建長四年(1252)三月小
建長四年(1252)三月小五日己丑。辰刻。京都飛脚參着于關東。是先日上洛使節和泉前司行方。武藤左衛門尉景頼就奏聞。就宮殿下御下向事。自去一日於仙洞連々有其沙汰。殿下毎度參給。但三歳宮〔准后腹〕十三歳宮〔大納言二品腹〕兩所之間。何御方可有御下向哉事。依被尋仰下之。兩六波羅所馳申也。奥州。相州等會合。被經群議。十三歳宮可有御下向之旨被申之。仍及同日申刻。飛脚歸洛。 |
読下し たつのこく きょうと ひきゃくかんとうに
さんちゃく
建長四年(1252)三月小五日己丑。辰刻。京都の飛脚關東于參着す。
これ せんじつじょうらくしせつ いずみのぜんじゆきかた むとうさえもんのじょうかげより
そうもん つ みやでんか ごげこう
こと つ
是、先日上洛使節の和泉前司行方・武藤左衛門尉景頼が奏聞に就き、宮殿下御下向の事に就き、
さんぬ ついたちよ せんとう をい
れんれん そ さた あ でんか まいどさん たま
去る一日自り仙洞に於て連々其の沙汰有り。殿下毎度參じ給ふ。
ただ さんさい みや
〔じゅんごうばら〕 じうさんさい
みや 〔
だいなごんにほんばら 〕
りょうしょのあいだ いずれ おんかた ごげこう あ
べ や こと
但し三歳の宮@〔准后腹A〕十三歳の宮B〔大納言二品腹C〕兩所之間、
何の御方御下向有る可き哉の事、
これ たず おお くださる よっ りょうろくはら は もう
ところなり
之を尋ね仰せ下被るに依て、兩六波羅が馳せ申す所也。
おうしゅう そうしゅうら
かいごう ぐんぎ へ らる
じうさんさい みや ごげこう あ べ のむね これ
もうさる
奥州・相州等會合し、群議を經被る。十三歳の宮御下向有る可き之旨、之を申被る。
よっ どうじつさるのこく およ ひきゃく きらく
仍て同日申刻に及び、飛脚歸洛す。
参考@三歳の宮は、後の亀山天皇。1249生まれ。
参考A准后腹は、西園寺姞子(大宮院)。
参考B十三歳の宮は、宗尊親王だが、1242生まれなので11才の間違い。
参考C大納言二品腹は、内侍平棟子。
現代語建長四年(1252)三月小五日己丑。午前8時頃、京都からの伝令が鎌倉に付きました。これは、先日京都へ上った派遣員の和泉前司二階堂行方・武藤左衛門尉景頼の朝廷への伺いについて、宮殿下の鎌倉お下りについて、先日の1日から院の御所で何度も検討があり、摂政近衛兼経さんも毎回参加していました。
但し、3才の宮〔准皇后の腹〕、13才の宮〔大納言二位の腹〕お二人の内どちらかが鎌倉へ下るか、朝廷からこれを聞かれたので、六波羅南北探題から走って来て申しあげたところです。奥州重時さんと相州時頼さんが話し合いをして、13才の宮に来てもらうことにすると伝えました。それで同日午後4時頃になって伝令は京都へ帰って行きました。
建長四年(1252)三月小六日庚寅。藤次左衛門尉泰經爲御使上洛。行程七箇日云云。是宮御下向之間條々事。依被仰遣六波羅大夫將監長時朝臣也。彼朝臣并可然在京人等可令供奉之由云云。 |
読下し とうじさえもんのじょうやすつね おんし な じょうらく こうていなぬかにち うんぬん
建長四年(1252)三月小六日庚寅。藤次左衛門尉泰經御使と爲し上洛す。行程七箇日と云云。
これ みや ごげこうのあいだ じょうじょう こと ろくはら
