文暦二年乙未(1235)五月小
文暦二年(1235)五月小一日癸巳。巳刻地震。 |
読下し みのこく ぢしん
文暦二年(1235)五月小一日癸巳。巳刻地震。
現代語文暦二年(1235)五月小一日癸巳。午前10時頃地震です。
文暦二年(1235)五月小三日乙未。午刻地震。 |
読下し うまのこく
ぢしん
文暦二年(1235)五月小三日乙未。午刻地震。
現代語文暦二年(1235)五月小三日乙未。昼頃に地震です。
文暦二年(1235)五月小四日丙申。戌刻地震。隱岐四郎左衛門尉自京都參着。 |
読下し いぬのこく
ぢしん おきのしろうさえもんのじょう きょうと よ
さんちゃく
文暦二年(1235)五月小四日丙申。戌刻地震。隱岐四郎左衛門尉京都自り參着す。
現代語文暦二年(1235)五月小四日丙申。午後八時頃に地震です。隠岐四郎左衛門尉二階堂行久が、派遣先の京都から帰って来ました。
文暦二年(1235)五月小五日丁酉。午刻地震。今日。鶴崗八幡宮神事也。將軍家無御參。武州爲奉幣御使參給。 |
読下し うまのこく
ぢしん きょう つるがおかはちまんぐう
しんじなり
文暦二年(1235)五月小五日丁酉。午刻地震。今日、
鶴崗八幡宮 神事也。
しょうぐんけぎょさんな ぶしゅうほうへい おんし な まい
たま
將軍家御參無し。武州奉幣の御使と爲し參り給ふ。
現代語文暦二年(1235)五月小五日丁酉。昼頃に地震です。今日、鶴岡八幡宮の端午の節句の神事です。将軍頼経様のお参りはありません。武州北条泰時さんが代参しました。
文暦二年(1235)五月小七日己亥。午刻地震。 |
読下し うまのこく
ぢしん
文暦二年(1235)五月小七日己亥。午刻地震。
現代語文暦二年(1235)五月小七日己亥。昼頃に地震です。
文暦二年(1235)五月小八日庚子。依天変地祓事。可被行御祈祷徳政等之由。内々有其沙汰。連日地震事。未有此例之由。古老之所談也。 |
読下し
てんぺんちよう こと よっ ごきとう とくせいら おこなはれ べ のよし ないない
そ さた あ
文暦二年(1235)五月小八日庚子。天変地妖の事に依て、御祈祷徳政等を行被る可き之由、内々に其の沙汰有り。
れんじつ ぢしん こと いま かく れいあ のよし ころうの だん ところなり
連日の地震の事、未だ此の例有らず之由、古老之談ずる所也。
現代語文暦二年(1235)五月小八日庚子。天の異変や、地の怪しの地震について、御祈祷や良い政治の発令などを行った方が良いか、内々に検討が命じられました。連日の地震について、未だにそのような例はなかったと古老たちが云っているからです。
文暦二年(1235)五月小十三日乙巳。京中數ケ所有空地之由。聞食及之間。於關東御家人給分者。以使者加巡檢。今年中可搆屋舎之由。面々可相催之旨。今日被仰六波羅。若致懈怠者。可宛給他人云々。是且似洛陽荒廢。且有強盜警固煩之由。依御沙汰如此。 |
読下し けいちう すうかしょ あきち あ のよし き め およ のあいだ かんとうごけにん きゅぶん をい は
文暦二年(1235)五月小十三日乙巳。京中に數ケ所の空地有る之由、聞こし食し及ぶ之間、關東御家人の給分に於て者、
ししゃ
もっ じゅんけん くは ことしじゅう おくしゃ かま べ のよし めんめん あいもよお べ
のむね きょう ろくはら
おお られ
使者を以て巡檢を加へ、今年中に屋舎を搆へる可き之由、面々に相催す可き之旨、今日六波羅へ仰せ被る。
も けたいいた ば ほか
ひと あてたま べ うんぬん
若し懈怠致さ者、他の人に宛給ふ可きと云々。
これ かつう らくよう こうはい に かつう ごうとうけいご わずら あ のよし ごさた よっ かく ごと
是、且は洛陽の荒廢に似て、且は強盜警固の煩ひ有る之由、御沙汰に依て此の如し。
現代語文暦二年(1235)五月小十三日乙巳。京都の街中に数か所の空地があるので、物騒だとお耳に入ったので、関東の御家人への配分については、代官を派遣して調査をさせ、今年中に屋敷を建設するように、それぞれに言い渡すようにと、六波羅探題へ命令しました。もし、建設をぐずぐずしている奴がいれば、他の者に与えてしまうようにとのことでした。それは、一つは京の都が荒廃すれば、盗人どもがはびこり、治安の維持が大変になってしまうからとのご判断によるものです。
文暦二年(1235)五月小十五日丁未。土屋左衛門尉平宗光卒〔年五十二〕。 |
読下し つちやのさえもんのじょうたいらのむねみつ
そっ 〔 としごじうに 〕
文暦二年(1235)五月小十五日丁未。
土屋左衛門尉平宗光 卒す。〔年五十二〕
