吾妻鏡入門第卅三巻

延應元年己亥(1239)五月小

延應元年(1239)五月小一日庚午。人倫賣買事。向後被停止之。是飢饉比。不諧之族或沽却妻子所從。或寄其身於冨有之家。爲渡世計。仍以撫民之儀。無其沙汰之處。近年甲乙人面々訴訟。依有御成敗煩也。

読下し                   じんりんばいばい  こと  きょうこうこれ ちょうじさる
延應元年(1239)五月小一日庚午。人倫賣買の事、向後之を停止被る。

これ ききん ころ  ふかい のやからある   さいししょじゅう  こきゃく     ある    そ   み を ふゆう のいえ  よ     とせい  はかり  な
是飢饉の比、不諧@之族或ひは妻子所從を沽却Aし、或ひは其の身於冨有之家に寄せ、渡世の計と爲す。

よっ  ぶみん の ぎ   もっ    そ   さた な  のところ  きんねん とこうにんめんめん  そしょう   ごせいばい  わずら あ     よっ  なり
仍て撫民之儀を以て、其の沙汰無き之處、近年 甲乙人面々に訴訟し、御成敗の煩ひ有るに依て也。

参考@不諧は、生活が出来ない。
参考
A沽却は、売り払う事。

現代語延応元年(1239)五月小一日庚午。人身売買については、今後これを禁止する。これは飢饉の頃に、どうにも食っていけない連中が、或いは妻子や下部を売り払ってしまい。或いは自分自身を裕福な家に雇われて生活しようとしたことがあった。そこで、民を救うためにそういう措置をしてこなかったけれど、最近巷での人身売買に伴う訴訟が多くて、処理に手間がかかっているからです。

延應元年(1239)五月小二日辛未。五十嵐小豊次太郎惟重与遠江守朝時祗候人小見左衛門尉親家。日來有相論事。今日。於前武州御亭遂一决。亭主御不例雖未快。相扶之令聞食其是非云々〔以綿結御額。被懸鶏足〕。匠作渡御。主計頭師員。駿河前司義村以下評定衆等列參。是越中國々吉名事也。惟重則當所爲承久勳功之賞拝領之處。親家押領之由訴之。親家亦。惟重知行分者全不可亘惣名。親家知行來之旨陳之。及究問答。親家依難遁其過。前武州殊有御氣色。於當座召侍所司金窪左衛門大夫行親。可令預守護親家之由被仰付。又其子細被仰遣遠州。遠州頗令恐申給云々。

読下し                     いがらしことよじたろうこれしげ  と とおとうみのかみともとき しこうにん おみさえもんのじょうちかいえ
延應元年(1239)五月小二日辛未。五十嵐小豊次太郎惟重与@遠江守朝時Aが祗候人小見左衛門尉親家B

ひごろ そうろん  ことあ     きょう  さきのぶしゅう  おんてい  をい  いっけつ  と
日來相論の事有り。今日、前武州の御亭に於て一决を遂ぐ。

てい あるじ ごふれい いま こころよ     いへど    これ  あいたす  そ    ぜひ   き     め   せし    うんぬん
亭の主御不例未だ快からずと雖も、之を相扶け其の是非を聞こし食し令むと云々。

  〔わた  もっ  おんひたい むす    きょうそく  かけらる  〕
〔綿を以て御額を結び、鶏足に懸被る〕

しょうさくとぎょ   かぞえのかみもろかず するがのぜんじよしむら いげ ひょうじょうしゅうられっさん   これ えっちゅうのくに くによしみょう ことなり
匠作渡御す。主計頭師員、駿河前司義村以下の評定衆等列參す。是、 越中國々吉名Cの事也。

これしげ すなは とうしょ じょうきゅうくんこうのしょう  な  はいりょうのところ ちかいえ おうりょうのよしこれ  うった
 惟重 則ち當所は承久勳功之賞と爲し拝領之處、親家 押領之由之を訴へる。

ちかいえまた これしげ ちぎょうぶんは  まった そうみょう わた  べからず ちかいえ ちぎょう  きた  のむねこれ  ちん
親家亦、惟重の知行分者 全く 惣名に亘る不可。親家 知行し來る之旨之を陳ず。