たいふしょうげんながときあそん おお つか さる よっ なり
是、宮御下向之間の條々の事、六波羅の大夫將監長時朝臣に仰せ遣は被るに依て也。
か あそんなら しか
べ ざいきょうにんら ぐぶ せし べ のよし うんぬん
彼の朝臣并びに然る可く在京人等供奉令む可し之由と云云。
現代語建長四年(1252)三月小六日庚寅。藤次左衛門尉藤原泰経が幕府の使いとして京都へ上りました。行程は7日との事です。これは、宮のお下りについての数々を六波羅探題の大夫将監北条長時さんに命令を伝えるためです。長時さんと身分のある京都駐在の御家人がお供をしてくるようにとの事だとさ・
建長四年(1252)三月小十三日丁酉。巳刻。京都飛脚重參着。宮御事。可爲來十九日御進發之由云云。 |
読下し みのこく きょうよ ひきゃくかさ さんちゃく みや
おんこと きた じうくにち ごしんぱつたるべ のよし うんぬん
建長四年(1252)三月小十三日丁酉。巳刻、京都の飛脚重ねて參着す。宮の御事、來る十九日御進發爲可き之由と云云。
現代語建長四年(1252)三月小十三日丁酉、午前10時頃、京都からの伝令が続けて着きました。宮について、来る19日に出発予定だそうな。
建長四年(1252)三月小十六日庚子。天リ。彼御下向御祈事。今日。奥州。相州注連署御書。被仰護持僧等云々。即各進請文云云。 |
読下し そらはれ か ごげこう おんいの こと
建長四年(1252)三月小十六日庚子。天リ。彼の御下向の御祈りの事、
きょう おうしゅう そうしゅうれんしょ おんしょ
ちゅう ごじそう ら おお らる うんぬん すなは おのおの うけぶみ しん うんぬん
今日、奥州・相州連署の御書を注し、護持僧等に仰せ被ると云々。即ち 各 請文を進ずと云云。
現代語建長四年(1252)三月小十六日庚子。空は晴です。宮のお下りの無事の祈りにつて、今日、重時さん・時頼さん連名での署名した祈願書を書いて、それを祈る坊さん達に命じましたとさ。それぞれ請書を提出しましたとさ。
建長四年(1252)三月小十七日辛丑。天リ。三品親王關東御下向事。於仙洞有御沙汰。條々今日治定。殿下被參。又法親王〔仁助〕此間御祗候云云。 |
読下し そらはれ さんぽんしんのう
かんとう ごげこう こと せんとう をい ごさた あ じょうじょう
きょう ちじょう
建長四年(1252)三月小十七日辛丑。天リ。三品親王
關東御下向の事、仙洞に於て御沙汰有り。條々
今日治定す。
でんかまいらる また ほつしんのう 〔じんじょ〕 かく かん ごしこう うんぬん
殿下參被る。又、法親王〔仁助〕此の間御祗候と云云。
現代語建長四年(1252)三月小十七日辛丑。空は晴です。三位の宗尊親王の関東へのお下りについて、後嵯峨院で検討があり、色々と今日決まりました。摂政近衛兼経さんが参りました。又、坊主になっている法親王〔仁助〕も顔を見せましたとさ。
建長四年(1252)三月小十八日壬寅。雨降。親王勅授 宣下。上卿左大臣〔兼平公云々〕。今日。殿下被遣御馬於六波羅左親衛。御使下総前司行經云云。是爲親王御共。依可被下向關東也。 |
読下し あめふ しんのうちょくじゅ
せんげ しょうけい さだいじん 〔かねひらこう うんぬん〕
建長四年(1252)三月小十八日壬寅。雨降る。
