吾妻鏡入門第卅五巻

寛元二年甲辰(1244)三月大

寛元二年(1244)三月大一日辛丑。將軍家巡礼鎌倉中諸堂。又歴覽櫻花給。是依變異事。有所思食之故也。

読下し                    しょうぐんけ  かまくらじゅう しょどう じゅんれい   また  おうか  れきらん  たま
寛元二年(1244)三月大一日辛丑。將軍家、鎌倉中の諸堂を巡礼す。又、櫻花を歴覽し給ふ。

これ  へんい  こと  よっ    おぼ  め  ところあ   のゆえなり
是、變異の事に依て、思し食す所有る之故也。

現代語寛元二年(1244)三月大一日辛丑。将軍頼経様は、鎌倉中の色々なお堂を巡礼参りしました。又、桜の花を見て歩きました。これは、天変地異があったので思いついての事です。

寛元二年(1244)三月大十二日壬子。戌刻。若君御前又御不例。爲但馬前司定員奉行。有御祈等沙汰云々。

読下し                     いぬのこく  わかぎみごぜんまた ごふれい  たじまのぜんじさだかず ぶぎょう  な    おいのりら    さた あ     うんぬん
寛元二年(1244)三月大十二日壬子。戌刻、若君御前又御不例。 但馬前司定員 奉行と爲し、御祈等の沙汰有りと云々。

現代語寛元二年(1244)三月大十二日壬子。午後8時頃、若君(後の頼嗣)が又も具合が悪くなりました。但馬前司藤原定員が担当して、お祈りをさせる事になりましたとさ。

寛元二年(1244)三月大十三日癸丑。若君御方有護身等之上。被行御祭。泰山府君〔リ賢〕。土公〔泰貞〕。鬼氣〔國継〕。

読下し                      わかぎみ おんかた  ごしんら あ   のうえ  おまつり おこなはれ   たいさんふくん 〔はるかた〕   どくう 〔やすさだ〕     きき   〔くにつぐ〕
寛元二年(1244)三月大十三日癸丑。若君の御方の護身等有る之上、御祭を行被る。泰山府君〔リ賢〕。土公〔泰貞〕。鬼氣〔國継〕。

現代語寛元二年(1244)三月大十三日癸丑。若君をお守りする祈祷をしましたが、その上陰陽師の祭りを行いました。泰山府君祭は晴賢。土神様は泰貞。鬼気は国継。

寛元二年(1244)三月大十四日甲寅。若君御祈事。武州殊令申行給。今日。隆弁法印依召參御所。以不動咒奉加持。此外重有御祭。泰山府君〔リ賢〕。鬼氣〔文元〕。咒咀〔國継〕。

読下し                      わかぎみ おいのり こと  ぶしゅうこと  もう  おこな せし  たま
寛元二年(1244)三月大十四日甲寅。若君の御祈の事、武州殊に申し行は令め給ふ。

きょう   りゅうべんほういんめし  よっ  ごしょ  まい    ふどうじゅ  もっ   かじたてまつ
今日、隆弁法印召に依て御所へ參り、不動咒を以て加持奉る。

 こ  ほかかさ   おまつりあ     たいさんふくん 〔はるかた〕    きき   〔ふみもと〕    じゅそ  〔くにつぐ〕
此の外重ねて御祭有り。泰山府君〔リ賢〕。鬼氣〔文元〕。咒咀〔國継〕。

現代語寛元二年(1244)三月大十四日甲寅。若君のお祈りについて、武州経時さんは特に注文して行わせました。今日、隆弁法印が呼ばれて御所へ来て、お不動様の真言を唱えながら加持祈祷をしました。この他にも陰陽道の祭をしました。泰山府君祭は晴賢。鬼気は文元。呪詛は国継。

寛元二年(1244)三月大十五日乙夘。若君御少減。聊聞食御膳。然而猶爲御祈祷。於御所被修不動護摩。大納言法印隆弁奉仕之。

読下し                     わかぎみごしょうげん いささ  ごぜん  き     め
寛元二年(1244)三月大十五日乙夘。若君御少減。聊か御膳を聞こし食す。

