吾妻鏡入門第卅五巻

寛元元年癸卯(1243)十二月小

寛元々年(1243)十二月小二日甲戌。天霽風靜。今日未尅。將軍家小御所御移徙也。武州有經營等。即被參。又評定衆等參會云々。

読下し                     そらはれかぜしずか きょうひつじのこく しょうぐんけ こごしょ   ごいし なり  ぶしゅうけいえいら あ    すなは まいられ
寛元々年(1243)十二月小二日甲戌。天霽風靜。 今日未尅、將軍家小御所の御移徙也。武州經營等有り。即ち參被る。

また ひょうじょうしゅうら さんかい うんぬん
又、評定衆等 參會すと云々。

現代語寛元々年(1243)十二月小二日甲戌。空は晴まして風は静かです。今日、午後2時頃、将軍頼経様が小御所の引っ越しです。武州経時さんが宴会を用意しました。すぐに来られました。又、政務会議メンバーも同席しましたとさ。

寛元々年(1243)十二月小十日壬午。天リ。丑刻。新造壇所〔御所巽角〕大僧正坊被遂移徙。佐渡前司。能登前司。但馬前司。出羽前司等參入。毛利藏人大夫入道儲盃酒以下事云々。

読下し                     そらはれ うしのこく  しんぞう  だんしょ 〔ごしょ たつみかど〕 だいそうじょうぼう いし   と   られ
寛元々年(1243)十二月小十日壬午。天リ。丑刻。新造の壇所〔御所の巽角〕大僧正坊移徙を遂げ被る。

 さどのぜんじ  のとのぜんじ   たじまのぜんじ  でわのぜんじ らさんにゅう   もうりくらんどたいふにゅうどうはいしゅ いげ   こと  もうけ   うんぬん
佐渡前司、能登前司、但馬前司、出羽前司等參入す。毛利藏人大夫入道盃酒以下の事を儲ると云々。

現代語寛元々年(1243)十二月小十日壬午。空は晴です。午前2時頃、新築のお祈り場所〔御所の東南の角です〕へ大僧正房道慶(頼経叔父)の引っ越しを終えました。佐渡前司後藤基綱・能登前司三浦光村・但馬前司藤原定員・出羽前司二階堂行義達もやってきました。毛利蔵人大夫入道西阿(季光)が酒を始めとする御馳走を用意しました。

寛元々年(1243)十二月小廿二日甲午。奴婢雜人男女子息之事。有其沙汰。十歳内可被付父母。十歳以後。就年記可有御成敗。於京都族者。不及御口入云々。

読下し                        ぬひ ぞうにん  だんじょ しそく のこと  そ   さた あ
寛元々年(1243)十二月小廿二日甲午。奴婢@雜人Aの男女子息之事、其の沙汰有り。

じっさい  うち   ふぼ   つ   られ  べ    じっさい いご     ねんき  つ   ごせいばい あ   べ     きょうと  やから をい  は   ごくにゅう  およばず  うんぬん
十歳の内は父母に付け被る可し。十歳以後は、年記に就き御成敗有る可し。京都の族に於て者、御口入に不及と云々。

参考@奴婢は、女性の奴隷と男性の奴隷。日本の場合は、欧米の奴隷制度と違い奴隷同士所帯を持つ等かなり自由な面もあったらしいので奴隷的下部とした。
参考A雜人は、雑用をする下部だが、主人に隷属しているので、隷属的雇用人とした。ぞうにん雑人とは、平安時代から鎌倉時代において使われた用語で、「身分が低い者 」を意味する。だが、用法としては一般庶民を指す場合と主家に隷属して雑事に従事して 動産として売買・譲渡の対象とされた賎民を指す場合がある。ウィキペディア

現代語寛元々年(1243)十二月小二十二日甲午。奴隷的下部や隷属的雇用人の男女の子供について、検討をしました。十歳までは父母の所に置いておくこと。十歳を越えたら、年齢によって判断する事。京都の連中で幕府と関係ない者は関与しないんだとさ。

