吾妻鏡入門第十九巻

承元四年庚午(1210)六月

承元四年(1210)六月大三日己未。昨日。於相摸國丸子河。土肥。小早河之輩。与松田。河村一族。有喧嘩事。両方郎從被疵。其後相互城籠之由。依令風聞。爲相鎭之。義盛。義村承將命行向畢。今日入夜歸參。件輩納凉逍遥之間。頗及雜談。就論先祖武功之勝劣。雖有此鬪諍。應御使諷諌。早成和平。与力衆等退散云々。勇士者收其身可奉護國家之處。近代諍私武威。動起鬪乱。不忠之至。不可不誡之由。如相州有其沙汰。向後於巧此儀者。召所帶。永可被放御家人之号旨。以今夜中。被下御書於雜色。可付土肥。松田等云々。

読下し                    さくじつ  さがみのくにまるこがわ  をい     とい   こばやかわのやからと まつだ  かわむら いちぞく  けんか  ことあ
承元四年(1210)六月大三日己未。昨日、相摸國丸子河@に於て、土肥、小早河A之輩与松田、河村B一族、喧嘩の事有り。

りょうほう ろうじゅうきずされ   
両方の郎從疵被る。

 そ   ご そうご   しろ  こも  のよし  ふうぶんせし    よっ    これ  あいしず   ため  よしもり よしむら しょうめい うけたまは ゆきむか をはんぬ
其の後相互に城に籠る之由、風聞令むに依て、之を相鎭めん爲、義盛、義村C、將命を 承り 行向い畢。

きょう よ   い   きさん    くだん やから のうりょうしょうようのかん  すこぶ ぞうだん およ    せんぞ  ぶこうの しょうれつ  つ  ろん
今日夜に入り歸參す。件の輩、納凉逍遥之間、頗る雜談に及び、先祖の武功之勝劣に就き論ず。

こ   とうじょうあ    いへど    おんし  ふうかん  おう    はや    わへい な     よりき  しゅうら たいさん   うんぬん
此の鬪諍有ると雖も、御使の諷諌に應じ、早くも和平成り、与力の衆等退散すと云々。

ゆうし は そ   み   おさ  こっか  まも たてまつ べ  のところ  きんだい し   ぶい   あらそ  ややもすれ とうらん  おこ
勇士者其の身を收め國家を護り奉る可き之處、近代私の武威を諍い、 動 ば鬪乱を起す。

ふちう の いた    ふせい  べからずのよし  そうしゅう ごと  そ    さた あ     
不忠之至り、不誡す不可之由、相州の如き其の沙汰有り。

きょうごかく  ぎ   たく    をい  は   しょたい  め      なが   ごけにんの ごう   はなたる  べ   むね
向後此の儀を巧むに於て者、所帶を召し、永く御家人之号を放被る可き旨、

こんやちう  もっ    おんしょを ぞうしき  くだされ   とい   まつだ ら   ふ   べ     うんぬん
今夜中を以て、御書於雜色に下被、土肥、松田等に付す可しと云々。

参考@丸子河は、神奈川県小田原市東部の酒匂川。
参考A土肥、小早河は、親戚。土肥次郎實平の息子小早河弥太郎遠平から。
参考B松田、河村は、親戚、波多野一族。松田では、波多野右馬允義常が住んでた。河村三郎義秀も波多野出身。
参考C義盛、義村は、侍所別当(長官)と所司(次官)。

現代語承元四年(1210)六月大三日己未。昨日、相模国丸子川(神奈川県小田原市酒匂川)で、土肥・小早川の一族と松田・河村の一族との喧嘩がありました。双方の下っ端連中が傷をつけられました。その後、共に館に立てこもって戦の準備をしていると噂が聞こえたので、これを取り鎮めるために、軍事警察の侍所長官和田左衛門尉義盛と次官の三浦平六兵衛尉義村が将軍実朝様の命令を受けて出かけて行きました。今日、夜になって帰ってきました。例の連中は、納涼にそぞろ歩きをしていたところ、話が高じてきて先祖の手柄の優劣を自慢しあい、このような喧嘩になったのですが、将軍の使者の諫めによって、早くも仲直りをして、駆けつけた味方の連中も引き揚げましたとさ。「真の英雄は、身を慎み国家を守るのが本当なのに、近頃は個人的な武力を出し合って、場合によっては喧嘩沙汰を起こす。幕府に対し不忠極まりないので、自己を戒めるように。」と相州義時等の決定がありました。「今後、このような事を起こした者は、所領を取り上げて、永遠に御家人からはずしてしまうと、今夜中に命令書を発行し、土肥と松田に届けるように。」とのことでした。

承元四年(1210)六月大八日甲子。尼御臺所令詣相摸國日向藥師堂給。武州。源大夫將監等扈從。入夜還向給云々。

読下し                   あまみだいどころ さがみのくに ひなたやくし どう  もう  せし  たま    ぶしゅう  げんたいふしょうげん らこしょう
承元四年(1210)六月大八日甲子。尼御臺所、相摸國日向藥師@堂へ詣で令め給ふ。武州、源大夫將監A等扈從す。

 よ  い   かんこう  たま    うんぬん
夜に入り還向し給ふと云々。

現代語承元四年(1210)六月大八日甲子。尼御台所政子様は、相模国日向藥師堂(神奈川県伊勢原市日向)へ参拝をされました。武州時房・源大夫将監親広などがお供をしました。夜になってお戻りになられましたとさ。

