寛元三年乙巳(1245)十月大
寛元三年(1245)十月大六日丁夘。寮米入道後家改嫁事。爲出羽前司行義。明石左近將監兼綱等奉行。有其沙汰。今日。以彼後家分所領。被付本主子息次郎國朝也云々。 |
読下し りょうめにゅうどう ごけ
あらた か こと でわのぜんじゆきよし あかしさこんしょうげんかねつなら
ぶぎょう な そ さた あ
寛元三年(1245)十月大六日丁夘。寮米入道が後家、改め嫁する事、出羽前司行義、明石左近將監兼綱等奉行と爲し、其の沙汰有り。
きょう か ごけぶん しょりょう もっ ほん ぬし
しそく じろう くにとも ふ らる なり うんぬん
今日、彼の後家分の所領を以て、本の主子息次郎國朝に付せ被る也と云々。
現代語寛元三年(1245)十月大六日丁卯。故寮米入道未亡人の再嫁について、出羽前司二階堂行義・明石左近将監兼綱が担当して、その裁断がありました。今日、その未亡人の領地を、元の壇なの息子の二郎国朝の所有としましたとさ。
寛元三年(1245)十月大九日庚午。天リ。今日被始行天變御祈等。治部權少輔奉行之。所謂入道大納言家御祈。 |
読下し そらはれ きょう てんぺん
おいのりら しぎょうさる じぶごんのしょうゆうこれ ぶぎょう
寛元三年(1245)十月大九日庚午。天リ。今日、天變の御祈等を始行被る。治部權少輔之を奉行す。
いはゆる
にゅうどうだいなごんけ おいのり
所謂、入道大納言家の御祈。
きんりんほう 〔ほんがくいんそうじょう〕
金輪法@〔本覺院僧正〕
そんじょうおうぐ 〔ゆうしょうほういん〕
尊星王供A〔猷聖法印〕
しょうぐんけ おいのり
將軍家の御祈
はちじもんじゅほう 〔だいそうじょうごぼう〕
八字文殊法〔大僧正御房〕
ぞくしょうさい〔はるかた〕
属星祭〔リ賢〕
参考@金輪は、一字金輪。密教で大日如来が最高の境地に入った時に説いた真言(ぼろん)の一字を人格化した仏。また、一字金輪仏を本尊とする修法を一字金輪法という。一字金輪仏頂。
参考A尊星王は、北極星を神格化したもので、妙見菩薩ともいわれる。
現代語寛元三年(1245)十月大九日庚午。空は晴です。今日、天体の異常な運航による災害防止のためお祈りを始めました。治部権少輔頼氏が担当です。
これは入道大納言家頼経様のためのお祈りです。
一字金輪法文殊菩薩のお経〔本覚院僧正〕
尊星王供養妙見菩薩の供養〔猷聖法印〕
将軍家頼嗣様の分
八字文殊菩薩のお経〔大僧正御房恵良〕
属星祭〔安陪晴賢〕
寛元三年(1245)十月大十日辛未。甚雨。爲將軍家御祈。於御所被修属星祭。リ賢奉仕之。甚雨之間。於唐笠下勤行之云々。治部權少輔爲御使。 |
読下し はなは あめ
しょうぐんけ おいのり ため ごしょ をい ぞくしょうさい
しゅうさる はるかたこれ ほうし
寛元三年(1245)十月大十日辛未。甚だ雨。將軍家の御祈の爲、御所に於て属星祭を修被る。リ賢之を奉仕す。
はなは あめのあいだ からかさ した をい これ
ごんぎょう
うんぬん じぶごんのしょうゆう おんしたり
甚だ雨之間、
唐笠の下に於て之を勤行すと云々。治部權少輔御使爲。
現代語寛元三年(1245)十月大十日辛未。土砂降りです。将軍家頼嗣様のお祈りの為、御所で属星祭をしました。安陪晴賢が勤めました。土砂降りなので唐傘をさして、その下で勤めましたとさ。治部権少輔頼氏が代参です
寛元三年(1245)十月大十一日壬申。雨下。辰以後天リ。日來於京都。以平將門合戰状。被令畫圖之。去夕參着之間。今日。於將軍御方。大殿覽之。教隆讀申其詞。事終有御酒宴。武州經營云々。 |
読下し
あめふ たつ
いご そらはれ
寛元三年(1245)十月大十一日壬申。雨下る。辰以後天リる。
ひごろ
きょうと をい たいらのまさかど
かっせんじょう もっ これ がず せし
られ さんぬ ゆう
さんちゃくのあいだ きょう しょうぐん おんかた をい おおとのこれ み
