吾妻鏡入門第卅五巻

寛元二年甲辰(1244)八月大

寛元二年(1244)八月大八日丙子。去月廿六日。閑院遷幸無爲被遂行之由。自京都被申送。

読下し                   さんぬ つきにじうろくにち かんいんせんこう ぶい   すいこうされ  のよし  きょう よ   もう  おくられ
寛元二年(1244)八月大八日丙子。去る月 廿六日、閑院遷幸 無爲に遂行被る之由、京都自り申し送被る。

現代語寛元二年(1244)八月大八日丙子。先月26日、後嵯峨天皇の里内裏移転が無事に行われたと、京都から伝えてきました。

寛元二年(1244)八月大十五日癸未。鶴岳八幡宮放生會也。大殿并將軍家御參。殊儀式被刷之。
先陣随兵〔十人〕
次御車〔十一人 直垂帶釼 候御車左右〕
御後五位六位〔布衣下括 六十二人〕
後陣隨兵〔十一人〕
  廷尉

読下し                    つるがおかはちまんぐう ほうじょうえなり おおとのなら   しょうぐんけぎょさん こと  ぎしき これ  さっされ
寛元二年(1244)八月大十五日癸未。鶴岳八幡宮の放生會也。大殿并びに將軍家御參。殊に儀式之を刷被る。

せんじん ずいへい 〔じうにん〕
先陣の随兵〔十人〕

つぎ  おくるま 〔じういちにん  ひたたれたいけん  おくるま   さゆう    こう  〕
次に御車〔十一人 直垂帶釼で御車の左右に候ず〕

んうしろ  ごい ろくい  〔 ほい  げぐくり ろくじうににん 〕
御後の五位六位〔布衣下括 六十二人〕

こうじん  ずいへい 〔じういちにん〕
後陣の隨兵〔十一人〕

     ていい
  廷尉

現代語寛元二年(1244)八月大十五日癸未。鶴岡八幡宮の生き物を放って贖罪する儀式放生会です。大殿頼経と将軍頼嗣も参りました。特に儀式は、大々的にしました。
先へ行く武装儀仗兵〔十人〕
次に将軍の牛車〔十一人が鎧直垂に太刀を佩き牛車の左右にいます〕
将軍の後ろに五位と六位が続きます〔狩衣に袴紐は足首で締めています六十二人〕
後ろを守る武装儀仗兵〔十一人〕
検非違使の尉

寛元二年(1244)八月大十六日甲申。同馬塲之儀也。依有御宿願。殊有結搆之儀。毎事如去年。
十列〔五位六位等輩 十番〕
流鏑馬〔十六番〕
競馬〔五番〕

読下し                     おな     ばば のぎ なり   ごすくがんあ     よっ    こと  けっこう のぎ あ     まいじ きょねん  ごと
寛元二年(1244)八月大十六日甲申。同じく馬塲之儀也。御宿願有るに依て、殊に結搆之儀有り。毎事去年の如し。

じうれつ 〔 ごい ろくい ら   やから  じうばん 〕
十列〔五位六位等の輩 十番〕

 やぶさめ  〔じうろくばん〕
流鏑馬〔十六番〕

くらべうま 〔ごばん〕
競馬〔五番〕

現代語寛元二年(1244)八月大十六日甲申。昨日同様鶴岡八幡宮へ奉納する馬場での儀式です。特に願いがあるので、特別に盛大に構えました。行事は去年と同じです。
飾り馬の馬長が十列〔五位・六位の連中が十番〕
流鏑馬〔十六番〕
競馬〔五番〕

寛元二年(1244)八月大十七日乙酉。於御所南殿。被轉讀大般若經云々。

読下し                      ごしょ   なんでん  をい   だいはんやきょう てんどくされ    うんぬん
寛元二年(1244)八月大十七日乙酉。御所の南殿に於て、大般若經を轉讀被ると云々。

現代語寛元二年(1244)八月大十七日乙酉。御所の南棟で、大般若経の摺り読みをしましたとさ。

寛元二年(1244)八月大十九日丁亥。於御所。自今日被修五壇法云々。

読下し                      ごしょ   をい     きょう よ   ごだんほう  しゅうされ    うんぬん
寛元二年(1244)八月大十九日丁亥。御所に於て、今日自り五壇法を修被ると云々。

現代語寛元二年(1244)八月大十九日丁亥。御所で、今日から五大明王を個別に安置して国家安穏を祈らせましたとさ。

参考五壇法は、密教の中で五大明王を個別に安置し国家安穏を祈願する修法。

寛元二年(1244)八月大廿二日庚寅。御所御持佛堂供養也。導師竹中法印。爲七僧法會也。

読下し                      ごしょ   おんじぶつどう  くようなり   どうし   たけなかほういん  しちそうえ   な   なり
寛元二年(1244)八月大廿二日庚寅。御所の御持佛堂の供養也。導師は竹中法印。七僧法會と爲す也。

現代語寛元二年(1244)八月大二十二日庚寅。御所の持仏堂での法要です。指導僧は竹中法印。全部で七人の坊さんでの法要です。

寛元二年(1244)八月大廿九日丁酉。大殿明春可有御上洛事有沙汰。治定云々。

読下し                      おおとの みょうしゅん ごじょうらく あ  べ     こと   さた あ       ちじょう    うんぬん
寛元二年(1244)八月大廿九日丁酉。大殿、 明春 御上洛有る可きの事、沙汰有りて、治定すと云々。

現代語寛元二年(1244)八月大二十九日丁酉。前大納言家頼経様が、来春京都へ上がる事について、検討して決めましたとさ。

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