吾妻鏡入門第卅五巻

寛元二年甲辰(1244)正月大

寛元二年(1244)正月大一日壬寅。天霽。垸飯。武州御沙汰。御劔前右馬頭〔布衣〕。御弓矢若狹前司泰村〔布衣〕。御行騰沓秋田城介義景〔布衣平礼〕。
一御馬〔置鞍〕 北條左近大夫將監 梶原右(左)衛門尉
二御馬     遠江次郎左衛門尉 同五郎左衛門尉
三御馬     武藤左衛門尉   同左近將監
四御馬     平新左衛門尉   同四郎
五御馬     北條六郎     弥次郎左衛門尉
將軍家并若君。御臺二棟御方御行始。皆渡御武州御亭云々。今日。爲將軍家御願。於久遠壽量院。被修如意輪法。大納言法印隆弁奉仕之。此外。初夜轉讀最勝王經。日中觀音品。後夜以後眞讀大般若經云々。

読下し                   そらはれ  おうばん  ぶしゅう  おんさた   ぎょけん  さきのうまごんのかみ〔ほい〕   おんゆみや   わかさのぜんじやすむら 〔 ほい 〕
寛元二年(1244)正月大一日壬寅。天霽。垸飯。武州の御沙汰。御劔は、前右馬頭〔布衣〕。御弓矢は、若狹前司泰村〔布衣〕

おんむかばきくつ あいだのじょうすけよしかげ〔ほい ひれ 〕
御行騰沓は、秋田城介義景〔布衣平礼〕。

いちのおんうま  〔 くら  お   〕  ほうじょうさこんたいふしょうげん   かじわらさえもんのじょう
 一御馬〔鞍を置く〕 北條左近大夫將監  梶原左衛門尉

 にのおんうま             とおとうみのじろうさえもんのじょう  おなじきごろうさえもんのじょう
 二御馬       遠江次郎左衛門尉  同五郎左衛門尉

さんのおんうま             むとうのさえもんのじょう        おなじきさこんしょうげん
 三御馬       武藤左衛門尉    同左近將監

 しのおんうま              へいしんさえもんのじょう       おなじきしろう
 四御馬       平新左衛門尉    同四郎

 ごのおんうま              ほうじょうろくろう            いやじろうさえもんのじょう
 五御馬       北條六郎      弥次郎左衛門尉

しょうぐんけ なら   わかぎみ  みだい にとうのおんかた みゆきはじめ  みなぶしゅう  おんてい  わた  たま   うんぬん
將軍家并びに若君、御臺、二棟御方 御行始。 皆武州の御亭に渡り御うと云々。

きょう   しょうぐんけ  ごがん   な     くおんじゅりょういん  をい    にょいりんほう  しゅうされ   だいなごんほういんりゅうべんこれ  ほうし
今日、將軍家の御願と爲し、久遠壽量院に於て、如意輪法を修被る。大納言法印隆弁之を奉仕す。

 こ  ほか  はつよ  てんどく さいしょうおうきょう  にっちゅう かんのんぼん  のちよ いご   しんどくだいはんにゃきょう うんぬん
此の外、初夜の轉讀は最勝王經。 日中は觀音品。 後夜以後は眞讀大般若經と云々。

現代語寛元二年(1244)正月大一日壬寅。空は晴れました。将軍への御馳走のふるまいは、武州北条経時さんの負担です。刀の献上は、前右馬頭北条政村〔狩衣〕。弓矢の献上は、若狭前司三浦泰村〔狩衣〕。乗馬袴(ローハイド)は、秋田城介安達義景〔狩衣に平礼〕。
 一の馬〔鞍置く〕 北条左近大夫将監時頼   と 
梶原左衛門尉景俊
 二の馬      遠江次郎左衛門尉佐原光盛 と 同五郎左衛門尉佐原盛時
 三の馬      武藤左衛門尉景頼     と 同左近将監兼頼
 四の馬      平新左衛門尉盛時     と 同四郎胤泰
 五の馬      北条六郎時定       と 弥次郎左衛門尉親盛
将軍頼経様それに若君(後の頼嗣)、正妻(持明院藤原家行の女)・妾で若君母の二棟の方のお出かけ始めです。皆武州経時の屋敷にお渡りです。
今日、将軍頼経様の願として、持仏堂の久遠寿量院で、如意輪観音のお経をあげました。大納言法印隆弁が勤めました。
この他、元旦の夜の摺り読みのお経は最勝王経。昼間は観音経。夜中以後はきちんと大般若経だそうな。

