吾妻鏡入門第卅五巻

寛元二年甲辰(1244)四月小

寛元二年(1244)四月小三日癸酉。若君御前御元服事。有其沙汰。先爲御祈。於春日社壇可被始行唯識講之由被仰遣。布施物被物十重。裹物十。供米十石者。可爲六波羅相州別進云々。此吉事。被點來廿一日。又依被行吉書始。令存知之。以後日同爲被令行。今日被仰六波羅云々。

読下し                   わかぎみごぜん ごげんぷく  こと   そ   さた あ
寛元二年(1244)四月小三日癸酉。若君御前御元服の事、其の沙汰有り。

 ま  おいのり  ため  かすがしゃだん をい  ゆいしきこう しぎょうされ  べ   のよしおお  つか  され
先ず御祈の爲、春日社壇@に於て唯識講を始行被る可き之由仰せ遣は被る。

 ふせもの かずけものとえ つつみものとえ  くまい じっこくは   ろくはら  そうしゅう  べっしん  な   べ    うんぬん
布施物の被物十重、裹物十、供米十石者六波羅の相州に別進と爲す可しと云々。

かく  きちじ   きた にじういちにち てん  られ
此の吉事、來る廿一日を點じ被る。

また  きっしょはじ   おこなはれ  よっ    これ  ぞんちせし    ごじつ  もっ  おな    おこな せし  られ  ため  きょう ろくはら   おお  られ   うんぬん
又、吉書始めを行被るに依て、之を存知令め、後日を以て同じく行は令め被ん爲、今日六波羅に仰せ被ると云々。

参考@春日社壇は、春日大社で藤原氏の氏神である。興福寺は氏寺。

現代語寛元二年(1244)四月小三日癸酉。若君の元服について、決定がありました。まず、無事な成人式のお祈りのために、春日大社の護摩壇で唯識経の講義を始めるように、命令を伝えさせました。お布施にする被り物10枚、風呂敷包み10個、お米10石は、六波羅探題の相州重時に別途送るようにとの事でした。
このめでたい行事は、来る二十一日に決定しました。また、成人後初の文書初めを行うので、これを承知して後日に同様に春日社へ行うように、今日六波羅探題へ通知しましたとさ。

寛元二年(1244)四月小十日庚辰。天霽。冨士姫君自駿河國御上洛云々。是依可爲有棲河黄門御猶子也。

読下し                   そらはれ  ふじひめぎみ  するがのくによ   ごじょうらく   うんぬん  これ  ありすがわこうもん  ごゆうし  たるべ     よっ  なり
寛元二年(1244)四月小十日庚辰。天霽。冨士姫君、駿河國自り御上洛と云々。是、有棲河黄門の御猶子爲可きに依て也。

参考冨士姫君は、泰時の孫娘(2月3日出演)。

現代語寛元二年(1244)四月小十日庚辰。空は晴れました。冨士姫が、駿河国から京都へ上るそうな。これは有栖川国通中納言の相続権の無い養子の猶子になるからです。

寛元二年(1244)四月小廿一日辛夘。天霽。今日。將軍家若君〔六歳。御名字頼嗣。御母中納言親能卿娘大宮局〕御元服也。依被用嘉祿之例。前佐渡守基綱奉行之。申尅有其儀。織部正リ賢朝臣〔衣冠〕持參日時勘文〔入覽筥〕。前美濃守親實朝臣於西侍〔端座〕取之。經廊根妻戸。入寢殿西面妻戸。置御座前〔板敷〕。將軍家覽之被返。入筥。親實給之。持來侍所。懷中勘文。若君着御裝束。〔有文御直衣。二倍織物。御指貫。白單。不令結御髪給。親實朝臣候之。定員爲御前裝束〕武州〔白襖狩衣。薄色生指貫。着帷下袴〕參給。二條中將教定朝臣〔布衣。上括。任嘉祿例。可奉扶持云々。然而女房被催之。無指所役歟〕。前右京權大夫資親朝臣等同候此所。御裝束訖。渡御寢殿西面〔女房奉扶持〕。召武州。々々參進。被勤仕理髪加冠〔引入御烏帽子〕。次進御前物〔土高杯。兩御方〕。
 陪膳 左近大夫將監時頼〔已下所役。兩御方被相兼之〕。
 役送 能登右近大夫仲時。毛利兵衛大夫廣光。
   兩人共爲陪膳之位次上臈也。自叶嘉祿例哉。
次冠者殿令歸入給。
次人々着庭上座。
次上御簾。大夫將監時頼役之給。
次冠者殿改換御裝束〔無文御直衣。指貫〕參給。
次献御引出物。
 御釼   前丹後守泰氏〔白襖狩衣。薄色生奴袴。着下袴〕經西侍簀子并廊入妻戸。置御座傍〔左方〕。
 一御馬〔置鞍〕 備前守時長〔半靴〕    前壹岐守泰綱〔野劔毛沓〕
 二御馬〔同〕  駿河式部大夫家村     同五郎左衛門尉資村
 三御馬〔同〕  遠江次郎左衛門尉光盛   同五郎左衛門尉盛時
次入御
次冠者殿〔將軍被奉扶持〕出御二棟〔嘉祿例如此〕

