承久二年庚辰(1220)十二月小
承久二年(1220)十二月小一日丁未。天顏快霽。午刻。若君着袴也。於大倉亭南面〔垂簾〕有其儀。武藏守泰時。足利武藏前司義氏。駿河守義村。小山左衛門尉朝政。千葉介胤綱以下着小侍。次中將實雅朝臣〔束帶〕。右京兆〔布衣〕。相州〔同〕等候東面弘廂。時尅。後藤左衛門尉基綱持裝束〔納廣蓋〕進于前。京兆結腰。二品扶持若君。次被獻兵具。劔武州。弓矢前武州。刀義村。甲〔盛唐櫃蓋〕朝政。宗政等舁之。馬三疋。一〔銀鞍。糸鞦〕朝光。家長引之。二〔鞍同上〕泰村。光村。三〔裸〕經朝。朝貞等引之。 |
読下し
てんがんかいせい うまのこく わかぎみ
ちゃっこ なり おおくらてい なんめん をい 〔みず た 〕 そ ぎ あ
承久二年(1220)十二月小一日丁未。天顏快霽。
午刻。若君の着袴@也。 大倉亭 南面に於て〔簾を垂る〕其の儀有り。
むさしのかみやすとき あしかがむさしのぜんじよしうじ するがのかみよしむら おやまのさえもんのじょうともまさ ちばのすけたねつな いげ こさむらい つ
武藏守泰時、
足利武藏前司義氏、 駿河守義村、 小山左衛門尉朝政、
千葉介胤綱 以下小侍に着く。
つい ちうじょうさねまさあそん 〔そくたい〕 うけいちょう 〔 ほい 〕 そうしゅう 〔おな 〕 ら とうめん ひろびさし そうら
次で中將實雅朝臣〔束帶〕右京兆〔布衣〕相州〔同じ〕等東面の弘廂Aに候う。
じこく ごとうのさえもんのじょうもとつな
しょうぞく も 〔ひろぶた おさ 〕 まえに すす
けいちょうこし ゆわ にほん わかぎみ ふち
時尅に、後藤左衛門尉基綱裝束を持ち〔廣蓋に納む〕前于進む。京兆腰を結う。二品若君を扶持す。
つい へいぐ けん られ
つるぎ ぶしゅう ゆみや
さきのぶしゅう かたな よしむら かぶと 〔からびつ ふた も 〕 ともまさ みねまさら
これ ひ
次で兵具を獻ぜ被る。劔は武州。弓矢は前武州。
刀は義村。 甲は〔唐櫃の蓋に盛る〕朝政、宗政等之を舁く。
うまさんびき いち 〔ぎん くら いと しりがい〕
ともみつ いえながこれ ひ に 〔
くら うえ おな 〕 やすむら
みつむら さん 〔はだか〕 つねとも
ともさだら これ ひ
馬三疋。一は〔銀の鞍、糸の鞦〕朝光、家長之を引く。二は〔鞍上に同じ〕泰村、光村。三は〔裸〕經朝、朝貞等之を引く。
参考@着袴は、着袴の儀と云って、子が数えの五歳のときに初めて袴を着る儀式。袴の色は濃い赤紫色。袴を着けた子供が碁盤に上がり飛び降りる。
参考A弘廂は、濡れ縁。寝殿造りで、母屋と庇の外側にある吹き放ちの部分。孫庇に相当する。庇より長押(なげし)一本分だけ床が低くなっている。広縁。広軒。
現代語承久二年(1220)十二月小一日丁未。空は快晴です。昼頃に若君の袴はきの儀式です。大倉亭の南面で〔御簾を垂れる〕その儀式がありました。武蔵守泰時。前武蔵守足利義氏・駿河守三浦義村・小山左衛門尉朝政・千葉介胤綱以下が三寅用の侍詰所に着席しました。ついで中将一条実雅さん〔衣冠束帯〕・右京兆北条義時さん〔狩衣〕・相州北条時房さん〔同〕などが東面の濡れ縁に座りました。予定時間に、後藤左衛門尉基綱が、衣装〔広い蓋つきの箱入り〕を持って前へ進みます。右京兆義時さんが腰ひもを結わえました。二位家政子様が若君を手伝いました。ついで、武具を献上しました。太刀は武州泰時。弓矢は前武州足利義氏。刀は三浦義村。兜〔唐櫃の蓋の上に載せる〕は小山朝政と長沼宗政が唐櫃をひいてきました。馬は三頭。一番目は〔銀飾りの鞍と糸のしりがい〕結城朝光と中条家長。二番目は〔鞍は同じ〕三浦泰村と弟の光村。三番目は〔裸馬〕波多野経朝と同朝定がこれを引いてきました。
承久二年(1220)十二月小二日戊午。寅刻地震。同時。永福寺内僧坊兩三宇燒失。」今日。小山左衛門尉朝政爲使節上洛。着袴無事所令啓也。 |
読下し
とらのこく
ぢしん おな
とき ようふくじない そうぼう りょうさんう しょうしつ
承久二年(1220)十二月小二日戊午。寅刻地震。同じ時、永福寺内の僧坊
兩三宇 燒失す。」
きょう おやまのさえもんのじょうとももまさ しせつ な じょうらく
