吾妻鏡入門第四十三巻

建長五年(1253)八月小

建長五年(1253)八月小二日戊申。依御教書違背之科。爲分召可注進所帶之由。遍被觸難澁之輩云々。

読下し                    みぎょうしょ  いはい のとが  よっ    わ   め      ためしょたい ちうしんすべ  のよし
建長五年(1253)八月小二日戊申。御教書に違背之科に依て、分け召さんが爲所帶を注進可き之由、

あまね なんじゅうのやから ふれらる うんぬん
遍く 難澁 之輩@に觸被る云々。

参考@あまねく難渋の輩は、何度も違反している奴。

現代語建長五年(1253)八月小二日戊申。命令書の背いた罪で。分断して没収するために、領地を書き出して提出するように、何度も違反している連中に命令しましたとさ。

建長五年(1253)八月小十三日己未。放生會供奉人事有其沙汰。御調度懸事。武藤左衛門尉景頼辞退之間。被仰弥次郎左衛門尉親盛。又若槻伊豆前司者。兼雖不被催之。依望申被加人數云々。

読下し                      ほうじょうえ ぐぶにん   こと そ   さた あ
建長五年(1253)八月小十三日己未。放生會供奉人の事其の沙汰有り。

ごちょうどがけ   こと  むさとうさえもんのじょうかげより じたいのあいだ  いやじろうさえもんのじょうちかもり  おお  らる
御調度懸の事、武藤左衛門尉景頼 辞退之間、 弥次郎左衛門尉親盛に仰せ被る。

また  わかつき いず ぜんじは   かね  これ  もよおされざる いへど  のぞ  もう    よっ  にんずう  くわ  らる    うんぬん
又、若槻伊豆前司者、兼て之を催被不と 催も、望み申すに依て人數に加へ被ると云々。

現代語建長五年(1253)八月小十三日己未。放生会のお供について、その裁断がありました。弓矢を肩に掛ける役に付いて、武藤左衛門尉景頼が辞退したので、弥次郎左衛門尉親盛に命じました。又。若槻伊豆前司頼定(清和源氏)は、今迄放生会に参加したことが無かったけど、希望したので人数にお加えになられましたとさ。

建長五年(1253)八月小十四日庚申。甚雨。寅尅。鶴岡上下宮爲正殿遷宮也。今度始而於西門脇。所被奉勸請三郎大明神也。相州參給。有御神樂。右近將監中原光上(氏)@唱宮人曲云々。

参考@右近將監中原光上は、赤星直忠著「中世考古学の研究(昭和55年発行)」に神武寺の石像弥勒光背に略 左近衛将監 中原朝臣光氏」とあり、光氏の間違いだと指摘されている。

読下し                      はなは あめ とらのこく つるがおかじょうげぐう  しょうでんせんぐうたるなり
建長五年(1253)八月小十四日庚申。甚だ雨。寅尅、 鶴岡上下宮の 正殿 遷宮爲也。

このたび はじ  て にしもんわき  をい   さぶろうだいみょうじん かんじょうたてまつらる ところなり そうしゅうさん  たま    おかぐら あ
今度 始め而西門脇に於て、三郎大明神Aを 勸請 奉 被る所也。相州參じ給ふ。御神樂有り。

うこんしょうげんなかはらみつうじ みやびときょく  うた    うんぬん
 右近將監中原光氏 宮人曲を唱うと云々。

参考A三郎大明神は、恵比寿様で日本書紀で三番目に生まれたことに由来する。八幡宮の西門に祀った夷三郎大明神が室町時代に夷堂橋へ移り、明治に神仏分離で蛭子神社へ移るが、近年本覚寺へ移った。

現代語建長五年(1253)八月小十四日庚申。大雨です。午前4時頃に、鶴岡八幡宮の上下の宮で新築の神殿へ引っ越しです。今度、初めて西門の脇に夷様を勧請した所です。時頼さんがお参りをして、お神楽を奉納しました。右近将監中原光氏は、宮人曲を唄いましたとさ。

