吾妻鏡入門第卅三巻

延應元年(暦仁二年)己亥(1239)二月大七日改元

暦仁二年(1239)二月大三日癸夘。於御所被始信讀大般若經。權少僧都澄弁奉仕云々。

読下し                   ごしょ   をい だいはんにゃきょう しんどく  はじ  らる   ごんのしょうそうづちょうべん ほうし     うんぬん
暦仁二年(1239)二月大三日癸夘。御所に於て大般若經の信讀@を始め被る。 權少僧都 澄弁 奉仕すと云々。

参考@信讀は、真読でお経ときちんと全部読むこと。略式を轉讀という。

現代語暦仁二年(1239)二月大三日癸卯。御所で大般若経のきちんと略さず読み上げる真読を始めました。権少僧都澄弁が勤めたんだとさ。

暦仁二年(1239)二月大四日甲辰。快霽。及夜半。雨雪降。雷電數聲。

読下し                   かいせい やはん およ    みぞれふ   らいめいすうこえ
暦仁二年(1239)二月大四日甲辰。快霽。夜半に及び、雨雪降る。雷電數聲。

現代語暦仁二年(1239)二月大四日甲辰。快晴です。夜中になって霙が降り、雷が数回鳴りました。

暦仁二年(1239)二月大五日乙巳。リ。酉刻雷雨甚。

読下し                   はれ とりのこく  らいう はなは
暦仁二年(1239)二月大五日乙巳。リ。 酉刻 雷雨 甚だし。

現代語暦仁二年(1239)二月大五日乙巳。晴れです。夕方の6時頃になって雷と大雨です。

延應元年(1239)二月大十四日甲寅。武藏國小机郷鳥山等荒野可開發水田之由。被仰大夫尉泰綱。」今日打止筥根山經會。是則別當興實与職衆等依及喧嘩也云々。

読下し                      むさしのくに こづくえごう とりやま ら   こうや  すいでん かいはつすべ のよし  たいふのじょうやすつな おお  らる
延應元年(1239)二月大十四日甲寅。 武藏國 小机郷@、鳥山A等の荒野に水田を開發可き之由、 大夫尉泰綱Bに 仰せ被る。」

参考@小机郷は、神奈川県横浜市港北区小机町。
参考A
鳥山は、神奈川県横浜市港北区鳥山町。双方隣接。双方ともに鶴見川氾濫原だったと思われる。
参考B大夫尉泰綱は、佐々木三郎泰綱。佐々木盛綱の陣屋が川崎市川崎区堀の内にあったとの伝承があるので、この辺りは佐々木が総地頭だったのであろう。

きょう   はこねやま  きょうえ  うちや    これすなは べっとうこうじつ と  しきしょう ら けんか  およ    よっ  なり  うんぬん
今日、筥根山、經會を打止む。是則ち別當興實 与 職衆C等喧嘩に及ぶに依て也と云々。

参考C別當興實与職衆は、筆頭坊主興実と役付き坊主。

現代語延応元年(1239)二月大十四日甲寅。武蔵國小机郷・鳥山等の荒れ野を水田に開墾すように、大夫尉佐々木三郎泰綱に仰せつけました。」
今日、箱根山箱根権現(現箱根神社)でのお経を上げる会が中止になりました。それは、筆頭坊主の興実と役付き坊主とが言い争いになったからだそうな。

延應元年(1239)二月大十六日丙辰。天リ。京都使者到着。去七日改元。改暦仁二年爲延應元年。經範朝臣撰進之云々。」又去月十九日。侍從僧正信惠入滅云々。去年九月廿四日。弁僧正定豪皈圓寂之後。爲彼替補東寺一長者云々。

読下し                     そらはれ きょうと  ししゃとうちゃく   さんぬ なぬかかいげん りゃくにんにねん あらた えんおうがんねん な
延應元年(1239)二月大十六日丙辰。天リ。京都の使者到着す。去る七日 改元、 暦仁二年を改め 延應元年と爲す。

つねのりあそん これ せんしん   うんぬん  また  さんぬ つきじうくにち  じじゅうそうじょう しんえ にゅうめつ  うんぬん
 經範朝臣 之を撰進すと云々。又、去る月 十九日、侍從僧正 信惠 入滅すと云々。

きょねんくがつにじうよっか べんのそうじょうていごう えんじゃく き  ののち  か   かえ  ためとうじ いちのちょうじゃ ぶ   うんぬん
去年 九月廿四日、 弁僧正定豪  圓寂に皈す之後、彼の替の爲東寺 一長者に補すと云々。

現代語延応元年(1239)二月大十六日丙辰。空は晴れです。京都からの使いが着きました。先日の七日に改元して、暦仁二年を延応元年としました。年号は経範さんが推薦したそうです。又、先月の十九日に侍従僧正信恵さんが亡くなったそうです。去年の九月二十四日に弁僧正定豪が涅槃に入った(亡くなった)ので、その代わりとして東寺の筆頭に任命されていたのだそうな。

延應元年(1239)二月大卅日庚午。御家人所帶事。知行歴年序之後。猶稱本領。有訴申輩之間。爲断如此濫訴。兼造式條之上。今更不及子細之由。有御沙汰云々。

読下し                   ごけにん   しょたい  こと  ちぎょうねんじょ  へ   ののち  なお ほんりょう しょう  うった もう    やからあ  のあいだ
延應元年(1239)二月大卅日庚午。御家人の所帶の事、知行年序を歴る之後、猶 本領と稱し@、訴へ申すの輩有る之間、

かく  ごと  らんそ  たた ため  かね しきじょう つく のうえ    いまさら しさい  およばず のよし  ごさた あ     うんぬん
此の如き濫訴を断ん爲、兼て式條Aを造る之上は、今更子細に不及之由、御沙汰有りと云々。

参考@猶本領と稱しは、恩領を本領と主張して。本領は質草になるが恩領は認められていないので。後に時頼は許し、北条時宗は否定するが、貞時の時代には崩れてしまう。
参考A式條は、御成敗式目。貞永元年(123二年)に制定されたため、貞永式目ともいう。

現代語延応元年(1239)二月大三十日庚午。鎌倉御家人の財産について、長く治めて来たのに、元の所有者だと云って訴えて来るものがいるけど、そのような乱暴な訴えをなくすために、あえて御成敗式目を作ってあるので、今さら取り上げる必要はないとの命令がありましたとさ。

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