もんどう  きは      およ    ちかいえそ  とが  のが  がた    よっ   さきのぶしゅうこと  みけしき あ
問答を究むるに及び、親家其の過を遁れ難きに依て、前武州殊に御氣色有り。

とうざ   をい さむらいしょし かなくぼさえもんたいふゆきちか  め     ちかいえ  あずか しゅごせし  べ    のよしおお  つ   らる
當座に於て侍所司金窪左衛門大夫行親を召し、親家を預り守護令む可し之由仰せ付け被る。

また  そ   しさい  えんしゅう おお  つか  さる   えんしゅうすこぶ おそ もうせし  たま    うんぬん
又、其の子細を遠州に仰せ遣は被る。遠州頗る恐れ申令め給ふと云々。

参考@五十嵐小豊次太郎惟重は、21巻建暦3年(1213)五月2日の和田合戦で朝比奈義秀に殺された五十嵐小豊次の息子であろう。
参考A朝時(1193-1245)は、義時の次男で名越流北条氏。その子孫は得宗家に対し反発心が強い。
参考
B小見左衛門尉親家は、富山県富山市小見。
参考C国吉名は、富山県高岡市国吉。但し隣の佐加野に国吉小中学校郵便局があるので、現町名より広かったことが伺われる。

現代語延応元年(1239)五月小二日辛未。五十嵐小豊次太郎惟重と遠江守北条朝時に仕えている小見左衛門尉親家と、領地争いの裁判沙汰が起こっています。
今日、前武州泰時さんの前で対決をさせました。
泰時さんは病気が良くないのですが、押してことの是非をお聞きになりましたとさ。〔綿を額に巻いて、脇息に寄りかかってます〕。時房さんもやって来ました。主計頭中原師員、駿河前司三浦義村を始めとする政務会議のメンバーが集まりました。
訴訟の地は、越中國国吉名
(富山県高岡市国吉)の事です。ここは、惟重が承久合戰の手柄として与えられた土地なのに、親家が横取りしてきたと訴えています。
親家は、「惟重の管理してる分は、名全体ではありません。私親家が管理してきたのです。」と弁解しました。
双方の言い分をとことん聞いてみると、親家の侵略の罪はごまかしきれないので、泰時さんは事実を知りお怒りになりました。その場で、侍所副長官の金窪左衛門尉大夫行親を呼びつけて、親家を預かりめしうどとして管理するように、云いつけました。この詳しいいきさつを朝時に伝えさせました。朝時はとてもおびえて
謝りましたとさ。

延應元年(1239)五月小三日壬申。國吉名事。惟重賜裁許御下知状云々。

読下し                   くによしみょう こと  これしげさいきょ  おんげちじょう  たま      うんぬん
延應元年(1239)五月小三日壬申。國吉名の事、惟重裁許の御下知状を賜はると云々。

現代語延応元年(1239)五月小三日壬申。越中国国吉名(富山県高岡市国吉)のついて、惟重に裁判結果の安堵状を与えられましたとさ。

延應元年(1239)五月小四日癸酉。未刻。將軍家聊御不例。爲師員朝臣奉行。被行御占。土公奉成崇。可令重煩給之由。陰陽師七人一同占申之云々。

読下し                   ひつじのこく しょうぐんけ いささ  ごふれい  もろかずあそんぶぎょう  な     おんうら  おこなはれ
延應元年(1239)五月小四日癸酉。未刻、將軍家、聊か御不例。師員朝臣@奉行と爲し、御占を行被る。

くうたたり  な たてまつ   おも  わずら せし  たま  べ   のよし  おんみょうじしちにん いちどう  これ  うらな もう    うんぬん
土公崇を成し奉り、重く煩ひ令め給ふ可し之由、陰陽師 七人 一同に之を占い申すと云々。

参考@師員は、中原師員(1185-1251)。1218に助教。中原親能・大江広元の従兄弟。後評定衆となり、大夫外記となり、摂津守明経博士となる。法名は行厳。

現代語延応元年(1239)五月小四日癸酉。午後2時頃、将軍頼経様が少し具合が悪くなりました。中原師員さんが担当して占いをさせました。土地神様がお怒りになっているので、重くなる可能性があると、陰陽師七人が同意見の占い結果をいいましたとさ。

