吾妻鏡入門第四十三巻

建長五年(1253)十二月大

建長五年(1253)十二月大八日壬子。々尅。若宮大路下々馬橋邊燒亡。限前濱民屋。其中間人家悉以災。」今日。前筑前守行泰爲政所執事云々。

読下し                     ねのこく わかみやおおじしも  げばばしへん しょうぼう   まえはま  みんや  かぎ    そ  ちゅうかん じんかことごと もっ わざわい
建長五年(1253)十二月大八日壬子。々尅。若宮大路@下の々馬橋邊燒亡す。前濱の民屋を限り、其の中間の人家悉く以て災す。」

きょう  さきのちくぜんのかみゆきやす まんどころ しつじ   な     うんぬん
今日、 前筑前守行泰A、 政所B執事と爲すと云々。

参考@若宮大路は、幅十一丈で、両脇に一丈の掘りがあるので道は九丈である。
参考A前筑前守行泰は、二階堂行政ー行光ー行盛ー行泰。
参考B政所は、別当一人、政所執事数人。

現代語建長五年(1253)十二月大八日壬子。夜中の0時頃、若宮大路の下の下馬橋へんで火事です。由比ガ浜の民家を境に、その中間の家々は全て燃えてしまいました。」今日、前筑前守二階堂行泰が、政所の次官級執事になりましたとさ。

建長五年(1253)十二月大九日癸丑。リ。從五位下藤原朝臣行盛法師〔法名行然〕卒〔年七十三〕。

読下し                     はれ じゅごいのげ ふじわらあそんゆきもり ほっし 〔ほうみょうぎょうねん〕そっ   〔とししちじゅうさん〕
建長五年(1253)十二月大九日癸丑。リ。從五位下藤原朝臣行盛法師@〔法名行然〕卒す〔年七十三〕

参考@藤原行盛は、は、二階堂行政ー行光ー行盛。

現代語建長五年(1253)十二月大九日癸丑。晴れです。従五位下藤原さんの二階堂行盛法師〔出家名を行然〕が亡くなりました〔年は73です〕。

建長五年(1253)十二月大廿一日乙丑。リ。前甲斐守正五位下大江朝臣泰秀卒〔年四十二〕。

読下し                      はれ さきのかいのかみしょうごいげおおえのあそんやすひで そっ   〔とししじゅうに〕
建長五年(1253)十二月大廿一日乙丑。リ。前甲斐守正五位下大江朝臣泰秀@卒す〔年四十二〕

参考@大江泰秀は、長井泰秀とも大江広元の次男長井時広の息子。

現代語建長五年(1253)十二月大二十一日乙丑。晴れです。前甲斐守正五位下大江さんの長井泰秀が亡くなりました〔年は四十二です〕

建長五年(1253)十二月大廿二日丙寅。リ。前和泉守藤原行方爲四番引付頭人〔行盛入道卒去之替〕。前筑前守藤原行泰補五番引付頭(人)〔義景入道卒去之替〕。
   引付
 一番
  前右馬權頭〔政村〕      佐渡前司〔基綱〕
  備後前司〔康持〕       伊勢前司〔行綱〕
  城九郎〔泰盛初加〕      中山城前司〔盛時〕
  内記兵庫允〔祐村〕      山名進次郎
 二番
  武藏守〔朝直〕        出羽前司〔行義〕
  伊賀式部大夫入道〔光西〕   C左衛門尉〔滿定〕
  越前兵庫助〔政宗〕      皆吉大炊助〔文幸〕
  對馬左衛門尉〔仲康〕
 三番
  尾張前司〔時章〕       陸奥掃部助〔實時〕
  常陸入道〔行日〕       城次郎〔頼景〕
  大曽祢左衛門尉〔長泰〕    新江式部大夫
  大田太郎兵衛尉        長田兵衛太郎
 四番             〔頭人〕
  前太宰少貳〔爲佐今日加〕   和泉前司〔行方〕
  對馬前司〔倫長〕       武藤左衛門尉〔景頼〕
  深澤山城前司         甲斐前司
  山名中務丞
 五番
  筑前々司〔行泰〕       參河前司〔教隆〕
  大田民部大夫         進士次郎藏人
  明石左近將監         越前四郎
今日申尅。御所被始行長日尊勝陀羅尼并御本尊供養。和泉前司行方奉行之。」丑尅。經師谷口失火。北風頻扇。餘炎迄濱高御倉前。燒死者十余人云々。

