吾妻鏡入門第卅一巻  

嘉禎三年丁酉(1237)七月小

嘉禎三年(1237)七月小八日丁巳。就江右近次郎久康申請。可令授神樂歌曲於久康之旨。被遣御教書於左近將監中原景康。是爲鶴岳御神樂也。

読下し                    えのうこんじろうひさやす  もう  う     つ     かぐらかきょくを ひさやす  さず  せし  べ   のむね
嘉禎三年(1237)七月小八日丁巳。江右近次郎久康が申し請けに就き、神樂歌曲於久康に授け令む可き之旨、

みぎょうしょを さこんしょうげん なかはらのかげやす つか  さる    これつるがおか おかぐら  ためなり
御教書於左近將監 中原景康に 遣は被る。是 鶴岳の御神樂の爲也。

現代語嘉禎三年(1237)七月小八日丁巳。大江右近次郎久康の申し出があったので、お神楽の曲を久康に教え伝えるように、お手紙を左近将監中原景康に送りました。これは、鶴岡八幡宮のお神楽をやらせるためです。

嘉禎三年(1237)七月小十日己未。神樂曲可授久康事。景康進領状請文云々。

読下し                    かぐらきょく ひさやす  さず   べ   こと  かげやすりょうじょう うけぶみ  すす    うんぬん
嘉禎三年(1237)七月小十日己未。神樂曲を久康に授ける可き事、景康 領状の請文を進むと云々。

現代語嘉禎三年(1237)七月小十日己未。お神楽の曲を伝授しましょうと、景康が承知した旨の返事をよこしましたとさ。

嘉禎三年(1237)七月小十一日庚申。リ。二位家十三年御忌景也。於南小御堂。被修御佛事。導師東北院僧正圓玄。將軍家無出御。匠作。京兆參給。大夫判官景朝〔平礼茶染狩衣〕爲奉行。候御堂西大床。

読下し                     はれ   にいけ じうさんねん おんきけい なり  みなみこみどう  をい    おんぶつじ  しゅうさる
嘉禎三年(1237)七月小十一日庚申。リ。二位家十三年の御忌景@也。南小御堂に於て、御佛事を修被る。

どうし  とうほくいんそうじょうえんげん  しょうぐんけしゅつごな    しょうさく けいちょうさん たま
導師は東北院僧正圓玄。將軍家出御無し。匠作、京兆參じ給ふ。

たいふほうがんかえとも 〔 ひれ ちゃぞめ  かりぎぬ〕 ぶぎょう  な     みどうにし  おおゆか そうら
大夫判官景朝〔平礼茶染の狩衣〕奉行と爲し、御堂西の大床Aに候う。

参考@二位家十三年の御忌景は、政子の十三回忌。
参考A大床は、寝殿造りの簀子縁の内側の床。広庇(ひろびさし)。

現代語嘉禎三年(1237)七月小十一日庚申。晴れです。二位家政子様の十三回忌です。勝長寿院内の小さい方のお堂で法要を行いました。指導僧は東北院僧正円玄です。将軍頼経様の出席はありません。匠作時房さんと京兆泰時さんが参りました。大夫判官加藤景朝〔普段着茶色の狩衣〕が担当して、勝長寿院大堂の西の広庇に座りました。