日來京都に於て、
平將門 合戰状を以て、之を畫圖令め被、 去る夕
參着之間、 今日、將軍の御方に於て、大殿之を覽る。
のりたか そ ことば よ もう ことおわ ごしゅえん
あ ぶしゅうけいえい うんぬん
教隆其の詞を讀み申す。事終りて御酒宴有り。武州經營すと云々。
現代語寛元三年(1245)十月大十一日壬申。雨降りです。午前8時以後は晴れました。最近京都で、平将門合戦の文書を参考にして、これを絵物語に書かせられて、夕べ到着したので、今日、将軍家頼嗣様の御所で、大殿入道大納言家頼経様がこれを見ました。清原教隆がこの文句を読んで聞かせました。それが終わると宴会です。武州経時さんが用意させましたとさ。
寛元三年(1245)十月大十二日癸酉。天リ。於久遠壽量院。有如法華經十種供養。導師本覺院僧正。即今日被奉納于永福寺奥山。是爲大納言家御願。日來所被勤行書写也。 |
読下し
そらはれ くおんじゅりょういん をい
にょほけきょう じっしゅくよう
あ どうし ほんがくいんそうじょう
寛元三年(1245)十月大十二日癸酉。天リ。久遠壽量院に於て、如法華經十種供養@有り。導師は本覺院僧正。
すなは きょう ようふくじ おくやまに
ほうのうさる これ だいなごんけ
ごがん な ひごろ ごんぎょう
しょしゃさる ところなり
即ち今日永福寺の奥山于奉納被る。是、大納言家の御願と爲し、日來
勤行 書写被る所也。
参考@十種供養とは、法華経法師品に説かれる十種、華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・幡蓋・衣服・伎樂・合掌を持って諸仏に供養する事。
現代語寛元三年(1245)十月大十二日癸酉。空は晴です。自分の仏を祀る持仏堂の久遠寿量院で、法華経に説かれるとおりに十種供養がありました。指導僧は、本覚院僧正です。すぐに今日、永福寺の奥山に奉納されました。これは、入道大納言家頼経様が祈願して、普段お勤めをしながら書き写したものです。
寛元三年(1245)十月大十三日甲戌。天リ。將軍家御不例減氣之後。今日有御沐浴之儀。醫師六人依召參鞠御壷。各賜祿。御馬御劔等也。時長。頼行。忠憲。以長。廣長。時C等應召云々。 |
読下し
そらはれ
しょうぐんけ ごふれい げんきののち きょう
おんもくよく のぎ あ
寛元三年(1245)十月大十三日甲戌。天リ。將軍家御不例減氣之後、今日御沐浴之儀有り。
くすしろくにんめし よっ まり おんつぼ
まい おのおの ろく たま おんうま
ぎょけんら なり
醫師六人召に依て鞠の御壷へ參り、 各 祿を賜はる。御馬、御劔等也。
ときなが よりゆき ただのり
もちなが ひろなが とききよら めし おう
うんぬん
時長、頼行、忠憲、以長、廣長、時C等召に應ずと云々。
現代語寛元三年(1245)十月大十三日甲戌。空は晴です。将軍家頼嗣様の病気が快復した来たので、今日病の気を洗い流す沐浴式がありました。医者6人が呼ばれて蹴鞠をする中庭にきて、それぞれ褒美を与えられたました。馬と刀です。丹波時長・頼行・忠憲・以長・広長・時清らが呼ばれてきたのんだそうな。
寛元三年(1245)十月大十五日丙子。天リ。天變御祈等内外數座行之。 |
読下し
そらはれ
てんぺん おいのりら ないげすうざこれ おこな
寛元三年(1245)十月大十五日丙子。天リ。天變の御祈等内外數座之を行う。
現代語寛元三年(1245)十月大十五日丙子。空は晴です。天の異変の災いを防ぐお祈りを仏教と陰陽道で数人が行いました・
寛元三年(1245)十月大十六日丁丑。天リ。殺害人泰繼。自去月廿六日。所被召預上総權介秀胤也。今日下向彼國矣。孝俊者。又大蘇我七郎左衛門尉相具。赴下野國云々。 |
読下し
そらはれ せちがいにん
やすつぐ さんぬ つき にじうろくにち
よ かずさごんのすけひでたね めしあず らる ところなり
