吾妻鏡入門第四十七巻  

正嘉元年(1257)九月大

正嘉元年(1257)九月大四日乙夘。小雨降。申尅地震。去月廿三日大動以後。至今小動不休止。依之。爲親朝臣奉仕天地災變祭。御使伊賀前司朝行云々。

読下し                     こさめふ    さるのこくぢしん  さんぬ つき にじうさんにち だいどう いご   いま  いた しょうどう やまず
正嘉元年(1257)九月大四日乙夘。小雨降る。申尅地震。去る月 廿三日の大動以後、今に至り小動休止不。

これ  よっ   ためちかあそんてんさいちへんさい  ほうし    おんし   いがのぜんじともゆき   うんぬん
之に依て、爲親朝臣天地災變祭を奉仕す。御使は伊賀前司朝行と云々。

現代語正嘉元年(1257)九月大四日乙夘。小雨が降ってます。午後4時頃地震です。先月の二十三日の大揺れ以後、今まで小さな揺れが休みません。このために、安倍為親さんが天地災変祭を勤めています。幕府の代参は伊賀前司朝行だそうな。

正嘉元年(1257)九月大十六日丁夘。リ。勝長壽院事始。可爲十九日之由。被下御教書。縫殿頭師連爲御使。帶陰陽道勘文。向當院別當宰相法印最信宿坊。相觸造營間事。一事以上。可爲寺家沙汰云々。其後。寺奉行三位律師良明。師阿闍梨禪信等參奥州禪門。相州。前武州等御亭。諸堂支度事等申入之。

読下し                      はれ しょうちょうじゅいん ことはじ     じうくにちたるべ    のよし  みぎょうしょ  くださる
正嘉元年(1257)九月大十六日丁夘。リ。勝長壽院の事始めは、十九日爲可き之由、御教書を下被る。

ぬいどののとうもろつら おんし  な    おんみょうどう かんもん  たい   とういんべっとう さいしょうほういん さいしん すくぼう  むか   ぞうえい あいだ  こと  あいふる
 縫殿頭師連 御使と爲し、陰陽道の勘文@を帶し、當院別當 宰相法印 最信が宿坊へ向ひ、造營の間の事を相觸る。

ひとつこといじょう  じけ   さた たるべ    うんぬん
一事以上A、寺家の沙汰爲可きと云々。

 そ  ご   てらぶぎょう  さんみりっしりょうめい  そちのあじゃりぜんしんら おうしゅうぜんもん そうしゅう さきのぶしゅうら  おんてい  まい
其の後、寺奉行の 三位律師良明・ 師阿闍梨禪信等奥州禪門 ・相州、前武州等の御亭へ參り、

しょどう   したく  ことなどこれ   もう  い
諸堂の支度の事等之を申し入れる。

参考@勘文は、進上書。
参考A
一事以上は、全てを。

現代語正嘉元年(1257)九月大十六日丁卯。晴です。勝長寿院の修繕開始は、十九日にするようにとの、命令書を発行しました。縫殿頭中原師連が使者として、陰陽師達の進上書を持って、勝長寿院筆頭責任者宰相法印最信の居室へ向って行って、修繕工事の予定を告げました。全て寺関係者で行うようにだとさ。その後、寺担当の三位律師良明・師阿闍梨禅信等が奥州禅門北条重時・相州北条政村・前武州北条朝直の屋敷を回って色々なお堂の計画・予算・負担の事などを申し入れました。

正嘉元年(1257)九月大十八日己巳。リ。造營無魔障之樣。可致祈念由。被下御教書。□□□□□□□□□供僧等。仍自今日。至造畢之期。□□□□□供。今日。本尊開白。加賀法印□□□□□□□勝長壽院造營事始。□□□□□□□□對馬前司倫長參入。□□□□□□□□□□□基政依病痾申障。諸堂雜掌。安東新左衛門尉光成。工藤三郎左衛門光泰。〔已上相州禪室御方〕藤民部大夫入道々佛〔奥州禪門御方〕。四方田三郎左衛門尉景綱〔相州御方〕。□□□□□□□募匠等祿物事沙汰之。時尅。大工已下匠〔布衣〕參上。斧始事終給祿物〔御衣〕戌尅。於勝長壽院行大土公祭〔被引牛一頭如例〕リ茂朝臣奉仕之。給銀釼一腰。對馬前司倫長奉行之。