嘉禎三年(1237)七月小十九日甲午。北條五郎時頼。始可被射來月放生會流鏑馬之間。此間初於鶴岳馬塲有其儀。今日。武州(泰時)爲扶持之。被出流鏑馬屋。駿河前司以下宿老等參集。于時招海野左衛門尉幸氏。被談子細。是舊勞之上。幕下將軍御代。爲八人射手之内歟。故實之堪能被知人之故歟。仍見射藝之失礼。可加諷諌之旨。武州(泰時)被示之。射手之躰尤神妙。凡爲生得堪能由。幸氏感申之。武州猶令問其失給。縡及再三。幸氏憖申之。挾箭之時。弓〔ヲ〕一文字〔ニ〕令持給事。雖非無其説。於故右大將家御前。被凝弓箭談議之時。一文字〔ニ〕弓〔ヲ〕持〔ツ〕事。諸人一同儀歟。然而佐藤兵衛尉憲C入道〔西行〕云。弓〔ヲバ〕拳〔ヨリ〕押立〔テ〕可引之樣〔ニ〕可持也。流鏑馬。矢〔ヲ〕挾之時。一文字〔ニ〕持事〔ハ〕非礼也者。倩案。此事殊勝也。一文字〔ニ〕持〔テバ〕。誠〔ニ〕弓〔ヲ〕引〔テ〕。即可射之躰〔ニハ〕不見。聊遲〔キ〕姿也。上〔ヲ〕少〔キ〕揚〔テ〕。水走〔リニ〕可持之由〔ヲ〕被仰下之間。下河邊〔行平〕工藤〔景光〕兩庄司。和田〔義盛〕望月〔重隆〕藤澤〔C親〕等三金吾。并諏方大夫〔盛隆〕愛甲三郎〔季隆〕等。頗甘心。各不及異議。承知訖。然者是計〔ヲ〕可被直歟者。義村云。此事令聞此説。思出訖。正觸耳事候〔キ〕。面白候〔ト〕云々。武州亦入興。弓持樣。向後可用此説云々。此後。閣其儀一向被談弓馬事。義村態遣使者於宿所。召寄子息等令聽之。流鏑馬笠懸以下作物故實。的草鹿等才學。大略究淵源。秉燭以後各退散云々。

読下し                     ほうじょうごろうときより  はじ    らいげつ  ほうじょうえ   やぶさめ   い られ  べ   のあいだ
嘉禎三年(1237)七月小十九日甲午。北條五郎時頼、始めて來月の放生會で流鏑馬を射被る可き之間、

かく あいだ  はじ   つるがおかばば  をい  そ   ぎ あ
此の間、初めて鶴岳馬塲に於て其の儀有り。

きょう   ぶしゅうこれ   ふち     ため   やぶさめや   いでらる   するがのぜんじ いげ  すくろうら さんしゅう
今日、武州之を扶持せん爲、流鏑馬屋に出被る。駿河前司以下の宿老等參集す。

ときに うんののさえもんのじょうゆきうじ  まね    しさい  だん  らる
時于海野左衛門尉幸氏@を招き、子細を談じ被る。

これ  きゅうろう のうえ  ばっかしょうぐん  みよ   はちにん  いて のうちたるか   こじつのたんのう  しられ  ひとののゆえか
是、舊勞A之上、幕下將軍の御代、八人の射手之内爲歟。故實之堪能を知被る人之故歟。

よっ  しゃげいのしつれい み     ふうかん  くわ  べ  のむね  ぶしゅうこれ  しめさる
仍て射藝之失礼を見て、諷諌を加う可き之旨、武州之を示被る。

 いて のていもっと しんみょう  およ しょうとく  たんのうたる  よし  ゆきうじこれ  かん  もう
射手之躰尤も神妙。凡そ生得の堪能爲の由、幸氏之を感じ申す。

ぶしゅうなお  そ   しつ  と   せし  たま    ことさいさん  およ    ゆきうじ なまじ    これ  もう
武州猶、其の失を問は令め給ふ。縡再三に及ぶ。幸氏 憖いに之を申す。

たばさやのとき  ゆみ 〔 を 〕 いちもんじ 〔 に 〕  も   せし  たま  こと  そ   せつ な    あらず いへど   こうだいしょうけ    ごぜん  をい
挾箭之時、弓〔ヲ〕一文字〔ニ〕持た令め給ふ事、其の説無きに非と雖も、故右大將家の御前に於て、

きゅうせん  だんぎ  こ   さる  のとき  いちもんじ 〔 に 〕 ゆみ 〔 を 〕 も  〔 つ 〕 こと  しょにんいちどう  ぎ か
弓箭の談議を凝ら被る之時、一文字〔ニ〕〔ヲ〕〔ツ〕事、諸人一同の儀歟。

しかれども さとうひょうえのじょうのりきよにゅうどう 〔さいぎょう〕 い
然而、 佐藤兵衛尉憲C入道 〔西行〕云はく。

ゆみ 〔 を 〕 こぶし 〔 より 〕 おしたて 〔 て 〕  ひ   べ   のさま 〔 に 〕 も   べ  なり
〔ヲバ〕〔ヨリ〕押立〔テ〕引く可き之樣〔ニ〕持つ可き也。