延應元年(1239)五月小五日甲戌。依御不例事。被行御祈等。
 琰魔天供    岡崎法印    右馬權頭沙汰
 藥師護摩    大藏卿法印   甲斐守沙汰
 泰山府君祭   維範朝臣    後藤佐渡前司沙汰
 大土公祭    親職朝臣    陸奥掃部助沙汰
 靈氣祭     廣相朝臣    兵庫頭定員沙汰
 鬼氣祭     泰貞朝臣    信濃民部大夫入道沙汰
 咒詛祭     リ賢朝臣    天野和泉前司沙汰

読下し                     ごふれい   こと  よっ    おいのりら おこなはれ
延應元年(1239)五月小五日甲戌。御不例の事に依て、御祈等を行被る。

  えんまてんぐ         おかざきほういん        うまごんのかみ  さた
 琰魔天供    岡崎法印    右馬權頭が沙汰

  やくし ごま          おおくらきょうほういん     かいのかみ   さた
 藥師護摩    大藏卿法印   甲斐守が沙汰

  たいさんふくんさい      これのりあそん         ごとうのさどぜんじ    さた
 泰山府君祭   維範朝臣    後藤佐渡前司が沙汰

  だいどくうさい         ちかもとあそん        むつかもんのすけ   さた
 大土公祭    親職朝臣    陸奥掃部助が沙汰

  れいきさい           ひろすけあそん      ひょうごのかみさだかず さた
 靈氣祭     廣相朝臣    兵庫頭定員が沙汰

   ききさい            やすさだあそん       しなのみんぶたいふにゅうどう   さた
 鬼氣祭     泰貞朝臣    信濃民部大夫入道が沙汰

   じゅそさい          はるかたあそん        あまのいずみぜんじ   さた
 咒詛祭     リ賢朝臣    天野和泉前司が沙汰

現代語延応元年(1239)五月小五日甲戌。将軍の病気によってお祈りを行いました。
閻魔天供は、岡崎法印成源。右馬権頭北条政村の負担。
薬師如来の護摩焚きは、大蔵卿法印良信。甲斐守長井泰秀の負担。
泰山府君祭は、安陪維範さん。後藤佐渡前司基綱の負担。
大土公祭は、安陪親職さん。陸奥掃部助北条実時の負担。
霊気祭は、安陪広相さん。兵庫頭藤原定員の負担。
鬼気祭は、安陪泰貞さん。信濃民部大夫入道二階堂行盛の負担。
呪詛祭は、安陪晴賢さん。天野和泉前司政景の負担。

参考泰山府君祭は、安倍晴明が創始した祭事で月ごと季節ごとに行う定期のものと、命に関わる出産、病気の安癒を願う臨時のものがあるという。「泰山府君」とは、中国の名山である五岳のひとつ東嶽泰山から名前をとった道教の神である。陰陽道では、冥府の神、人間の生死を司る神として崇拝されていた。延命長寿や消災、死んだ人間を生き帰らすこともできたという。

延應元年(1239)五月小十一日庚辰。今日。將軍家有御沐浴之儀。醫師良基朝臣賜御馬御劔。又有御祈。如意輪護摩安祥寺僧正〔御湯加持〕。天地災變祭陰陽頭維範朝臣。

読下し                      きょう   しょうぐんけ  おんもくよく の ぎ あ     くすし よしもとあそん おんうま  ぎょけん  たま
延應元年(1239)五月小十一日庚辰。今日、將軍家、御沐浴之儀有り。醫師良基朝臣御馬、御劔を賜はる。

また  おいのりあ     にょいりんごま   あんじょうじそうじょう 〔 おんゆ  かじ 〕    てんちさいへんさい おんみょうのかみこれのりあそん
又、御祈有り。如意輪護摩は安祥寺僧正〔御湯の加持〕。天地災變祭は陰陽頭維範朝臣。

現代語延応元年(1239)五月小十一日庚辰。今日、将軍頼経様は病気が良くなったので、病の気を洗い流す沐浴の儀式をしました。立ち会いの医師の丹波良基さんは馬と刀を褒美に貰いました。又、再発防止にお祈りをしました。如意輪観音の護摩炊きは安祥寺僧正良瑜〔洗い流すお湯を祈祷しました〕。天地災変祭は陰陽寮筆頭安陪維範さんです。