次進物
 御釼        前右馬權頭政村〔薄白裏狩衣。薄色指貫〕經簀子。入第三間置之。
 御弓征箭〔羽切生〕 遠江守朝直〔白襖狩衣薄色指貫〕
   左手持矢。右取弓。倚立御座傍柱。
 御刀〔鞘巻。在下緒〕相摸右近大夫將監時定。〔以刃爲内捧之〕
 御鎧〔紫糸威。副赤地錦御直垂。居甲櫃蓋〕越後守光時。遠江式部大夫時章置御前長押下。〔以冑前。向御前〕
 羽〔納箱〕     前若狹守泰村
 砂金        秋田城介義景
   已上兩種置長押上。
次武州依召參進廊。賜御釼〔入袋。前隼人正光重傳大夫將監時頼。親衡於廊被奉之〕。下立庭上一拝給。 次入御。
今日少人數度出御。其儀各移尅之處。敢無御窮屈。偏如成人。貴賎皆所奉感嘆也。抑御任官事。任嘉祿之例。可爲後日。又可令蒙將軍 宣旨給云々。是依天變。御讓与事。俄思食立之上。五六兩月。當御愼之間。今月被遂此儀也。御名字。兼日風聞。兼頼也〔自京都。被撰進。兩三之其一〕。而今所被用將軍家御計也云々。次武州相率評定衆。被參政所。有吉書始儀。左衛門尉滿定爲執筆。事終。武州持參御所。於寢殿南面被披覽御前。攝津前司師員朝臣讀申之。評定衆着到同披露云々。其後還政所。有献盃。信濃民部大夫行泰。同次郎行頼。大夫判官行綱。四郎左衛門尉行忠等從所役云々。
着座次第
一方
 前右馬權頭 若狹前司   秋田城介
 下野前司  能登前司   上総權介
 備前守   大田民部大夫 外記大夫
一方
 遠江守   攝津前司   甲斐前司
 佐渡前司  出羽前司   前太宰少貳
 C左衛門尉
次云御元服無爲事。云新冠御任官敍位事。可被申京都之由有議定。被整御消息等。被奉讓征夷大將軍於冠者殿之由云々。平新左衛門尉盛時應其準脚。已雖及黄昏。吉日之上。依爲御急事進發。行程被定六ケ日云々。

読下し                     そらはれ  きょう   しょうぐんけわかぎみ 〔ろくさい  ごみょうじ    よりつぐ  おんはは  ちうなごんよしちかきょう  むすめおおみやのつぼね 〕 ごげんぷくなり
寛元二年(1244)四月小廿一日辛夘。天霽。今日、將軍家若君〔六歳。御名字を頼嗣。御母は中納言親能卿 が娘 大宮局 〕御元服也。

かろく のれい  もち  られ    よっ    さきのさどのかみもとつな これ  ぶぎょう   さるのこく そ   ぎ あ
嘉祿之例@を用い被るに依て、 前佐渡守基綱 之を奉行す。申尅其の儀有り。

おりべのしょうはるかたそん 〔 いかん 〕 にちじ   かんもん  じさん    〔らんばこ  い   〕
織部正リ賢朝臣〔衣冠〕日時の勘文を持參す〔覽筥Aに入る〕

