吾妻鏡入門第卅七巻

寛元四年丙午(1246)十二月小

寛元四年(1246)十二月小二日丁亥。去月廿三日除目除書到着。將軍家叙從四位下御云々。

読下し                     さんぬ つき にじうさんにち じもく   じしょとうちゃく    しょうぐんけ じゅしいげ    じょ  たま    うんぬん
寛元四年(1246)十二月小二日丁亥。去る月 廿三日の除目の除書到着す。將軍家從四位下に叙し御うと云々。

現代語寛元四年(1246)十二月小二日丁亥。先月23日の人事異動の辞令が届きました。将軍家頼嗣様は従四位下に任命されましたとさ。

寛元四年(1246)十二月小六日辛夘。御不例事。於今者無殊御事云々。

読下し                      ごふれい  こと   いま    は こと    おんことな     うんぬん
寛元四年(1246)十二月小六日辛夘。御不例の事、今にて者殊なる御事無しと云々。

現代語寛元四年(1246)十二月小六日辛卯。病気については、今では特に心配することはありませんだとさ。

寛元四年(1246)十二月小七日壬辰。去月廿七日除目聞書到來。將軍家少將如元云々。

読下し                     さんぬ つき にじうしちにち じもく  ききがきとうらい    しょうぐんけ しょうしょう もと  ごと    うんぬん
寛元四年(1246)十二月小七日壬辰。去る月 廿七日の除目の聞書到來す。將軍家 少將 元の如しと云々。

現代語寛元四年(1246)十二月小七日壬辰。先月27日の人事異動の事務官が聞いて書いた文書が届きました。将軍家頼嗣様は少将の職は今迄通りだそうな。

寛元四年(1246)十二月小十二日丁酉。入道大納言家御書到來于左親衛御方。條々依有被仰下事。可被申御請文否。内々被問人々意見。雖不及委細。可有御返事歟之由云々。仍秘藏云云。

読下し                       にゅうどうだいなごんけ  おんしょ  さしんえい おんかたに とうらい
寛元四年(1246)十二月小十二日丁酉。入道大納言家の御書、左親衛の御方于到來す。

じょうじょう おお  くださる  ことあ     よっ    おんうけぶみ もうさる  べ     いな    ないない ひとびと  いけん  とはる
 條々 仰せ下被る事有るに依て、御請文を申被る可きや否や、内々に人々の意見を問被る。

いさい   およばず いへど   ごへんじあ   べ   か のよし  うんぬん  よっ  ひぞう     うんぬん
委細に不及と雖も、御返事有る可き歟之由と云々。仍て秘藏すと云云。

現代語寛元四年(1246)十二月小十二日丁酉。入道大納言家頼経様の手紙が左親衛時頼宛てに届きました。色々と云ってきてる事について、了承の文書を出すかどうか、内々に周りの人に聞いていました。細かくは書かなくても、返事位は出した方が良いかとの事でした。そこで将軍には伏せて置きましたとさ。

寛元四年(1246)十二月小十七日壬寅。悪黨扶持輩殊可被加嚴制之由。日來有其沙汰。今日。被下御教書於諸國守護地頭等云々。其状云。
 籠置悪黨并四一半打所領可被召事
右。近日。國々夜討強盜蜂起之由普風聞。是偏所々地頭等籠置悪黨并四一半打等。致無沙汰之故歟。然者。或籠置悪黨於所領内。或於四一半打之所者。早可被注進交名。可被改易所職也。以此旨。可令下知某國并知行所々給者。依仰執逹如件。
  寛元四年十二月十七日               左近將監
  某殿

読下し                       あくとう   ふち    やから  こと  げんせい  くは  らる  べ   のよし  ひごろ そ    さた あ
寛元四年(1246)十二月小十七日壬寅。悪黨を扶持する輩、殊に嚴制を加へ被る可き之由、日來其の沙汰有り。

きょう   みぎょうしょを しょこく  しゅご ぢとう ら   くださる    うんぬん  そ  じょう  い
今日、御教書於諸國の守護地頭等に下被ると云々。其の状に云はく。

    あくとうなら    しいちはんうち  こ   お     しょりょう  め さる  べ   こと
  悪黨并びに四一半打を籠め置かば所領を召被る可き事

  みぎ  きんじつ くにぐに  ようち ごうとう ほうき のよし あまね ふうぶん
 右、近日、國々に夜討強盜蜂起之由 普く風聞す。

   これひと    しょしょ  ぢとう ら   あくとうなら    しいちはんうちら    こ   お       ぶさた  いた  のゆえか
 是偏へに所々の地頭等、悪黨并びに四一半打等を籠め置き、無沙汰を致す之故歟。

