吾妻鏡入門吾妻鏡脱漏

嘉祿二年丙戌(1226)二月大

嘉祿二年(1226)二月大一日丙戌。霽。辰刻。鶴岳八幡宮恒例御神樂之間。上宮神殿戸不開而及數刻。仍神主子細申之。武州太有御怖畏。被召尋陰陽師等。如辰時者。神事不淨不信之上。可被愼火事之由占申之。

読下し                   はれ  たつのこく つるがおかはちまんぐう こうれい  おかぐらのあいだ  じょうぐううしんでん  と ひらかず て すうこく  およ
嘉祿二年(1226)二月大一日丙戌。霽。辰刻。 鶴岳八幡宮 恒例の御神樂之間、 上宮神殿 の戸開不し而數刻@に及ぶ。

よって かんぬし  しさい   これ  もう    ぶしゅうはなは おんふい あ     おんみょうじら  めしたず  られ
仍て神主が子細、之を申す。武州太だ御怖畏有り。陰陽師等を召尋ね被る。

たつのこく ごと  は   しんじ ふじょうふしんの うえ   かじ   しず  られ  べ   のよしこれ  うらな もう
辰時の如き者、神事不淨不信之上、火事を愼め被る可し之由之を占い申す。

参考@數刻は、時は2時間だが、刻は1日を48等分する単位で、30分と考える。他に36等分もある。数刻なので1時間から1時間半くらいと思われる。2時間過ぎれば一時以上と書くであろう。(今迄数時間と書いていたのを訂正する20150921)

現代語嘉祿二年(1226)二月大一日丙戌。晴れました。辰の刻午前八時頃、鶴岡八幡宮で恒例のお神楽を奉納している最中に、上宮神殿の扉が開かなくて1時間程もたちました。それなので、神主が状況を説明しました。
泰時さんは、何か悪い予兆ではないかと恐れて、陰陽師を呼んで尋ねました。「辰の時間は、神事は、不浄不信をきらいますので、火事に気を付けるように。」と占って報告しました。

嘉祿二年(1226)二月大五日庚寅。リ。被行天變御祈。七曜供法眼珍譽。北斗供法橋珍瑜。

読下し                   はれ  てんぺん おいのり  おこな れる  しちようく   ほうげんちんよ   ほくとぐ   ほっきょうちんゆ
嘉祿二年(1226)二月大五日庚寅。リ。天變の御祈を行は被。七曜供@は法眼珍譽。北斗供は法橋珍瑜。

参考@七曜供は、一週間の日月火水目金土七天体信仰の護摩炊き。

現代語嘉祿二年(1226)二月大五日庚寅。晴れです。天の運航の異変による災害を静めるお祈りを行いました。七曜(日月火水木金土)供は法眼珍与。北斗七星の供養は法橋珍愉です。

嘉祿二年(1226)二月大九日甲午。リ。御祈等重被行之。天地災変。属星。月曜。熒惑。歳星。太白星。填星等祭也。

読下し                   はれ  おいのりら かさ    これ  おこな れる  てんさいちへん ぞくしょう がちよう  けいこく  さいせい  たいはく  てんせいら まつりなり
嘉祿二年(1226)二月大九日甲午。リ。御祈等重ねて之を行は被。天地災変。属星。月曜。熒惑。歳星。太白星。填星等の祭也。

現代語嘉祿二年(1226)二月大九日甲午。晴れです。天の運航の異変による災害を静めるお祈りを続けて行いました。天地災変祭・属星祭・月曜祭・螢惑星祭(火星)・歳星祭(木星)・太白星祭(金星)・填星祭(土星)です。

嘉祿二年(1226)二月大十三日戊戌。佐々木四郎左衛門尉信綱自京都歸參。正月廿七日有將軍 宣下。又任右近衛少將。令敍正五位下給。是下名除目之次也云云。其除書等持參之。

読下し                      ささきのしろうさえもんのじょうのぶつな きょうと よ   きさん     しょうがつにじうしちに しょうぐんせんげ あ
嘉祿二年(1226)二月大十三日戊戌。佐々木四郎左衛門尉信綱京都自り歸參す。正月廿七日に 將軍宣下@有り。

また  うこのえのしょうしょう にん    しょうごいげ   じょせし  たま    これ  おりなじもく の つい  なり  うんぬん  そ   じしょら これ  じさん
又、右近衛少將に任じ、正五位下に敍令め給ふ。是、下名除目A之次で也と云云。其の除書等之を持參す。

参考@將軍宣下は、征夷大将軍の宣下。
参考A下名除目は、四位以下の除目。正月の五、六、七日にする。式部省から兵部省へ名簿を下すので「下名」と呼ばれる。除目は春が県召(あがためし)で介(すけ)掾(じょう)目(さかん)、秋は司召(つかさめし)で守の国司。

現代語嘉祿二年(1226)二月大十三日戊戌。佐々木四郎左衛門尉信綱が擧途から帰って来ました。1月27日に征夷大将軍を与えられました。又、右近衛少将に任命され、正五位下を与えられました。これは、四位以下の人事異動で正月の5〜7日に行われたついでです。その辞令を持って来ました。

嘉祿二年(1226)二月大十四日己亥。リ。信綱依召參御所。賜御劔。使節勤仕之故也。武州令授之給云云。

読下し                     はれ  のぶつなめし  よっ  ごしょ  まい    ぎょけん  たま      しせつきんじのゆえなり
嘉祿二年(1226)二月大十四日己亥。リ。信綱召に依て御所へ參る。御劔を賜はる。使節勤仕之故也。

ぶしゅうこれ  さず  せし  たま    うんぬん
武州之を授け令め給ふと云云。

現代語嘉祿二年(1226)二月大十四日己亥。晴れです。佐々木信綱が呼ばれて御所へ来ました。刀を与えられました。これは京都へ派遣され勤めて来た褒美です。泰時さんが手渡しをしたんだそうな。

嘉祿二年(1226)二月大十七日壬寅。陰。風少吹。四方暗而如霧霞。自午刻及晩景。士女稱之高塩。北風也。非其儀歟云云。

読下し                      くもり  かぜすこ  ふ     しほう くら  て きりかすみ ごと    うまのこくよ  ばんけい  およ
嘉祿二年(1226)二月大十七日壬寅。陰。風少し吹く。四方暗く而霧霞の如し。午刻自り晩景に及ぶ。

しじょ これ  たかしお  しょう   ならい なり  そ   ぎ   あらざ か   うんぬん
士女之を高塩@と稱す。北風A也。其の儀に非る歟と云云。

参考@高塩は、海風。
参考A
北風(ならい)は、北西からの冬の季節風を さす風の地方名で,東日本の太平洋側(三陸海岸から紀伊半島東側まで)の各地で知られている。

現代語嘉祿二年(1226)二月大十七日壬寅。曇りです。風が少々吹いて、辺りが薄暗くなって霧か霞のようです。正午頃から夕方までです。世間の人はこれを高潮だと云ってます。北風です。高潮じゃないんじゃないのかなあー。

参考定家の明月記二月二十七日条に、六波羅の武士来る。関東執権、婿をとるという事有り。武州の女が相州嫡男四郎朝直に。光宗の女があるので頻りに固辞す。父母懇切にこれを進む。三月九日条に、武州女の結婚の事、四郎朝直固辞す。既にがうがう。分に有らず。しかれども出家をなさんとす。本妻との離別を悲しむ。(三年後に泰時女との間に子が出来る)

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