吾妻鏡入門第卅五巻

寛元二年甲辰(1244)五月大

寛元二年(1244)五月大五日甲辰。平新左衛門尉盛時自京都皈着。持參去月廿八日 宣下状除書等。冠者殿蒙征夷大將軍宣旨。 任右近衛少將。令敍從五位上給云々。武州相具之。令參御所給。前大納言家〔頼經〕有御對面。直被召置彼状等。又故有祝着之儀。盛時被召出賜御釼。但馬前司定員傳之。入夜。於御所有和歌御會。令賞端午節給歟。源式部大夫親行。能登前司光村。伊賀式部大夫入道光西等參候云々。

読下し                    へいしんさえもんのじょうもりとき きょうとよ   きちゃく    さんぬ つき にじうはちにち せんげじょう  じしょら  じさん
寛元二年(1244)五月大五日甲辰。平新左衛門尉盛時 京都自り皈着す。去る 月 廿八日の 宣下状、除書等を持參す。

かじゃどのせいいたいしょうぐん せんじ  こうむ   うこのえのしょうしょう にん   じゅごいのじょう  じょせし  たま   うんぬん
冠者殿征夷大將軍の宣旨を蒙り、右近衛少將に任じ、從五位上に敍令め給ふと云々。

ぶしゅうこれ  あいぐ     ごしょ  まい  せし  たま
武州之を相具し、御所へ參ら令め給ふ。

さきのだいなごんけ 〔よりつね〕 ごたいめんあ     じき  か   じょうら  めしおかれ
前大納言家〔頼經〕御對面有りて直に彼の状等を召置被る。

また ことさら しゅうちゃくのぎあ    もりとき  めしいだされぎょえん たま     たじまのぜんじさだかずこれ  つた
又、故に祝着之儀有り。盛時を召出被御釼を賜はる。但馬前司定員之を傳う。

 よ  い     ごしょ  をい   わか   おんえ あ     たんご  せつ  しょうぜし たま  か
夜に入り、御所に於て和歌の御會有り。端午の節を賞令め給ふ歟。

げんしきぶのたいふちかゆき  のとのぜんじみつむら  いがのしきぶたいふにゅうどうこうさいら さんこう    うんぬん
 源式部大夫親行、 能登前司光村、伊賀式部大夫入道光西等參候すと云々。

現代語寛元二年(1244)五月大五日甲辰。平新左衛門尉盛時が、京都から帰って来ました。先月28日の人事異動の辞令を持ってきました。無官の若者頼嗣さんに征夷大将軍の宣言を受け、右近衛少将に任命され、従五位上を与えられましたとさ。武州北条経時さんは、これを持って御所へ参上しました。前大納言家〔頼経〕が対面して直接この手紙を受け取り置きました。
又、特別にお祝いの儀式を行い、平盛時を呼び出し、刀を与えました。但馬前司藤原定員がこれを手渡しました。
夜になって、御所で和歌の会がありました。端午の節句を愛でるのでしょうね。源式部大夫親行・能登前司三浦光村・伊賀式部大夫入道光西(光宗)等がお付き合いしましたとさ。

寛元二年(1244)五月大十五日甲寅。於御持佛堂有供花。前大納言家自令供之給。諸人群參云々。

読下し                     おんじぶつどう  をい   くうげ あ     さきのだいなごんけ みづか これ そな  せし  たま    しょにんぐんさん   うんぬん
寛元二年(1244)五月大十五日甲寅。御持佛堂に於て供花有り。前大納言家 自ら之を供へ令め給ふ。諸人群參すと云々。

現代語寛元二年(1244)五月大十五日甲寅。頼経の持仏堂無量寿院で、仏様に花を捧げる供養がありました。前大納言家頼経様自ら手に取って供えられました。人々は縁にあやかるため大勢集まりましたとさ。

寛元二年(1244)五月大十八日丁巳。酉尅。前大納言家并新將軍御不例。御心神殊違乱云々。此外。二位殿三位殿同令煩給。凡近日毎人有此病事。俗号之三日病云々。仍今夜被始行三ケ夜鬼氣祭。文元勤之。但馬前司定員奉行之。

読下し                     とりのこく さきのだいなごんけなら    しんしょうぐんごふれい  ごしんしんこと  いらん    うんぬん
寛元二年(1244)五月大十八日丁巳。酉尅、前大納言家并びに新將軍御不例。御心神殊に違乱すと云々。

 こ  ほか  にいどの さんみどのおな   わずら せし  たま    およ きんじつひとごと  こ   やまい ことあ     ぞく  これ  みっかやまい ごう    うんぬん
此の外、二位殿三位殿同じく煩は令め給ふ。凡そ近日人毎に此の病の事有り。俗に之を三日病と号すと云々。

よっ  こにゃ みっかよ    ききさい   しぎょうされ    ふみもとこれ  つと    たじまのぜんじさだかず これ  ぶぎょう
仍て今夜三ケ夜の鬼氣祭を始行被る。文元之を勤め、但馬前司定員 之を奉行す。