さきのみののかみちかざねあそん にし さむらい をい   〔 たんざ 〕 これ  と     ろうね  つまど  へ   しんでいさいめん つまど   い     ぎょざ  まえ 〔いたじき〕    お
 前美濃守親實朝臣に 西の 侍 於て〔端座〕之を取り、廊根の妻戸を經、寢殿西面の妻戸に入り、御座の前〔板敷〕へ置く。

しょうぐんけこれ  み   かえされ   はこ  い     ちかざねこれ  たま
將軍家之を覽て返被る。筥に入れ、親實之を給はる。

参考@嘉祿之例は、頼経の時も後藤基綱が奉行。
参考A覽箱は、藤葛で作った貴人に見せる文書を入れる箱。

さむらいどころ もちきた   かんもん  かいちう    わかぎみごしょうぞく  つ
 侍所 へ持來り、勘文を懷中し、若君御裝束を着く

 もんあ    ごのうし    にばい   おりもの   おんさしぬき  しろひとえ  おんかみ  ゆはせし  たまはず  ちかざねあそんこれ  こう     さだかずごぜんしょうぞくたり 〕
〔文有る御直衣。二倍の織物。御指貫。白單。御髪を結令め給不。親實朝臣之に候ず。定員御前裝束爲〕

ぶしゅう 〔しろあおかりぎぬ  うすいろすずしぬき ひたたれしたばか つ   〕  さん  たま
武州〔白襖狩衣。薄色生指貫。帷下袴を着く〕參じ給ふ。

にじょうちゅうじょうのりさだあそん 〔 ほい    うわくくり   かろく   れい  まか      ふち  たてまつ  べ     うんぬん   しかして  にょぼう これ  もよおされ    さ     しょやくな   か 〕
 二條中將教定朝臣 〔布衣。上括。嘉祿の例に任せ。扶持し奉る可しと云々。然而、女房之を催被る。指せる所役無き歟〕

さきのうきょうごんのだいぶすけちかあそんらおな   こ   ところ こう
 前右京權大夫資親朝臣等 同じく此の所に候ず。

ごしょうぞくをは      しんでんさいめん わた  たま   〔にょぼう ふち たてまつ 〕   ぶしゅう  め     ぶしゅうさんしん    りはつ かかん  ごんじされ    〔おんえびし   ひきい   〕
御裝束訖りて、寢殿西面に渡り御う〔女房扶持し奉る〕。武州を召す。々々參進し、理髪加冠を勤仕被る〔御烏帽子に引入る〕

つぎ  ごぜんもの  すす   〔つちたかつき りょう  おんかた〕
次に御前物を進む〔土高杯。兩の御方〕

  ばいぜん さこんたいふしょうげんときより 〔 いか   しょやく  りょうおんかたこれ  あいかねられ  〕
 陪膳 左近大夫將監時頼〔已下の所役、兩御方之を相兼被る〕

  えきそう  のとのさこんたいふなかとき   もうりひょうえたいふひろみつ
 役送 能登右近大夫仲時、毛利兵衛大夫廣光。

      りょうにんとも  ばいぜんの いじ じょうろう たるなり  おのづ  かろく  れい  かな    や
   兩人共、陪膳之位次上臈 爲也。自から嘉祿の例に叶はん哉。

つぎ  かじゃどのかえ  い   せし  たま
次に冠者殿歸り入ら令め給ふ。

つぎ ひとびとていじょう ざ   つ
次に人々庭上の座に着く。

つぎ  おんみず あ    たいふしょうげんときより これ  えき  たま
次に御簾を上ぐ。大夫將監時頼 之を役し給ふ。

つぎ  かじゃどの ごしょうそく あらた か    〔むもん   ごのうし     さしぬき 〕  まい  たま
次に冠者殿御裝束を改め換え〔無文の御直衣、指貫〕參り給ふ。

つぎ  おんひきでもの  けん
次に御引出物を献ず。

  ぎょけん さきのたんごのかみやすうじ 〔しろあおかりぎぬ うすいろすずぬばかま   したばかま つ  〕 にし さむらい すのこなら    ろう  へ   つまど  い     おんざ かたわら お    〔さほう〕
 御釼  前丹後守泰氏 〔白襖狩衣。薄色生奴袴。下袴を着く〕西の侍の簀子并びに廊を經て妻戸に入り、御座の傍に置く〔左方〕