建長五年(1253)八月小十五日辛酉。リ。鶴岳放生會也。有御參宮之間。供奉人等參進。而尾張前司時章者。雖令進奉。臨刻申所勞之由。伊勢前司。遠江次郎左衛門尉等奉不參云々。又信濃四郎左衛門尉行忠者。日者爲布衣人數之處。今朝改其儀爲随兵。人數不足之故也。 將軍家出御南面。先リ茂朝臣〔束帶〕勤御秡。陪膳花山院中將。役送能登右近大夫仲時。取大麻。奉陪膳。去年御參宮之時如此。而リ茂申云。先度依失念傳役送畢。更不可爲例云々。頻雖申子細。遂不被改仰。其後御出〔半蔀御車。御束帶〕。出御西門。若宮大路北行。到赤橋砌御下車。
出御行列
先陣随兵
 武田三郎政綱       澁谷左衛門尉武重
 遠江六郎左衛門尉時連   田中左衛門尉知綱
 信濃四郎左衛門尉行忠   出羽三郎行資
 足利次郎顯氏       上野三郎國氏
 北條六郎時定       尾張次郎公時
次前駈
次殿上人
 花山院中將        伊豫中將
公卿
 土御門宰相中將〔顯方卿〕
次御車
 式部兵衛太郎光政     大須賀左衛門四郎
 海上弥次郎胤景      梶原左衛門太郎景綱
 三村新左衛門尉時親    善右衛門次郎康有
 武田七郎兼頼       武藤次郎兵衛尉頼泰
 加藤三郎景經       小野寺新左衛門尉行通
 肥後弥藤次
   已上着直垂帶釼。候御車左右。
御釼役人〔布衣〕
 前右馬權頭
御調度懸
 弥次郎左衛門尉親盛
次御後〔布衣〕
 武藏守朝直        遠江前司
 相摸右近大夫將監時定   相摸式部大夫時弘
 陸奥掃部助實時      中務權大輔家氏
 駿河四郎兼時       上野前司泰國
 參河前司頼氏       能登右近大夫仲時
 伊豆前司頼定       出羽前司行義
 壹岐守基政        和泉前司行方
 佐々木壹岐前司泰綱    越中前司頼業
 佐渡五郎左衛門尉基隆   出羽次郎左衛門尉行有
 梶原右衛門尉景俊     善右衛門尉康長
 和泉五郎左衛門尉政泰   太宰肥後次郎左衛門尉爲時
 天(矢)@野肥後次郎左衛門尉景氏 狩野五郎左衛門尉爲廣
 加地七郎左衛門尉氏綱   小野寺四郎左衛門尉通時
 長左衛門尉朝連      長次右衛門尉
 常陸次郎兵衛尉行雄
後陣随兵
 相摸八郎時隆       千葉介頼胤
 上野五郎左衛門尉重光   伊豆太郎左衛門尉實保
 大須賀次郎左衛門尉胤氏  壹岐次郎左衛門尉家氏
 氏江余三         土屋新三郎光時
 南部次郎實光       武石四郎胤氏
御奉幣事終。入御廻廊覽舞曲。此間奥州。相州。前大宰少貳爲佐。佐渡前司基綱。前大藏權少輔朝廣。内藤肥後前司盛時。安藝前司親光等。豫被候此所。又前右馬權頭。武藏守朝直。出羽前司行義等者。更應召參加云々。

参考@天野は、矢野の間違い。

読下し                      はれ つるがおか ほうじょうえなり   ごさんぐう あ  のあいだ  ぐぶにんら さんしん
建長五年(1253)八月小十五日辛酉。リ。鶴岳 放生會也。御參宮有る之間、供奉人等參進す。

しか    おわりのぜんじときあきは  すす たてまつ せし   いへど   とき  のぞ  しょろう のよし  もう
而るに尾張前司時章者、進み奉ら令むと雖も、刻に臨み所勞之由を申す。