しかして  なお ごきとう  ため  ごしょ   をい   ふどうごま   しゅうされ    だいなごんほういんりゅうべん これ  ほうし
然而、猶御祈祷の爲、御所に於て不動護摩を修被る。 大納言法印隆弁 之を奉仕す。

現代語寛元二年(1244)三月大十五日乙卯。若君が回復してきました。少しご飯を召しあがりました。そこで、なおも祈祷をするために、御所でお不動様の護摩炊きをしました。大納言法印隆弁が勤めました。

寛元二年(1244)三月大十七日丁巳。申刻。依若君御不例更發。復被行御祭七座。招魂祭リ賢。文元。リ長。宣賢。國継。廣資。靈氣祭泰貞等奉仕之。但馬前司定員爲奉行。

読下し                      さるのこく わかぎみ  ごふれい さら  はっ     よっ    またおまつり しちざおこなはれ
寛元二年(1244)三月大十七日丁巳。申刻。若君の御不例更に發するに依て、復御祭を七座行被る。

しょうこんさい はるかた ふみもと はるなが  のぶかた くにつぐ ひろすけ  れいきさい やすさだら これ  ほうし    たじまのぜんじさだかず ぶぎょうたり
招魂祭はリ賢、文元、リ長、宣賢、國継、廣資。靈氣祭は泰貞等之を奉仕す。但馬前司定員 奉行爲。

現代語寛元二年(1244)三月大十七日丁巳。午後4時頃、若木の病気が再発したので、またお祓いのお祭りを七人の陰陽師で行いました。招魂祭は、晴賢・文元・晴長・宣賢・国継・広資。霊気祭は泰貞が勤めました。但馬前司藤原定員が指揮担当です。

寛元二年(1244)三月大十八日戊午。於御所。隆弁法印修不動法。是又若君御祈也。此上綱當時有驗無双之間。頻被召付之云々。

読下し                      ごしょ   をい   りゅうべんほういん ふどうほう しゅう   これまた わかぎみ おいのりなり
寛元二年(1244)三月大十八日戊午。御所に於て、隆弁法印不動法を修す。是又、若君の御祈也。

 こ  じょうこう とうじ うげん むそうのあいだ  しき    これ  めしつ   られ   うんぬん
此の上綱當時有驗無双之間、頻りに之を召付け被ると云々。

現代語寛元二年(1244)三月大十八日戊午。御所で隆弁法印がお不動様のお経を上げました。これはまたも若君のためのお祈りです。このお坊さんは、現在その効験力を比べる相手が居ませんので、盛んにこの人に命じているのだそうな。

寛元二年(1244)三月大廿四日甲子。御所御修法等結願云々。

読下し                      ごしょ   ごしゅほうら けちがん    うんぬん
寛元二年(1244)三月大廿四日甲子。御所の御修法等結願すと云々。

現代語寛元二年(1244)三月大二十四日甲子。御所での加持祈祷が終結したそうな。

寛元二年(1244)三月大廿七日丁夘。若君御不例平愈。依之今日。大納言法印隆弁。於二棟御所賜祿〔五衣一領〕。

読下し                      わかぎみ ごふれい へいゆ    これ  よっ  きょう   だいなごんほういんりゅうべん  にとうごしょ   をい  ろく  たま     〔 ごい いちりょう 〕
寛元二年(1244)三月大廿七日丁夘。若君の御不例平愈す。之に依て今日、大納言法印隆弁、二棟御所に於て祿を賜はる〔五衣一領〕

現代語寛元二年(1244)三月大二十七日丁卯。若君の病気が治りました。それなので今日、大納言法印隆弁は、若君の母(妾)の居る二棟御所で褒美を貰いました〔着物一揃い〕。

寛元二年(1244)三月大廿八日戊辰。武州對面訴人等。數輩群集。先々依被棄損訴訟。庭中言上之族也。再往聞其理非。少々与奪于攝津前司。佐渡前司。信濃民部大夫入道等方。可勘申評定云々。自當座。即相副使者於訴人。被送遣之。平左衛門四郎。万年馬允。伊東左衛門五郎等。爲御使云々。