 いちのおんうま 〔くら  お   〕  びぜんのかみときなが 〔はんか〕        さきのいきのかみやすつな〔 のだち    けぐつ 〕
 一御馬〔鞍を置く〕 備前守時長〔半靴〕     前壹岐守泰綱〔野劔、毛沓〕

 にちのおんうま 〔おなじき〕    するがのしきぶたいふいえむら         おなじきごろうさえもんのじょうすけむら
 二御馬〔同〕    駿河式部大夫家村      同五郎左衛門尉資村

 さんのおんうま 〔おなじき〕     とおとうみじろうさえもんのじょうみつもり     おなじきごろうさえもんのじょうもりとき
 三御馬〔同〕    遠江次郎左衛門尉光盛   同五郎左衛門尉盛時

つぎ  にゅうご
次に入御

つぎ  かじゃどの 〔しょうぐん ふち たてまつられ  〕 にとう   しゅつご 〔かろく   れいかく  ごと   〕
次に冠者殿〔將軍扶持し奉被る〕二棟を出御〔嘉祿の例此の如し〕

つぎ  しんもつ
次に進物

  ぎょけん                さきのうまごんのかみまさむら〔うすあおいろうらかりぎぬ  うすいろさしぬき〕 すのこ  へ   だいさん  ま   い   これ  お
 御釼        前右馬權頭政村〔薄白裏狩衣。薄色指貫B簀子を經、第三の間に入り之を置く。

  おんゆみ そや 〔はね  きりお 〕  とおとうみのかみともなお 〔しろあおかりぎぬうすいろさしぬき〕
 御弓征箭〔羽は切生〕 遠江守朝直 〔白襖狩衣薄色指貫〕

       ひだりて  や   も     みぎ  ゆみ  と     ぎょざ かたわら はしら よ     た
   左手に矢を持ち、右に弓を取り、御座の傍の柱に倚りて立つ。

  おんかたな 〔さやまき さげおあ   〕 さがみうこんたいふしょうげんときさだ 〔やいば もっ   うち  な    これ  ささ  〕
 御刀〔鞘巻。下緒在り〕相摸右近大夫將監時定〔刃を以て内に爲し之を捧ぐ〕

  おんよろい〔むらさきいとおどし あかぢにしき おんひたたれ そ   よろいびつ  ふた  す  〕 えちごのかみみつとき とおとうみしきぶたいふときあき ごぜん  なげしした  お    〔かぼとまえ もっ   おんまえ  むか  〕
 御鎧〔紫糸威。赤地錦の御直垂Cを副へ、甲櫃の蓋に居え〕越後守光時、遠江式部大夫時章御前の長押D下に置く〔冑前を以て、御前に向ふ〕

  はね 〔はこ  おさ  〕        さきのわかさのかみやすむら
 羽〔箱に納む〕    前若狹守泰村

  さきん                 あいだのじょうすけよしかげ
 砂金        秋田城介義景

       いじょうりょうしゅなげし うえ  お
   已上兩種長押D上に置く。

参考B指貫は、裾に紐が通してある袴。これを絞ると上括りとか下括りになる。
参考C
赤地錦の直垂は、赤い錦の直垂で、大将級の人物が鎧下に着た。
参考D長押は、柱間を繋ぐ構造材で貫を通して柱を固める。位置により地覆長押・縁長押・内法長押・天井長押などがあるが、普通は内法長押のことをいう。

つぎ  ぶしゅう めし  よっ  ろう  さんしん   ぎょけん  たま    〔 ふくろい    さきのはやとのしょうみつしげ たいふしょうげんときより つた   しんえいろう  をい  これ たてまつ られ  〕
次に武州 召に依て廊へ參進し、御釼を賜はり〔袋入り、前隼人正光重、大夫將監時頼に傳う、親衡廊に於て之を奉つ被る〕

