吾妻鏡入門第五十巻  

弘長元年(1261)五月小

弘長元年(1261)五月小一日壬戌。夜半。大倉稻荷邊聊物忩。彼社壇。此間連々有會合之輩。今夜々行衆恠之。欲搦取之故也。悉迯散云々。

読下し                     やはん  おおくらいなり  へんいささ ぶっそう  か   しゃだん    こ  あいだれんれんかいごうのやからあ
弘長元年(1261)五月小一日壬戌。夜半、大倉稻荷の邊聊か物忩。彼の社壇で、此の間連々會合之輩有り。

こんや やぎょう しゅうこれ  あやし   から  と      ほっ    のゆえなり  ことごと に   ち     うんぬん
今夜々行の衆之を恠み、搦め取らんと欲する之故也。悉く迯げ散ると云々。

参考大倉稻荷は、大倉幕府址前の「ギャラリー遊」と「鎌倉ハンバーグ」の間の道を入って橋を渡った左の山の中、鎌倉市雪ノ下四丁目4の稲荷と云われる。

現代語弘長元年(1261)五月小一日壬戌。夜中に大倉稲荷のあたりが怪しく騒がしい。その境内で連日集まっている連中があります。今夜、夜当番の人々が怪しいと感じて、捕まえようとしたのです。ところが全て逃げ散ってしまいましたとさ。

弘長元年(1261)五月小五日丙寅。御所有和歌御會。紙屋河二位。右大弁入道。越前々司。陸奥左近大夫將監。後藤壹岐前司等讃會云々。

読下し                      ごしょ   わか   おんえ あ
弘長元年(1261)五月小五日丙寅。御所で和歌の御會有り。

 かみやがわにい  うだいべんにゅうどう  えちぜんぜんじ  むつさこんのたいふしょうげん  ごとうのいきぜんら さんかい    うんぬん
紙屋河二位・右大弁入道・越前々司・陸奥左近大夫將監・後藤壹岐前司等讃會すと云々。

現代語弘長元年(1261)五月小五日丙寅。御所で和歌の会がありました。紙屋河二位顕氏、右大弁入道真観(光俊)、越前前司時広、陸奥左近大夫将監塩田義政、壱岐前司後藤基政たちが讃え合わせましたとさ。

弘長元年(1261)五月小十三日甲戌。今日晝番之間。於廣御所。佐々木壹岐前司泰綱与澁谷太郎左衛門尉武重及口論。是泰綱以武重有稱大名之由事。武重咎之云。已亘嘲哢之詞也。於當時全非大名。先祖重國〔号澁谷庄司〕者。誠相摸國大名内也。然間。貴邊先祖佐々木判官定綱〔于時号太郎〕。窂籠之當初者。到重國之門。寄得其扶持。子孫今爲大名歟云々。泰綱云。東國大少名并澁谷庄司重國等。皆官平氏。莫不蒙彼恩顧。當家獨不諛其權勢。弃譜代相傳佐々木庄。偏運志於源家。遷住相摸國。尋知音之好。得重國以下之助成。繼身命。奉逢于右大將軍草創御代。抽度々之勳功。兄弟五人之間。令補十七ケ國守護職。剩面々所令任受領檢非違使也。昔窂籠更非恥辱。還可謂面目之。始重國以秀義爲聟之間。令生隱岐守義C訖。被用聟之上者。非馬牛之類。爲人倫之條勿論歟。此上今過言頗荒凉事歟云々。列座衆悉傾耳。敢不能助言云々。

読下し                       きょう ひるばんのあいだ  ひろ  ごしょ  をい   ささきのいきぜんじやすつなと しぶやのたろうさえもんのじょうたけしげこうろん  およ
弘長元年(1261)五月小十三日甲戌。今日晝番之間、廣の御所に於て、佐々木壹岐前司泰綱与澁谷太郎左衛門尉武重口論に及ぶ。

これやすつな たけしげ もっ だいみょうのよし  しょう   ことあ     たけしげこれ  とが    い
是泰綱、武重を以て大名之由を稱する事有り。武重之を咎めて云はく。

すで ちょうろう わた  のことばなり   とうじ  をい    まった だいみょう あらず  せんぞしげくに 〔しぶやのしょうじ  ごう  〕 は   まこと さがみのくに だいみょう うちなり
已に嘲哢に亘る之詞也。當時に於ては全く大名に非。先祖重國〔澁谷庄司と号す〕者、誠に相摸國の大名の内也。