親王勅授 宣下す。上卿は左大臣〔兼平公と云々〕。
きょう でんか おんうまを ろくはら さしんえい つか さる おんし
しもふさぜんじゆきつね うんぬん
今日、殿下御馬於六波羅の左親衛に遣は被る。御使は下総前司行經と云云。
これ しんのう おんとも な かんとう げこうさる べ よっ なり
是、親王の御共と爲し、關東へ下向被る可きに依て也。
現代語建長四年(1252)三月小十八日壬寅。雨降りです。親王として認める宣言がありました。進行指揮は左大臣〔兼平だとさ〕です。今日、摂政近衛兼経さんは、六波羅探題の左兵衛北条長時に送りました。持って来たのは、下総前司行経さんだそうな。これは、宗尊親王のお供をして、関東へ下って行くからです。
建長四年(1252)三月小十九日癸夘。天リ。今曉。三品親王關東御下向也。自仙洞入御六波羅〔八葉御車〕。吉田中納言〔爲經卿〕土御門宰相中將。〔顯方卿〕花山院中將長雅朝臣。右中弁顯雅朝臣等連軒。辰一點。令起六波羅給。御輿也。午刻着御于野路驛。 |
読下し そらはれ こんぎょう さんぽんしんのう
かんとう ごげこう なり せんとうよ ろくはら い たま 〔はちようのおくるま〕
建長四年(1252)三月小十九日癸夘。天リ。今曉、三品親王
關東御下向也。仙洞自り六波羅へ入り御う〔八葉御車〕。
よしだちゅうなごん 〔ためつねきょう〕 つちみかどさいしょうちゅうじょう 〔あきかたきょう〕 かざんいんちゅうじょうながまさあそん うちゅうべんあきまさあそんら のき つら
吉田中納言〔爲經卿〕・土御門宰相中將〔顯方卿〕・
花山院中將長雅朝臣・ 右中弁顯雅朝臣等 軒を連ぬ。
たつ いってん ろくはら おきせし
たま おんこしなり うまのこく のじのうまやに つ たま
辰の一點、六波羅を起令め給ふ。御輿也。午刻
野路驛@于着き御う。
おんまうけごと
御儲事
あげりょう 〔ろっぽんだて おさけいちへいし〕 こごりょう おな おさかな はっしゅ かし
上料〔六本立。御酒一瓶子〕。小御料。同じき御肴。八種菓子。
にょぼう
よにん 〔さんぼんだて さけいちへいし〕 こごりょう かし うえ おな
女房四人〔三本立。酒一瓶子〕。小御料菓子上に同じ。
さむらいどころ 〔 こぞく ごじうぜん さい ごしゅ しる に 〕 さけさかな
いちぐ
侍所 〔小續五十前。菜五種。汁二〕。酒肴
一具。
りきしゃ ことねり ら
ぶん 〔ひつめしにじうごごう かぶひゃくたば〕
力者小舎人等の分〔櫃飯廿五合。株百束〕
おんぞうじ
御雜事
こめさんじっこく はくまいにこく 〔ぜんじます さだめ〕 だいず 〔さんごくおな ます〕 かぶにひゃくさんじったば わらはっぴゃくたば ぬかじっこく まきにひゃくさんじったば
米卅石。白米二石〔宣旨斗Aの定〕。大豆〔三石同じ斗〕。株
二百卅束。 藁 八百束。糠十石。薪 二百卅束。
すみごかご おくりふろくじうにん
炭五篭。送夫六十人。
にえどのいりもの 〔じょうはくまいさんと せんじます ごさい にしゅ しょうじんに あぶりどり
はち〕
贄殿入物〔上白米三斗。宣旨斗。御菜二種。精進二。炙鳥八〕。
よ い かがみのしゅくに つ たま ささきいきぜんじやすつな ぞうじ もう うんぬん
夜に入り、
鏡宿B于着き御う。佐々木壹岐前司泰綱、雜事を儲くと云云。