延應元年(1239)五月小十二日辛巳。將軍家仰大納言僧都隆弁。於久遠壽量院。被令轉讀最勝王經云々。

読下し                      しょうぐんけ  だいなごんそうづりゅうべん  おお     くおんじゅりょういん  をい
延應元年(1239)五月小十二日辛巳。將軍家、大納言僧都隆弁@に仰せて、久遠壽量院に於て、

さいしょうおうきょう てんどく せし  らる    うんぬん
最勝王經Aを轉讀B令め被ると云々。

参考@隆辨は、藤原隆房(四条隆房・冷泉隆房)の息子。母は葉室光雅の娘。
参考A
最勝王經は、金光明最勝王経で奈良時代に鎮護国家の経典として尊ばれた。
参考B
轉讀は、略式の飛ばし読みのお経を上げる事で、お経を左右にアコーデオンのように片手から片手へ移しながらお経を唱える。摺り読みとも云う。反対にちゃんと読むのを「真読」と云う。

現代語延応元年(1239)五月小十二日辛巳。将軍頼経様は、大納言僧都隆弁に申し付けて、自分の仏を祀る持仏堂の久遠寿量院で、国家鎮護の金光明最勝王経を摺り読みさせましたとさ。

延應元年(1239)五月小十四日癸未。當時之訴論人者。勸農以後。兩方同時可令參决之由。普以被觸仰云々。

読下し                      とうじ の そろんにんは   かんのう いご  りょうほうどうじ  さんけつせし  べ   のよし
延應元年(1239)五月小十四日癸未。當時之訴論人者、勸農以後、兩方同時に參决令む可き之由、

あまね もっ  ふれおお らる    うんぬん
普く以て觸仰せ被ると云々。

現代語延応元年(1239)五月小十四日癸未。現在の訴訟提訴人は、秋の収穫が終わってから双方同時に出廷して決するように、関係者の隅々まで伝えられましたとさ。

延應元年(1239)五月小十五日甲申。前武州〔泰時〕御病痾餘氣猶不散之間。雖未及沐浴。被載御判於御下知等状事。連日更不被懈緩云々。

読下し                     さきのぶしゅう 〔やすとき〕 ごびょうのう   よけ  なおさんぜずのあいだ いま  もくよく  およ     いへど
延應元年(1239)五月小十五日甲申。前武州〔泰時〕御病痾の餘氣、猶散不之間、未だ沐浴@に及ばずと雖も、

ごはんを  おんげちじょう   の   らる  こと  れんじつさら  けたいされざる  うんぬん
御判於御下知等状に載せ被る事、連日更に懈緩被不と云々。

参考@沐浴は、穢れを洗い流すための儀式。沐は髪を洗い、浴は体を洗う。

現代語延応元年(1239)五月小十五日甲申。前武州泰時さんは、病気が完全に治らないので、病の気を洗い流す沐浴の儀式をしていませんが、花押を命令書の書き込むことを、毎日休みませんでしたとさ。

延應元年(1239)五月小廿三日壬辰。小雨降。申尅。赤木左衛門尉平忠光爲六波羅飛脚參着。廿日未尅出京。四ケ日馳付。殆如飛鳥。即於前武州庭上下馬。去十三日法性寺禪閤〔九條道家〕御不例。殊御増氣之由申之。仍將軍家御周章之餘。召陰陽頭維範朝臣以下七人。被行御占。各不可有別御事之由勘申。維範朝臣御大事之旨申之云々。前彈正大弼親實爲奉行云々。

読下し                      こさめ  ふ    さるのこく  あかぎさえもんのじょうたいらのただみつ  ろくはら  ひきゃく  な  さんちゃく
延應元年(1239)五月小廿三日壬辰。小雨降る。申尅、 赤木左衛門尉平忠光、 六波羅の飛脚と爲し參着す。

はつか ひつじのこく しゅっきょう よっかにち  はせつ     ほと    と   とり  ごと    すなは さきのぶしゅう ていじょう をい   げば
廿日 未尅 出京し、四ケ日で馳付く。殆んど飛ぶ鳥の如し。即ち 前武州の庭上に於て下馬す。

さんぬ じうさんにちほっしょうじぜんこう 〔くじょうみちいえ〕 ごふれい  こと  おんましげ のよし  これ  もう
去る十三日法性寺禪閤〔九條道家〕御不例。殊に御増氣之由、之を申す。