 いせのぜんじ  とおとうみじろうさえもんのじょうら  さん たてまつ ざる うんぬん
伊勢前司・遠江次郎左衛門尉等は參じ奉ら不と云々。

また  しなののしろうさえもんのじょうゆきただ は   ひごろ ほい   にんずう たるのところ  けさ そ   ぎ   あらた ずいへい な     にんずうぶそくのゆえなり
又、 信濃四郎左衛門尉行忠 者、日者布衣の人數 爲之處、今朝其の儀を改め随兵と爲す。人數不足之故也。

しょうぐんけなんめん い   たま    ま   はるもちあそん 〔そくたい〕 おんはら    つと   ばいぜん かざんいんちゅうじょう えきそう  のとうこんたいふなかとき
將軍家南面に出で御う。先ずリ茂朝臣〔束帶〕御秡へを勤む。陪膳Aは花山院中將。役送Bは能登右近大夫仲時。

おおあさ と     ばいぜん たてまつ きょねんごさんぐう のとき かく  ごと    しか    はるもちもう    い
大麻Cを取り、陪膳に奉る。去年御參宮之時此の如し。而るにリ茂申して云はく。

せんど  しつねん  よっ  えきそう  つた をはんぬ さら  れい  な  べからず  うんぬん  しき    しさい  もう   いへど    つい  あらた おお  られず
先度は失念に依て役送に傳へ畢。 更に例と爲す不可と云々。頻りに子細を申すと雖も、遂に改め仰せ被不。

そ  ご ぎょしゅつ 〔はじとみおくるま おんそくたい〕   にしもん  い   たま    わかみやおおじ  ほっこう   あかはし みぎり いた  おんげしゃ
其の後御出〔半蔀御車D。御束帶〕。西門を出で御ひ、若宮大路を北行し、赤橋の砌に到り御下車。

参考A陪膳は、朝飯の給仕。
参考B
役送は、運搬係。
参考
C大麻は、ナプキン。
参考D
半蔀車は、網代車(あじろぐるま)の一。物見窓を半蔀として あるもの。半蔀は、上半分を外側へ吊 (つ) り上げるようにし、下半分をはめ込みとした蔀戸 (しとみど) 。