読下し                      はれ  ぞうえいましょうな   のよう   きねんいた  べ     よし  みぎょうしょ  くださる
正嘉元年(1257)九月大十八日己巳。リ。造營魔障無き之樣、祈念致す可きの由、御教書を下被る。

                            ぐそうら   よっ  きょう よ      ぞうひつ のご  いた             ぐ
□□□□□□□□□(鶴岡八幡宮寺永福寺)供僧等、仍て今日自り、造畢之期に至り、□□□□□供。

 きょう  ほんぞんかいびゃく  かがのほういん                    しょうちょうじゅいんぞうえいことはじ
今日、本尊開白す。加賀法印□□(定リ)□□□□□勝長壽院 造營事始め。

              つしまのぜんじともながさんにゅう
□□□□□□□□(大行事縫殿頭師連)對馬前司倫長參入す。

                                もとまさびょうあ  よっ  さわり もう
□□□□□□□□□(大行事後藤壱岐前司)基政病痾に依て障を申す。

しょどう  ざっしょう あんどうしんさえもんのじょうみつなり くどうのさぶろうさえもんみつやす 〔いじょうそうしゅうぜんしつ  おんかた〕
諸堂の雜掌、安東新左衛門尉光成・工藤三郎左衛門光泰〔已上相州禪室の御方@

とうのみんぶたいふにゅうどうどうぶつ〔おうしゅうぜんもん  おんかた〕  よもださぶろうさえもんのじょうかげつな  〔そうしゅう  おんかた〕
藤民部大夫入道々佛〔奥州禪門の御方〕・四方田三郎左衛門尉景綱〔相州の御方〕

                つの たくみら  ろくぶつ  ことこれ   さた
□□□□□□□(備後前司康持等)募る匠等が祿物の事之を沙汰す。

じこく     だいこう いげ  たくみ 〔 ほい 〕 さんじょう   おのはじめ ことおわ   ろくぶつ 〔 ごい 〕   たま
時尅に、大工已下の匠〔布衣〕參上す。斧始の事終りて祿物〔御衣〕を給はる

いぬのこく しょうちょうじゅいん をい  だいどくうさい  〔うしいっとう  れい   ごと   ひかる  〕    おこな
 戌尅、 勝長壽院に於て大土公祭〔牛一頭を例の如く引被る〕を行う

はるもちあそんこれ  ほうし     ぎん つるぎひとこし  たま      つしまのぜんじともなかこれ  ぶぎょう
リ茂朝臣之を奉仕す。銀の釼 一腰を給はる。對馬前司倫長之を奉行す。

参考@相州禅室の御方の二人は、得宗被官。

現代語正嘉元年(1257)九月大十八日己巳。晴れです。修繕工事に魔性の妨げが無いように、祈るように、命令書を下されました。鶴岡八幡宮寺永福寺の坊さん達は、そこで今日からの修繕が終わる日までは、〇〇〇〇〇の供養。今日、御本尊を運び出しました。加賀法印定晴〇〇〇〇〇勝長寿院の修繕開始儀式です。大行事縫殿頭師連・対馬前司矢野倫長が入って来ました。大行事後藤壹岐前司基政は病気だから欠席と云ってます。様々なお堂の現場監督兼手配は、安東新左衛門尉光成・工藤三郎左衛門光泰〔以上は相州禅門時頼の代理〕・藤民部大夫入道道仏〔奥州禅門北条政村の代理〕・四方田三郎左衛門尉景綱〔相州長時の代理〕等が、備後前司康持等が集めた大工さんたちの褒美の事を指図しました。
儀式開始時刻に、大工の棟梁以下の工人〔布衣〕が来ました。斧始め式が終わって褒美〔お着物〕を与えました。
午後8時頃、勝長寿院で地鎮祭〔牛一頭を形ばかりのお供え物に引いてきました〕を行いました。安倍晴茂さんがこれを勤めました。銀造りの刀一振りを与えられました。対馬前司矢野倫長が指揮をしました。

