吾妻鏡入門第卅三巻

仁治元年庚子(1240)十二月大

仁治元年(1240)十二月大十二日辛未。洛中辻々篝松用途事。被定役所處對捍之由。依有其聞。随多少可令充造篝屋。且可注申交名之由。今日。被仰六波羅云々。

読下し                      らくちうつじつじ  かがりまつ ようとう  こと  えき  さだ  られ  しょしょ  たいかんのよし  そ   きこ  あ     よっ
仁治元年(1240)十二月大十二日辛未。洛中辻々の篝松の用途の事、役を定め被る所處に對捍之由、其の聞へ有るに依て、

たしょう  したが ぞうかがりや  あ   せし  べ    かつう きょうみょう ちうしんすべ のよし   きょう    ろくはら   おお  られ    うんぬん
多少に随い造篝屋を充て令む可き、且は交名を注申可き之由、今日、六波羅へ仰せ被ると云々。

現代語仁治元年(1240)十二月大十二日辛未。京都市中の辻々のかがり火番屋の費用について、折角その役を決めたのにあちこちで怠けていると聞こえてくるので、その不払い額の多少によって、建設数を割り当て、その名を書き出すように、今日、六波羅探題へ命じましたとさ。

仁治元年(1240)十二月大十五日甲戌。左衛門尉藤原基行法師〔法名行阿〕死〔年四十二〕。

読下し                      さえもんのじょうふじわらもとゆきほっし 〔ほうみょうぎょうあ〕 し    〔とししじうに〕
仁治元年(1240)十二月大十五日甲戌。左衛門尉藤原基行法師〔法名行阿〕死す〔年四十二〕

現代語仁治元年(1240)十二月大十五日甲戌。左衛門尉藤原二階堂基行法師〔出家名行阿〕死ぬ〔年四十二〕。

仁治元年(1240)十二月大十六日乙亥。爲二所御精進屋。御所巽角被立新御所一宇。桧皮葺也。別被立門云々。」今日於御所有評定。二所三嶋并春日等社。毎日可有御神樂之由。將軍家有御立願。是已可爲莫大用途。毎月被沙汰遣之條。御家人煩也。募其分可被寄附一所歟之由。被經沙汰之處。折節無便宜之地。被定功錢。且止毎日之儀。可爲毎月云々。次御家人任官功錢事。有其沙汰。随納或百貫。或五十貫。令進上官庫。可取進返抄之由。可被仰六波羅云々。此外。就地頭所務以下事。被定條々。
一本補跡所々檢断事
 可任先例事。
一厨雜事等事
 不謂本新補。一向停止〔馬葛薪以下。非沙汰之限〕者。
一人倫賣買事
 勾引中人等者。可被召下關東。被賣之類者。随見及可被放其身。且可觸路次關々也。
一諸社神官并神人等令書起請文時於他社不可書由事
 於京都令書者。不嫌自他社。於北野可書也。
一可被行罪科由被載御下知了見事
 可書載子細於分明者。

読下し                       にしょ ごしょうじんや   な   ごしょ  たつみ かど  しんごしょ いちう  たてられ   ひわだぶきなり  べっ    もん  たてられ   うんぬん
仁治元年(1240)十二月大十六日乙亥。二所御精進屋と爲し御所の巽の角に新御所一宇を立被る。桧皮葺也。別して門を立被ると云々。」

きょう ごしょ  をい ひょうじょうあ     にしょ みしまなら    かすがら  やしろ  まいにち おかぐら あ   べ   のよし  しょうぐんけごりゅうがんあ
今日御所に於て評定有り。二所三嶋并びに春日等の社、毎日御神樂有る可き之由、將軍家御立願有り。

これすで  ばくだい ようとうたるべ     まいげつ さた  つか  さる  のじょう   ごけにん   わずら なり
是已に莫大の用途爲可き。毎月沙汰し遣は被る之條、御家人の煩ひ也。