ていじょう  お   た  いっぱい  たま
庭上に下り立ち一拝し給ふ。

  つい  にゅうぎょ
 次で入御。

きょう  しょうにんずうど  しゅつご  そ   ぎ おのおの とき  うつ  のところ  あえ  ごきゅうくつな   ひとへ せいじん  ごと    きせんみなかんたん たてまつ ところなり
今日少人數度の出御。其の儀 各 尅を移す之處、敢て御窮屈無く、偏に成人の如し。貴賎皆感嘆し 奉る 所也。

そもそ ごにんかん  こと    かろく のれい  まか    ごじつ たるべ    また  しょうぐん  せんじ  こうむ せし  たま  べ     うんぬん
抑も御任官の事は、嘉祿之例に任せ、後日爲可き。又、將軍の宣旨を蒙り令め給ふ可きと云々。

これ  てんぺん  よっ    ごじょうよ   こと  にはか おぼ  め   た   のうえ  ごろくりょうげつ   おんつつし  あた のあいだ こんげつ こ  ぎ   と   られ  なり
是、天變に依て、御讓与の事、俄に思し食し立つ之上、五六兩月は、御愼みに當る之間、今月此の儀を遂げ被る也。

 ごみょうじ    けんじつふうぶん   かねよりなり 〔きょうとよ     えら  すす  られ  りょうさん の そ  いち 〕   しか   いまもち  られ ところ   しょうぐんけ おんはかりなり うんぬん
御名字は、兼日風聞する兼頼也〔京都自り撰び進め被る兩三之其の一〕。而るに今用い被る所は、將軍家の御計也と云々。

つい ぶしゅう ひょうじょうしゅう あいひき  まんどころ  まいられ   きっしょはじ    ぎ あ    さえもんのじょうみつさだ しっぴつたり ことおは   ぶしゅうごしょ   じさん
次で武州 評定衆を相率い、 政所に參被る。吉書始めの儀有り。左衛門尉滿定 執筆爲。事終り、武州御所へ持參す。

んでんなんめん をい ごぜん  ひらんされ    せっつのぜんじもろかずあそん これ  よ   もう   ひょうじょうしゅう ちゃくとう おな    ひろう    うんぬん
寢殿南面に於て御前に披覽被る。攝津前司師員朝臣 之を讀み申す。評定衆の 着到 同じく披露すと云々。

 そ  ごまんどころ  かえ   けんぱいあ    しなののみんぶたいふゆきやす おなじきじろうゆきより  たいふほうがんゆきつな  しろうさえもんのじょうゆきただら しょやく  したが   うんぬん
其の後政所へ還る。献盃有り。信濃民部大夫行泰、 同次郎行頼、 大夫判官行綱、 四郎左衛門尉行忠等 所役に從うと云々。

ちゃくざ  しだい
着座の次第

いっぽう
一方

  さきのうまごんのかみ  わかさのぜんじ    あいだのじょうすけ
 前右馬權頭 若狹前司   秋田城介

  しもつけぜんじ     のとぜんじ       かずさごんのすけ
 下野前司  能登前司   上総權介

  びぜんのかみ     おおたみんぶたいふ  げきたいふ
 備前守   大田民部大夫 外記大夫

いっぽう
一方

  とおとうみのかみ    せっつのぜんじ    かいぜんじ
 遠江守   攝津前司   甲斐前司

  さどぜんじ       でわのぜんじ      さきのだざいしょうに
 佐渡前司  出羽前司   前太宰少貳

  せいさえもんのじょう
 C左衛門尉

つい  ごげんぷく ぶい   こと  い    しんかんごにんかんじょうい  こと  い      きょうと   もうされ  べ   のよしぎじょうあ        ごしょうそくら  ととの られ
次で御元服無爲の事と云ひ、新冠御任官敍位の事と云ひ、京都に申被る可き之由議定有りて、御消息等を整へ被る。

せいいたいしょうぐんを かじゃどの  ゆず たてまつ られ  のよし  うんぬん
征夷大將軍於 冠者殿に讓り奉つ 被る之由と云々。

へいしんさえもんのじょうもりとき そ じゅんきゃく おう    すで  たそがれ およ   いへど    きちじつのうえ  おいそぎ  ことたる  よっ  しんぱつ
 平新左衛門尉盛時 其の準脚に應じ、已に黄昏に及ぶと雖も、吉日之上、御急の事爲に依て進發す。