正嘉元年(1257)九月大廿四日乙亥。リ。依地震。御所南方東方築地壞也。來月一日大慈寺供養以前。可被築地否。有其沙汰。召陰陽師。被問方忌事。其間。彼輩有條々相論。爲親。廣資等申云。南御遊年方。辰之外無憚。東大將軍遊行之間。被修補無憚。本文先例分明也云々。リ賢。リ茂。以平。文元等申云。是已大破也。自根可築上之間。可爲大犯土。不論大少可有憚云々。亦進光榮。有行。泰親等朝臣勘文。泰親去保元造内裏之時築垣。大將軍遊行之間。可被修理之由載之。而以平申云。不被用往代之例。近來可憚之旨。有口傳云々。奥州。武州。前武州。出羽前司等有評議。被止修復儀。

読下し                      はれ   ぢしん  よっ    ごしょ  なんぽう  とうほう  ついぢ   こわ    なり
正嘉元年(1257)九月大廿四日乙亥。リ。地震に依て、御所の南方と東方の築地が壞れる也。

らいげつついたち  だいじじ くよう いぜん    ついぢらる  べ     いな     そ   さた あ
來月 一日の大慈寺供養以前に、築地被る可きや否や、其の沙汰有り。

おんみょうじ  め    かたいみ  こと  と わる    そ  あいだ  か  やから じょうじょう そうろんあ    ためちか ひろすけら もう    い
陰陽師を召し、方忌@の事を問被る。其の間、彼の輩 條々の 相論有り。爲親・廣資等申して云はく。

みなみ ごゆうねん  ほうたつのほかはばか な   ひがし だいしょうぐんゆぎょうのあいだ  しゅうほさる   はばか な    ほんもん せんれいぶんめいなり  うんぬん
南は御遊年Aの方辰之外憚り無し。東は 大將軍 遊行之間、修補被るも憚り無し。本文の先例 分明也と云々。

はるかた はるもち もちひら ふみもとら もう    い
リ賢・リ茂・以平・文元等申して云はく。

これ  すで  たいはなり  ね よ  ちくじょうすべ のあいだ  だいぼんど たるべ   だいしょう ろんぜず はばか あ   べ    うんぬん
是、已に大破也。根自り築上可き之間、大犯土C爲可し。大少を論不 憚り有る可しと云々。

また  みつひで ありゆき やすときら   あそんかんもん すす
亦、光榮・有行・泰親等の朝臣勘文を進む。

やすちかさんぬ ほうげん ぞうだいり のとき  ちくがき  だいしょうぐんゆぎょうのあいだ   しゅうりさる  べ    のよしこれ  の
泰親去る保元の造内裏D之時の築垣、 大將軍 遊行之間に、修理被る可き之由之を載せる。

しか    もちひらもう    い       おうだいのれい  もち  られずん   きんらい はばか べ   のむね  くでん  あ    うんぬん
而して以平申して云はく。往代之例Eを用ひ被不ば、近來 憚る可き之旨、口傳に有りと云々。

おうしゅう ぶしゅう さきのぶしゅう でわのぜんじら ひょうぎあ       しゅうふく  ぎ   や   らる
奥州・武州・前武州・出羽前司等評議有りて、修復の儀を止め被る。

参考@方忌は、方違えに同じ。
参考A
遊年は、年によって建築・旅行・移転・嫁取りなどを避けなくてはならない方角。
参考B
大将軍は、素戔嗚尊らしい。陰陽道において方位の吉凶を司る八将神の一。金星で3年ごとに居を変え、その方角は万事凶とされ、特に土を動かす事が良くないとされる。大将軍の遊行日は凶事がないとされた。

参考C
犯土は、土地の犯す。掘削工事。
参考D
保元の造内裏は、保元二年。
参考E往代の例は、昔の事例。

現代語正嘉元年(1257)九月大二十四日乙亥。晴れです。地震のために御所の南と東の土塁状の築地が崩れました。来月一日の大慈寺の修繕開眼供養前に、築地を直すべきかどうか、検討がありました。陰陽師を呼んで、方角変えの事をお聞きになりました。そしたら、陰陽師の連中は言い争いになりました。為親と広資が云うのには、「南は、将軍のお歳では避けなければならない方角の辰南南西以外は控える必要がありません。東は大将軍の遊行日なので凶事はなしで、修理なども控える必要はありません。陰陽師の本の先例は明らかです。」との事。
晴賢と晴茂・以平・文元達が云うのには、「この状態は既に大破ですよ。根元から築堤し直さなければならないので、大造成の大犯土ですよ。事の大小にかかわりなく控えるべきですよ。」だそうな。又、光栄と有行・泰親さん達は、上申書を出しました。泰親は去る保元二年の内裏造営の際に土塁の構築に凶事の無い大将軍遊行の間に修理したことを書き載せています。しかし、以平が云うのには「昔の事例に合わせない場合は、最近では控えるべきだと、口移しに伝承されています。」との事です。奥州重時・武州長時・前武州朝直・出羽前司二階堂行義たちが相談して修理は取り止めました。