 そ  ぶん  つの  いっしょ  きふ され  べ   か のよし   さた   へられ  のところ  おりふし びんぎのち な
其の分に募り一所を寄附被る可き歟之由、沙汰を經被る之處、折節便宜之地無し。

こうせん  さだ  られ  かつう まいにち の ぎ  と     まいげつたるべ    うんぬん
功錢を定め被、且は毎日之儀を止め、毎月爲可きと云々。

つぎ  ごけにん にんかん  こうせん  こと  そ   さた  あ
次に御家人任官の功錢の事、其の沙汰有り。

のう  したが   ある   ひゃっかん ある    ごじっかん  かんんこ しんじょうせし  へんしょう とりすす  べ   のよし   ろくはら   おお  られ  べ     うんぬん
納に随いて或ひは百貫、或ひは五十貫、官庫へ進上令め。返抄を取進む可き之由、六波羅へ仰せ被る可しと云々。

 こ  ほか  ぢとう しょむ いげ   こと  つ    じょうじょう さだ  られ
此の外、地頭所務@以下の事に就き、條々を定め被る。

参考@所務は、領地関係。金銭相続関係が雑務。

ひとつ ほんぽあと  しょしょけんだん  こと
一 本補跡の所々檢断の事

    せんれい  まか    べ   こと
  先例に任せる可き事。

ひとつ くりやぞうじら  こと
一 厨雜事等の事

    ほんしんぽ  いわず   いっこう  ちょうじ   〔まぐさ まき  いげ      さた  のかぎり  あらず〕 てへ
  本新補を謂不。一向に停止す〔馬草薪以下は、沙汰之限に非〕者り。

ひとつ じんりんばいばい こと
一 人倫賣買の事

    こういん  ちうじんら は   かんとう  めしくだされ  べ     う られ のたぐいは   み およ    したが そ   み   はなたる  べ
  勾引A・中人B等者、關東へ召下被る可し。賣被る之類者、見及ぶに随い其の身を放被る可し。

    かつう  ろじ   せきぜき  ふ     べ   なり
  且は路次の關々に觸れる可き也。

参考A勾引は、かどわかし。
参考B
中人は、人身売買仲買人。

ひとつ しょしゃしんかんなら  じんにんら きしょうもん  か   せし  とき  たしゃ  をい  か   べからざ  よし  こと
一 諸社神官并びに神人等起請文を書き令む時、他社に於て書く不可る由の事

    きょうと  をい  かかせし  ば    じた  やしろ いやがらず  きたの  をい  か   べ   なり
  京都に於て書令め者、自他の社を嫌不、北野に於て書く可きC也。