現代語寛元二年(1244)五月大十八日丁巳。午後6時頃、前大納言家頼経様それと新将軍頼嗣がそろって病気です。意識が朦朧としているそうです。この他にも二位殿・三位殿も同様に病気になりました。最近人々は皆この病気にかかってます。ぞくにこれを三日病(三日ばしかカ?)と呼んでるそうな。そこで今夜、三晩続ける鬼気祭を始めました。文元がこれを勤め、但馬前司藤原定員が指揮担当します。

推測二位殿・三位殿は、正妻の持明院藤原家行の女と二棟方の中原親能の女かもしれないが確信がないので、出演には二位殿・三位殿で記入した。

寛元二年(1244)五月大廿日己未。依兩御方御不例事。重被行御祭等。所謂大殿御方咒咀〔リ賢朝臣〕招魂〔宣賢〕將軍御方鬼氣〔國継〕等也。

読下し                   りょうおんかた  ごふれい  こと  よっ    かさ    おまつりら  おこなはれ
寛元二年(1244)五月大廿日己未。兩御方の御不例の事に依て、重ねて御祭等を行被る。

いはゆる おおとの おんかた  じゅそ 〔はるかたあそん〕 しょうこん 〔のぶかた〕   しょうぐん おんかた  きき  〔くにつぐ〕  らなり
所謂、大殿の御方に咒咀〔リ賢朝臣〕招魂〔宣賢〕。將軍の御方に鬼氣〔國継〕等也。

現代語寛元二年(1244)五月大二十日己未。親子が病気なので、ダブルで陰陽師のまじないを行いました。それは、大殿頼経の分は呪詛〔晴賢さん〕招魂祭〔宣賢〕。将軍頼嗣の分が鬼気〔国継〕などです。

寛元二年(1244)五月大廿一日庚申。兩御所御不例事。今朝聊有御少減氣云々。

読下し                     りょうごしょ ごふれい  こと   けさ いささ ごしょうげん  け あ     うんぬん
寛元二年(1244)五月大廿一日庚申。兩御所御不例の事、今朝聊か御少減の氣有りと云々。

現代語寛元二年(1244)五月大二十一日庚申。お二方の病気については、今朝はだいぶ良くなってきたようです。

寛元二年(1244)五月大廿六日乙丑。乙若君御前御不例事。未及御減。仍午刻爲參河前司教隆奉行。召陰陽師等。可有護身否。被尋問之。護身不可然。可有御猶豫之由。時(リ)賢。文元。リ茂。國継。廣資。泰房等。一同占申之間。暫被止其儀云々。入夜。爲彼御祈。被行鬼氣祭七座。并四方四角等祭。於郭外彼(被)行之云々。
 艮方〔リ賢〕 東方〔文元〕 巽方〔爲親〕 南方〔リ茂〕
 坤〔リ長〕 西方〔國継〕 乾方〔リ貞〕 北方〔泰房〕
 如法泰山府君祭〔廣資〕

読下し                     おとわかぎみごぜん ごふれい  こと  いま  ごげん  およ
寛元二年(1244)五月大廿六日乙丑。乙若君御前御不例の事、未だ御減に及ばず。

よっ  うまのこく  みかわのぜんじのりたかぶぎょう な    おんみょうじら  め
仍て午刻、參河前司教隆奉行と爲し、陰陽師等を召す。

ごしんあ   べ     いな    これ  たず  とはれ
護身有る可きや否や。之を尋ね問被る。

ごしんしか  べからず  ごゆうよ あるべ   のよし   はるかた ふみもと  はるもち  くにつぐ  ひろすけ  やすふさら   いちどううらな もう のあいだ
護身然る不可。御猶豫有可き之由、リ賢、文元、リ茂、國継、廣資、泰房等、一同占い申す之間、

しばら そ  ぎ   と   られ   うんぬん
暫く其の儀を止め被ると云々。

 よ  い     か   おいのり  な     ききさい しちざ なら    しほうしかくら   まつり おこなはれ   こうがい  をい  これ  おこなはれ  うんぬん
夜に入り、彼の御祈を爲す。鬼氣祭七座并びに四方四角等の祭を行被る。郭外に於て之を行被ると云々。

 うしとらかた〔はるかた〕   とうほう 〔ふみもと〕  たつみかた 〔ためちか〕  なんぽう 〔はるもち〕
 艮方〔リ賢〕 東方〔文元〕 巽方〔爲親〕 南方〔リ茂〕

 ひつじさる〔はるなが〕   せいほう 〔くにつぐ〕  いぬいかた 〔はるさだ〕  ほっぽう 〔やすふさ〕
 坤〔リ長〕  西方〔國継〕 乾方〔リ貞〕 北方〔泰房〕