寛元々年(1243)十二月小廿五日丁酉。天霽。信濃法印道禪於南御堂廊被行結縁潅頂。將軍并御臺所同御母儀等御出。依被相催。諸人群參云々。

読下し                       そらはれ  しなののほういんどうぜん みなみみどう ろう  をい  けちえんかんちょう おこなはれ
寛元々年(1243)十二月小廿五日丁酉。天霽。信濃法印道禪 南御堂の 廊に於て 結縁潅頂 を行被る。

しょうぐんなら  みだいどころ  おな   おんははぎ ら おんいで  あいもよおされ  よっ    しょにんぐんさん   うんぬん
將軍并びに御臺所@、同じき御母儀A等御出。相催被るに依て、諸人群參すと云々。

参考@御臺所は、正妻。持明院藤原家行の女。
参考
A御母義は、若君頼嗣の母で、二棟の御方と呼ばれる妾で、中原親能の女。

現代語寛元々年(1243)十二月小二十五日丁酉。空は晴れました。信濃法印道禅南御堂勝長寿院の廊下で、仏との縁を結ぶため聖水をかける儀式を行いました。将軍頼経様それに正妻と若君の母の妾もお出でになり実施したので、見物と結縁のため皆が群れなして集まって来ましたとさ。。

寛元々年(1243)十二月小廿九日辛丑。天霽。午一点。白虹貫日。將軍家被御覽。諸人又見之。日脚昇半天。未四尅。此變訖。召司天等。直被尋聞食。就上座。先泰貞申云。暈虹先々有相論。至今度無所交。但有雲於貫日之條者。眼精不及云々。リ賢申貫日之由。國継。リ茂。廣資等一同申白虹之旨。武州參給。其後於御所南庭。被行七座泰山府君祭。

読下し                       そらはれ うまのいってん はっこう ひ  つらぬ    しょうぐんけ ごらんされ   しょにんまたこれ  み
寛元々年(1243)十二月小廿九日辛丑。天霽。午一点@、白虹日を貫ぬくA。將軍家御覽被る。諸人又之を見る。

ひあしはんてん のぼ    ひつじのよんとき かく へんをはんぬ してんら   め     じき  たず  き     め され    かみざ  つ     ま   やすさだもう    い
日脚半天に昇る 未四尅、 此の變 訖。司天等を召し、直に尋ね聞こし食被る。上座に就き、先ず泰貞申して云はく。

うんこうさきざきそうろんあ     このたび いた  まじ   ところな     ただ  くもあ     ひ  つらぬ のじょう  をい  は   がんせい  およばず  うんぬん
暈虹先々相論有り。今度に至り交はる所無し。但し雲有りて日を貫く之條に於て者、眼精に不及と云々。

はるかたひ  つらぬ のよし  もう    くにつぐ  はるもち  ひろすけら いちどう  はっこう のむね もう
リ賢日を貫く之由を申す。國継、リ茂、廣資等一同に白虹之旨を申す。

ぶしゅうまい  たま    そ   ご ごしょ  なんてい  をい    しちざ  たいさんふくんさい  おこなはれ
武州參り給ふ。其の後御所の南庭に於て、七座の泰山府君祭を行被る。

参考A白虹日を貫くは、近い内に戦が始まる前兆。

現代語寛元々年(1243)十二月小二十九日辛丑。空は晴れました。11時過ぎに白い虹が太陽を貫いています。将軍頼経様が見ました。人々もこれを見ました。お日様が頂点を越えた14:00頃にこの異変は終わりました。天文方を呼んで直接お尋ねになりました。上席に居るのでまず、泰貞が申しあげるのには、「かさの虹は以前にも言い争いがありました。今度も意見が合うことはありませんでした。但し、雲があって日を貫くのは、目では見えません」との事です。晴賢は「日を貫いている。」と云います。国継・晴茂・広資達は一斉に白い虹だと云います。
武州北条経時がやってきました。その後、御所の南庭で、七人の泰山府君祭を行いました。

解説@時刻の點は、2時間を5等分したのが点。なら11時〜11:24を一点、11:24〜11:48を二点、11:48〜12:12を三点、12:12〜12:36を四点、12:36〜13:00を五点。なら13時〜13:24を一点、13:24〜13:48を二点、13:48〜14:12を三点、14:12〜14:36を四点、14:36〜15:00を五点。

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