こうていむいかび  さだ  られ    うんぬん
行程六ケ日と定め被ると云々。

現代語寛元二年(1244)四月小二十一日辛卯。空は晴です。今日、将軍頼経様の若君〔6歳。実名を頼嗣。母は、二棟御方で中納言中原親能さんの娘の大宮局〕元服式です。嘉禄の頼経さんの時の例と同じにするので、前佐渡守後藤基綱が、指揮担当をします。午後4時頃にその式を行いました。織部正安陪晴賢さん〔衣冠束帯〕が日時を占って上申書を持ってきました〔御覧箱に入れてる〕。
前美濃守中原親実さんが西の侍詰所でこれを受け取り〔座ったまま〕、廊下の端の扉を通って、寝殿西側の扉に入り、座席の前〔板敷〕へ置きました。将軍頼経様がこれを見てお返しになり、箱に入れて親実に与えました。侍詰所へ持って来て、上申書を懐に入れ、若君の正装着物を着せました〔紋模様の直衣。二重の織物の指貫。白の単。髪は結っておりません。親実が着せてます。藤原定員は脱いだ着物係です〕。
武州経時〔表裏ともに白い狩衣。薄色の生絹の指貫。〕さんが来ました。
二条中将教定さん〔布衣で膝の下で結んでいる。頼経の時と同じに介添えをするのです。しかし、女官がこれをするので、特に役はありません〕
前右京権大夫資親さんも、同じくここへ控えました。
元服用の着物に着替え終えて、神殿の西側に行きました〔女官が手伝っています〕。武州経時を呼びました。経時は前へ出て行き、前髪の一部を切り冠をかぶせる役を勤めました〔髷を烏帽子に引きいれました〕。
次にお膳を前へ出しました〔土器の高坏、親子双方に〕。お給仕役は、左近大夫将監北条時頼〔給仕の役は、親子双方のを兼ねてます〕。運び人は、能登左近大夫中原仲時と毛利兵衛大夫広光。二人とも、給仕役より席次が上なのです。自然と嘉禄の例にあっています。
次に、元服した若者が退きました。
御家人の人々は、庭の座席に座りました。次に御簾を上げました。北条時頼がこの役をしました。
ついで、元服者が衣装替えをして〔模様の無い直衣に指貫〕出てきました。次に祝いの引き出物を献上しました。
 刀は、前丹後守足利泰氏〔表裏ともに白い狩衣、薄い色の生絹の袴、透けてるので下にも袴〕西の侍詰所と廊下を通って扉に入り、座席の脇に置きました〔左側〕。
 一の馬〔鞍を置く〕 備前守北条時長〔半靴〕  前壹岐守佐々木泰綱〔飾りのない刀、鹿の毛皮の沓〕
 二の馬〔同じ〕   駿河式部大夫三浦家村   同五郎左衛門尉三浦資村
 三の馬〔同じ〕   遠江次郎左衛門尉佐原光盛 同五郎左衛門尉佐原盛時
ついで、将軍頼経様がお出でになる。次に、元服者〔将軍頼経様が手伝う〕二棟の建物から出でいかれました〔嘉禄と同様に〕。
次に、将軍へのお祝いの献上品。

 刀は、前右馬権頭北条政村〔薄い青で裏が白の狩衣。袴は薄い色の指貫〕濡れ縁を通って、第三の間へ入りこれを置きました。
 弓と戦争用矢〔羽は鷹の白に黒の模様〕は、遠江守北条朝直〔表裏ともに白の狩衣、袴は薄い色の指貫〕左手に矢を持って、右手で弓を持ち、座席の脇の柱に建てかけました。
 刀〔鞘に藤弦が巻いてある。下げ緒がついてます〕相模右近大夫将監北条時定〔抜いて見せて鞘にしまって捧げました〕。
 鎧〔紫糸威し、赤地錦の鎧直垂を一緒に鎧をしまう箱(鎧櫃)の蓋に載せてます〕越後守北条光時と遠江式部大夫北条時章とが持って、将軍の前の長押の下に置きました〔兜の前を正面に向かわせている〕
 鷹の羽〔箱に入れてあります〕前若狭守三浦泰村
 砂金 秋田城介安達義景
   以上の二品は、長押の上に置きました。

疑問長押の下とか長押の上とかは、床の間の様な構造があったのであろうか?