読下し                      ぶしゅう そにんら  たいめん  すうやから ぐんしゅう   さきざきそしょう きえんされ  よっ   ていちゅう ごんじょう   のやからなり
寛元二年(1244)三月大廿八日戊辰。武州訴人等に對面す。數輩 群集す。先々訴訟を棄損被る依て、庭中に言上する之族也。

さいおう そ   りひ   き    しょうしょう せつぜんじ  さどのぜんじ  しなののみんぶたいふにゅうどうら  かたに よだつ     ひょうじょう かん  もう  べ     うんぬん
再往其の理非を聞き、少々攝津前司、佐渡前司、信濃民部大夫入道等が方于与奪して、評定を勘じ申す可きと云々。

とうざ よ     すなは ししゃを そにん  あいそ     これ  おく  つか  され    へいさえもんしろう  まんねんうまのじょう いとうさえもんごろう ら    おんしたり  うんぬん
當座自り、即ち使者於訴人に相副へ、之を送り遣は被る。平左衛門四郎、万年馬允、伊東左衛門五郎等、御使爲と云々。

現代語寛元二年(1244)三月大二十八日戊辰。武州経時さんが、訴訟人達にお会いになりました。数人が集まりました。以前に訴訟を却下されたので、庭に来て再審請求している連中です。「もう一度その、是と非の言い分を聞いて、少々、摂津前司中原師員・佐渡前司後藤基綱・信濃民部大夫入道二階堂行盛に分配して政務会議に提案してください。」との事です。その場から使いを訴訟人と共に、行かせました。平左衛門四郎・万年馬允・伊東左衛門五郎が使いになりましたとさ。

寛元二年(1244)三月大卅日庚午。若君御前御不例減氣之後。今日有御沐浴之儀。御湯加持常住院大僧正坊云々。醫師以長參入。事終於鞠御壷。以長賜御劔御馬〔置鞍〕。此間。武州。北條左親衛。前右馬權頭。足利丹後前司等被候。今日。爲若君息〔災〕御祈。令大納言法印隆弁參筥根山給。先入精進屋。來月三日可進發之由蒙嚴旨。三七ケ日可參籠云々。

読下し                    わかぎみごぜん  ごふれい げんき ののち  きょうおんもくよく のぎ あ     ごとう   かじ  じょうじゅういんだいそうじょうぼう うんぬん
寛元二年(1244)三月大卅日庚午。若君御前の御不例減氣之後、今日御沐浴之儀有り。御湯の加持は常住院大僧正坊と云々。

くすしもちながなんにゅう   ことお   まり  おんつぼ  をい    もちながぎょけんおんうま 〔くら  お   〕  たま
醫師以長參入す。事終へ鞠の御壷に於て、以長御劔御馬〔鞍を置く〕を賜はる。

 こ  あいだ ぶしゅう ほうじょうさしんえい  さきのうまごんのかみ あしかがたんごぜんじら こうざれ
此の間、武州、北條左親衛、前右馬權頭、足利丹後前司等候被る。

 きょう  わかぎみそくさい おいのり ため  だいなごんほういんりゅうべん し   はこねやま  まい  せし  たま
今日、若君息災の御祈の爲、大納言法印隆弁を 令て筥根山へ參ら令め給ふ。

 ま  しょうじんや  い    らいげつみっかしんぱつすべ のよしげんし  こうむ   みなぬかび さんろうすべ    うんぬん
先ず精進屋に入り。來月三日進發可き之由嚴旨を蒙る。三七ケ日參籠可しと云々。

現代語寛元二年(1244)三月大三十日庚午。若君の病気が回復してきたので、今日病の来をを洗い流す沐浴の儀式がありました。お湯の加持祈祷は常住院大僧正道慶だそうな。医者の丹波以長が参りました。行事が終わって蹴鞠の坪庭で、以長は刀を馬〔鞍置き〕を貰いました。これらの間、武州経時・北条左親衛時頼・前右馬権頭政村・足利丹後前司泰氏などが立ち会っていました。
今日、若君の元気な成長を願うお祈りのために、大納言法印隆弁に命じて箱根神社へ行かせました。まず、精進潔斎のためにおこもりをして、来月3日に出発するように厳しき命令を受けました。箱根には3×7=21日こもるんだそうな。

四月へ

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