寛元二年(1244)正月大二日癸夘。垸飯。相摸右近大夫將監沙汰。御劔北條左近大夫將監。御弓矢但馬前司定員。御行騰沓石見前司能行。
一御馬〔置鞍〕 相摸七郎     小河右衛門尉
二御馬     駿河式部大夫   同八郎左衛門尉
三御馬     但馬左衛門大夫  齋藤左近將監
四御馬     本間山城前司   對馬太郎
五御馬     越後次郎     同三郎

読下し                   おうばん  さがみうこんたいふしょうげん   さた   ぎょけん    ほうじょうさこんたいふしょうげん おんゆみや   たじまのぜんじさだかず
寛元二年(1244)正月大二日癸夘。垸飯。相摸右近大夫將監の沙汰。御劔は、北條左近大夫將監。御弓矢は、但馬前司定員。

おんむかばきくつ  いわみのぜんじよしゆき
御行騰沓は、石見前司能行。

いちのおんうま  〔 くら  お   〕  さがみのしちろう           おがわのうえもんのじょう
 一御馬〔鞍を置く〕 相摸七郎      小河右衛門尉

 にのおんうま            するがのしきぶたいふ        おなじきはちろうさえもんのじょう
 二御馬      駿河式部大夫    同八郎左衛門尉

さんのおんうま            たじまのさえもんたいふ        さいとうさこんしょうげん
 三御馬      但馬左衛門大夫   齋藤左近將監

 しのおんうま             ほんまやましろぜんじ         つしまのたろう
 四御馬      本間山城前司    對馬太郎

 ごのおんうま             えちごのじろう             おなじきさぶろう
 五御馬      越後次郎      同三郎

現代語寛元二年(1244)正月大二日癸卯。将軍への御馳走のふるまいは、相模右近大夫将監時定の負担。刀の献上は北条左近将監時頼。弓矢の献上は但馬前司藤原定員。乗馬袴は石見前司。
 一の馬〔鞍置く〕 相模七郎北条時弘    と 小川右
衛門尉
 二の馬      駿河式部大夫三浦家村  と 同八郎左衛門尉胤村
 三の馬      但馬左衛門大夫藤原定範 と 斉藤左近将監
 四の馬      本間山城前司元忠    と 対馬太郎佐々木頼氏
 五の馬      越後次郎        と 同三郎

寛元二年(1244)正月大三日甲辰。天霽。垸飯。遠江入道沙汰。御劔毛利兵衛大夫廣光。御調度遠江式部大夫時章。御行騰備前守時長。
一御馬〔置鞍〕 遠江修理亮    大見左衛門尉
二御馬     平新左衛門尉   同四郎
三御馬     廣河五郎左衛門尉 同八郎
四御馬     佐原七郎左衛門尉 同兵衛三郎
五御馬     遠江三郎左衛門尉 飯田五郎

読下し                   そらはれ  おうばん  とおとうみにゅうどう さた   ぎょけん    もうりのひょうたいふひろみつ  ごちょうど    とおとうみしきぶのたいふときあき
寛元二年(1244)正月大三日甲辰。天霽。垸飯。遠江入道の沙汰。御劔は、毛利兵衛大夫廣光。御調度は、遠江式部大夫時章。

