吾妻鏡入門第卅九巻  

寳治二年(1248)十月大

寳治二年(1248)十月大六日己夘。將軍家俄入御于鶴岡別當法印雪下坊。被用女房輿。武藤左衛門尉景頼持御劔。相摸右近大夫將監。武藏守。尾張前司。少輔左近大夫。上野大藏權少輔以下十余輩候御共。又難波少將等追參上。有御鞠會云々。秉燭之程還御。取松明云云。

読下し                   しょうぐんけ にはか つるがおかべっとうほういん ゆきのしたぼうに い  たま
寳治二年(1248)十月大六日己夘。將軍家 俄に 鶴岡別當法印 の 雪下坊于 入り御う。

にょぼうごし  もち  らる    むとうさえもんのじょうかげよりぎょけん  も
女房輿を用い被る。武藤左衛門尉景頼御劔を持つ。

さがみうこんたいふしょうげん  むさしのかみ  おわりのぜんじ  しょうゆうさこんたいふ  こうづけおおくらごんのしょうゆう いげ じううよやからおんとも そうら
相摸右近大夫將監、武藏守、 尾張前司、少輔左近大夫、 上野大藏權少輔 以下十余輩御共に候う。

また  なんばしょうしょうら おっ さんじょう   おんまりえ あ    うんぬん  へいしょくのほど かえ  たま    たいまつ  と     うんぬん
又、難波少將等 追て參上す。御鞠會有りと云々。秉燭之程 還り御う。松明と取ると云云。

現代語宝治二年(1248)十月大六日己卯。将軍家頼嗣様は急に思いついて鶴岡八幡宮筆頭法印隆弁の雪ノ下の宿舎へお出かけになりました。女物の輿を使いました。武藤左衛門尉景頼が太刀持ちです。相模右近大夫将監北条時定・武蔵守大仏流北条朝直・尾張前司名越流北条時章・少輔左近大夫大江祐房・上野大蔵権少輔結城朝広を始めとする十数人がお供をしました。又、難波少将宗教さん達が追っかけやって来ました。蹴鞠の会がありましたとさ。灯りを灯す時間になって御帰りなので、松明を用意したそうです。

寳治二年(1248)十月大廿一日甲午。永福寺修理間事。條々有其沙汰。C左衛門尉滿定奉行之。

読下し                     ようふくじ しゅうり  あいだ こと じょうじょうそ   さた あ    せいさえもんのじょうみつさだ これ  ぶぎょう
寳治二年(1248)十月大廿一日甲午。永福寺修理の間の事、條々其の沙汰有り。C左衛門尉滿定、之を奉行す。

現代語宝治二年(1248)十月大二十一日甲午。永福寺の修理の間について、色々と検討がありました。左衛門尉清原満定が担当です。

寳治二年(1248)十月大廿四日丁酉。從五位下行大炊權助藤原朝臣親秀法師〔法名寂秀〕卒。〔年五十四〕豊前々司能直男也。

読下し                     じゅごいのげぎょう おおいのごんのすけ ふじわらあそん ちかひでほっし 〔ほうみょうじゃくしゅう〕 そつ   〔としごじうし〕 ぶぜんぜんじよしなお  なんなり
寳治二年(1248)十月大廿四日丁酉。從五位下行 大炊權助 藤原朝臣 親秀法師〔法名寂秀〕卒。〔年五十四〕豊前々司能直が男也。

現代語宝治二年(1248)十月大二十四日丁酉。従五位下行大炊藤原大友親秀法師〔出家名寂秀〕が死亡した。〔歳は54才〕豊前前司大友能直の息子です。

寳治二年(1248)十月大廿五日戊戌。嶋津豊後左衛門尉忠綱以高麗山々柄。献將軍家。其色白而如雪。其聲不相似吾國鳥。幕府賞翫只此事也。

読下し                     しまづぶんごさえもんのじょうただつな こうらいさん  やまがら もっ    しょうぐんけ  けん
寳治二年(1248)十月大廿五日戊戌。嶋津豊後左衛門尉忠綱、高麗山の々柄を以て、將軍家に献ず。

 そ  いろしろ  て ゆき  ごと    そ   こえわがくに  とり  あい に ず   ばくふ しょうがん ただ こ  ことなり
其の色白く而雪の如し。其の聲吾國の鳥に相似不。幕府の賞翫只此の事也。

現代語宝治二年(1248)十月大二十五日戊戌。島津豊後左衛門尉忠綱が、高麗山(朝鮮)の山雀を、将軍家頼嗣様に献上しました。その色は真っ白で白雪のようです。その声は、日本の鳥とは違うようです。将軍の興味はこの事にかかりきりです。

寳治二年(1248)十月大廿七日庚子。山城國悪徒蜂起之由。自六波羅注進状到來之間。被經其沙汰。爲相鎭之。於本所一圓庄園等。可令新補地頭歟之由。及意見。先可被經奏聞云々。

読下し                    やましのくに  あくと ほうきのよし  ろくはら よ   ちゅうしんじょうとうらいのあいだ  そ   さた  へ らる
寳治二年(1248)十月大廿七日庚子。山城國の悪徒蜂起之由、六波羅自り注進状到來之間、其の沙汰を經被る。

これ  あいしず   ため  ほんじょいちえん しょうえんら  をい    ぢとう  しんぽ せし  べ   か のよし  いけん  およ    ま   そうもん  へ らる  べ     うんぬん
之を相鎭めん爲、本所一圓の庄園等に於て、地頭を新補令む可き歟之由、意見に及ぶ。先ず奏聞を經被る可きと云々。

現代語宝治二年(1248)十月大二十七日庚子。山城国(京都府南半分)の無法者が狼藉していると、六波羅探題から手紙が届いたので、その検討をしました。これを退治するために、最上級荘園債権者の本所が一方的に管理している荘園にも、新任の地頭を設置しようかとの意見があったので、まずは、朝廷に伺う事にしましたとさ。

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