現代語文暦二年(1235)五月小十五日丁未。桓武平氏の土屋左衛門尉宗光が亡くなりました。歳は52才です。
文暦二年(1235)五月小十六日戊申。石C水八幡宮別當法印幸C申。於宮寺領山城國今移薪御園兩所。可被置守護人。是惡黨等不憚男山境内。或射猪鹿。或企強盜。不可不禁云々。就譜第之寄。可令守護之旨。今日被仰付下総守源保茂云々。 |
読下し いわしみずはちまんぐう
べっとう ほういんこうせい もう
文暦二年(1235)五月小十六日戊申。石C水八幡宮
別當 法印幸C 申す。
ぐうじりょう
やましろのくに いまい
まきのみそのりょうしょ をい しゅごにん おかれるべし
宮寺領 山城國 今移@薪御園A兩所に於て、守護人Bを置被可。
これ あくとうら
おとこやまけいだい はばか ず ある いのしし
しか い ある ごうとう
くはだ いまし ざるべからず うんぬん
是、惡黨等
男山境内を
憚ら不。或ひは猪 鹿を射て、或ひは強盜を企て、禁め不不可と云々。
ふだいの よせ つ しゅごせし べ のむね きょう
しもふさのかみ みなもとのやすもち おお つ
られ うんぬん
譜第之寄に就き、守護令む可き之旨、今日
下総守 源保茂C に仰せ付け被ると云々。
参考@今移は、京田辺市大住。Yahooの地図で今井を検索すると大住にあたる。二十三日条で大住とある。
参考A薪御園は、京田辺市薪。
参考B守護人は、地頭を指すのであろう。
参考C源保茂は、頼光系。大阪府茨木市五十鈴町9−21溝咋神社周辺。
現代語文暦二年(1235)五月小十六日戊申。石清水八幡宮筆頭の法印幸清が訴えてきました。「八幡宮寺の領地の京田辺市大住今井・畑荘園の薪御園の二か所で、地頭が置かれています。この荒くれどもが八幡宮の境内にもかかわらず、猪や鹿を討つ殺生をしたり、又強盗をしたりして、神域の禁止事項を守りません。」との事です。頼光系源氏なので、管理するように、今日下総守源保茂に命じられましたとさ。
文暦二年(1235)五月小廿二日甲寅。上野介藤原朝光加評定衆云々。 |
読下し こうづけのすけ
ふじわらのともみつ
ひょうじょうしゅう くは うんぬん
文暦二年(1235)五月小廿二日甲寅。
上野介 藤原朝光、 評定衆
に加うると云々。
現代語文暦二年(1235)五月二十二日甲寅。上野介秀郷流藤原氏出身の結城朝光を政務会議メンバーの評定衆に加えましたとさ。
文暦二年(1235)五月小廿三日乙夘。石C水八幡宮寺与興福寺有確執。及喧嘩等之間。可計沙汰之旨。被下院宣之由。自六波羅被馳申之。是薪。大住兩庄用水相論之故也云々。仍被經其沙汰。差遣御使。遂實檢。就左右。可有議定之趣。今日所被仰遣也。 |
読下し いわしみずはちまんぐうじ
と こうふくじ かくしつあ けんか ら
およ のあいだ はから さた すべ
のむね
文暦二年(1235)五月小廿三日乙夘。石C水八幡宮寺与興福寺確執有りて、喧嘩等に及ぶ之間、計ひ沙汰可し之旨、
いんぜん くださる のよし ろくはら よ これ
は もうされ これ
まき おおすみりょうしょう
ようすいそうろんの ゆえなり うんぬん
院宣を下被る之由、六波羅自り之を馳せ申被る。是、薪、
大住兩庄 用水相論之 故也と云々。
よっ そ さた へられ おんし さ つか じっけん を とこう つ ぎじょうあ べ
のおもむき きょう おお つか さる ところなり
仍て其の沙汰を經被、御使を差し遣はし、實檢を遂げ、左右に就き、議定有る可き之趣、今日仰せ遣は被る所也。
現代語文暦二年(1235)五月小二十三日乙卯。石清水八幡宮寺と興福寺とが衝突をして、喧嘩になりそうなので、なんとかしてほしいと後堀河院から命令書が出たと、六波羅探題からすっとんで行ってきました。これは薪荘と大住荘の水争いだそうです。そこでその検討をしたら、使いを派遣して実地検査をしたうえで、どちらかに決めるように検討をしなさいと、今日命じられたのです。
文暦二年(1235)五月小廿七日己未。奉爲故竹御所一廻御追善。武州被造立佛像。佛師肥後法橋云々。下山次郎入道。三澤藤次入道等爲奉行。 |
読下し こたけごしょいっかい ごついぜん おほんため ぶしゅう
ぶつぞう ぞうりゅうされ ぶっし ひごのほっきょう うんぬん
文暦二年(1235)五月小廿七日己未。故竹御所一廻の御追善の奉爲、
武州 佛像を造立被る。佛師は肥後法橋と云々。
しもやまのじろうにゅうどう みさわのとうじにゅうどうら ぶぎょうたり
下山次郎入道、三澤藤次入道等
奉行爲。
現代語文暦二年(1235)五月小二十七日己未。故竹御所の一周忌の追善供養のために、武州北条泰時さんは仏像を建立されました。仏師は肥後法橋だそうな。下山次郎入道と三沢藤次入道が担当です。