  しからば  ある    あくとうをしょりょうない  こ   お     ある   しいちはんうち のところ  をい  は  はや きょうみょう ちうしんさる  べ
 然者、或ひは悪黨於所領内に籠め置き、或ひは四一半打之所に於て者、早く交名を注進被る可し。

   しょしき  かいえきさる  べ   なり
 所職を改易被る可き也。

  かく  むね  もっ    ぼうこくなら    ちぎょう  しょしょ   げち せし  たま  べ   てへ      おお    よっ  しったつくだん ごと
 此の旨を以て、某國并びに知行の所々に下知令め給ふ可き者れば、仰せに依て執逹件の如し。

    かんげんよねんじうにがつじうしちにち                               さこんしょうげん
  寛元四年十二月十七日               左近將監

    ぼうどの
  某殿

現代語寛元四年(1246)十二月小十七日壬寅。悪党(政務離反者)をかくまっている連中は、特に厳しい制裁を与えるように、普段そのように裁決しています。今日、将軍名の命令書を諸国の守護地頭に出したそうです。その内容は、

 悪党(政務離反者)それと四一半の博打打を匿っている者は、領地を取り上げる事
 右については、近頃、国々に夜中に押し入って強盗を働いているとどこでも噂がある。これは、ひたすらあちこちの地頭が、
悪党(政務離反者)や博打打ちをかくまっていて、ほおっておくからです。それなので、或る者は悪党(政務離反者)を領地内にかくまって居たり、或る者は博打打を置いている所は、、早く名前を書きだして届けなさい。領地を取り上げてしまうから。この内容で、あなたの国の領地所有者に命令するようにとの、将軍の仰せを伺って通知するのはこの通りです。
   寛元4年12月17日        左近将監(北条時頼)
   どちら様へも

寛元四年(1246)十二月小廿七日壬子。今曉。被行將軍家御息〔災〕御祈祷等云々。

読下し                       こんぎょう しょうぐんけ ごそくさい   ごきとう ら  おこなはれ   うんぬん
寛元四年(1246)十二月小廿七日壬子。今曉、將軍家御息災の御祈祷等を行被ると云々。

現代語寛元四年(1246)十二月小二十七日壬子。今朝の夜明けに、将軍家頼嗣様の健康の御祈祷を行いましたとさ。

寛元四年(1246)十二月小廿八日癸丑。今日追入之者迯參幕府臺所。敵人追付之。内參入。于時松田弥三郎常基晝番祗候之間。兩方共搦取之。仍上下騒動。自相州被差進平衛門尉。諏方兵衛入道。各尋問事之由。是紀伊七郎左衛門尉重經所從等也。重經丹後國所領徳分物運送疋夫。去比乍荷負財産逐電訖。相尋諸方之處。只今於米町邊。適雖見逢。追奔之處。失度推參之由申之。即被經御沙汰。雖非主人所爲。彼郎從已請命之後狼藉也。縡及勝事之上者。可召放件丹州所領之旨。被定之云々。

読下し                       きょう お   い   のもの ばくふ だいどころ に   まい    かたうどこれ  おいつ    うち  さんにゅう

寛元四年(1246)十二月小廿八日癸丑。今日追い入る之者幕府の臺所へ迯げ參る。敵人之に追付き、内に參入す。

ときに まつだいやさぶろうつねもと ひるばん しこう のあいだ りょうほうともこれ  から  と     よっ  じょうげそうどう
時于松田弥三郎常基、晝番の祗候之間、兩方共之を搦め取る。仍て上下騒動す。

そうしゅうよ へいえもんのじょう すわのひょうえにゅうどう さしすす らる   おのおの ことのよし  じんもん    これ  きいのしちろうさえもんのじょうしげつね  しょじゅうらなり
相州自り平衛門尉、諏方兵衛入道を差進め被る。 各 事之由を尋問す。是、 紀伊七郎左衛門尉重經が所從等也。

しげつね たんごのくに しょりょう とくぶんぶつ うんそう  ひっぷ  さんぬ ころ  ざいさん  かぶ   なが  ちくてん をはんぬ
重經が丹後國の所領 徳分物 運送の疋夫、去る比、財産を荷負し乍ら逐電し@訖。

しょほう  あいたず   のところ  ただいま よねまちへん をい   たまたま みあ    いへど    おいはし  のところ  ど  うしな すいさんのよしこれ  もう
諸方を相尋ねる之處、只今 米町邊に於て、 適 見逢うと雖も、追奔る之處、度を失い推參之由之を申す。

すなは  ごさた   へ らる   しゅじん  しょい  あらず いへど   か  ろうじゅうすで  めい  う     ののち  ろうぜきなり
即ち御沙汰を經被る。主人の所爲に非と雖も、彼の郎從已に命を請くる之後の狼藉也。

