聞之間、親昵等鞭を揚ぐと云々。

現代語承元二年(1208)四月二十三日癸亥。京都警察の検非違使に任命されている小野大夫判官義成が、京都で流行病にかかって、死期が近づいていると噂が伝わってきたので、親しい者は馬で出発したそうです。

承元二年(1208)四月大廿五日乙丑。リ。鶴岳宮之傍。始可被建神宮寺之由。有其沙汰。今日被曳其地。大夫属入道善信爲惣奉行。盛時。仲業等所被相副也。

読下し                     はれ つるがおかぐうのわき    はじ    じんぐうじ  たてらる  べ   のよし  そ   さた あ
承元二年(1208)四月大廿五日乙丑。リ。鶴岳宮之傍に、始めて神宮寺を建被る可き之由、其の沙汰有り。

きょう   そ   ち   ひかれ     たいふさかんにゅうどうぜんしん そうぶぎょう  な     もりとき  なかなりら あいそへらる ところなり
今日、其の地を曳被る。 大夫属入道善信  惣奉行を爲す。盛時、仲業等相副被る所也。

現代語承元二年(1208)四月二十五日乙丑。晴れです。鶴岡八幡宮の境内に、初めて神社を守る寺の神宮寺を建てるように、決定されました。今日、その場所で地面に縄張りをしました。大夫属入道三善善信が筆頭責任者となり、平民部烝盛時と右京進仲業を配下に任命しました。

承元二年(1208)四月大廿七日丁夘。リ。坊門前亞相使者參着。來五月南山御幸可令供奉。可賜龍蹄之由被申之。又去十三日。々來風聞仙洞御鞠被遂之。於大炊御門〔左相國御亭〕有其儀。南庭搆新造屋爲御所。其東有公卿殿上人之屋。按察卿ゝゝ爲成通卿之子息。古老依召參上。凡至北面西面之輩。鞠足等給物皆金銀也。

読下し                     はれ  ぼうもんさきのあしょう ししゃさんちゃく   きた  ごがつ なんざん ぎょうこう  ぐぶ せし  べ
承元二年(1208)四月大廿七日丁夘。リ。坊門前亞相が使者參着す。來る五月南山@御幸に供奉令む可し。

りゅうてい たまは べ   のよし  これ  もうさる    また  さんぬ じうさんにち  ひごろ ふうぶん  せんとう  おんまりこれ  と   らる
龍蹄Aを賜る可し之由、之を申被る。又、去る十三日、々來風聞の仙洞Bの御鞠之を遂げ被る。

おおいみかど  〔さしょうこく  おんてい〕    をい  そ   ぎ あ     なんてい しんぞう  や   かま  ごしょ  な
大炊御門〔左相國の御亭〕に於て其の儀有り。南庭に新造の屋を搆へ御所と爲す。

そ  ひがし くぎょうてんじょうびとのや あ     あぜのきょうなにがし なりみちきょう のしそくたり  ころう めし  よっ  さんじょう
其の東に公卿殿上人之屋有り。按察卿Cゝゝは成通卿D之子息爲。古老召に依て參上す。

およ  ほくめん さいめんのやから いた     まりあし ら たまは ものみな くがね しろがね なり
凡そ北面E、西面F之輩に至りて、鞠足G等給る物皆 金 銀 也。

参考@南山は、熊野権現。いわゆる熊野詣。
参考A龍蹄は、龍蹄は立派な馬の事で、背高が四尺以下を駒と云い、四尺以上を龍蹄といい、四尺を越えた分の寸を○騎と云う。
参考B仙洞は、後鳥羽上皇。
参考C按察卿は、藤原泰通。
参考D
成通卿は、藤原で親子そろって蹴鞠の名人。
参考E北面は、白河法皇が院直属の軍隊として護衛用の武士を雇ったのが始まりで、御所の北側に置いたところから北面の武士と呼ばれる。又、鑓水の取水口があったので滝口ともいわれる。北面には、五位以上の上北面と六位以下の下北面とがあり、兵衛尉クラスは下北面の武者。
参考F西面は、西面は後鳥羽上皇が置いた。白河法皇が置いた院直属の軍隊北面に加えた。
参考G鞠足は、蹴鞠の選手。

現代語承元二年(1208)四月二十七日丁卯。京都の坊門忠清前大納言(将軍実朝の舅)の使いが到着しました。
来る五月の後鳥羽上皇の熊野詣にお供をするので、馬を欲しいと云ってよこしました。又、先日の十三日にやるやると噂のあった後鳥羽上皇の希望する蹴鞠大会も無事にできました。大炊御門〔藤原頼実の屋敷〕でその儀式を行いました。邸内の南の庭に新しく建物を建てて上皇用の建物としました。その東側には、公卿や昇殿を許された貴族用の建物がありました。
按察卿なにがし(藤原泰通)は藤原成通の子供です。年寄りも呼ばれて来ていました。
上皇の私兵西面の連中の蹴鞠の選手が与えられた褒美は全て金銀でした。

閏四月へ

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