吾妻鏡入門第卅九巻  

寳治二年(1248)八月大

寳治二年(1248)八月大一日乙亥。左親衛渡御甲斐前司亭。下野前司泰綱。出羽前司行義等參會。被决圍碁勝負云々。

読下し                    さしんえい  かいぜんじ   てい  わた  たま   しもつけぜんじやすつな  でわぜんじよきよしら さんかい
寳治二年(1248)八月大一日乙亥。左親衛、甲斐前司が亭へ渡り御う。下野前司泰綱、出羽前司行義等參會す。

 いご   しょうぶ  けっさる    うんぬん
圍碁の勝負を决被ると云々。

現代語宝治二年(1248)八月大一日乙亥。時頼さんは、甲斐前司長井泰秀さんの屋敷へ行かれました。下野前司宇都宮泰綱や出羽前司二階堂行義も出会わせました。囲碁の勝負をしましたとさ。

寳治二年(1248)八月大十日甲申。備前國住人服部左衛門六郎可致御所中奉公之由。就望申之。於小侍所。先被尋先々奉公證據之處。伊豫大夫判官義顯爲平氏追討使。下向西海之比。父祖等可爲扶持之旨。廷尉送状。剩賜乘馬。又感軍忠。重被出賀章云々。仍進覽件兩通状之間。有其沙汰。今日勘申評定之處。承久元年以來。如醫陰兩道之類。被召加御簡等事者。自京都令祗候御所之故也。雖无父祖之例。号御家人。今更於被聽奉公之條者。可爲揚焉之輩事歟。遠國住人等。只帶廷尉内々消息状許。存御家人募事者。不及御許容之由。所被仰出也。

読下し                   びぜんのくにじゅうにん はっとりさえもんろくろう  ごしょちゅう  ほうこう  いた  べ   のよし   これ  のぞ  もう    つ
寳治二年(1248)八月大十日甲申。備前國住人 服部左衛門六郎、御所中の奉公を致す可き之由、之を望み申すに就き、

こさむらいどころ をい    ま   さきざき  ほうこう  しょうこ  たず  らる  のところ
 小侍所に 於て、先ず先々の奉公の證據を尋ね被る之處、

いよのたいふほうがんよしあき  へいし ついとうし   な     さいかい  げこう のころ   ふそら  ふち   な   べ   のむね
伊豫大夫判官義顯、平氏追討使と爲し、西海へ下向之比、父祖等扶持を爲す可き之旨、

ていい じょう おく   あまつさ じょうば  たま
廷尉状を送り、剩へ乘馬を賜はる。

また  ぐんちゅう かん    かさ    がしょう  いださる    うんぬん
又、軍忠に感じ、重ねて賀章を出被ると云々。

よっ  くだん りょうつうじょう しんらんのあいだ  そ   さた あ        きょう ひょうじょう かん  もう  のところ
仍て件の 兩通状を 進覽之間、其の沙汰有りて、今日 評定に勘じ申す 之處、

じょうきゅうがんねんいらい  いいんりょうどうのたぐい  ごと    ごかんら  めしくは  らる  ことは   きょうとよ    ごしょ   しこうせし   のゆえなり
 承久元年 以來、醫陰兩道之類の如く、御簡等を召加へ被る事者、京都自り御所へ祗候令む之故也。

 ふそ のれい な   いへど    ごけにん  ごう    いまさらほうこうを ゆるさる  のじょうは   けちえんのやからたるべ   ことか
父祖之例无しと雖も、御家人と号し、今更奉公於聽被る之條者、揚焉 之輩 爲可き事歟。

おんごく じゅうにんら  ただていいないない しょうそこじょう ばか    お     ごけにん   つの    ぞん    ことは   ごきょうよう  およばざるのよし  おお いださる ところなり
遠國の住人等、只廷尉 内々の消息状 許りを帶び、御家人の募りに存ずる事者、御許容に不及之由、仰せ出被る所也。

現代語宝治二年(1248)八月大十日甲申。備前国の豪族の服部左衛門六郎は、御所での勤務をしたいと望んでいるので、小侍所でまず今後の勤めさせてよいか忠義の証拠を聞いてみたところ、伊豫大夫判官義顯義経が平家を追悼する代官として瀬戸内方面へ下った時に、祖父や父に味方をするように手紙を送り、そればかりか馬を送り与えました。又、戦での忠義に感動して、複数の感謝状を出したそうです。
そこで、その二通の手紙をご覧になられ、取り扱うように云われるので、今日政務会議に提案した所、承久元年(1219)以来、医者や陰陽師の連中と同様に、日給の簡(ふだ)で勤務する人々を採用することは、京都朝廷から鎌倉幕府へ勤務に来るからです。祖父や父の例が無くても、御家人として今から奉公を許可するのは、素性が明らかな者であるべきでしょう。関西以西の侍どもは、単に義経の個人的に発出した手紙を持っているだけで、御家人に並びたいとの希望者は、許可しない事だと、おっしゃられました。