おんむかばき   びぜんのかみときなが
御行騰は、備前守時長。

いちのおんうま  〔 くら  お   〕  とおとうみしゅりさかん       おおみのさえもんのじょう
 一御馬〔鞍を置く〕 遠江修理亮     大見左衛門尉

 にのおんうま            へいしんさえもんのじょう      おなじきしろう
 二御馬      平新左衛門尉    同四郎

さんのおんうま            ひろかわのごろうさえもんのじょう  おなじきはちろう
 三御馬      廣河五郎左衛門尉  同八郎

 しのおんうま             さわらのしちろうさえもんのじょう  おなじきひょうさぶろう
 四御馬      佐原七郎左衛門尉  同兵衛三郎

 ごのおんうま             とおとうみのさぶろうさえもんのじょう いいだのごろう
 五御馬      遠江三郎左衛門尉  飯田五郎

現代語寛元二年(1244)正月大三日甲辰。空は晴れました。将軍への御馳走のふるまいは、遠江入道北条朝時さんの負担です。刀の献上は、毛利兵衛大夫広光。弓矢の献上は、遠江式部大夫時章。乗馬袴(ローハイド)は、備前守北条時長。
 一の馬〔鞍置く〕 遠江修理亮北条時幸  と 大見
左衛門尉実景
 二の馬      平新左衛門尉盛時   と 同四郎
 三の馬      広川五郎左衛門尉   と 同八郎
 四の馬      佐原七郎左衛門尉政連 と 同兵衛三郎
 五の馬      遠江三郎左衛門尉   と 飯田五郎家重

寛元二年(1244)正月大四日乙巳。及子刻。將軍家内々以御使。被仰大納言法印隆弁云。今年御本命宿月曜也。而來十六日月蝕。殊可有御愼之由。天文宿曜兩道所勘申也。今度不正現之樣。可祈請者。隆弁一旦雖申子細。重被仰之間。領状云々。

読下し                    ねのこく  およ   しょうぐんけないない  おんし  もっ    だいなごんほういんりゅうべん おお  られ  い
寛元二年(1244)正月大四日乙巳。子刻に及び、將軍家内々に御使を以て、大納言法印隆弁に仰せ被て云はく。

ことし  ごほんめい げつよう  やど  なり  しか    きた じうろくにちげっしょく  こと  おんつつし あ   べ   のよし  てんもん  すくよう  りょうどう  かん  もう ところなり
今年の御本命月曜に宿す也。而るに來る十六日月蝕。殊に御愼み有る可き之由、天文・宿曜の兩道が勘じ申す所也。

このたび せいげんせざるのさま  きしょうすべ  てへ    りゅうべんいったん しさい  もう   いへど    かさ    おお  られ のあいだ りょうじょう   うんぬん
今度 正現不之樣、 祈請可し者り。隆弁一旦は子細を申すと雖も、重ねて仰せ被る之間、領状すと云々。

現代語寛元二年(1244)正月大四日乙巳。夜中に0時になって、将軍頼経様は内々に使いを出して、大納言法印隆弁に「今年の私の星周りは月曜になります。しかし、今度の16日は月食があります。特に自嘲するように、天文方も陰陽師も双方が上申しています。今度の月食が見えないように祈りなさい。」と伝えました。隆弁は、一度は無理だと渋りましたが、続けて云われたので了解しましたとさ。

寛元二年(1244)正月大五日丙午。御弓始。秋田城介爲申次。持參射手記。將軍家上御簾有御覽。
射手
 一番
  武田七郎     岡邊左衛門四郎
 二番
  桑原平内     早河太郎
 三番
  眞板五郎次郎   對馬太郎
 四番
  肥田四郎左衛門尉 工藤三郎
 五番
  小野澤次郎    山内左衛門次郎

読下し                   おんゆみはじ   あいだのじょうすけ もう  つぎたり   いて   き   じさん    しょうぐんけおんみす あ   ごらんあ
寛元二年(1244)正月大五日丙午。御弓始め。 秋田城介 申し次爲。射手の記を持參す。將軍家御簾を上げ御覽有り。