参考@日向藥師は、神奈川県伊勢原市日向1644に、かつて真言宗の日向山霊山寺と云う、13もの子院を持つ大寺院だったが、廃仏毀釈で多くの堂宇が失われ、別当坊の宝城坊と薬師堂がのこった。宝蔵には行基作の伝説を持つ薬師如来始め丈六の阿弥陀像や薬師如来像、十二神将像などが収蔵されている。
参考A
大夫将監は、親廣。大江広元の子で源通親の養子になったので源と言う。

承元四年(1210)六月大十二日戊辰。御臺所御方女房丹後局自京都參着。於駿河國宇都山。爲群盜等。所持財寳并自坊門殿被整下御裝束等。悉被盜取之由申之。

読下し                     みだいどころ おんかた  にょぼう たんごのつぼね きょうとよ   さんちゃく
承元四年(1210)六月大十二日戊辰。御臺所の御方の女房 丹後局、 京都自り參着す。

するがのくに うどやま  をい    ぐんとうら   ため   しょじ    ざいほうなら    ぼうもんどのよ  ととの くださる  ごしょうぞくら
駿河國宇都山@に於て、群盜等の爲、所持する財寳并びに坊門殿自り整へ下被る御裝束等、

ことごと ぬす  とられ   のよし   これ  もう
悉く盜み取被る之由、之を申す。

参考@宇都山は、有度山(うどやま)標高308m。有度丘陵(清水区から駿河区)を別名を日本平。

現代語承元四年(1210)六月大十二日戊辰。将軍の奥さん坊門姫の女官の丹後局が、京都から到着しました。駿河国有度山(静岡県清水区の日本平)で、山賊のために持っていた財宝や坊門忠清様が取り揃えてくださった着物など、全てを取られてしまったと報告しました。

承元四年(1210)六月大十三日己巳。駿河國以西海道驛家等結番夜行番衆。殊可致旅人警固。將又丹後局參向之時。所被盜取之財寳可尋出之由。今日被仰守護人云々。

読下し                     するがのくに いせい  かいどう  うまや ら  やぎょうばんしゅう けちばん   こと  たびびと  けいご  いた  べ
承元四年(1210)六月大十三日己巳。駿河國以西の海道の驛家等の夜行番衆を結番す。殊に旅人の警固を致す可し。

はたまた  たんごのつぼね さんこうの とき  ぬす とられ  ところのざいほう  たず  いだ  べ   のよし  きょう しゅごにん  おお  らる    うんぬん
將又、 丹後局 參向之時、盜み取被る所之財寳を尋ね出す可し之由、今日守護人に仰せ被ると云々。

現代語承元四年(1210)六月大十三日己巳。駿河国より西側の東海道の宿場の夜番の担当順を決めました。特に旅人の安全を守るようにすること。それと丹後局が来るときに盗まれてしまった財宝を探し出すように、今日それぞれの国の守護職に命令をされましたそうな。

承元四年(1210)六月大廿日丙子。崇徳院御影堂領可被止地頭職之由。及寺家之訴。右大將家御時雖有此所望。勳功之輩不可空手之旨。被出御返事之上。今更不能御許容云々。

読下し                    すとくいん みえいどう りょう  ぢとうしき   と   らる  べ   のよし   じけ これ  うった    およ
承元四年(1210)六月大廿日丙子。崇徳院御影堂@領の地頭職を止め被る可し之由、寺家之を訴へに及ぶ。

うだいしょうけ   おんとき  こ   しょもうあ    いへど   くんこうのやからて  むな     べからずのむね   ごへんじ   いださる  のうえ     いまさらごきょよう  あたはず  うんぬん
右大將家の御時、此の所望有ると雖も、勳功之輩手を空しくす不可之旨、御返事を出被る之上は、今更御許容に不能と云々。

参考@崇徳院御影堂は、京都祗薗の真ん中の崇徳院御廟らしい。

現代語承元四年(1210)六月大二十日丙子。崇徳上皇を祀っている御影堂の領地の地頭職をやめてほしいと、寺院関係者が訴えてきました。頼朝様の時代にこのような要望が出てきても、「手柄を立てて貰った者を貧しくしてはいけない。」と、返事をしているので、今更、許可はできないとのことだとさ。

承元四年(1210)六月大廿七日癸未。主計頭資元朝臣自京都進使者。申云。依兼日仰。今日〔十四日。〕行如法泰山府君云々。是 將軍家御祈祷也。

読下し                      かぞえのかみすけもとあそん きょうとよ   ししゃ   すす    もう    い
承元四年(1210)六月大廿七日癸未。主計頭資元朝臣、京都自り使者を進め、申して云はく。

けんじつ  おお    よっ    きょう  〔じうよっか〕  にょほうたいざんふくん  おこな   うんぬん  これ  しょうぐんけ  ごきとうなり
兼日の仰せに依て、今日〔十四日〕如法泰山府君@を行うと云々。是、將軍家の御祈祷也。

現代語承元四年(1210)六月大二十七日癸未。主計頭安陪資元さんが、京都から使いをよこして申しあげるのには、「以前の命令によって、今日〔十四日〕作法通りに泰山府君の祭事を催しました。」との事です。これは、将軍実朝様の安泰を祈る祈祷なのです。

説明@泰山府君は、安倍晴明が創始した祭事で月ごと季節ごとに行う定期のものと、命に関わる出産、病気の安癒を願う臨時のものがあるという。「泰山府君」とは、中国の名山である五岳のひとつ東嶽泰山から名前をとった道教の神である。陰陽道では、冥府の神、人間の生死を司る神として崇拝されていた。延命長寿や消災、死んだ人間を生き帰らすこともできたという。泰山の上に寿命の名簿があり、それを祈りで書き換える。

七月へ

吾妻鏡入門第十九巻

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