吾妻鏡入門第廿六巻

貞應二年癸未(1223)十月小

貞應二年(1223)十月小一日庚午。北陸道守護成敗條々事。聊依有違聞之間。殊可令尋沙汰之由。被仰式部丞朝時主云々。

読下し                   ほくろくどう しゅご  せいばい じょうじょう こと  いささ いぶん あ     よ  のあいだ
貞應二年(1223)十月小一日庚午。北陸道守護@の成敗の條々の事、聊か違聞A有るに依る之間、

こと  たず   さた せし  べ   のよししきぶのじょうともときぬし  おお  られ    うんぬん
殊に尋ね沙汰令む可き之由、式部丞 朝時主に仰せ被ると云々。

参考@北陸道守護は、越前が島津忠久、越後が義時、若狭が島津忠時(忠久の子)、加賀・能登・佐渡・越中が朝時。
参考A
違聞は、良くない評判。

現代語貞應二年(1223)十月小一日庚午。北陸道の守護の権限行為で決められた事以外に、行っている良くない評判があるので、特に問い合わせて処分するように、式部丞朝時さんに命じられましたとさ。

貞應二年(1223)十月小四日癸酉。奥州依請被向駿河前司義村田村別庄。苅田右衛門尉已下多以參會云々。駿河守相催人々候若君御方。

読下し                   おうしゅう う    よっ  するがのぜんじよしむら  たむらべっそう  むか  れる
貞應二年(1223)十月小四日癸酉。奥州請けに依て駿河前司義村が田村別庄@に向は被。

かりたのうえもんのじょう いげ おお  もっ  さんかい    うんぬん
苅田右衛門尉A已下多く以て參會すと云々。

するがのかみ ひとびと あいもよお  わかぎみ おんかた そうら
 駿河守は人々 を相催し 若君の御方に候う。

参考@田村別庄は、神奈川県平塚市田村。
参考A苅田は、横山党。かつて和田太郎義盛の猶子。

現代語貞應二年(1223)十月小四日癸酉。奥州義時さんは、招待されて駿河前司三浦義村の田村の別荘に向われました。苅田右衛門尉義季を始めとする多くの者が行き合わせました。駿河守重時は、人々を呼び集めて、若君のそばに居ました。

貞應二年(1223)十月小五日甲戌。若君出御壷給。去四月烏矢(失)之後。被止此事訖。而殊有興宴御志之由被申二品。令蒙許諾給云々。

読下し                   わかぎみ おんつぼ  い   たま    さんぬ しがつ からす しつののち  こ   こと  や  られをはんぬ
貞應二年(1223)十月小五日甲戌。若君、御壷に出で給ふ。去る四月 烏 失之後、此の事を止め被 訖。

しか    こと  きょうえん おこころざ  あ   のよし  にほん  もうされ  きょだく  こうむ せし  たま    うんぬん
而るに殊に興宴の御志し有る之由、二品に申被、許諾を蒙ら令め給ふ@と云々。

参考@二品に申被、許諾を蒙ら令め給ふは、尼将軍の許可を得た。

現代語貞應二年(1223)十月小五日甲戌。若君三寅は、坪庭に出られました。以前の四月に烏に運をかけられてから止めておりました。しかし、特に遊びたいからと二位家政子様に云って、承諾を得たからだそうな。

貞應二年(1223)十月小六日乙亥。奥州自田村令皈給。駿河前司扈從。直被參若君御方。以引出物馬〔黒駮一寸〕即被引進之。殊御賞翫云々。

読下し                   おうしゅう  たむらよ   かえ  せし  たま    するがのぜんじこしょう
貞應二年(1223)十月小六日乙亥。奥州、田村自り皈ら令め給ふ。駿河前司扈從す。

じき  わかぎみ おんかた  まいられ  ひきでもの  うま  〔くろぶち いっき 〕   もっ  すなは これ  ひ   すす  られ    こと  ごしょうがん  うんぬん
直に若君の御方へ參被、引出物の馬〔黒駮一寸@を以て即ち之を引き進め被る。殊に御賞翫と云々。

参考@一寸は、馬の体高は四尺を超えた分を一寸ごとに「いっき・にき」と呼ぶ。頼朝は八寸(やき)が好きだった。

現代語貞應二年(1223)十月小六日乙亥。奥州義時さんが田村から帰られました。三浦義村がお供をしてきました。直接若君三寅の所へ参られ、引き出物に貰った馬〔黒ぶちで体高が四尺一寸123cm〕をすぐにこれを引いてきてお与えになりました。大喜びだそうな。