 いて
射手

  いちばん
 一番

    たけだのしちろう          おかべのさえもんしろう
  武田七郎     岡邊左衛門四郎

   にばん
 二番

    くわばらのへいない        はやかわのたろう
  桑原平内@     早河太郎     

  さんばん
 三番

    まいたのごろじろう         つしまのたろう
  眞板五郎次郎A   對馬太郎     

  よんばん
 四番

    ひたのしろうさえもんのじょう    くどうさぶろう
  肥田四郎左衛門尉B 工藤三郎     

   ごばん
 五番

    おのざわのじろう           やまのうちのさえもんじろう
  小野澤次郎    山内左衛門次郎

参考@桑原は、伊豆の武士。
参考A真板は、鎌倉末期には山城国久世庄へ。
参考B肥田は、豊後日田。

現代語寛元二年(1244)正月大五日丙午。年明け初めての弓始めです。秋田城介安達義景が取次です。射手の記述を持ってきました。将軍頼経様は御簾を上げてご覧になりました。
射手
 一番は、武田七郎     VS 岡辺左衛門四郎
 二番は、桑原平内盛時   VS 早川太郎
 三番は、真板五郎次郎経朝 VS 対馬太郎佐々木頼氏
 四番は、肥田四郎左衛門尉 VS 工藤三郎光泰
 五番は、小野沢次郎時仲  VS 山内左衛門次郎

寛元二年(1244)正月大六日丁未。窮冬白虹貫日之變御祈等可始行之由被仰下。師員朝臣爲奉行。

読下し                   きゅうとう  はっこう ひ  つらぬ のへん  おいのりら  しぎょうすべ  のよしおお  くだされ   もろかずあそんぶぎょうたり
寛元二年(1244)正月大六日丁未。窮冬、白虹日を貫く之變の御祈等を始行可き之由仰せ下被る。師員朝臣奉行爲。

現代語寛元二年(1244)正月大六日丁未。去年の12月29日の白虹が日を貫く異変のお祈りを始めるように仰せになりました。中原師員さんが担当です。

寛元二年(1244)正月大八日己酉。天變御祈等被修之。
 内法
  八字文殊〔卿僧正〕     北斗〔常住院僧正〕
  藥師〔大藏卿僧正〕     尊星王〔信濃法印〕
  金剛童子〔如意寺法印圓意〕 愛染王〔大夫法印賢長〕
  金輪〔大貳法印〕
   以上護摩
 外典
  天地(災)變祭〔泰貞朝臣〕 属星祭〔リ賢朝臣〕

読下し                   てんぺん おいのりらこれ  しゅうされ

寛元二年(1244)正月大八日己酉。天變の御祈等之を修被る。

  ないほう
 内法

    はじじもんじゅ  〔きょうのそうじょう〕        ほくと 〔じょうじゅいんそうじょう〕
  八字文殊〔卿僧正〕     北斗〔常住院僧正〕

    やくそ  〔おおくらきょうそうじょう〕          そんじょうおう 〔しなののほういん〕
  藥師〔大藏卿僧正〕      尊星王@〔信濃法印〕

    こんごうどうじ  〔にょういほういんえんい〕      あいぜんおう 〔たいふほういんけんちょう〕
  金剛童子〔如意寺法印圓意〕 愛染王〔大夫法印賢長〕

    こんろん 〔だいにほういん〕
  金輪〔大貳法印〕

       いじょう ごま
   以上護摩

  げてん
 外典

    てんじさいへんさい 〔やすさだあそん〕   ぞくしょうさい 〔はるかたあそん〕
  天地災變祭〔泰貞朝臣〕 属星祭〔リ賢朝臣〕

参考@尊星王は、北極星を神格化したもので、妙見菩薩ともいわれる。

現代語寛元二年(1244)正月大八日己酉。天変へのお祈りを勤めました。
仏教は、八字文殊が卿僧正快雅。北斗星が常住院僧正道慶。薬師如来が大蔵卿僧正良信。尊星王が、信濃法印道禅。金剛童子が、如意寺法印円意。愛染明王が大夫法印賢長。一字金輪は、大弐法印円仙。以上は、護摩炊きです。
仏教以外の陰陽師は、天地災変祭が安陪泰貞さん。属星祭が晴賢さん。

