吾妻鏡入門第卅三巻

延應元年己亥(1239)六月小

延應元年(1239)六月小三日辛丑。今曉京都飛脚參着。禪定殿下御不例。於今者無殊御事云々。

読下し                   こんぎょうきょうと  ひきゃくさんちゃく  ぜんじょうでんか  ごふれい  いま  をい  は こと    おんことな   うんぬん
延應元年(1239)六月小三日辛丑。今曉京都の飛脚參着す。禪定殿下の御不例、今に於て者殊なる御事無しと云々。

現代語延応元年(1239)六月小三日辛丑。今朝の夜明けに京都からの伝令が着きました。禅定殿下九条道家さん(将軍頼経の父)が病気は、現在では大したことは無いとの事だそうな。

延應元年(1239)六月小六日甲辰。武藏國請所等用途事。爲地頭沙汰。毎年可有京進之所々。今日被定下之。當時匠作所令國務給也。

読下し                   むさしのくに うけしょら   ようとう   こと  ぢとう    さた   な     まいねんきょうしんあ  べ   のしょしょ
延應元年(1239)六月小六日甲辰。武藏國請所@等の用途の事、地頭の沙汰と爲し、毎年京進有る可き之所々、

きょう これ  さだ  くださる    とうじ  しょうさく 〔ときふさ〕 こくむ せし  たま  ところなり
今日之を定め下被る。當時、匠作〔時房〕國務令め給ふ所也。

参考@請所は、地頭請所と称し、年貢を徴収して一定量を決めて収める役を請け負う定量制。他に「検見取り」毎年収穫を検査するので変動相場制とがある。

現代語延応元年(1239)六月小六日甲辰。武蔵の国で、定量の年貢を納める請所の年貢を地頭の納税分として、毎年京都へ送るべき荘園を、今日お決めになられましたとさ。そこは現在、匠作時房さんが国司をしている所です

延應元年(1239)六月小十二日庚戌。天リ。前武州所勞御平減以後。今日御沐浴。醫道施藥院使良基朝臣父子。典藥頭時長朝臣。給御衣御劍等之上。各拝領一村云々。

読下し                     そらはれ さきのぶしゅう しょろう ごへいめつ いご  きょう おんもくよく
延應元年(1239)六月小十二日庚戌。天リ。前武州の所勞御平減以後、今日御沐浴@

いどう   やくいんのかみ よしもとあそん ふし  やくのかみときながあそん  おんぞぎょけんら  たま    のうえ  おのおの いっそん  はいりょう   うんぬん
醫道Aの施藥院使B良基朝臣父子、典藥頭時長朝臣、御衣御劍等を給はる之上、 各 一村を拝領すと云々。

参考@沐浴は、穢れを洗い流すための儀式。沐は髪を洗い、浴は体を洗う。
参考A醫道は、医療行為者で医道と陰陽道は土地を受けても御家人とは看做さない。
参考B
施藥院使は、施藥院司(ヤクインノカミ)が正しい。

現代語延応元年(1239)六月小十二日庚戌。空は晴です。前武州泰時さんの病気が良くなったので、今日病の気を洗い流す沐浴の儀式です。立会の医者は施薬院筆頭の丹波良基さん親子、薬司の筆頭典薬頭丹波時長さんは、着物や刀を褒美に貰ったうえ、それぞれ一村の地頭職を与えられましたとさ。

延應元年(1239)六月小十九日丁巳。霽。兵庫頭自京都下着。禪定殿下御不例本復。去十二日御沐浴云々。

読下し                     はれ ひょうごのかみきょうと よ  げちゃく   ぜんじょうでんか  ごふれい ほんぷく   さんぬ じうににち おんもくよく  うんぬん
延應元年(1239)六月小十九日丁巳。霽。兵庫頭京都自り下着す。禪定殿下の御不例本復し、去る十二日御沐浴と云々。

現代語延応元年(1239)六月小十九日丁巳。晴れました。兵庫頭藤原定員が京都から帰り着きました。禅定殿下九条道家さんの病気は治って、先日の十二日に沐浴の儀式を行ったそうな。

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