よっ しょうぐんけ  ごしゅうしょう のあま    おんみょうのかみこれのりあそん いげ しちにん  め     おんうら おこなはれ
仍て將軍家、御周章之餘り、 陰陽頭維範朝臣 以下七人を召し、御占を行被る。

おのおの べつ   おんことあ  べからず のよし  かん  もう
 各 別なる御事有る不可之由を勘じ申す。

これのりあそん おんだいじのむね  これ  もう    うんぬん  さきのだんじょうだいひつちかざね ぶぎょう  な    うんぬん
維範朝臣 御大事之旨、之を申すと云々。 前彈正大弼親實、 奉行を爲すと云々。

現代語延応元年(1239)五月小二十三日壬辰。小雨が降ってます。午後四時頃に赤木左衛門尉忠光が六波羅探題から伝令として到着しました。二十日の午後二時頃に京都を出て、たった四日で走りつきました。まるで飛ぶ鳥のようです。すぐに泰時さんの庭で馬を降りました。先日の十三日に法性寺禅閤九条道家さん(将軍頼経の父)が病気です。どんどん病が重くなってきてますと申しあげました。それで、将軍頼経様は心配になって、陰陽寮長官安陪維範さんを始めとする陰陽師七人を呼んで占いをさせました。それぞれ、特に心配には及びませんと上申しました。惟範さんは結構重病ですと報告しました。前弾正大弼三条親実が担当したそうな。

延應元年(1239)五月小廿四日癸巳。リ。兵庫頭定員爲使節上洛。依禪閤御不例事也。前武州御使平左衛門尉盛時云々。

読下し                      はれ ひょうごのかみさだかず しせつ な  じょうらく   ぜんこう ごふれい  こと  よっ  なり
延應元年(1239)五月小廿四日癸巳。リ。兵庫頭定員 使節と爲し上洛す。禪閤御不例の事に依て也。

さきのぶしゅう おんし  へいさえもんのじょうもりとき  うんぬん
前武州の御使は平左衛門尉盛時と云々。

現代語延応元年(1239)五月小二十四日癸巳。晴れです。兵庫頭藤原定員は、幕府の使者として京都へ上ります。道家さんの病気見舞いです。泰時さんの代理は平左衛門尉盛時だそうな。

延應元年(1239)五月小廿六日乙未。前武州爲禪定二位家御得脱。被積作善事。年々歳々未緩。其中。於法華堂之傍。被建温室。令結番薪等雜掌人。毎月六齋日。可令浴僧徒之由。有沙汰。仍誡後年退轉。今日被定置文。其状云。
  南新法華堂六齋日湯薪代錢支配事
 右期以前。頭人之許に可令沙汰進之由。面々所被仰下也。随到來〔天〕請取之〔天〕。寺家に令進納〔天〕。可令取進返抄也。若期月乃十日を過きて不弁進志て。及遲々事有む時〔ハ〕爲頭人之沙汰〔天〕。擧錢を取〔天〕。また寺家に令進納〔天〕後。其懈怠之人乃手〔より〕。不論日數之久近。以一倍〔天〕可令徴取也。其人若不致一倍之弁〔天〕。猶以令難澁者。頭人慥可令申事由也。其時所領を召〔天〕。傍輩乃懈怠を可被誡者也。但頭人若私乃恨を重〔シ〕。御公事乃功を輕くして。彼懈怠乃咎を隱〔天〕。不訴申〔天〕。寺家乃訴訟に令及者。懈怠乃人を閣て。頭人乃所領を可被召也。兼又此所課に限てハ。如此被定置之後。相互に分限乃大小を論して。令痛申之輩あらは。是又可被行其科者也。一人若雜(難カ)澁之詞を出さは。傍輩皆以可成習之故也。其初〔天〕發言乃人を重く是を可被誡也。何况乍爲頭人之身。不法を致さん人に於てハ。永可被棄置也。凡謂事之濫觴。候于關東之諸人。不論貴賎上下。成安堵之思〔天〕。各一郷一村をも令領知事者。偏是二品禪定聖靈之御恩徳之所令然也。心有らむ輩誰不知恩之誠哉。而今此最少乃所課に於ては。或ハ忘却之由を陳し。或過分之儀を稱〔天〕。若ハ遲々さしめ。若ハ令對捍〔天〕。聖靈乃御爲に疏略を致さん事。只是可類于木石者也。於木石之類者。恩顧を施して。これ何詮かあらん哉。然則至于不法之人々者。所帶をあらためられむ事。更無所拘歟。各可令存知之由。具〔に〕可被相觸也者。仰旨如此。誡可恐惶。所詮此巨細乃仰を乍承。聊〔も〕懈怠〔に〕及者。定可被貽恨者也。早此御下知状〔を〕令書寫〔天〕。各座右〔に〕令置〔天〕。常可被備癈忘歟。有始無終者古人之所誡也。今日者雖驚之。後年者漸々心於(カ)流(カ)くせん者歟。必其終を愼て。永可令遁後勘給。能々可有思慮事也。不可准普通之儀候。仍執達如件。
   延應元年五月廿六日                      左衛門尉盛綱