読下し                      はれ さきのいずみのかみふじわらゆきかた よんばんひきつけとうにんたり 〔ゆきもりにゅうどうそっきょのか  〕
建長五年(1253)十二月大廿二日丙寅。リ。前和泉守藤原行方、四番引付頭人爲〔行盛入道卒去之替へ〕参考行方は、行政―行村―行

さきのちくぜんのかみふじわらゆきやす ごばんひきつけとうにん  ぶ   〔よしかげにゅうどうそっきょのか  〕
 前筑前守藤原行泰、 五番引付頭人に補す〔義景入道卒去之替へ〕。参考前筑前守行泰は、二階堂行政ー行光ー行盛ー行泰。

       ひきつけ
   引付

  いちばん
 一番

    さきのうまごんのかみ 〔まさむら〕              さどのぜんじ  〔もとつな〕
  前右馬權頭〔政村〕      佐渡前司〔基綱〕

    びんごぜんじ  〔やすもち〕                いせぜんじ   〔ゆきつな〕
  備後前司〔康持〕       伊勢前司〔行綱〕

    じょうのくろう 〔やすもりはじ    くわ   〕         なかのやましろぜんじ 〔もりとき〕
  城九郎〔泰盛初めて加ふ〕    中山城前司〔盛時〕

    ないきひょうごのじょう 〔すけむら〕             やまなしんじろう
  内記兵庫允〔祐村〕      山名進次郎

   にばん
 二番

    むさしのかみ 〔ともなお〕                   でわぜんじ  〔ゆきよし〕
  武藏守〔朝直〕        出羽前司〔行義〕

    いがしきぶのたいふにゅうどう 〔こうさい〕        せいさえもんのじょう 〔みつさだ〕
  伊賀式部大夫入道〔光西〕   C左衛門尉〔滿定〕

    えちぜんひょうごのすけ 〔まさむね〕          みなよしおおいのすけ〔ふみゆき〕
  越前兵庫助〔政宗〕      皆吉大炊助〔文幸〕

    つしまさえもんのじょう  〔なかやす〕
  對馬左衛門尉〔仲康〕

  さんばん
 三番

    おわりのぜんじ 〔ときあき〕                 むつかもんのすけ 〔さねとき〕
  尾張前司〔時章〕       陸奥掃部助〔實時〕

    ひたちにゅうどう 〔ぎょうじつ〕               じょうのじろう  〔よりかげ〕
  常陸入道〔行日〕       城次郎〔頼景〕

    おおそねさえもんのじょう  〔ながやす〕         しんえしきぶのたいふ
  大曽祢左衛門尉〔長泰〕    新江式部大夫

    おおたのたろうひょうえのじょう               おさだひょうえたろう
  大田太郎兵衛尉        長田兵衛太郎

  よんばん                            〔とうにん〕
 四番             〔頭人〕

    さきのだざいしょうに 〔ためすけきょうくは  〕        いずみのぜんじ 〔ゆきかた〕
  前太宰少貳〔爲佐今日加ふ〕   和泉前司〔行方〕

    つしまのぜんじ 〔ともなが〕                 むとうさえもんのじょう  〔かげより〕
  對馬前司〔倫長〕       武藤左衛門尉〔景頼〕

    ふかざわやしろぜんじ                    かいぜんじ
  深澤山城前司         甲斐前司

    やまななかつかさのじょう
  山名中務丞

   ごばん
 五番

    ちkじゅぜんぜんじ 〔ゆきやす〕              みかわのぜんじ  〔のりたか〕
  筑前々司〔行泰〕       參河前司〔教隆〕

    おおたみんぶのたいふ                  しんじじろうくらんど
  大田民部大夫         進士次郎藏人

    あかしさこんしょうげん                   えちぜんしろう
  明石左近將監         越前四郎

きょう さるのこく  ごしょ ちょうじつ  せんしょうだらに なら    ごほんぞん くよう  しぎょうさる    いずみぜんじゆきかたこれ  ぶぎょう
今日申尅、御所で長日@の尊勝陀羅尼并びに御本尊供養を始行被る。和泉前司行方之を奉行す。」

うしのこく  きょうじがやつ  しっか  きたかぜしき    あお    よえん はま  たまみくらまえまで  しょうししゃ じうよにん  うんぬん
丑尅、經師谷口で失火。北風頻りに扇ぎ、餘炎濱の高御倉A前迄。燒死者十余人と云々。

参考@長日は、一日中。
参考A高御倉は、二通り考えられる。一つは高御倉五明山最宝寺で、建久6年(1195)源頼朝が天台宗の寺として創建。開山の明光房の時代に浄土真宗に改宗し、大永年間(1521〜28)に横須賀市野比に移った。
もう一つの推論は、元は浜の御所だったのが泰時時代に浜の庫倉「浜の御倉」となり、後に「高御倉」となったか?高倉と云うと一般に高床式か、二階建ての倉庫を指すと思われるが、由比ガ浜の丘では半地下式の周りに石壁をめぐらした倉庫跡が発掘されているので、二階建てだったかも知れない?