あげりょう
上料
たながし じうごう はっしゅ かし おんさけふたへいし おんさかなふたおしき 〔こほかい す 〕
棚菓子十合。八種菓子。御酒二瓶子。御肴二折敷〔小外居Cに居う〕。
ろっぽんだて 〔ついがさね あさゆう〕 いごりょう 〔おさいななしゅ〕 おいもの 〔おさいはっしゅ〕 こごりょう 〔おさいななしゅ あさゆう ついのおさいさんしゅ〕
六本立〔衝重D。朝夕〕。居御料〔御菜七種〕。追物〔御菜八種〕。小御料〔御菜七種。朝夕。追御菜E三種〕。
しるものに 〔れいおん〕 おさかないちぜん 〔さんしゅ〕
汁物二〔冷温〕。御肴一前〔三種〕。
にょぼう よにん
女房四人
さんぼんだて 〔ついがさね あさゆう〕 ごりょう 〔さいななしゅ〕 めしごりょう 〔さいはっしゅ〕 ついもの 〔さいろくしゅ〕 こごりょう 〔さいごしゅ〕
三本立〔衝重。朝夕〕。御料〔菜七種〕。召御料〔菜八種〕。追物〔菜六種〕。小御料〔菜五種〕。
かし 〔におりしき はっしゅ 〕 さけいちへいし
菓子〔二折敷。八種〕。酒一瓶子。
さむらいどころ
侍所。
こつづきごじうぜん 〔さいごしゅ〕 しるに 〔れいおん〕 さけさかないちぐ 〔おおざかな〕
小續五十前〔菜五種〕。汁二〔冷温〕。酒肴一具〔大肴〕。
りきしゃ じうにしゅ 〔かみさんて にょぼうなかきゅうて 〕 なら ことねりどころ
力者十二手〔上三手。女房中九手〕并びに小舎人所。
ひつめしにじうごぐ 〔ぐべつねしいちびち ぞうさいさんしゅ 〕 おおがめいっか おしきさんじうまい 〔かわらけひゃく だいしょうはしひゃくにじうぜん〕
櫃飯廿五具〔具別飯一櫃。雜菜三種〕。大瓶一荷。折敷卅枚〔土器
百。 大小 箸 百廿前〕。
おんぞうじ
御雜事
のうまいさんじっこく はくまいにこく 〔せんじとさだめ〕 だいずさんごく 〔 どうと 〕 かぶにひゃくさんじったば わらはっぴゅくたば ぬかじっこく
能米卅石。白米二石〔宣旨斗定〕。大豆三石〔同斗〕。株
二百卅束。 藁 八百束。糠十石。
まきさんびゃっくさんじったば すみ ごかご たいまつさんびゃっぱ あぶらいっしょう〔しょうじん〕 にえどのいりもの 〔じょうはくまい〕 おくりふごじうにん
薪 三百卅束。 炭五籠。 續松三百把。油一升〔精進〕。贄殿入物〔上白米〕。送夫五十人。
参考@野路駅は、滋賀県草津市野路。
参考A宣旨斗は、延久4年(1072)後三条天皇が荘園整理令などの裏付けとして再指定した国家公定枡である。ウィキペディアから
参考B鏡宿は、滋賀県
蒲生郡竜王町大字鏡。
参考C外居は、食べ物を入れて持ち運ぶ木製の蓋つき容器。
参考D衝重は、供物や食器を乗せるのに用いる桧制の膳の一種。折敷に四角の台をつけたもの。白木で作り三方に穴をあけたのを「三方」、四方にあけたのを「四方」、穴のないのを「供饗(くぎょう)」という。Goo電子辞書から
参考E追物は、魚や鳥肉を焼いたもの。
現代語建長四年(1252)三月小十九日癸卯。空は晴です。今日の明け方に、三品宗尊親王の関東への出発です。院の御所から六波羅探題へ入りました〔八葉の牛車〕。吉田為経中納言・土御門顕方宰相中将・花山院長雅中将・右中弁顕雅などが牛車でお供です。午前7時過ぎに六波羅を起ちました。輿です。昼頃に野路の宿に着きました。