  にょほうたいさんふくんさい 〔ひろすけ〕
 如法泰山府君祭〔廣資〕

現代語寛元二年(1244)五月大二十六日乙丑。次男の若君の病気については、まだ良くなりません。そこで、午後2時頃に三河前司清原教隆が指揮担当して、陰陽師を呼びました。お体を守る為の加持祈祷をしようかどうか聞きました。加持祈祷はやらないで様子を見た方が良いと、晴賢・文元・晴茂・国継・広資・泰房などが占って同じことを云うので、しばらく待つことにしましたとさ。
夜になって、そのお祈りをしました。鬼気祭を七人それと四方向(東・南・西・北)・四つの角(北東・南東・西南・西北)で祭を行いました。御所の外でこれを行ったそうな。
艮東北の方は、晴賢。東の方は文元。巽東南の方は為親。南の方は晴茂。坤西南の方は晴長。西の方は国継。乾西北の方は晴貞。北の方は泰房。規則通りきちんとした泰山府君祭は広資です。

寛元二年(1244)五月大廿九日戊辰。爲若君御前御祈。被行十壇炎魔天供。
 一壇  大藏卿僧正     一壇  宮内卿法印
 一壇  大貳法印      一壇  宰相法印縁快
 一壇  三位法印頼兼    一壇  播磨僧都嚴懷
 一壇  弁僧都審範     一壇  宮内卿僧都
 一壇  大納言僧都     一壇  三位僧都
此外。於鶴岡八幡宮。被轉讀大般若經。又同上下宮并二所三嶋社等。各神馬一疋被奉送之。攝津前司師員朝臣。前大宰少貳爲佐等奉行也。

読下し                      わかぎみごぜん おいのり  ため  じうだん  えんまてんぐ  おこなはれ
寛元二年(1244)五月大廿九日戊辰。若君御前の御祈の爲、十壇の炎魔天供を行被る。

  いちだん   おおくらきょうそうじょう        いちだん    くないきょうほういん
 一壇  大藏卿僧正     一壇  宮内卿法印

  いちだん   だいにほういん            いちだん    さいしょうほういんえんかい
 一壇  大貳法印      一壇  宰相法印縁快

  いちだん   さんみほういんらいけん       いちだん    はりまそうづげんかい
 一壇  三位法印頼兼    一壇  播磨僧都嚴懷

  いちだん   べんおそうづしんはん        いちだん    くないきょうそうづ
 一壇  弁僧都審範     一壇  宮内卿僧都

  いちだん    だいなごんそうづ           いちだん    さんみそうづ
 一壇  大納言僧都     一壇  三位僧都

 こ  ほか つるがおかはちまんぐう をい   だいはんにゃきょう てんどくされ
此の外、 鶴岡八幡宮に於て、大般若經を轉讀被る。

また どうじょうげみやなら    にしょみしましゃら  おのおの しんめいっぴき これ  おく たてまつ られ
又、同上下宮并びに二所三嶋社等、各 神馬一疋 之を送り奉つ被る。

せっつのぜんじもろかずあそん  さきのだざいしょうにためすけら ぶぎょうなり
攝津前司師員朝臣、 前大宰少貳爲佐等 奉行也。

現代語寛元二年(1244)五月大二十九日戊辰。若君のお祈りのため、十壇の閻魔様への供養を行いました。
一壇は、大蔵卿僧正良信。一壇は、宮内卿法印。一壇は、大貮法印円仙。 一壇は、宰相法印縁快。 一壇は、三位法印頼兼
一壇は、播磨僧都厳懐。 一壇は、弁僧都審範。一壇は、宮内卿僧都承快。一壇は、大納言僧都隆弁。一壇は、三位僧都。
このほか、鶴岡八幡宮では、大般若経を摺り読みしました。また、上下の宮それに箱根・伊豆・三島社の、それぞれ馬を一頭づつ送って奉納しました。
摂津前司中原師員と前太宰少弐狩野為佐とが指揮担当です。

寛元二年(1244)五月大卅日己巳。若君御前御祈等重被行之。廣資奉仕代厄祭。是今年令當太一定分厄給。可被行厄御祈之由。助法印珎譽依勘申也。

読下し                    わかぎみごぜん おいのりら   かさ    これ  おこなはれ  ひろすけ だいやくさい  ほうし
寛元二年(1244)五月大卅日己巳。若君御前の御祈等、重ねて之を行被る。廣資 代厄祭@を奉仕す。

これ  ことし  たいつじょうぶん  やく  あた  せし  たま   やく  おいのり  おこなはれ べ  のよし  すけのほういんちんよ かん  もう    よっ  なり
是、今年は太一定分Aの厄に當ら令め給ふ。厄の御祈を行被る可き之由、助法印珎譽 勘じ申すに依て也。

参考@代厄祭は、陰陽道で行われる祭祀のひとつ。病気や厄年を避けるために行う。
参考A太一定分は、厄年。三歳から六歳刻みの厄年。太一星のことで、北斗中の一星であり、天帝神として兵乱・禍災・生死などを司るとされる。

現代語寛元二年(1244)五月大三十日己巳。乙若君のためのお祈りを、なお続けて行いました。広資が病気の厄を避けるための代厄祭を勤めました。これは、今年は3歳9歳15歳の厄である太一定分の3歳の厄に当たっているからです。厄払いのお祈りをした方が良いと、助法印珍与が上申したからです。

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