吾妻鏡入門第廿二巻

建保四年丙子(1216)七月大

建保四年(1216)七月大十五日丙午。陰。月蝕不正見。今日。御臺所渡御壽福寺。奉爲先考。被刷盂蘭盆供。大夫判官行村令參上奉行之。

読下し                     くも    げっしょくせいげん ず
建保四年(1216)七月大十五日丙午。陰り。月蝕正見せ不。

きょう   みだいどころじゅふくじ  わた  たま    せんこう  おんため   うらぼん ぐ   さっ  られ
今日、御臺所壽福寺へ渡り御う。先考の奉爲、盂蘭盆@を刷せ被る。

たいふほうがんゆきむら さんじょうせし これ  ぶぎょう
大夫判官行村、參上令め之を奉行す。

現代語建保四年(1216)七月大十五日丙午。曇りです。月食は見えません。今日、将軍の奥さん坊門姫は寿福寺へ行かれました。亡き父のために新盆の法要をされました。二階堂行村が、出かけて行って仕切りました。

説明@盂蘭盆は、今で云うお盆。もと中国で、餓鬼道に落ちた母を救う手段を仏にたずねた目連(もくれん)が、夏安居(げあんご)の最後の日の7月15日に僧を供養するよう教えられた故事を説いた盂蘭盆経に基づき、苦しんでいる亡者を救うための仏事で七月十五日に行われた。日本に伝わって初秋の魂(たま)祭りと習合し、祖先霊を供養する仏事となった。迎え火・送り火をたき、精霊棚(しようりようだな)に食物を供え、僧に棚経(たなぎよう)を読んでもらうなど、地域によって各種の風習がある。江戸時代から旧暦の七月十三日から十六日までになり、現在地方では月遅れの八月一三日から一五日に行われるが、都会では七月に行う地域も多い。

建保四年(1216)七月大廿九日庚戌。快リ。小河法印忠快於相摸河修六字河臨法。仍將軍家御出。隨兵十二人候先陣。次六位十二人〔着水于。負野矢〕在御輿前「次」
  隨兵〔二行〕
 式部(修理歟)丞泰時  結城左衞門尉朝光
 相摸次郎朝時     長沼五郎宗政
 伊豆左衛門尉頼定   土岐左衛門尉光行
 三浦左衛門尉義村   宇佐美右衛門尉祐茂
 河越次郎重時     筑後左衛門尉朝重
 下河邊四郎行時    伊東兵衛尉祐時
  狩裝束〔二行〕
 佐貫右衛門尉廣綱   三浦九郎右衛門尉胤義
 小野寺左衛門尉秀通  武藤左衛門尉頼茂
 宗左衛門尉孝親    嶋津左衛門尉忠久
 波多野中務丞忠綱   關左衛門尉政綱
 佐々木左近將監信綱  江左衛門尉能範
 左衛門大夫光員    刑部大夫經俊
次御輿。相州。武州。陸奥守廣元朝臣。大學頭仲章朝臣。信濃守行光。大夫判官行村。小山左衞門尉朝政已下供奉。御後凡及一萬騎。無双壯觀也。亥尅還御。

読下し                     かいせい おがわのほういんちうかい さがみがわ  をい  りくじかりんほう   しゅう    よっ  しょうぐんけおんいで
建保四年(1216)七月大廿九日庚戌。快リ。小河法印忠快、相摸河に於て六字河臨法@を修す。仍て將軍家御出。

ずいへいじうににんせんじん  そうら   つい  ろくい じうにににん  〔すいかん   き    のや   お  〕 おんこしまえ  あ     〔つぎ  〕
隨兵十二人先陣に候う。次で六位十二人。〔水于を着て野矢を負う〕御輿前に在り。〔次に〕