参考C北野に於て書く可きは、関東においては将門依頼天神信仰が強いので天神が怖いので北野天満宮で書かせる。

ひとつ ざいか  おこなはれ べ  よし おんげち  のせられ りょうけん こと
一 罪科に行被る可き由御下知に載被る了見Dの事

    しさいを ぶんめい  か   の     べ   てへ
  子細於分明に書き載せる可き者り。

参考D了見の文字は、鎌倉遺文5699の原文にはない(未確認)。

現代語仁治元年(1240)十二月大十六日乙亥。箱根神社と走湯神社二権現参りの精進潔斎をする小屋を御所の東南の隅に新築を一棟建てます。桧の皮を屋根に葺く桧皮葺です。別に門も建てられたそうな。」
今日、御所で政務会議がありました。箱根神社と走湯神社二権現と三島大社それに春日大社の分祀の社に、毎日お神楽を奉納するようにと、将軍頼経様から祈願が有りました。これには相当な費用が掛かるので、毎月負担者を決めて出させるのは、御家人の面倒な仕業となります。その分として領地を一ヵ所寄付した方が良いのではと、決裁を受けましたが、たまたまちょうど空いている領地がありません。そこで任官推薦金に決めて、なお毎日は止めて毎月にしましたとさ。
次に、御家人の任官推薦金について、その定めがありました。役に納める額によって、百貫または五十貫を朝廷の会計に納めて、領収書を貰っておくように、六波羅探題へ命令しましたとさ。
この他、地頭の領地関係について、条文をお決めになりました。
一つ 元々の地頭に任命されている領地の検地について
   先例通りにする事
一つ 本所が伊勢神宮の荘園の御厨の役務負荷について
   元々の地頭の本補地頭も承久の乱以後に任命された新補地頭も、全て禁止する〔馬草や薪などは対象としません〕と命令する
一つ 人身売買について
   かどわかし(誘拐)や売買仲買人は、関東へ連行する事。売られた人は見つけ次第その身を解放しなさい。なお、それを道路の関所に通知する事
一つ 諸神社の神官それに下級神職が起請文を書くときは、よその神社で書いてはいけないこと。京都で書く人は、自分の氏神かそうでないかにかかわらず、北野天神で書かせなさい。
一つ 罪人として処分する命令を書き見せる事
   詳しい説明を書き載せておくよう命令する

仁治元年(1240)十二月大廿一日庚辰。今朝。前武州相具評定衆等。令參右大將家法華堂給。被修佛事。莊嚴房僧都行勇爲導師。是依爲故隱岐次郎左衛門入道行阿初七日忌景也。凡向後於評定衆以下携公事輩之没後者。必可勵追善之由。及衆談云々。

読下し                       けさ  さきのぶしゅう ひょうじょうしゅうら あいぐ     うだいしょうけ ほけどう   まい  せし  たま    ぶつじ  しゅうされ
仁治元年(1240)十二月大廿一日庚辰。今朝、前武州 評定衆等を相具し、右大將家法華堂に參ら令め給ひ、佛事を修被る。

しょうごんぼうそうづぎょうゆうどうしたり  これ  こ おきのじろうさえもん にゅうどう ぎょうあ   しょなぬか  きけいたる  よっ  なり
莊嚴房僧都行勇導師爲。是、故隱岐次郎左衛門入道行阿の初七日の忌景爲に依て也。

およ きょうこう ひょうじょうしゅう いげ  をい   くじ   かか   やからのぼつごは  かなら ついぜん はげ  べ   のよし  しゅうぎ  およ    うんぬん
凡そ向後 評定衆 以下に於て公事に携はる輩之没後者、必ず追善に勵む可き之由、衆談に及ぶと云々。

現代語仁治元年(1240)十二月大二十一日庚辰。前武州泰時さんは政務会議メンバーを連れて、頼朝様の墳墓法華堂へお出掛けになられ、法事をしました。荘厳房僧都退耕行勇が指導僧です。これは、故隠岐次郎左衛門入道行阿二階堂基行の初七日の法要日だからです。今後は、政務会議メンバー等の公務に係り人が亡くなった時は、必ず皆で法要に勤めるよう、皆に話をされましたとさ。

仁治元年(1240)十二月大廿三日壬午。春日社并二所三嶋毎月御神樂事。明春正月十七日可被始行之由。今日爲兵庫頭定員奉行被仰下政所云々。

読下し                      かすがしゃなら    にしょ みしま まいげつ  おかぐら  こと  みょうしゅん しょうがつ じうしちにち しぎょうされ  べ   のよし
仁治元年(1240)十二月大廿三日壬午。春日社并びに二所三嶋毎月の御神樂の事、明春 正月 十七日 始行被る可き之由、

きょう  ひょうごのかみさだかず ぶぎょう  な  まんどころ おお  くだされ    うんぬん
今日、兵庫頭定員 奉行と爲し政所に仰せ下被ると云々。

現代語仁治元年(1240)十二月大二十三日壬午。春日大社それに箱根神社と走湯神社二権現と三島大社への毎月のお神楽の奉納について、来春正月十七日から始めるように、今日、兵庫頭藤原定員が担当して、政務事務所に命令されましたとさ。

吾妻鏡入門第卅三巻

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