貞應二年(1223)十月小十三日壬午。爲駿河守奉行。撰可祗候近々之仁。被結番。号之近習番。
 一番駿河守    結城七郎兵衛尉
   三浦駿河三郎
 二番陸奥四郎   伊賀四郎左衛門尉
   宇佐美三郎兵衛尉
 三番陸奥五郎   伊賀六郎右衛門尉
   佐々木八郎
 四番陸奥六郎   佐々木右衛門三郎
   信濃次郎兵衛尉
 五番三浦駿河次郎 同四郎
   加藤六郎兵衛尉
 六番後藤左衛門尉 嶋津三郎兵衛尉
   伊藤六郎兵衛尉

読下し                     するがのかみ  ぶぎょう  な     ちかぢか  しこう すべ  のじん  えら    けちばんされ   これ きんじゅうばん ごう
貞應二年(1223)十月小十三日壬午。駿河守、奉行と爲し、近々に祗候可き之仁を撰び、結番被る。之を近習番と号す。

  いちばん するがのかみ              ゆきのしちろうひょうえのじょう
 一番 駿河守(重時)    結城七郎兵衛尉(朝廣)

         みううらのするがさぶろう
    三浦駿河三郎(長村)

   にばん  むつのしろう              いがのしろうさえもんのじょう
 二番 陸奥四郎(政村)   伊賀四郎左衛門尉(朝行)

         うさみのさぶろうひょうえのじょう
    宇佐美三郎兵衛尉

  さんばん  むつのごろう              いがのろくろううえもんのじょう
 三番 陸奥五郎(実泰)   伊賀六郎右衛門尉(光重)

         ささきのはちろう
    佐々木八郎(信朝)

  よんばん  むつのろくろう             ささきのうえもんさぶろう
 四番 陸奥六郎(有時)   佐々木右衛門三郎

         しなののじろうひょうえのじょう
    信濃次郎兵衛尉

   ごばん  みうらのするがじろう          おなじきしろう
 五番 三浦駿河次郎(泰村) 同四郎(家村)

         かとうのろくろうひょうえのじょう
    加藤六郎兵衛尉
(景長)

   にばん  ごとうのさえもんのじょう        しまづのさぶろうひょうえのじょう
 六番 後藤左衛門尉(基綱) 嶋津三郎兵衛尉(忠義)

         いとうのろくろうひょうえのじょう
    伊藤六郎兵衛尉(祐長)

現代語貞應二年(1223)十月小十三日壬午。駿河守重時が指揮担当して、若君三寅のおそば近くに仕える人々を選んで順番を決めました。これをおそば仕えの当番としました。

一番が、駿河守北条重時  結城七郎兵衛尉朝広
    三浦駿河三郎長村
二番が、陸奥四郎北条政村 伊賀四郎左衛門尉朝行
    宇佐美三郎兵衛尉
三番が、陸奥五郎北条実泰 伊賀六郎右衛門尉光重
    佐々木八郎信朝
四番が、陸奥六郎北条有時 佐々木右衛門三郎
    信濃次郎兵衛尉
五番が、三浦駿河次郎泰村 同三浦四郎家村
    加藤六郎兵衛尉景長
六番が、後藤左衛門尉基綱 島津三郎兵衛尉忠義
    伊藤六郎兵衛尉祐長

貞應二年(1223)十月小廿一日庚寅。佐々木兵衛太郎入道西仁申云。兒嶋宮御所警固事。改三男時秀。示付次男實秀訖云々。是兼日如此可致沙汰之由。被仰下之處。請文遲到。不叶物儀之旨。有御氣色云々。

読下し                      ささきのひょうえたろうにゅうどうさいじん もう    い
貞應二年(1223)十月小廿一日庚寅。佐々木兵衛太郎入道西仁申して云はく。

こじまのみや ごしょけいご  こと  さんなんときすえ あらた   じなん さねひで しめ  つ をはんぬ うんぬん
兒嶋宮@御所警固の事、三男時秀を改め、次男實秀に示し付け訖と云々。

これ  けんじつ かく  ごと   さた いた  べ   のよし  おお  くだされ のところ  うけぶみおそ いた    ぶつぎ  かな  ざるのむね  みけしき あ    うんぬん
是、兼日 此の如く沙汰致す可き之由、仰せ下被る之處、請文遲く到り、物儀に叶は不之旨、御氣色有りAと云々

参考@兒嶋宮は、頼仁親王、後鳥羽上皇の子。
参考A
御氣色有りは、義時カ?政子カ?

現代語貞應二年(1223)十月小二十一日庚寅。佐々木兵衛太郎入道西仁(信実)が申し出たのは、「児島宮頼仁親王の警備ついて、三男時秀を変えて次男の実秀を指名しました。」との事です。これは、先日そのように処理するように仰せになられたのに、文書の提出が遅くなり理屈に合わなくなってしまったじゃないかと、御機嫌を損ねてしまいましたとさ。

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