次に武州北条経時は、呼ばれて廊下に進み出て、刀を頂き〔袋に入れて前隼人正伊賀光重が大夫将監北条時頼に手渡す、北条経時は廊下でこれを受け取る〕庭に下りて一礼しました。
ついで、若君が入って来ました。今日は、若君は何度もお出ましです。その儀式が数々行われてますが、特に窮屈そうでなく、まるで大人と同じです。皆その落ち着きに感心するところです。
さて、若君の官職の任命は、父の嘉禄の時の様に、後日にしましょう。また将軍の任命も一緒にしてもらうようにしましょう。これは、天変地異があったので、将軍職の譲渡を急に思いたったのですが、5・6月は遠慮すべき月にあたるので、今月この儀式をしたんのです。
実名は、先日来噂されていたのは兼頼です〔京都で選んできて2・3の内の一つ〕。しかし、今採用したのは、将軍頼経様の言い出したお考えです。
ついで、経時さんは、政務会議メンバーを一緒に連れて、政務事務所へ来ました。文書始め式がありました。左衛門尉清原満定が書き役です。式が終わると経時さんが御所へ持って行きました。
寝殿の公務をする南面で将軍の前で披露しました。摂津前司中原師員さんがこれを読み上げました。成務会議メンバーの名前も披露しました。
その後、経時さんは政務事務所へ戻りました。お祝いの盃事がありました。信濃民部大夫二階堂行泰・同じく次郎二階堂行頼・大夫判官二階堂行綱・四郎左衛門尉二階堂行忠などが、役職に付きましたとさ。
座席の順序は、
一方が、前右馬権頭常盤流北条政村・若狭前司三浦泰村  ・秋田城介安達義景
    下野前司宇都宮泰綱   ・能登前司三浦光村  ・上総権助境秀胤
    備前守北条時長     ・太田民部大夫康連  ・外記大夫矢野倫重(又は倫長)

一方が、遠江守名越流北条朝直  ・摂津前司中原師員  ・甲斐前司長井泰秀
    佐渡前司後藤基綱    ・出羽前司二階堂行義 ・前太宰少弐狩野為佐
    清原左衛門尉清定
ついで、元服式が無事に終わった事や、元服者の官職や官位の任命などを、京都朝廷に申し込むように会議で決定し、手紙を書き調えました。征夷大将軍を若者に譲渡するからだそうな。平新左衛門尉盛時が、その輸送人になり、既に夜になって来たけど、今日はお日和も良いし、急ぐことでもあるので出発しました。工程は日間と決めれましたとさ。

寛元二年(1244)四月小廿六日丙申。天リ。今夜被行四角四堺鬼氣祭。是近日咳病温氣流布。貴賎上下無免之間。將軍家并公達以下御祈祷也。兩若君有此御患。今若君于今無御平減云々。

読下し                     そらはれ  こんや しかくしきょう ききさい   おこなはれ
寛元二年(1244)四月小廿六日丙申。天リ。今夜四角四堺鬼氣祭を行被る。

これ  きんじつ せきびょう ぬるけ るふ    きせんじょうげまぬ         な  のあいだ しょうぐんけなら    きんだち いげ   ごきとうなり
是、近日 咳病 温氣流布し、貴賎上下免かれるは無き之間、將軍家并びに公達以下の御祈祷也。

りょうわかぎみ こ  おんわずら あ    いまわかぎみ いまに ごへいげんな    うんぬん
兩若君 此の御患い有り。今若君 今于御平減無しと云々。

現代語寛元二年(1244)四月小二十六日丙申。空は晴です。今夜、御所の四方と鎌倉の四方とで鬼気祭を行いました。これは、最近咳や熱の出る病気が流行し、身分の高い物も低い者も、皆逃れられない状況なので、将軍頼経様や息子さんたちの加持祈祷です。二人の若君がこの病気にかかっており、弟の今若君はちっとも良くならないのだそうな。

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吾妻鏡入門第卅五巻

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