寛元三年(1245)十月大十六日丁丑。天リ。殺害人泰繼@、去る月 廿六日 自り、 上総權介秀胤
に召預け被る所也。
きょう
か くに げこうす たかとし はまた おおそがしちろうさえもんのじょうあいぐ しもつけのくに おもむ
うんぬん
今日彼の國へ下向矣。孝俊@者又、大蘇我七郎左衛門尉相具し、下野國へ赴くと云々。
現代語寛元三年(1245)十月大十六日丁丑。空は晴です。殺人犯の安倍泰継は、先月の26日から、上総権介千葉秀胤に囚人として預けられています。今日、上総の国へ連れて行かれました。安倍孝俊はまた、大蘇我七郎左衛門尉が引き連れて、下野国へ行きましたとさ。
解説@泰繼・孝俊は、安陪泰継と安陪孝俊で8月2日に相続争いで甥を殺した罪で、遠山景朝と臼井九郎とに預けられれいた。
寛元三年(1245)十月大十九日庚辰。天リ。今日。被建由比濱大鳥居。北條左親衛被監臨。人々群集云々。 |
読下し
そらはれ きょう
ゆいがはま おおとりい たてらる
ほうじょうさしんえい かんりんされ ひとびとぐんしゅう うんぬん
寛元三年(1245)十月大十九日庚辰。天リ。今日、由比濱の大鳥居を建被る。北條左親衛
監臨被、人々群集すと云々。
現代語寛元三年(1245)十月大十九日庚辰。空は晴です。今日、由比ガ浜の大鳥居を建てられました。北条時頼が監視され、人々が大勢群れ集まりましたとさ。
寛元三年(1245)十月大廿八日己丑。臨時評定也。熊野河頬尼子息定憲申榎本氏女不應召文由事。彼等訴論事。先日有其沙汰。仰切訖。而尼掠給問状。抑留作毛云々。向後可停止彼訴訟。於作毛者。可糺返氏女之旨。所被仰出也。長田兵衛太郎奉行之。 |
読下し りんじ ひょうじょうなり
寛元三年(1245)十月大廿八日己丑。臨時の評定也。
くまのかわつらあま しそく さだのりもう
えのもとうじめ
めしぶみ おう ざるよし こと かれら そろん こと せんじつ
そ さた あ おお き をはんぬ
熊野河頬尼が子息定憲申す、榎本氏女召文に應ぜ不由の事、彼等の訴論の事、先日其の沙汰有りて、仰せ切り訖。
しか あまといじょう りゃくきゅう さくもう よくりゅう うんぬん
而るに尼問状を掠給して、作毛を抑留すと云々。
きょうこう か
そしょう ちょうじすべ さくもう をい は
うじめ ただ かえ べ のむね おお いだされ ところなり
向後、彼の訴訟を停止可し。作毛に於て者、氏女に糺し返す可き之旨、仰せ出被る所也。
おさだのひょうえたろうこれ
ぶぎょう
長田兵衛太郎之を奉行す。
現代語寛元三年(1245)十月大二十八日己丑。臨時の政務会議です。熊野川面尼の息子の定憲が訴えてます。榎本さんの娘が呼び出し状に答えない事は、彼らの裁判について、先日裁決があって、命令し終わってます。それなのに、川面尼は起訴状を無視して、作物を横領してます。今後、その訴訟は受け付けません。作物については、榎本娘に調べて返すように、命じられました。長田兵衛太郎がこれを指導担当します。
寛元三年(1245)十月大卅日辛夘。天リ。入道大納言家於久遠壽量院。被行報恩舎利講。本覺院僧正爲唱導。有童舞。毎事被整花麗云々。 |
読下し そらはれ にゅうどうだいなごんけ くおんじゅりょういん をい ほうおんしゃりこう おこなはれ
寛元三年(1245)十月大卅日辛夘。天リ。入道大納言家、久遠壽量院に於て、報恩舎利講を行被る。
ほんがくいんそうじょう しょうどうたり わらわまいあ まいじ かれい
ととの らる うんぬん
本覺院僧正 唱導爲。童舞有り。毎事花麗を整へ被ると云々。
現代語寛元三年(1245)十月大三十日辛卯。空は晴です。入道大納言家頼経様は、持仏堂の久遠寿量院で、釈迦のお骨舎利の仏典を講じる法要をしました。本覚院僧正が、唄うようにお経を唱えるリーダーをしました。稚児の奉納舞もあり、全て豪華に用意しましたとさ。