ことしょうじ  およ  の うえは  くだん  たんしゅう しょりょう めしはな  べ   のむね  これ  さだ  らる    うんぬん
縡勝事Aに及ぶ之上者、件の丹州の所領を召放つ可き之旨、之を定め被ると云々。

参考@財産を荷負し乍ら逐電は、持ち逃げした。
参考A勝事に及ぶは、悪い事が起こったの忌み言葉。

現代語寛元四年(1246)十二月小二十八日癸丑。今日、追いかけられている者が、幕府の台所へ逃げ入りました。追いかえる側もこれに追いついて一緒に入りました。そこに居合わせた、松田弥三郎常基は、昼の当番をしていたので、双方ともに捕まえてしまいました。この騒ぎで、将軍も下っ端の者も大騒ぎでした。相州重時から平衛門尉と諏方兵衛入道蓮仏盛重を取り調べに行かせました。それぞれ事件の事情と次第を質問しました。この追われたのは、紀伊七郎左衛門尉重経の召使です。重経の丹後国の領地の年貢を運ぶ作業人が、先達て年貢を持ち逃げしてしまったのです。
「あちこちと問い合わせて探していたら、先ほど米町あたりで、たまたま見かけたので捕まえようと追い駆けて居たのですが、夢中になっていて幕府に入ってしまいました。」と説明しました。すぐに将軍の裁決を得ました。主人の行為でないとは言えど、その召使は、主人の命令を受けてから後の違反行為です。悪い事が起こってしまったので、召使の罪は主人の罪でもあるので、その丹後の国の領地は取り上げるように、お決めになりましたとさ。

寛元四年(1246)十二月小廿九日甲寅。左馬權頭入道昇蓮与上野入道日阿相論下総國松岡庄田久安兩郷所務條々内。去文暦元年貢物所濟事。依爲日阿當給人。可令弁償之由。預所昇蓮訴申之間。日阿拝領者文暦元年十二月十六日也。全不徴納彼年貢物之上者。難弁濟之旨。日阿陳之。仍日來有其沙汰。今日仰件郷本地頭忠幹。可令致弁之由云々。

読下し                      さまごんのかみにゅうどうしょうれん と こうづけにゅうどうにちあ  そうろん
寛元四年(1246)十二月小廿九日甲寅。左馬權頭入道昇蓮@ 与 上野入道日阿Aが相論する

しもうさのくに まつおかのしょう たくあん りょうごう  しょむ じょうじょう うち  さんぬ ぶんりゃくがんねん くもつしょさい  こと
下総國 松岡庄B 田久安兩郷の所務C條々の内、去る 文暦元年の 貢物所濟の事、

にちあ とうきゅうにん たる  よっ    べんしょうせし べ   のよし  あずかりどころ しょうれん うった もう  のあいだ  にちあ  はいりょうは ぶんりゃくがんねんじうにがつじうろくにちなり
日阿 當給人D爲に依て、弁償令む可き之由、 預所 昇蓮 訴へ申す之間、日阿が拝領者 文暦元年十二月十六日也。

まった か   ねんぐぶつ ちょうのうせざ の うえは   べんさい  がた  のむね  にちあ これ  ちん    よっ  ひごろ そ   さた あ
全く彼の年貢物を徴納不る之上者、弁濟し難き之旨、日阿之を陳ず。仍て日來其の沙汰有り。

きょう くだん ごう  ほんぢとうただもと  おお      まきま   いたせし  べ   のよし  うんぬん
今日件の郷の本地頭忠幹Eに仰せて、弁へを致令む可き之由と云々。

参考@左馬權頭入道昇蓮は、ここしか出演が無く不明
参考A
上野入道日阿は、結城朝光。
参考B松岡庄は、茨城県常総市豊岡町。豊田庄とも言う。
参考C所務は、領地関係。金銭相続関係が雑務。
参考D
當給人は、地頭。
参考E
忠幹は、土地と通字の幹から常陸大掾氏であろうが、不明。

現代語寛元四年(1246)十二月小二十九日甲寅。左馬権頭入道昇蓮と上野入道日阿(結城朝光)とが、争っている下総国松岡庄田久安両郷の領地関係の色々のうち、去る文暦1年(1234)の未納について、日阿が納付責任者の地頭なので弁償するように、上級荘園管理者現地代理人の昇蓮が訴え出たのですが、日阿がこの地頭を貰ったのが文暦2年(1235)12月16日です。全然その年貢を徴収して上納する事はありませんので、弁償はできませんと、日阿は弁明しました。そこでその裁決がありました。今日、そこの郷の元々の地頭の忠幹に云いつけて、弁償するようにとの事でした。

吾妻鏡入門第卅七巻

inserted by FC2 system