読下し                     さきのぶしゅう  ぜんじょうにいけ おんげだつ ため  さぜん  つまれ  こと  ねんねんさいさいいま おこた
延應元年(1239)五月小廿六日乙未。前武州、禪定二位家御得脱の爲、作善を積被る事、年々歳々未だ緩らず。

 そ  なか  ほけどうのかたわら  をい   おんじゃく たてられ  たきぎら さっしょうにん けちばんせし
其の中、法華堂之傍に於て、温室を建被、薪等の雜掌人を結番令め、

まいげつろくさいび  そうと   よくせし  べ   のよし   さた あ
毎月六齋日@は僧徒を浴令む可し之由、沙汰有り。

よっ  こうねん  たいてん いまし   きょう おきぶみ  さだ  らる    そ  じょう  い
仍て後年の退轉を誡め、今日置文を定め被る。其の状に云はく。

参考@六齋日は、仏語で、特に身を慎み持戒清浄であるべき日と定められた六か日のことで、月の8,14,15,23、29、30日を云うとのこと。

    みなみしんほけどう ろくさいび  ゆ  まきぎだいせんしはい こと
  南新法華堂A六齋日の湯、薪代錢支配の事

  みぎ  ご いぜん  とうにんの はか     さた しん  せし  べ   のよし  めんめんおお  くださる ところなり
 右の期以前、頭人之許りに沙汰進じ令む可し之由、面々仰せ下被る所也。

  とうらい  したが  〔 て 〕 これ  う   と    〔 て 〕    じけ   しんのうせし  〔 て 〕   へんしょう とりしんぜし べ   なり
 到來に随い〔天〕之を請け取り〔天〕、寺家に進納令め〔天〕、返抄を取進令む可き也。

  も    ごづき の とおか  す ぎ   べんしんせずし     ちち   およ  ことあら とき 〔 は 〕 とうにん の  さた   なし 〔 て 〕   あげせん  と  〔 て 〕
 若し期月乃十日を過きて弁進不志て、遲々に及ぶ事有む時〔ハ〕頭人之沙汰と爲〔天〕、擧錢Bを取り〔天〕

       じけ   しんのうせし 〔 て 〕  のち  そ   けたい の ひとの て           ひかずのきゅうきん ろんぜず  いちばい もっ 〔 て 〕 ちょうしゅせし べ  なり
 また寺家に進納令め〔天〕後、其の懈怠之人乃手〔より〕、日數之久近を論不、一倍を以〔天〕徴取令む可き也。

  そ   ひとも   いちばいのわきまへ いたさず  〔 て 〕   なおもっ なんじゅうせし  ば  とうにんたしか こと  よし  もうせし  べ   なり
 其の人若し一倍之 弁 を致不し〔天〕、猶以て難澁令め者、頭人慥に事の由を申令む可き也。

  そ   ときしょりょう め 〔 て 〕    ぼうはいの けたい  いさめられ べ   ものなり
 其の時所領を召し〔天〕、傍輩乃懈怠を誡被る可き者也。

  ただ  とうにんも わたくしのうらみ おも          おんくじ のこう   かる  か   けたいの とが  かく    〔 て 〕
 但し頭人若し私乃恨を重く〔シ〕、御公事乃功を輕くして、彼の懈怠乃咎を隱し〔天〕