寛元二年(1244)正月大十一日壬子。同御祈。於鶴岡若宮。大般若經轉讀。伊豆。筥根〔已上本地供。各別當參籠。供料爲政所沙汰可下行云々〕。三嶋。本地供〔禪暹僧都〕。

読下し                     おな    おいのり つるがおかわかみや  をい   だいはんにゃきょう てんどく
寛元二年(1244)正月大十一日壬子。同じき御祈、 鶴岡若宮に 於て、大般若經 轉讀。

 いず   はこね   〔いじょう  ほんじぐ  おのおの べっとう さんろう    くりょう   まんどころ   さた    な    くだ  おこな  べ     うんぬん 〕 みしま    ほんちぐ    〔ぜんせんそうづ〕
伊豆。筥根。〔已上本地供。 各 別當參籠す。供料は政所の沙汰と爲し下し行う可きと云々〕三嶋。本地供。〔禪暹僧都〕

現代語寛元二年(1244)正月大十一日壬子。同じ天変のお祈りを、鶴岡八幡宮で大般若経の摺り読みです。伊豆走湯神社・箱根神社〔以上は本地垂迹の仏への供養です。それぞれ筆頭がおこもりをしました。お経料は政務事務所が負担しておこなったそうな〕三島神社も本地垂迹仏の供養です〔禅暹僧都〕。

寛元二年(1244)正月大十二日癸丑。孔雀明王供〔大納言法印守海〕。佛眼護摩〔大納言法印隆弁〕等被修之。

読下し                     くじゃくみょうおうぐ  〔だいなごんほういんしゅかい〕   ぶつがん ごま  〔 だいなごんほういんりゅうべん 〕 ら これ  しゅうされ
寛元二年(1244)正月大十二日癸丑。孔雀明王供〔大納言法印守海〕。佛眼@護摩〔大納言法印隆弁〕等之を修被る。

参考@仏眼は、五眼の一つで一切を見通す。密教で崇められる仏の一尊。真理を見つめる眼を神格化した経典。

現代語寛元二年(1244)正月大十二日壬丑。孔雀明王のお経を上げてくようです〔大納言法印守海〕。仏眼の護摩炊き〔大納言法印隆弁〕等を勤めました。

寛元二年(1244)正月大十六日丁巳。天リ。自朝至戌刻。更無一雲。臨月蝕之期。自未申方。片雲漸聳。忽覆普天。細雨頻降。復末以後。朗月早現。丑刻。將軍家以御自筆御賀札。被遣御馬〔号直山。名馬也。置鞍〕御劔〔皆白〕等於隆弁之壇所。肥後三郎左衛門尉爲重〔父前太宰少貳爲佐。當時爲内御厩別當〕爲御使。彼法印。自去八日。參籠明王院北斗堂祈請。

読下し                     そらはれ  あさよ  いぬのこく いた   さら  いちうんな
寛元二年(1244)正月大十六日丁巳。天リ。朝自り戌刻に至り。更に一雲無し。

げっしょく のご  のぞ   ひつじさる ほうよ    へんうんようや そび   たちま ふてん  おお    さいう しき    ふ     おわり いご  ろうげつはや  あらわ
月蝕之期に臨み、未申の方自り、片雲漸く聳え、忽ち普天を覆い、細雨頻りに降る。復 末以後、朗月早く現る。