準備した御馳走
親王の分〔六本足の膳。酒一徳利〕。二の膳はおつまみと八種利の果物。
女官四人〔三本足の膳、酒一徳利〕。二の膳は果物が同じ。
侍だまり〔小さなお膳50人分・おかず5菜、汁物2〕。酒とつまみはワンセット。
荷物運びや下っ端の分〔御櫃のご飯2升5合、株の漬物100束〕
献上品
玄米30石。白米2石〔延久の宣旨枡のとおり〕。大豆〔3石同じ宣旨枡〕。株230束。藁800束(飯炊用カ)。糠10石(漬物用カ石鹸代り)。薪230束。炭5籠。運搬人60人。
贄殿入れ物〔上白米3斗、宣旨枡どおり。野菜もの2種。精進料理2。焼き鳥8〕
夜になって、鏡宿にお着きになりました。佐々木壱岐前司泰綱が、雑多品を用意しましたとさ。
親王の膳
棚菓子10合。八種の果物。お酒2徳利。おつまみ2折敷(お盆)〔小型の食物運搬具に入れてる〕
六本足の膳〔四角の台。朝と夕〕。居御料〔おかずが7種〕。焼き物〔おかず8種〕。小分けのおかず〔おかず7種。朝夕。追加のおかず3種〕汁物2〔冷たいのと暖かいの〕。おつまみ一人前〔3種〕
女官四人
〔三本足の膳、朝夕〕。御料〔おかずが7種〕。召御料〔おかずが8種〕。焼き物〔おかず6種〕。小分けのおかず〔おかず5種〕。果物〔2折敷(お盆)8種〕。酒1徳利。
侍だまり
小さなお膳50人分〔おかず5種〕。汁物2〔冷たいのと暖かいの〕。酒とつまみはワンセット〔大き目〕。
荷物運び12人〔親王用3人。女官用9人〕それと雑用係
御櫃のご飯25セット、〔一人づつ飯1櫃。おかず3菜〕。大きな水瓶1荷物。折敷30枚〔かわらけ100.大小の箸120膳〕
献上品
黒米30石。白米2石〔延久の宣旨枡のとおり〕。大豆3石〔同じ宣旨枡〕。株230束。藁800束(飯炊用カ)。糠10石(漬物用カ石鹸代り)。薪300束。炭5籠。松明300把。油一升〔植物油〕。贄殿入れ物〔上白米〕。運搬人50人。
建長四年(1252)三月小廿日甲辰。リ。晝四十九院御宿。夜箕浦。 |
読下し はれ ひる しじうくいん おんやど よる みのうら
建長四年(1252)三月小廿日甲辰。リ。晝は四十九院@御宿。夜は箕浦A。
参考@四十九院は、滋賀県犬上郡豊郷町四十九院。
参考A箕浦は、滋賀県米原市箕浦(旧坂田郡近江町箕浦)。
現代語建長四年(1252)三月小二十日甲辰。晴れです。昼は四十九院宿。夜は箕浦。
建長四年(1252)三月小廿一日乙巳。晝野上。」今日。三位中將家出幕府。。入御于入道越後守時盛佐介亭。若君御前入御于御母儀龜谷亭。 |
読下し ひるのがみ きょう さんみちゅうじょうけばくふ
いで にゅうどうえちごのかみもりとき さすけていに い たま
建長四年(1252)三月小廿一日乙巳。晝野上@。」今日、三位中將家幕府を出、入道越後守時盛の
佐介亭于入り御う。
わかぎみごぜん おんははぎ かめがやつてい
に い たま
若君御前は、御母儀の龜谷亭
于入り御う。
参考@野上は、岐阜県不破郡関ヶ原町大字野上。
現代語建長四年(1252)三月小二十一日乙巳。昼は野上。」
今日、三位中将頼嗣様は、幕府を出て、入道越後守北条時盛の佐助谷の屋敷に入りました。弟の若君は、お母さんの亀谷の屋敷に入りました。
建長四年(1252)三月小廿二日丙午。晝黒田。夜萱津。 |
読下し ひるくろだ よるかやつ
