吾妻鏡入門第卅二巻

嘉禎四年戊戌(1238)四月小

嘉禎四年(1238)四月小二日丁未。若狹守泰村〔三浦〕。出羽守行義〔二階堂〕等被召加評定衆之由被仰下。各申領状云々。

読下し                   わかさのかみやすむら〔 みうら 〕   でわのかみゆきよし 〔 にかいどう 〕 ら ひょうじょうしゅう め  くは  らる  のよしおお  くださる
嘉禎四年(1238)四月小二日丁未。若狹守泰村〔三浦〕、出羽守行義〔二階堂〕等 評定衆に召し加へ被る之由仰せ下被る。

おのおの りょうじょう もう    うんぬん
 各 領状を申すと云々。

現代語嘉禎四年(1238)四月小二日丁未。若狭守三浦泰村・出羽守二階堂行義が、政務会議メンバーの評定衆に任命され加えるよう、仰せになりました。

嘉禎四年(1238)四月小六日辛亥。天霽。將軍家 勅授事 宣下云々。

読下し                   そらはれ  しょうぐんけ ちょくじゅ ことせんげ うんぬん
嘉禎四年(1238)四月小六日辛亥。天霽。將軍家勅授@の事宣下と云々。

参考@勅授は、五位以上で天皇から直接授けられる。この時は四条天皇。

現代語嘉禎四年(1238)四月小六日辛亥。空は晴れました。将軍頼経様が天皇から直接位が授けられると通達がありましたとさ。

嘉禎四年(1238)四月小七日壬子。リ陰。將軍家有大納言御拝賀之儀。扈從公卿殿上人連軒。前駈以下同中納言御拝賀之時云々。

読下し                   はれくも    しょうぐんけ だいなごん ごはいが のぎ あ     こしょう  くぎょう でんじょうびとのき  つら
嘉禎四年(1238)四月小七日壬子。リ陰り。將軍家、大納言御拝賀之儀有り。扈從の公卿 殿上人軒を連ぬ。

さきがけ いげ ちうなごん ごはいがの とき  おな    うんぬん
前駈以下中納言御拝賀之時に同じと云々。

現代語嘉禎四年(1238)四月小七日壬子。晴れたり曇ったりです。将軍頼経様は大納言を与えられたお礼参りの式がありました。お供の公卿や殿上人が大勢です。露払いを始めとする式典参加者は、中納言拝命のお礼参りの時と一緒だそうな。

嘉禎四年(1238)四月小九日甲寅。天リ。今日。天台座主〔茲源僧正。將軍家御舎弟〕御拝堂。

読下し                   そらはれ  きょう   てんだい ざす  〔 じげんそうじょう  しょうぐんけ  ごしゃてい 〕 おんはいどう
嘉禎四年(1238)四月小九日甲寅。天リ。今日、天台座主〔茲源僧正。將軍家の御舎弟〕御拝堂。

現代語嘉禎四年(1238)四月小九日甲寅。空は晴です。今日は、比叡山延暦寺筆頭の天台座主〔茲源僧正で将軍頼経様の弟です〕を訪ねました。

嘉禎四年(1238)四月小十日乙夘。天霽。一條殿御息若君〔福王公。將軍家御舎弟〕入室于仁和寺御室給。大殿御同車。君達右府〔良|〕幕下〔實|〕將軍家御扈從。後車雲客濟々焉。件若君。日來者將軍家御猶子也。忽被變其儀訖。臣下御入室。希代之例也。及晩還御。」戌刻。錦小路白河燒亡。數十宇災。其後小雨降。

読下し                   そらはれ  いちじょうどの おんそく わかぎみ 〔ふくおうぎみ  しょうぐんけごしゃてい〕   にんなじ おむろに にゅうしつ たま
嘉禎四年(1238)四月小十日乙夘。天霽。 一條殿@御息 若君〔福王公。將軍家御舎弟〕仁和寺御室于入室し給ふ。

おおとのごどうしゃ  きんだち うふ  〔よし  ざね〕 ばっか 〔さね  ちか〕 しょうぐんけおんこしょう  こうしゃ うんきゃく さいさい をはんぬ
大殿@御同車。君達右府〔良|〕幕下〔實|將軍家御扈從。後車に雲客 濟々 焉。

くだん わかぎみ ひごろは しょうぐんけ  ごゆうしなり  たちまち そ  ぎ   へん られをはんぬ  しんか  ごにゅうしつ    きだいの れいなり  ばん  およ  かえ  たま
件の若君、日來者將軍家の御猶子也。忽に其の儀を變じ被 訖。 臣下の御入室は、希代之例也。晩に及び還り御う。」