うしのこく しょうぐんけおんじひつ  おんがさつ  もっ    おんうま 〔じきやま   ごう   めいばなり   くら  お    〕 ぎょけん 〔かいはく〕  らを りゅうべんのだんしょ  つか  され
丑刻、將軍家御自筆の御賀札を以て、御馬〔直山と号す名馬也。鞍を置く〕御劔〔皆白〕等於隆弁之壇所に遣は被る。

ひごのさぶろうさえもんのじょうためしげ 〔 ちち  さきのだざいしょうにためすけ  とうじうちのみんまや  べっとう  な   〕 おんしたり
肥後三郎左衛門尉爲重〔父は前太宰少貳爲佐。當時内御厩の別當を爲す〕御使爲。

か  ほういん  さんぬ ようかよ     みょうおういん ほくとどう  さんろう  きしょう
彼の法印、去る八日自り、明王院北斗堂に參籠し祈請す。

現代語寛元二年(1244)正月大十六日丁巳。空は晴です。朝から午後8時まで雲一つありませんでした。月食の時間になって、西南の方から千切れ雲がやっと出てきて瞬く間に天に広がり、小雨が盛んに降って来ました。又、月食の終わり以後に、明るく澄みきった月が出てきました。午後12時頃、将軍頼経様は自筆の礼状を添えて馬〔直山と呼ぶ名馬です。鞍も置いて〕と刀〔全て白く作られている飾り太刀〕を隆弁の祈祷遮へ送られましたとさ。肥後三郎左衛門尉狩野為重〔父は前太宰少弐狩野為佐。今は将軍用の厩舎の筆頭をしてます〕が使いをしました。その法印は、先日の8日から、五大堂明王院の北斗堂におこもりをして祈っています。

寛元二年(1244)正月大十七日戊午。將軍家二所御精進始也。爲令浴潮給。出由比浦御。

読下し                      しょうぐんけにしょ  ごしょうじんはじ  なり  うしお よくせし  たま    ため  ゆいのうら  いでたま
寛元二年(1244)正月大十七日戊午。將軍家二所の御精進始め也。潮に浴令め給はん爲、由比浦へ出御う。

現代語寛元二年(1244)正月大十七日戊午。将軍頼経様は、走湯・箱根の両権現へのお参りの精進潔斎始めです。潮で体を清めるため由比浦へお出でです。

寛元二年(1244)正月大廿日辛酉。陰陽師業氏朝臣爲敵被殺害云々。

読下し                   おんみょうじなりうじあそんかたき ため せつがいされ   うんぬん

寛元二年(1244)正月大廿日辛酉。陰陽師業氏朝臣敵の爲 殺害被ると云々。

現代語寛元二年(1244)正月大二十日辛酉。陰陽師の業氏さんが占い仇のためにころされましたとさ。

寛元二年(1244)正月大廿一日壬戌。二所御進發。北條左親衛供奉給。

読下し                      にしょ  ごしんぱつ  ほうじょうさしんえい ぐぶ   たま
寛元二年(1244)正月大廿一日壬戌。二所へ御進發。北條左親衛供奉し給ふ。

現代語寛元二年(1244)正月大二十一日壬戌。走湯・箱根の両権現へのお参りの二所詣でに出発です。北条左親衛時頼はお供をしました。

寛元二年(1244)正月大廿二日癸亥。筥根御奉幣也。衆徒与供奉人等方(及)延年。各施藝云々。

読下し                      はこね  ごほうへいなり  しゅうとと ぐぶにんら えんねん  およ   おのおの げい  ほどこ   うんぬん
寛元二年(1244)正月大廿二日癸亥。筥根の御奉幣也。衆徒与供奉人等延年に及び、各  藝を施すと云々。