ちゃっこ ぶじ もうせし ところなり
今日、
小山左衛門尉朝政 使節と爲し上洛す。着袴の無事を啓令む@所也。
参考@着袴の無事を啓令むは、九条道家へ報告した。
現代語承久二年(1220)十二月小二日戊午。午前四時頃地震です。同じ時刻に永福寺内の坊さんの宿舎三軒が燃えました。今日、小山左衛門尉朝政が派遣員として京都へ上ります。着袴の儀式が無事済んだことを道家さんに報告のためです。
承久二年(1220)十二月小四日壬申。戌剋燒亡。民部大夫行盛。内藤左衛門尉盛家等宅災。去今年鎌倉中火事無絶。纔雖有遲速。遂無免所。匪直也事歟。 |
読下し
いぬのこく
しょうぼう みんぶのたいふゆきもり ないとうさえもんのじょうもりいえ
ら たくわざわい
承久二年(1220)十二月小四日壬申。戌剋
燒亡す。民部大夫行盛、内藤左衛門尉盛家 等の宅災す。
ここんねん かまくらちう かじ たえな わずか ちそく あ いへど つい のが ところな
ただなること あらざ か
去今年、鎌倉中火事が絶無し。纔に遲速有りと雖も、遂に免れる所無し。直也事に匪る歟。
現代語承久二年(1220)十二月小四日壬申。午後八時頃火事がありました。民部大夫二階堂行盛・内藤左衛門尉盛家などの家が焼けました。去年と今年、鎌倉中で火事が絶えません。遅いか早いかの違いだけで、逃れたところはありません。尋常な事ではありませんね。
承久二年(1220)十二月小十五日癸未。大慈寺舎利會如例。二品并京兆參堂。 |
読下し
だいじじ
しゃりえ れい ごと にほん
なら けいちょうさんどう
承久二年(1220)十二月小十五日癸未。大慈寺舎利會例の如し。二品并びに京兆參堂す。
現代語承久二年(1220)十二月小十五日癸未。大慈寺でのお釈迦様を讃える舎利会はいつもの通りです。二位家政子様と京兆義時様もお参りです。
承久二年(1220)十二月小廿日戊子。惟信使下着。去八日建大内殿舎。上卿源大納言通具。參議公頼。右中辨頼資。右少辨光俊等着行事所。大夫史國宗。六位史檢非違使章重等奉行云々。是頼茂朝臣追討之時火災之間。所被新造也云云。 |
読下し
これのぶ
つか げちゃく さんぬ ようか だいだい
でんしゃた しょうけい みなもとだいなごんみちふさ
承久二年(1220)十二月小廿日戊子。惟信が使い下着す。去る八日大内
殿舎建つ。上卿は源大納言通具。
さんぎきんより うちうべんよりすけ うしょうべん「みつとしら ぎょうじしょ つ たいふさかんくにむね ろくいさかんけびいしあきしげら
ぶぎょう うんぬん
參議公頼、右中辨頼資、右少辨光俊等行事所に着く。大夫史國宗、六位史檢非違使章重等奉行すと云々。
これ よりしげあそん
ついとうの
とき かさいのあいだ しんぞうされ ところなり うんぬん
是、頼茂朝臣追討之時火災之間、新造被る所也と云云。
現代語承久二年(1220)十二月小二十日戊子。大内惟信の使いが京都から着いて、「先日の八日に大内裏の建物が建ちました。指導者は、源大納言通具さん。参議の藤原公頼・右中弁頼資・右少弁葉室光俊などが監督所に座りました。大夫小槻国宗と六位史検非違使中原章重が進行差配しました。」とさ。これは去年7月13日の右馬権頭源頼茂さんをやっつけた時の火災で燃えたので、新築しているのです。
承久二年(1220)十二月小廿七日乙未。小山左衛門尉自京都下着。 |
読下し
おやまのさえもんのじょう きょうと
よ げちゃく
承久二年(1220)十二月小廿七日乙未。小山左衛門尉、京都自り下着す。
現代語承久二年(1220)十二月小二十七日乙未。小山左衛門尉朝政が、京都から帰って来ました。
承久二年(1220)十二月小廿九日丁酉。天霽夜靜。此兩三月。無潤地之雨。又雪不降。 |
読下し
そらはれよるしずか こ りょうさんつき ち うる
のあめ な また ゆき ふらず
承久二年(1220)十二月小廿九日丁酉。天霽夜靜。
此の兩三月、地を潤おす之雨無し。又、雪も不降。
現代語承久二年(1220)十二月小二十九日丁酉。空は晴れて夜は静かです。この二三か月、地面を潤すほどの雨が降っていません。又、雪も降りません。