  うった  もうさず   〔 て 〕    じけ の そしょう  およ  せし  ば   けたいの ひと  さしおき   とうにんのしょりょう  め さ   べ   なり
 訴へ申不し〔天〕、寺家乃訴訟に及ば令め者、懈怠乃人を閣て、頭人乃所領を召被る可き也。

  かね  またかく  しょか  かぎり は   かく  ごと  さだ  おかる   ののち  そうご  ぶげん のだいしょう ろん      いた  もうせし  のやから   ば
 兼て又此の所課に限てハ、此の如く定め置被る之後、相互に分限乃大小を論じて、痛み申令む之輩あらは、

  これまた そ  とが  おこな れるべ  ものなり  ひとり も  なんじゅうのことば  いだ  ば   ぼうはいみなもっ  なら    な   べ   のゆえなり
 是又其の科に行は被可き者也。一人若し難澁之詞を出さは、傍輩皆以て習ひと成す可き之故也。

  そ   はじ  〔 て 〕  はつげんのひと  おも  これ  いさめられ べ  なり  なにを いわん とうにんの みたりなが    ふほう  いた    ひと  をい  は
 其の初め〔天〕發言乃人を重く是を誡被る可き也。何か 况や頭人之身爲乍ら、不法を致さん人に於てハ、

   なが  す   おかる  べ なり
 永く棄て置被る可き也。

  およ  ことのらんしょう  い       かんとうにそうら  のしょにん  きせん  じょうげ  ろんぜず  あんどのおもい な   〔 て 〕
 凡そ事之濫觴を謂はば、關東于候う之諸人、貴賎の上下を論不、安堵之思を成し〔天〕

  おのおのいちごういっそん    りょうちせし  ことは  ひとへ これ  にほんぜんじょう しょうりょう のごおんとくのしから せし ところなり
  各 一郷一村をも領知令む事者、偏に是、二品禪定 聖靈 之御恩徳之然ら令む所也。

  こころあ   やから たれ  おんのまこと  し   ざら  や
 心有らむ輩、誰か恩之誠を知ら不ん哉。

  しか    いま  かく  さいしょうのしょか  をい      あるひはぼうきゃくのよし ちんじ   ある    かぶん の ぎ   しょう  〔 て 〕
 而るに今、此の最少乃所課に於ては、或ハ忘却之由を陳し、或ひは過分之儀を稱し〔天〕

  も     は   ちち         も     は たいかんせし  〔 て 〕  しょうりょうのおんため  そりゃく  いた    こと  ただこれ  ぼくせきに るい  べ   ものなり
 若しくハ遲々さしめ、若しくハ對捍令め〔天〕。聖靈乃御爲に疏略を致さん事、只是、木石于類す可き者也。

  ぼくせきのたぐい をい  は   おんこ  ほどこ        なにせん        や
 木石之類に於て者、恩顧を施して、これ何詮かあらん哉。

   しから すなは ふほうの ひとびとに いた  ば   しょたい               こと  さら  かか  ところな     か
 然ば則ち不法之人々于至ら者、所帶をあらためられむ事、更に拘る所無からん歟。

  おのおの ぞんちせし  べ   のよし  つぶさ     あいふる   べ   なりてへ      おお   むねかく  ごと
  各 存知令む可き之由、具〔に〕相觸被る可き也者れば、仰せの旨此の如し。

  まこと きょうこうすべ   しょせん  かく  こさい の おお  うけたまは なが   いささ      けたい     およばば  さだ    うらみ のこさる  べ   ものなり
 誡に恐惶可し。所詮、此の巨細乃仰せを承り乍ら、聊か〔も〕懈怠〔に〕及者、定めし恨を貽被る可き者也。

  はや  かく  おんげちじょう     か   うつせし  〔 て 〕   おのおの ざう      おかせし  〔 て 〕    つね  はいぼう  そな  らる  べ   か
 早く此の御下知状〔を〕書き寫令め〔天〕、 各 座右〔に〕置令め〔天〕。常に癈忘に備へ被る可き歟。

  はじめあ    おわ  な  もの こじんのいさ   ところなり  こんにちはこれ おどろ   いへど   こうねんはぜんぜんこころ          ものか
 始有りて終り無き者古人之誡むる所也。今日者之を驚くと雖も、後年者漸々心をゆるくせん者歟。