現代語寛元二年(1244)正月大二十二日壬亥。箱根神社へ幣を納めました。神社の僧兵達と将軍のお供の人達とで、演芸会をしました。それぞれ芸を披露しました。

寛元二年(1244)正月大廿三日甲子。三嶋御奉幣。將軍家并供奉人々有千度詣。其後及管絃歌詠等御遊。

読下し                     みしま  ごほうへい   しょうぐんけなら    ぐぶ   ひとびとせんどもうであ     そ   ご かんげんかえいら   ごゆう   およ
寛元二年(1244)正月大廿三日甲子。三嶋の御奉幣。將軍家并びに供奉の人々千度詣有り。其の後管絃歌詠等の御遊に及ぶ。

現代語寛元二年(1244)正月大二十三日甲子。三島大社への幣の奉納です。将軍頼経様とお供の人々で千度詣でをしました。その後、音楽や歌の遊びを楽しみました。

寛元二年(1244)正月大廿四日乙丑。甚雨暴風。令參伊豆山給。降雨之間。供奉人皆舐鼻。彼山衆徒等。終夜催延年興。

読下し                     はなは あめぼうふう   いずさん  まい  せし  たま    こううのあいだ  ぐぶにん みなはな な
寛元二年(1244)正月大廿四日乙丑。甚だ雨暴風。伊豆山に參ら令め給ふ。降雨之間、供奉人皆鼻を舐める。

 か  やま  しゅうとら よもすがらえんねん  きょう もよお
彼の山の衆徒等、終夜延年の興を催す。

現代語寛元二年(1244)正月大二十四日乙丑。ひどい雨と暴風です。伊豆山権現走湯神社へ着きました。雨が降っていてもお供の人は笠もかぶらず顔の雨を舐めるようです。ここの神社の僧兵達が一晩中演芸会で楽しませました。

寛元二年(1244)正月大廿五日丙寅。雨降。夕休止。有走湯山御奉幣。昨日依爲坎日。延而及今朝。入夜。着濱部宿給。

読下し                     あめふ     ゆう  きゅうし  そうとうさん  ごほうへいあ     さくじつかんにちたる よっ    のば  て けさ   およ
寛元二年(1244)正月大廿五日丙寅。雨降る。夕に休止。走湯山の御奉幣有り。昨日坎日@爲に依て、延し而今朝に及ぶ。

 よ  い     はまべ  しゅく  つ  たま
夜に入り、濱部の宿Aに着き給ふ。

参考@坎日は、古暦で忌まれた日、1月辰・2月丑・3月戌・4月未.5月卯・6月子・7月酉・8月午・9月寅・10月亥・11月申・12月巳。24日は丑だし1月は辰なのに。
参考A
濱部の宿は、神奈川県小田原市鴨宮。

現代語寛元二年(1244)正月大二十五日丙寅。雨降りです。夕方に止みました。伊豆山権現走湯神社へ幣の奉納をしました。昨日は坎日なので延期して今朝にしました。夜になって浜部の宿に着きました。

寛元二年(1244)正月大廿六日丁夘。未刻入御幕府。

読下し                    ひつじのこく ばくふ  い   たま
寛元二年(1244)正月大廿六日丁夘。未刻、幕府に入り御う。

現代語寛元二年(1244)正月大二十六日丁卯。午後2時頃に、幕府に入られました。

寛元二年(1244)正月大廿七日戊辰。御所中有垸飯。人々着布衣參入。事終。於二棟御所酒宴云々。

読下し                     ごしょちゅう  おうばんあ    ひとびと ほい   き   さんにゅう   ことおわ    にとうごしょ   をい  しゅえん うんぬん
寛元二年(1244)正月大廿七日戊辰。御所中に垸飯有り。人々布衣@を着て參入す。事終り、二棟御所に於て酒宴と云々。

参考@布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。かつて民間で用いられた狩装束が、簡便さと軽快さから公卿に取り入れられ日常着となった。現在は神職の正装である。

現代語寛元二年(1244)正月大二十七日戊辰。御所の中で御馳走のふるまいがありました。人々は礼服の布衣を着てきました。事が終わった後、妾の居る二棟の御所で酒宴だそうな。

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吾妻鏡入門第卅五巻

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