しゅつご ぎょうれつ
出御の行列

せんじん ずいへい
先陣の随兵

  たけだのさぶろうまさつな           しぶやのさえもんのじょうたけしげ
 武田三郎政綱       澁谷左衛門尉武重

  とおろうみのろくろうさえもんのじょうときつら  たなかさえもんのじょうともつな
 遠江六郎左衛門尉時連   田中左衛門尉知綱

  しなののしろうさえもんのじょうゆきただ     でわのさぶろうゆきすけ
 信濃四郎左衛門尉行忠   出羽三郎行資

  あしかがじろうあきうじ               こうづけさぶろうくにうじ
 足利次郎顯氏       上野三郎國氏

  ほうじょうろくろうときさだ             おわりのじろうきんとき
 北條六郎時定       尾張次郎公時

つぎ  さきが
次に前駈け

つぎ でんじょうびと
次に殿上人

  かざんいんちゅうじょう             いよのちゅうじょう
 花山院中將        伊豫中將

 くげ
公卿

  つちみかどさいしょうちゅうじょう〔あきかたきょう〕
 土御門宰相中將 〔顯方卿〕

つぎ おくるま
次に御車

  しきぶのひょうえたろうみつまさ          おおすがのさえもんしろう
 式部兵衛太郎光政     大須賀左衛門四郎

  うなかみのいやじろうたねかげ          かじわらさえもんたろうかげつな
 海上弥次郎胤景      梶原左衛門太郎景綱

  みむらしんさえもんのじょうときちか       ぜんのうえもんじろうやすあり
 三村新左衛門尉時親    善右衛門次郎康有

  たけだのしちろうかねより             むとうのじろうひょうえのじょうよりやす
 武田七郎兼頼       武藤次郎兵衛尉頼泰

  かとうさぶろうかげつね              おのでらしんさえもんのじょうゆきみち
 加藤三郎景經       小野寺新左衛門尉行通

  ひごのいやとうじ
 肥後弥藤次

      いじょうひたたれ  き   たいけん   おくるま  さゆう  そうら
   已上直垂を着て帶釼し、御車の左右に候う。

ぎょけん  えき  ひと 〔 ほい 〕
御釼の役の人〔布衣〕

  さきのうまごんのかみ
 前右馬權頭

ごちょうどがけ
御調度懸

  いやじろうさえもんのじょうちかもり
 弥次郎左衛門尉親盛

つぎ おんうしろ 〔 ほい 〕
次に御後〔布衣〕

  むさしのかみともなお               とおとうみぜんじ
 武藏守朝直        遠江前司

  さがみうこんたいふしょうげんときさだ      さがみしきぶのたいふときひろ
 相摸右近大夫將監時定   相摸式部大夫時弘

  むつかもんのすけさねとき            なかつかさごんのだいゆういえうじ
 陸奥掃部助實時      中務權大輔家氏

  するがのしろうかねとき              こうづけぜんじやすくに
 駿河四郎兼時       上野前司泰國

  みかわのぜんじよりうじ              のとうこんのたいふなかとき
 參河前司頼氏       能登右近大夫仲時

  いずぜんじよりさだ                でわぜんじゆきよし
 伊豆前司頼定       出羽前司行義

  いきのかみもとまさ                 いずみぜんじゆきかた
 壹岐守基政        和泉前司行方

  ささきいきぜんじやすつな            えっちゅうぜんじよりなり
 佐々木壹岐前司泰綱    越中前司頼業

  さどのごろうさえもんのじょうもとたか       でわのじろうさえもんのじょうゆきあり
 佐渡五郎左衛門尉基隆   出羽次郎左衛門尉行有

  かじわらさえもんのじょうかげとし         ぜんのうえもんのじょうやすなが
 梶原右衛門尉景俊     善右衛門尉康長

  いずみのごろうさえもんのじょうまさやす     だざいひごじろうさえもんのじょうためとき
 和泉五郎左衛門尉政泰   太宰肥後次郎左衛門尉爲時

  やののひごじろうさえもんのじょうかげうじ    かのうのごろうさえもんのじょうためひろ
 矢野肥後次郎左衛門尉景氏 狩野五郎左衛門尉爲廣

  かぢのしちろうさえもんのじょううじつな      おのでらしろうさえもんのじょうみちとき
 加地七郎左衛門尉氏綱   小野寺四郎左衛門尉通時

  ちょうのさえもんのじょうともつら          ちょうじうえもんのじょう
 長左衛門尉朝連      長次右衛門尉

  ひたちのじろうひょうえのじょうゆきかつ
 常陸次郎兵衛尉行雄

こうじん ずいへい
後陣の随兵

  さがみのはちろうときたか             ちばのすけよりたね
 相摸八郎時隆       千葉介頼胤

  こうづけのごろうさえもんのじょうしげみつ    いずのたろうさえもんのじょうさねやす
 上野五郎左衛門尉重光   伊豆太郎左衛門尉實保

  おおすがのじろうさえもんのじょうたねうじ    いきのじろうさえもんのじょういえうじ
 大須賀次郎左衛門尉胤氏  壹岐次郎左衛門尉家氏

  うじえのよざ                    つちやのしんざぶろうみつとき
 氏江余三         土屋新三郎光時

  なんぶじろうさねみつ              たけいしのしろうたねうじ
 南部次郎實光       武石四郎胤氏

 ごほうへい  ことおわ   かいろう  い   たま  ぶきょく  み
御奉幣の事終り、廻廊に入り御ひ舞曲を覽る。

こ  あいだ おうしゅう そうしゅう さきのだざいしょうにためすけ さどのぜんじもとつな さきのおおくらごんのしょうゆうともひろ ないとうひごぜんじもりとき
此の間、奥州・相州・前大宰少貳爲佐・ 佐渡前司基綱・ 前大藏權少輔朝廣・内藤肥後前司盛時・