正嘉元年(1257)九月大卅日辛巳。自寅尅雨降。終日不休止。未尅。將軍家入御壹岐前司泰綱藥師堂谷山庄。是明日大慈寺供養可有御出之間。爲御方違也。及晩。相州禪室爲覽修理之躰。渡御大慈寺。常陸入道行日已下奉行人等參會。而南面河堰用椙之間。禪室仰云。寺塔修治雖無如在之儀。河堰用椙頗無念云々。則令歸路。爰行日不及歸第。留寺門。塞止行河水。召寄桧材木〔此木行日家用意云々〕。招聚百餘人匠等。改椙。河堰以桧造畢。供養可爲明日之間。取松明成其功也。

読下し                   とらのこくよ   あめふ   しゅうじつ やまず  
正嘉元年(1257)九月大卅日辛巳。寅尅自り雨降る。終日休止不。

ひつじのこく しょうぐんけ おきのぜんじやすつな やくしどうがやつ さんそう  はい  たま
未尅、 將軍家 壹岐前司泰綱が藥師堂谷の山庄へ入り御う。

これ みょうにち だいじじ くよう  おんいであ   べ  のあいだ おんかたたが  ためなり
是、明日大慈寺供養の御出有る可き之間、御方違への爲也。

ばん  およ   そうしゅうぜんしつ しゅうり のてい  み   ため   だいじじ  わた  たま   ひたちにゅうどうぎょうじつ いげ   ぶぎょうにんら さんかい
晩に及び、 相州禪室 修理之躰を覽ん爲、大慈寺へ渡り御う。常陸入道行日 已下の奉行人等參會す。

しか   なんめん かわ  せき  すぎ  もち    のあいだ ぜんしつおお    い
而るに南面の河の堰に椙を用いる之間、禪室仰せて云はく。

 じとう  しゅうち  にょざい のぎ な    いへど   かわせき  すぎ  もち   すこぶ  むねん うんぬん  すなは きろ せし
寺塔の修治に如在之儀無しと雖も、河堰に椙を用うは頗る無念と云々。則ち歸路令む。

ここ ぎょうじつ きだい  およばず  じもん  とど      い   かわ  みず  ふせ  と    ひのき ざいもく 〔 こ   き ぎょうじつ   いえ  ようい    うんぬん〕    めしよ
爰に行日歸第に及不、寺門に留まり、行く河の水を塞ぎ止め、桧の材木〔此の木行日の家に用意と云々〕を召寄せ、

ひゃくよにん たくみら  まね  あつ    すぎ  あらた   かわぜき ひのき もっ  つく をはんぬ
百餘人の匠等を招き聚め、椙を改め、河堰は桧を以て造り畢。

 くよう  みょうにちたるべ  のあいだ  たいまつ  と   そ   こう  な   なり
供養は明日爲可き之間、松明を取り其の功を成す也。

現代語正嘉元年(1257)九月大三十日辛巳。午前4時から雨が降り、一日中止みませんでした。午後2時頃、宗尊親王将軍家は、壱岐前司佐々木泰綱の覚園寺谷の別荘へお入りになりました。これは、明日大慈寺の修理開眼供養に出席するので、方角替えのためです。
夜になって、相州禅室時頼さんは修理の出来上がり状況を見るために、大慈寺へ出かけました。常陸入道行日二階堂行久以下の指揮担当者が集まりました。
しかし南側の川の堰に杉材をつかっていたので、時頼さんは云いました。「寺や塔の修理に直接関係ないと云っても、川の堰に杉を使っているのは残念だ・」と云ってすぐ帰りました。
それで、行日は帰ろうとしないで、寺の門に居残って、川の水をせき止めて、桧の材木〔この材料は行日の家に用意していましたそうな〕を運ばせて、百数十人の大工さんたちを呼び集めて、杉の材料を取り替えて、川の堰を桧で造り替えてしまいました。式典は明日なので、松明を燃やしてその工事を成し遂げました。

十月へ

吾妻鏡入門第四十七巻  

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