現代語建長五年(1253)十二月大二十二日丙寅。晴れです。前和泉守藤原二階堂行方が、裁判担当官引付四班の班長です〔二階堂行盛さんが亡くなったのでその替えです〕。前筑前守藤原二階堂行泰が、引付五班の班長に任命されました〔安達義景入道が亡くなったのでその替えです〕。

   裁判担当官引付

 一番
  前右馬権頭北条政村   佐渡前司後藤基綱
  備後前司大田康持    伊勢前司二階堂行綱
  城九郎安達泰盛(初参加) 山城前司中原盛時
  内記兵庫允祐村     山名進次郎行直

 二番
  武蔵守北条朝直     出羽前司二階堂行義
  伊賀式部大夫入道光西  左衛門尉清原満定
  越前兵庫助政宗     皆吉大炊助文幸
  対馬左衛門尉仲康

 三番
  尾張前司北条時章    陸奥掃部助北条実時
  常陸入道行日二階堂行久 城次郎安達頼景
  大曽祢左衛門尉長泰   新江式部大夫大江以基
  大田太郎兵衛尉三善康宗 長田兵衛太郎広雅

 四番
  前太宰少弐狩野為佐(今日追加) 和泉前司二階堂行方〔班長〕
  対馬前司矢野倫長    武藤左衛門尉景頼
  深沢山城前司俊平    甲斐前司宗国
  山名中務丞俊行

五番
  筑前前司二階堂行泰   三河前司清原教隆
  大田民部大夫康連    進士次郎蔵人光政
  明石左近将監兼綱    越前四郎経朝

今日、午後4時頃、御所で一日中続ける尊勝陀羅尼経それに御本尊の供養を始めました。和泉前司二階堂行方が指揮担当です。」
午前2時頃に、経師谷口で失火があり、北風が盛んに吹いたので、飛び火が浜の高御藏まで燃え広がり、焼死者が十数人も出たそうな。

建長五年(1253)十二月大廿八日壬申。若宮別當僧正自京都下着。去十月。爲勸請如意寺鎭守諸社上洛云々。

読下し                       わかみやべっとうそうじょう きょうとよ   げちゃく   さんぬ じうがつ  にょいじ ちんじゅ しょしゃ かんじょう ためじょうらく   うんぬん
建長五年(1253)十二月大廿八日壬申。 若宮別當僧正 京都自り下着す。去る十月、如意寺@鎭守の諸社を勸請の爲上洛すと云々。

参考@如意寺は、園城寺別院で、京都市左京区鹿ケ谷から滋賀県大津市の園城寺にかけての山中に東西2.5km南北1kmに渡ってた山岳寺院。

現代語建長五年(1253)十二月大二十八日壬申。鶴岡八幡宮筆頭僧正隆弁が、京都から帰って来ました。去る10月園城寺別院の如意寺を守るいくつかの神社を勧請するために京都へ上ったのだそうな。

建長五年(1253)十二月大卅日甲戌。正朔御行始供奉人事。取集所着置于筵上座席之札。注其交名。申下御點。被相催云々。

読下し                     しょうさくみゆきはじめ ぐぶにん  こと  むしろ うえに つ   お  ところ  ざせきのふだ  と   あつ
建長五年(1253)十二月大卅日甲戌。正朔御行始の供奉人の事、筵の上于着け置く所の座席之札を取り集め、

そ  きょうみょう ちう     ごてん   もう   くだ    あいもよ さる   うんぬん
其の交名を注し、御點を申し下し、相催お被ると云々。

現代語建長五年(1253)十二月大三十日甲戌。元旦のお出かけ始めのお供について、筵の上に挟み置いた座席札を集めて、その名前を書きだして宗尊親王将軍家がチェックをして、参加催促をしましたとさ。

吾妻鏡入門第四十三巻

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