建長四年(1252)三月小廿二日丙午。晝黒田@。夜萱津A。
参考@黒田は、愛知県一宮市木曽川町黒田。
参考A萱津宿は、愛知県海部郡甚目寺町下萱津。
現代語建長四年(1252)三月小二十二日丙午。昼は黒田。夜は萱津。
建長四年(1252)三月小廿三日丁未。晝鳴海。夜矢作。 |
読下し ひるなるみ よるやはぎ
建長四年(1252)三月小廿三日丁未。晝鳴海@。夜矢作A。
参考@鳴海は、愛知県名古屋市緑区鳴海町。
参考A矢作は、愛知県岡崎市矢作町。
現代語建長四年(1252)三月小二十三日丁未。昼は鳴海。夜は矢作。
建長四年(1252)三月小廿四日戊申。晝渡津。夜橋本。」今日行方。景頼參着關東。自鏡御宿揚鞭之由申之。 |
読下し ひるわたつ よるはしもと きょう
ゆきかた かげよりかんとう さんちゃく かがみのおんしゅく
よ むち あ のよしこれ もう
建長四年(1252)三月小廿四日戊申。晝渡津@。夜橋本A。」今日行方・景頼關東へ參着す。 鏡御宿 自り鞭を揚ぐ之由之を申す。
参考@渡津は、静岡県豊橋市清須町の渡津橋。
参考A橋本は、浜名湖の新居関で、現静岡県湖西市新居町浜名に橋本バス停あり。
現代語建長四年(1252)三月小二十四日戊申。昼は渡津。夜は橋本。」今日、二階堂行方・武藤景頼が鎌倉へ着きました。鏡の宿から馬を走らせてきたと報告しました。
建長四年(1252)三月小廿五日己酉。晝引間。夜池田。 |
読下し ひるひくま よるいけだ
建長四年(1252)三月小廿五日己酉。晝引間@。夜池田A。
参考@引間は、静岡県浜松市曳馬。
参考A池田は、池田庄、天竜川池田の渡しで、静岡県磐田市池田。
現代語建長四年(1252)三月小二十五日己酉。昼は曳馬。夜は池田。
建長四年(1252)三月小廿六日庚戌。晝懸河。夜菊河。 |
読下し ひるかけがわ よるきっかわ
建長四年(1252)三月小廿六日庚戌。晝懸河@。夜菊河A。
参考@懸河は、静岡県掛川市掛川。
参考A菊川は、静岡県菊川市。
現代語建長四年(1252)三月小二十六日庚戌。昼は掛川。夜は菊川。
建長四年(1252)三月小廿七日辛亥。晝岡部。夜手越。 |
読下し ひるおかべ よるてごし
建長四年(1252)三月小廿七日辛亥。晝岡部@。夜手越A。
参考@岡部は、駿河国志太郡。静岡県藤枝市岡部町岡部。
参考A手越は、静岡県静岡市駿河区手越。
現代語建長四年(1252)三月小二十七日辛亥。昼は岡部。夜は手越。
建長四年(1252)三月小廿八日壬子。晝蒲原。夜木瀬河。 |
読下し ひるかんばら よるきせがわ
建長四年(1252)三月小廿八日壬子。晝蒲原@。夜木瀬河A。
参考@蒲原は、蒲原宿で静岡県静岡市清水区蒲原で旧庵原郡蒲原町蒲原。
参考A黄瀬川は、沼津市大岡字木瀬川。
現代語建長四年(1252)三月小二十八日壬子。昼は蒲原。夜は黄瀬川。
建長四年(1252)三月小廿九日癸丑。晝鮎澤。夜關本。 |
読下し ひるあゆさわ よるせきもと
建長四年(1252)三月小廿九日癸丑。晝鮎澤@。夜關本A。
参考@鮎澤は、静岡県御殿場市新橋鮎沢に鮎澤神社あり。東名御殿場インターのそば。
参考A關本は、神奈川県南足柄市関本。足柄峠の入口。
現代語建長四年(1252)三月小二十九日癸丑。昼は、鮎沢。夜は関本。