寳治二年(1248)八月大十五日己丑。天リ。鶴岡放生會也。將軍家有御出之儀。武藏守朝直朝臣持御劔。伊豆太郎左衛門尉實保懸御調度。
先陣随兵十人
 北條六郎時定     武藏太郎朝房
 遠江新左衛門尉經光  式部六郎左衛門尉朝長
 伯耆四郎左衛門尉光C 土肥四郎實綱
 小笠原余一長經    出羽三郎行資
 越後五郎時員     三浦介盛時
後陣随兵十一人
 相摸三郎太郎時成   千葉次郎泰胤
 上野三郎國氏     里見伊賀弥太郎義經
 薩摩七郎左衛門尉祐能 常陸次郎兵衛尉行雄
 肥後次郎左衛門尉景氏 豊後左衛門尉忠綱
 隱岐次郎左衛門尉泰C 加地太郎實綱
 江戸七郎重保

読下し                     そらはれ つるがおか ほうじょうえなり  しょうぐんけおんいでのぎ あ
寳治二年(1248)八月大十五日己丑。天リ。 鶴岡の放生會也。將軍家御出之儀有り。

むさしのかみともなおあそん ぎょけん  も     いずのたろうさえもんのじょうさねやす ごちょうど   か

武藏守朝直朝臣、御劔を持ち、伊豆太郎左衛門尉實保、御調度を懸く。

せんじん ずいへいじうにん
先陣の随兵十人

  ほうじょうろくろうときさだ          むさしのたろうともふさ
 北條六郎時定     武藏太郎朝房

  とおとうみしんさえもんのじょうつねみつ しきぶのろくろうさえもんのじょうともなが
 遠江新左衛門尉經光  式部六郎左衛門尉朝長

  ほうきのしろうさえもんのじょうみつきよ  といのしろうさねつな
 伯耆四郎左衛門尉光C 土肥四郎實綱

  おがさわらのよいちながつね       でわのさぶろうゆきすけ
 小笠原余一長經    出羽三郎行資

  えちごのごろうときかず          みうらのすけもりとき
 越後五郎時員     三浦介盛時

こうじん ずいへいじういちにん
後陣の随兵十一人

  さがみのさぶろうたろうときなり      ちばのじろうやすたね
 相摸三郎太郎時成@   千葉次郎泰胤

  こうづけのさぶろうくにうじ          さとみいがのいやたろうよしつね
 上野三郎國氏     里見伊賀弥太郎義經

  さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし ひたちのじろうひょうえのじょうゆきかつ
 薩摩七郎左衛門尉祐能 常陸次郎兵衛尉行雄

  ひごのじろうさえもんのじょうかげうじ   ぶんごのさえもんのじょうただつな
 肥後次郎左衛門尉景氏 豊後左衛門尉忠綱

  おきのじろうさえもんのじょうやすきよ   かぢのたろうさねつな
 隱岐次郎左衛門尉泰C 加地太郎實綱

  えどのしちろうしげやす
 江戸七郎重保

参考@相摸三郎太郎時成は、時房─三郎資時─太郎時成

現代語宝治二年(1248)八月大十五日己丑。鶴岡八幡宮の生き物を放して贖罪する儀式の放生会です。将軍家頼嗣様のお出ましがありました。武蔵守北条朝直さんが太刀持ちで、伊豆太郎左衛門尉実保が弓矢を担ぎました。
先へ行く、武装儀仗兵10人
 北条六郎時定       と 武蔵太郎北条朝房
 遠江新左衛門尉経光    と 式部六郎左衛門尉朝長
 伯耆四郎左衛門尉葛西光清 と 土肥四郎実綱
 小笠原余一長経      と 出羽三郎二階堂行資
 越後五郎時員       と 三浦介盛時
後から行く武装儀仗兵11人
 相模三郎太郎時成     と 千葉次郎泰胤
 上野三郎畠山国氏     と 里見伊賀弥太郎義経
 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 と 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄
 肥後次郎左衛門尉景氏   と 豊後左衛門尉島津忠綱
 隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清と 加地太郎実綱
 江戸七郎重保

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