あきのぜんじちかみつら  あらかじ こ  ところ  そうらはれる
安藝前司親光等、豫め此の所に候被る。

また さきのうまごんおかみ むさしのかみともなお  でわぜんじゆきよしら は   さら  めし  おう  さんか    うんぬん
又、前右馬權頭・武藏守朝直・出羽前司行義等者、更に召に應じ參加すと云々。

現代語建長五年(1253)八月小十五日辛酉。晴れです。鶴岡八幡宮の放生会です。将軍のお参りがあるのでお供の人が出勤してきました。しかし、尾張前司名越流北条時章は、出勤しては来たけど、その時刻になって具合が悪いと言い出しました。伊勢前司二階堂行綱と遠江次郎左衛門尉佐原光盛は出勤してこないそうな。
又、信濃四郎左衛門尉二階堂行忠は、普段礼服の人数に入っているのに、今朝はその服を変えて武装儀仗兵になってます。人数が足りないからです。
宗尊親王将軍家は、南面にお出ましです。まず安倍晴茂さん〔束帯〕がお祓いを勤めました。お給仕は花山院中将師継。配送係は能登右近大夫仲時です。
ナプキンを取ってお給仕に渡しました。去年のお参りの時と同じです。それなのに晴茂が云うには、「前回は忘れていて配送係に渡してしまいました。それは例にしてはいけません。」だとさ。さかんに事情を弁解しましたけど、特に変えろとは云いませんでした。
その後、お出掛けです〔半蔀車、束帯〕。西門を出て、若宮大路を北へ進み、赤橋の手前まで来て牛車から降りました。
お出掛けの行列は、
前を行く武装儀仗兵
 武田三郎政綱        渋谷左衛門尉武重
 遠江六郎左衛門尉佐原時連  田中左衛門尉知綱
 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠 出羽三郎二階堂行資
 足利次郎顕氏        上野三郎畠山国氏
 北条六郎時定        尾張次郎北条公時
次に先導者
次に殿上人
 花山院中将師継       伊予中将公直
公卿
 土御門宰相中将顕方
次に将軍の牛車
 式部兵衛太郎伊東光政    大須賀左衛門四郎朝氏
 海上弥次郎胤景       梶原左衛門太郎景綱
 三村新左衛門尉時親     善右衛門次郎三善康有
 武田七郎兼頼        武藤次郎兵衛尉頼泰
 加藤三郎景経        小野寺新左衛門尉行通
 肥後弥藤次
  以上は鎧直垂を着て、太刀を佩き、牛車の左右にいる
太刀持ちの役の人〔礼服〕
 前右馬権頭北条政村
弓矢を肩に掛けてる人
 弥次郎左衛門尉親盛
次に将軍の後ろ〔礼服〕
 武蔵守北条朝直       遠江前司北条時直
 相模右近大夫将監北条時定  相模式部大夫北条時弘
 陸奥掃部助北条実時     中務権大輔足利家氏
 駿河四郎兼時        上野前司畠山泰国
 三河前司新田頼氏      能登右近大夫仲時
 伊豆前司若槻頼定      出羽前司二階堂行義
 壱岐守後藤基政       和泉前司二階堂行方
 佐々木壱岐前司泰綱     
越中前司(宇都宮)横田頼業
 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆  出羽次郎左衛門尉二階堂行有
 梶原右衛門尉景俊      善右衛門尉三善康長
 和泉五郎左衛門尉天野政泰  太宰肥後次郎左衛門尉為時
 矢野肥後次郎左衛門尉景氏  狩野五郎左衛門尉為広
 加地七郎左衛門尉氏綱    小野寺七郎左衛門尉通時
 長左衛門尉長谷部朝連    長次右衛門尉
 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄
後ろから行く武装儀仗兵
 相模八郎時隆        千葉介頼胤
 上野五郎左衛門尉結城重光  伊豆太郎左衛門尉実保
 大須賀次郎左衛門尉胤氏   壱岐次郎左衛門尉宍戸家氏
 氏江余三          土屋新三郎光時
 南部次郎実光        武石四郎胤氏