 やぶさめ     や  〔 を 〕 たばさ のとき  いちもんじ 〔 に 〕 も   こと 〔 は 〕 ひれいなりてへ
流鏑馬は、矢〔ヲ〕挾む之時、一文字〔ニ〕持つ事〔ハ〕非礼也者り。

つらつ あん        こ   こと しゅしょうなり
倩ら案ずるに、此の事 殊勝也。

いちもんじ 〔 に 〕 も  〔 てば 〕  まこと 〔 に 〕 ゆみ 〔 を 〕 ひい〔 て 〕   すなは い   べ   のてい 〔 には 〕  みえず  いささ おそ 〔 き 〕 すがたなり
一文字〔ニ〕〔テバ〕、〔ニ〕〔ヲ〕〔テ〕、即ち射る可き之躰〔ニハ〕見不、聊か遲〔キ〕姿也。

うえ 〔 を 〕 すくな 〔 き 〕 あげ 〔 て 〕   みずばし 〔 りに 〕  も   べ  のよし 〔 を 〕  おお  くださる  のあいだ
〔ヲ〕〔キ〕〔テ〕、水走〔リニ〕持つ可き之由〔ヲ〕仰せ下被る之間、

しもこうべ  〔ゆきひら〕  くどう  〔かげみつ〕 りょうしょうじ   わだ  〔よしもり〕 もちづき 〔しげたか〕 ふじさわ 〔きよちか〕 ら   さんきんご
下河邊〔行平〕工藤〔景光〕兩庄司、和田〔義盛〕望月〔重隆〕藤澤〔C親〕等の三金吾、

なら    すわのたいふ 〔もりたか〕 あいこうのさぶろう 〔すえたか〕 ら  すこぶ かんしん   おのおの いぎ  およばず  しょうち をはんぬ
并びに諏方大夫〔盛隆〕愛甲三郎〔季隆〕等、頗る甘心し、 各 異議に不及、承知し訖。

しからば  こ  はかり 〔 を 〕 なおさる  べ   か てへ
然者、是の計〔ヲ〕直被る可き歟者り。

よしむらい
義村云はく。

かく  こと こ  せつ  き   せし   おも  だ をはんぬ まさ  みみ  ふ     ことそうらい 〔 き 〕   おもしろ そうらう 〔 と 〕 うんぬん
此の事此の説を聞か令め、思い出し訖。正に耳に觸れる事候〔キ〕。面白き候〔ト〕云々。

ぶしゅうまたきょう い     ゆみ  もちざま   きょうこうかく せつ  もち    べ     うんぬん
武州亦興に入り、弓の持樣は、向後此の説を用ゐる可きと云々。

こ   のち  そ   ぎ   さしお いっこう きゅうば  こと  だん  らる
此の後、其の儀を閣き一向に弓馬の事を談じ被るC

よしむらわざ  ししゃを すくしょ  つか      しそくら    めしよ   これ  き   せし
義村態と使者於宿所に遣はし、子息等を召寄せ之を聽か令む。

 やぶさめ  かさがけ いげ  つくりもの  こじつ  まと  くさじしら   さいがく たいりゃくえんげん きわ   へいしょくいご おのおの たいさん   うんぬん
流鏑馬、笠懸以下の作物Bの故實、的の草鹿等の才學、大略淵源を究め、秉燭以後 各 退散すと云々。

参考@海野左衛門尉幸氏は、海野小太郎幸氏で寿永二年(1183)に清水義高のお供で鎌倉へ来た。諏訪神党で弓の名人。諏訪神党では四年に一度、白樺湖北「御射山」において射芸を競う。
参考A舊勞は、昔から良く尽くしてきた。
参考B作物は、的。
参考C
其の儀を閣き一向に弓馬の事を談じ被るは、弓の持ち方の話から、馬上弓の技術の話に転じた。

現代語嘉禎三年(1237)七月小十九日甲午。北条五郎時頼は、初めて来月の生き物を放って原罪する行事の放生会で流鏑馬を射る事になったので、最近初めて鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場でその練習がありました。今日、武州泰時さんが面倒を見るため、流鏑馬馬場の建物にお出でになりました。駿河前司三浦義村を始めとする長老達も集まりました。そこで弓の名人の海野左衛門尉幸氏を呼んで弓矢談義をしました。この人は、長老の上頼朝様の時代には、八人の弓の名人に入っていたからか。或いは昔からの弓矢の礼儀や作法に詳しい人だからでしょうか。それなので、「時頼の弓矢の作法がおかしかったら注意してほしい。」と、泰時さんはお願いしました。「いやいや、その態度はとてもちゃんとしているので、生まれ持った才能があるのでしょう。」と海野幸氏は感心して云いました。泰時さんはなおも、「まずい所を指摘してくれ。」と何度も云われるので、仕方なく海野幸氏は申しあげました。