    ずいへい 〔にぎょう〕
  隨兵〔二行〕

  しきうのじょうやすとき           ゆうきのさえもんのじょうともみつ
 式部丞泰時      結城左衞門尉朝光

  さがみのじろうともとき           ながぬまのごろうむねまさ
 相摸次郎朝時     長沼五郎宗政

  いずのさえもんのじょうよりさだ      ときのさえもんのじょうみつゆき
 伊豆左衛門尉頼定   土岐左衛門尉光行

  みうらのさえもんのじょうよしむら     うさみのうえもんのじょうすけもち
 三浦左衛門尉義村   宇佐美右衛門尉祐茂

  かわごえのじろうしげとき         ちくごのさえもんのじょうともしげ
 河越次郎重時     筑後左衛門尉朝重

  しもこうべのしろうゆきとき         いとうのひょうえのじょうすけとき
 下河邊四郎行時    伊東兵衛尉祐時

    かりしょうぞく 〔にぎょう〕
  狩裝束A〔二行〕

  さぬきのうえもんのじょうひろつな    みうらのくろううえもんのじょうたねよし
 佐貫右衛門尉廣綱   三浦九郎右衛門尉胤義

  おのでらのさえもんのじょうひでみち  むとうのさえもんのじょうよりしげ
 小野寺左衛門尉秀通  武藤左衛門尉頼茂

  そうのさえもんのじょうたかちか      しまずのさえもんのじょうただひさ
 宗左衛門尉孝親    嶋津左衛門尉忠久

  はたののなかつかさのじょうただつな  せきのさえもんのじょうまさつな
 波多野中務丞忠綱   關左衛門尉政綱

  ささきのさこんしょうげんのぶつな     えのさえもんのじょうよしのり
 佐々木左近將監信綱  江左衛門尉能範

  さえもんたいふみつかず          ぎょうぶたいふつねとし
 左衛門大夫光員    刑部大夫經俊

つぎ  おんこし
次に御輿。

そうしゅう ぶしゅう  むつのかみひろもとあそん だいがくのかみなかあきらあそん しなののかみゆきみつ たいふほうがんゆきむら  おやまのさえもんのじょうともまさ いげ  ぐぶ
相州、武州、陸奥守廣元朝臣、 大學頭仲章朝臣、 信濃守行光、 大夫判官行村、 小山左衞門尉朝政 已下供奉す。

おんうしろ およ  いちまんき  およ    むそう  そうかんなり  いのこくかんご
御後、凡そ一萬騎に及ぶ。無双の壯觀也。亥尅還御す。

参考@六字河臨法は、「天台密教の本」によると六字明王を本尊とし、仕上げに川に船を浮かべその中で行法を行う。船は川上を向け浮かべ、岸から川上に向かい人が引っ張っていく。(略)調伏には北へ流れる川、息災は南へ流れる川とある。相模川は南流なので息災の祈祷になる。
参考A狩装束は、直垂に行縢、綾藺笠(あやいがさ)をかぶり、太刀を履き、弓矢を持つ。

現代語建保四年(1216)七月大二十九日庚戌。快晴です。小川法印忠快が、相模川で六字河臨法の祈祷を行いました。それで将軍実朝様もお出でになりました。お供の武装儀仗兵12人が先頭です。次に六位の者12人〔水干を着て狩猟用の矢をしょってます〕が輿の前に居ます。〔次が将軍〕

  武装儀仗兵〔二列〕
 式部丞泰時       結城左衛門尉朝光

 相模次郎朝時      長沼五郎宗政
 伊豆左衛門尉頼定    土岐左衛門尉光行

 三浦平六左衛門尉義村  宇佐美三郎右衛門尉助茂
 河越次郎重時      筑後左衛門尉八田知重
 下河邊四郎行時     伊東兵衛尉祐時
  狩猟用の着物〔二列〕
 佐貫四郎右衛門尉廣綱  三浦九郎左衛門尉胤義
 小野寺左衛門尉秀通   武藤左衛門尉頼茂
 宗左衛門尉孝親     島津左衛門尉忠久
 波多野小次郎中務丞忠綱 関左衛門尉政綱
 佐々木左近将監信綱   大江左衛門尉能範
 加藤左衛門大夫光員   山内首藤刑部大夫経俊
次に将軍実朝様の輿、相州義時さん・武州時房さん・陸奥守大江広元さん・大学頭源仲章さん、信濃守二階堂行光さん、大夫判官二階堂行村さん、小山左衛門尉朝政さん以下がお供をしました。その後ろのお供には、一万騎もおります。二度とないほどの壮観です。午後十時頃に帰りました。

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