幣を納めるお詣りが終わって、回廊に移って奉納の舞を見ました。この間に、奥州重時・相州時頼・前太宰少弐狩野為佐・佐渡前司後藤基綱・前大蔵権少輔結城朝広・内藤肥後前司盛時・安芸前司親光などは、予めこの場所で控えていました。また、前右馬権頭北条政村・武蔵守北条朝直・出羽前司二階堂行義たちは、さらに呼ばれて参加しましたとさ。

建長五年(1253)八月小十六日壬戌。巳尅甚雨。雷鳴兩三聲。未尅属リ。鶴岡馬塲流鏑馬以下如例。將軍家御出。供奉人等同昨日。右衛門尉氏綱爲今日御沓手長。佐渡五郎左衛門尉可爲御幣手長之由。被仰之處〔ニ〕。依有憚辞退云々。秉燭之程還御。取松明云々。

読下し                      みのこく はなは あめ らいめいりょうみこえ ひつじのこく はれ ぞく    つるがおかばば  やぶさめ  いげ れい  ごと
建長五年(1253)八月小十六日壬戌。巳尅 甚だ雨。雷鳴兩三聲。 未尅 リに属す。鶴岡馬塲の流鏑馬以下例の如し。

しょうぐんけぎょしゅつ ぐぶにんら きのう  おな    うえもんのじょううじつな きょう  おんくつてながたり
將軍家御出。供奉人等昨日に同じ。右衛門尉氏綱今日の御沓手長@爲。

 さどのごろうさえもんのじょう ごへい  てながたるべ   のよし  おお  らる  のところ 〔 に 〕  はばか あ     よっ  じたい    うんぬん
佐渡五郎左衛門尉御幣の手長@爲可き之由、仰せ被る之處〔ニ〕、憚り有るに依て辞退すと云々。

へいしょくのほどかんご   たいまつ  と     うんぬん
秉燭之程還御す。松明を取ると云々。

参考@手長は、運び人

現代語建長五年(1253)八月小十六日壬戌。午前10時頃大雨です。雷も二三度鳴りました。午後2時頃に晴れました。鶴岡八幡宮の馬場での流鏑馬などの奉納行事は何時もの通りです。宗尊親王将軍家お出ましです。お供の人は昨日と同じです。右衛門尉佐々木氏綱は、今日の沓を運ぶ係です。佐渡五郎左衛門尉後藤基隆は幣を運ぶ役をするように仰せになられましたが、支障があって辞退しましたとさ。灯りをともす頃になって御帰りです。松明を用いたそうです。

参考建長五年(1253)八月小二十五日 曹洞宗開祖道元忌

建長五年(1253)八月小廿九日乙亥。下総國下河邊庄堤可築固之由有沙汰。被定奉行人。所謂C久弥次郎保行。鎌田三郎入道西佛。對馬左衛門尉仲康。宗兵衛尉爲泰等也。

読下し                      しもうさのくに しもこうべのしょう つつみ つきかた    べ   のよし さた あ       ぶぎょうにん  さだ  らる
建長五年(1253)八月小廿九日乙亥。下総國 下河邊庄@の堤、 築固める可き之由沙汰有りて、奉行人を定め被る。

いはゆる  きよくいやじろうやすゆき  かまたのさぶろうにゅうどうさいぶつ  つしまさえもんのじょうなかやす  そうのひょうえのじょうためやす ら なり
所謂、 C久弥次郎保行・ 鎌田三郎入道西佛・ 對馬左衛門尉仲康・  宗B兵衛尉爲泰 等也。

参考@下河邊荘は、荒川下流。春日部など。陸奥掃部助実時領地。
参考A
C久弥次郎保行は、「きよく」と読み下河邊庄司行平の孫。
参考B
は、惟宗の略。

現代語建長五年(1253)八月小二十九日乙亥。下総国下河辺の庄の堤防を突き固めるように検討があって、指揮担当者を決めました。それは、清久弥次郎下河辺保行・鎌田三郎入道西仏・対馬左衛門尉仲康・惟宗兵衛尉為泰たちです。

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吾妻鏡入門第四十三巻

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