「矢をつがえる時に、弓を一文字(水平)に持つということは、その方法もあるけど、頼朝様の御前で弓矢談義をした時に、一文字(水平)に弓を持つことに皆同意しました。しかし、西行の佐藤兵衛尉憲清入道が『弓をこぶしから押し立てて(垂直)引くように持つのです。流鏑馬で矢をつがえる時に水平に持つのは礼儀に反します。』と云いました。よくよく考えてみるとこれはあってます。『水平にもてば、確かに弓を引いてすぐに射るようには見えません。多少遅くなる感じです。弓の上を十分あげて、すぐに射ることが出来るように持つべきです。』と云ってくれたので、下河邊庄司行平・工藤庄司景光の両庄司、和田左衛門尉義盛・望月三郎重隆・藤澤二郎C親の三人の左衛門尉、それに諏方大夫盛澄・愛甲三郎季隆などが感心して、誰も反対論を出さず納得しました。そういう訳で、これ直すべきでしょう。」と云いました。

そしたら三浦義村が「今この話を聞いて、思い出しました。確かに聞いた事がありますよ。味のある話だ。」と云いました。

泰時さんは、大変感心して、「弓の持ち方は今後その説を採用しよう。」と云いました。
その後、話は弓の持ち方から馬上弓の技術の話に変わりました。義村は、わざわざ使いを屋敷へ行かせ、子供達を呼び寄せてこの話を聞かせました。流鏑馬や笠懸の的の由緒、的の草鹿の造り方など、弓矢の極意を出し尽くし、灯り時(日暮)になってそれぞれ帰りましたとさ。

嘉禎三年(1237)七月小廿五日庚子。北條左親衛潜赴藍澤。今日始獲鹿。即祭箭口餠。一口三浦泰村。二口小山長村。三口下河邊行光云々。

読下し                     ほうじょうさしんえい ひそか あいざわ おもむ  きょう はじ    しか  え     すなは やぐちもち  まつ
嘉禎三年(1237)七月小廿五日庚子。北條左親衛 潜に藍澤@へ赴く。今日始めて鹿を獲る。即ち箭口餠Aを祭る。

ひとくち みうらのやすむら ふたくち おやまのながむら みくち しもこうべのゆきみつ うんぬん
一口は三浦泰村。二口は小山長村。三口は下河邊行光と云々。

参考@藍澤は、静岡県御殿場市新橋鮎沢に鮎澤神社あり。東名御殿場インターのそば。
参考A箭口餠は、巻狩のお礼に神へ捧げ、射手がかじる。餅は三段重ねで上から黒、赤、白と重ねる。

現代語嘉禎三年(1237)七月小二十五日庚子。北条左近大夫将監経時は、非公式に御殿場の鮎沢へ出かけました。今日初めて鹿を射ました。すぐに巻狩りのお礼を神に捧げる矢口餅の儀式を行いました。一口目は三浦泰村、二口目は小山長村、三口目は下河辺行光だそうな。

嘉禎三年(1237)七月小廿九日戊寅。リ。明年御上洛事。被經御沙汰。今日京都使者參着。去十七日。鷹司院御入内。是御准母之儀也云々。

読下し                     はれ きょうねんごじょうらく  こと   ごさた    へ らる
嘉禎三年(1237)七月小廿九日戊寅。リ。明年御上洛の事、御沙汰を經被る。

きょう きょうと  ししゃさんちゃく    さんぬ じうしちにち たかつかさいんごじゅだい  これ ごじゅんぼ の ぎ なり  うんぬん
今日京都の使者參着す。去る十七日、 鷹司院 御入内。是御准母之儀也と云々。

現代語嘉禎三年(1237)七月小二十九日戊寅。晴れです。来年京都へ上ろうとお決めになりました。今日、京都からの使いが到着しました。先日の十七日に鷹司院長子が天皇家へ嫁ぎました。これは天皇の母の国母につぐ位に着いた儀式だそうな。

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