いぬのこく にしきこうじしらかわ しょうぼう    すうじうう わざわ     そ  ご こさめ ふ
戌刻、 錦小路白河 燒亡し、數十宇災いす。其の後小雨降る。

参考@一條殿大殿も、道家。

現代語嘉禎四年(1238)四月小十日乙卯。空は晴ました。一条殿九条道家の息子〔福王さん、将軍頼経様の弟〕仁和寺御室に入りました。大殿九条道家様は牛車に同乗して行きました。兄達の右大臣〔二条良実〕大将〔実親〕将軍頼経様がお供をしました。続く牛車に公卿たちが大勢です。この若君は、近頃将軍頼経様の相続権の無い養子の猶子です。武士になるかと思ったのに変えてしまいました。御室へ皇室以外の入室は稀な例です。晩になって六波羅へ帰りました。」
午後八時頃、錦小路と白川の交差点辺りで火事があり、数十軒が燃えました。その後小雨が降って来ました。

嘉禎四年(1238)四月小十一日丙辰。陰。及深更小雨降。今日將軍家直衣始。

読下し                      くも    しんそう  およ  こさめ ふ     きょう  しょうぐんけ のうしはじ
嘉禎四年(1238)四月小十一日丙辰。陰り。深更に及び小雨降る。今日、將軍家直衣始め。

現代語嘉禎四年(1238)四月小十一日丙辰。曇りです。夜中になって小雨が降りました。今日、将軍頼経様の直衣(正装)を着る儀式です。

嘉禎四年(1238)四月小十六日辛酉。天霽。賀茂祭也。將軍家御見物之間。毎事花美超例年。則御家人廷尉能行。家平。基政。頼業等渡大路。

読下し                     そらはれ  かものまつりなり しょうぐんけ ごけんぶつのあいだ  まいじ   かび れいねん  こ
嘉禎四年(1238)四月小十六日辛酉。天霽。賀茂祭也。將軍家 御見物之間、毎事の花美例年を超ゆ。

すなは ごけにん ていいよしゆき  いえひら  もとまさ よりなりら  おおじ  わた
則ち御家人廷尉能行、家平、基政、頼業等大路を渡る。

現代語嘉禎四年(1238)四月小十六日辛酉。空は晴ました。賀茂神社の祭礼賀茂祭、通称葵祭です。将軍頼経様は見物に行って見ると、全ての飾りなどの美しさは例年を越えてるそうです。御家人で検非違使の大江能行・中条家平・後藤基政・宇都宮頼業達が大路を練り歩いて行きました。

嘉禎四年(1238)四月小十八日癸亥。天霽。將軍家令辞權大納言給。

読下し                     そらはれ しょうぐんけ  ごんのだいなごん じ せし  たま
嘉禎四年(1238)四月小十八日癸亥。天霽。將軍家、權大納言を辞令め給ふ。

現代語嘉禎四年(1238)四月小十八日癸亥。空は晴ました。将軍頼経様は、権大納言を辞職しました。

嘉禎四年(1238)四月小廿四日己酉。雨降。一條大殿兵杖御辞退。被下准三后 宣旨。即又令辞之給云々。

読下し                      あめふ    いちじょうおおとの へいじょう  ごじたい   じゅんさんごう  せんじ   くださる
嘉禎四年(1238)四月小廿四日己酉。雨降る。 一條大殿@兵杖を御辞退す。准三后Aの宣旨を下被る。

すなは またこれ  じせし  たま    うんぬん
即ち又之を辞令め給ふと云々。

参考@一條大殿は、道家。
参考A
准三后は、皇后、大后、皇太后に準ずる。

現代語嘉禎四年(1238)四月小二十四日己酉。雨降りです。一条大殿九条道家さんは朝廷から配置されてる警備員を辞退しました。皇后・大后・皇太后に準ずる位を宣言されました。すぐにこれも辞退しました。

嘉禎四年(1238)四月小廿五日庚午。雨降。今日。一條大殿於法住寺殿被遂御素懷。御戒師飯室前大僧正〔良快。九條殿御息〕唄師岡崎法印成源。御剃手法印印圓。攝政殿以下濟々群參。將軍家令參御。

読下し                     あめふ     きょう   いちじょうおおとの ほうじゅじでん  をい  ごそかい  と   られ
嘉禎四年(1238)四月小廿五日庚午。雨降る。今日。 一條大殿 法住寺殿に於て御素懷を遂げ被る@

ごかいし  いいむろさきのだいそうじょう 〔りょうかい  くじょうどのおんそく〕
御戒師は飯室前大僧正〔良快。九條殿御息〕

ばいし  おかざきほういんせいげん おんそりて  ほういんいんえん  せっしょうどの いげ さいさい  ぐんさん   しょうぐんけまい  せし  たま
唄師は岡崎法印成源。 御剃手は 法印印圓。攝政殿A以下濟々と群參す。將軍家參ら令め御う。

参考@御素懷を遂げ被るは、念願かなって出家する。
参考A摂政殿は、近衛兼経。

現代語嘉禎四年(1238)四月小二十五日庚午。雨降りです。一条大殿九条道家さんは、法住寺殿(現東福寺)で念願かなって出家をしました。戒を与える指導僧は、飯室前大僧正良快。九条兼実さんの息子。称名を読誦する坊さんは岡崎法印成源。頭を剃る役は法印印円。摂政殿近衛兼経さん以下大勢が集まりました。将軍頼経様も参りました。

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