  かなら そ   おわ   つつしみ  なが  ごかん  のが  せし  たま  べ     よくよくしりょあ   べ   ことなり  ふつうの ぎ  なぞら べからざるそうろう
 必ず其の終りを愼て、永く後勘に遁れ令め給ふ可く、能々思慮有る可き事也。普通之儀に准う不可 候。

  よっ  しったつくだん ごと
 仍て執達件の如し。

      えんぎょうがんえんごがつむいか                                               さえもんのじょうもりつな
   延應元年五月廿六日                      左衛門尉盛綱

参考A南新法華堂は、嘉禄元年(1225)六月大二一一日死期の迫った尼御台所政子様が移った新御所を、その死後法華堂に改めたものと思われる。
参考
B擧錢は、出擧銭。貸付金。

現代語延応元年(1239)五月小二十六日乙未。泰時さんは、禅定二位家政子様が解脱し成仏できるように、毎年の追善供養をいまだに怠りません。それらの一つに、南新法華堂(勝長寿院内)のそばで蒸し風呂を作られて薪等の世話をする人の順番を決めて、、毎月六齋日(8.14.15.23.29.30)には、坊さん達を入浴させるようにお決めになりました。そこで、後々の怠慢を防ぐために、今日書き置きを決めました。その状には、
 南新法華堂の六齋日に立てる湯の薪代につかう銭の扱いについて
 右の湯建ての日以前に、筆頭責任者の裁量によって処理するように関係者に命じていることです。年貢が届いたら、これを受け取り寺の者に納めて、受け取りを貰ってください。もし期日を10日過ぎても支払はずに、遅れる事がある場合は、筆頭責任者の処理として出挙銭を取り(貸付金を回収し)、寺の者に払った後、その遅延者から直接、日数の多い少ないにかかわらず二倍を徴収しなさい。その人が二倍の弁償をしないで、未だ払い渋っているようなら、筆頭責任者はその事を通告しなさい。その上で、領地を取り上げて、同様の連中への見せしめにしなさい。
但し、筆頭責任者が自分の利益を考えて、公の用事を軽くみて、その滞納者の罪を隠して、訴え出ないでいて寺の者訴えられたら、滞納者を後回しにして筆頭責任者の領地を取り上げなさい。
合わせて、この年貢に限ってはこのように決めて置いた後、お互いに自分等の権限の差を争って、文句をつける連中がいたならば、これまた同様の罰を与えなさい。一人が文句を垂れれば、他の連中も同様に言い出すからです。それを一番初めに言い出した者の罪を重くするべきでしょう。
にもかかわらず筆頭責任者が不法を行ったら、永久に放り出してしまいなさい。
だいたい、このことを始める理由を云えば、鎌倉幕府の御家人は、身分の上下を問わず、安心して暮らせるのは、それぞれ一郷一村を領地としているのは、これは全て尼御台所政子様の恩によるものです。心ある者なら誰がこの恩を知らないわけがないでしょう。それなのに、この程度の負担をある者は忘れたと云い、またある者は負担が多すぎると云って、時に遅れたり、時に滞納している。ご恩ある方への供養をしないような奴は、心の無い木石のたぐいである。木石のたぐいならば、恩を与えても仕方がない事であろう。それだから、不法を行った人が領地を取り上げられるのは、なおさら関わっていられる理由がないじゃありませんか。
それぞれ、良く承知をして、詳しく知らしめるようにと、仰せによってこの通りである。

ほんとうに恐れ敬いなさい。落ち着く所は、この内容を知りながら、多少でも滞納するようなら、さぞかし悔みが残る事であろう。早くこの命令書を書き写し、それぞれ座席の脇に置き、常に忘れぬようにしておくべきです。始めにきちんとしておけば最後まできちんと運ぶと、昔の人が諫めております。今は、えらいこっちゃと苦になるけど、後々にはだんだん心に残って行くものです。必ずその人生の最期を厳かに考えれば、後々の叱責を受けなくなるでしょう。よく考えておくべきです。通常の命令書と同じに考えてはいけませんよ。この様に伝えましたよ。
 延応元年五月二十六日    左衛門尉平盛綱

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吾妻鏡入門第卅三巻

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