しか あいだ  きへん  せんぞ ささきのほうがんさだつな 〔ときに たろう  ごう  〕  ろうろう のとうしょは   しげくに のもん  いた    そ   ふち   きとく
然る間、貴邊の先祖佐々木判官定綱〔時于太郎と号す〕、窂籠之當初者、重國之門に到り、其の扶持に寄得す。

しそんいまだいみょう な   か   うんぬん
子孫今大名と爲す歟と云々。

やすつな い     とうごく だいしょうみょうなら   しぶやのしょうじしげくにら   みなへいし   かん    か   おんこ  こうむ ざる  な
泰綱云はく。東國の大少名并びに澁谷庄司重國等、皆平氏に官し、彼の恩顧を蒙ら不は莫し。

とうけ ひと   そ   けんせい へつらわず ふだいそうでん  ささきのしょう  す     ひと   こころざしをげんけ  はこ    さがみのくに せんじゅう
當家獨り其の權勢に不諛。譜代相傳の佐々木庄を弃て、偏へに志於源家に運び、相摸國に遷住す。

ちおんのよしみ たず   しげくに いげ の じょせい  え    しんめい  つ
知音之好を尋ね、重國以下之助成を得て、身命を繼ぐ。

うだいしょうぐんそうそう   みよ に あいたてまつ  たびたに のくんこう  ぬき     きょうでい ごにんのあいだ じゅうしちかこく  しゅごしき  ぶ せし
右大將軍草創の御代于逢 奉り、度々之勳功を抽んじ、兄弟五人之間、十七ケ國の守護職に補令む。

あまつさ めんめん  ずりょう   けびいし   にん  せし ところなり  むかし ろうろうさら  ちじょく あらず  かえっ これ  めんもく  い    べ
 剩へ 面々に受領・檢非違使に任じ令む所也。昔の窂籠更に恥辱に非。還て之を面目と謂ひつ可し。

はじ しげくに  ひでよし  もっ  むこ  な  のあいだ  おきのかみよしきよ  う   せし をはんぬ
始め重國、秀義を以て聟を爲す之間、隱岐守義Cを生ま令め訖。

むこ  もち  らる  の しは   うしうまのたぐい あらず  じんりんたるのじょうもちろんか   かく  うえいま  かごんすこぶ  こうりょう ことか  うんぬん
聟に用い被る之上者、馬牛之類に非。人倫爲之條勿論歟。此の上今の過言頗る荒凉の事歟と云々。

れつざ しゅうことご みみ かたむ   あえ  じょげん  あたはず  うんぬん
列座の衆悉く耳を傾け、敢て助言に不能と云々。

現代語弘長元年(1261)五月小十三日甲戌。今日の昼当番の最中に、御所の広間で、佐々木壱岐前司泰綱と渋谷太郎左衛門尉武重とが言い争いになりました。これは佐々木泰綱が、「渋谷武重は大名だ」と言い出したのです。渋谷武重はこれを非難して云いました。「それは私を馬鹿にしている言葉だ。現在は全然大名などではありません。先祖の渋谷重国〔渋谷の庄司と云われてた〕は、確かに相模の国の大名に数えられていました。その時代には、あなたの先祖の佐々木判官定綱〔太郎と呼ばれていました〕が、浪人であった当初は、重国の屋敷に来て、そこで居候の世話になっていました。子孫は現在大名になっていますよね。」だとさ。
佐々木泰綱が言うには、「関東の大名も少名も、それに渋谷庄司重国なども、皆平氏に仕え、その恩に浴さない者はいませんでした。当佐々木家はそ平家の権力にあやかろうとしませんでした。先祖伝来の佐々木荘を捨てて、ひたすらに源氏への忠誠を誓って相模国に移って来ました。知り合いの縁を頼って渋谷重国などの助けを借りて、なんとか生きながらえました。頼朝様の天下に巡り合って、度々手柄を立てて、兄弟五人で十七か国の守護に任命されました。そればかりか、それぞれに現地権限者の国司や検非違使に任命された所です。昔の浪人時代が恥ずかしい事はありません。かえってその後の出世を考えれば面目だと言えるでしょう。最初の頃、佐々木秀義を婿にして、隠岐守義清を生ませました。婿として迎えられたことは、牛馬のような使用人ではありません。人間としての扱いは勿論です。そういう訳なので、今の浪人扱いの発言は、
かなり荒事の発言じゃないですか。」だとさ。
広間に並んで座っていた人々は皆、耳を傾けて聞いてますが、あえて助言はしませんでしたとさ。

六月へ

inserted by FC2 system