吾妻鏡入門第二巻

寿永元年(1182)十二月大

壽永元年(1182)十二月大一日丁酉。生倫神主注進申云。二宮祢宜等奉同意關東之由。有平家之讒奏。去月之比。公家及御沙汰。遂爲祠官惱乱歟云々。

読下し           ひのととり  なりともかんぬし ちゅうしんもう   い      にのみや ねぎ ら かんとう どういたてまつ のよし
壽永元年(1182)十二月大一日丁酉。生倫~主@注進申して云はく、二宮祢%呵嵩撃ノ同意奉る之由、

へいけの ざんそうあ    さんぬ つきのころ  こうけ   おんさた   およ    つい  しかん  のうらんた  か   うんぬん
平家之讒奏有り。去る月之比、公家の御沙汰に及ぶ。遂に祠官の惱乱爲る歟と云々。

参考@生倫~主は、養和元年十月二十日に伊勢神宮(大神宮権祢宜)から鎌倉に到着している。寿永元年一月二十八日に鎌倉で伊勢神宮へささげる馬を彼の鎌倉での居所へ届けている。同二月にはその馬の世話をサボった者を頼朝が罰っしようとしたのを神様への奉仕に血はいけないということで止めてる。そして頼朝の伊勢神宮への御願書を預かり伊勢神宮へ出発している。

現代語壽永元年(1182)十二月大一日丁酉。生倫~主が頼朝様へ手紙をよこして云うには、二宮の神職達が関東政権の為に祈ったことが、平家から朝廷に提議され、先月朝廷で議論されました。結果は神職が狂っているんじゃないかなんだとさ。

壽永元年(1182)十二月大二日戊戌。就生倫申状。被遣御書於太神宮。
 祢宜逹同心頼朝之由平家訴申事。驚思給者也。但神者納受道理。君〔毛〕遂然御歟。各不怠始終祈念給者。東國御領等不可有相違之趣。可被觸申二宮也。謹言。
      十二月二日
    二郎大夫殿

読下し           つちのえいぬ  なりとも  もうすじょう つ     おんしょを だいじんぐう つか  さる
壽永元年(1182)十二月大二日戊戌。生倫@の申状に就いて、御書於太~宮に遣は被る。

   ねぎたち よりとも  どうしんのよし  へいけうった もう  こと  おどろ おぼ たま  ものなり  ただ  かみは どうり  のうじゅ
 祢£B頼朝に同心之由、平家訴へ申す事。驚き思し給ふ者也。但し~者道理を納受す。

  きみ 〔も〕   つい しかをは   か  おのおの おこたらず しじゅうきねんたま ば  とうごく ごりょうら そういあ  べからずのおもむき
 君〔毛〕遂に然御さん歟。各 怠不 始終祈念給は者、東國御領等相違有る不可之趣。

  にのみや ふ  もうされ   べ  なり つつしみ い
 二宮に觸れ申被る可し也。謹て言う。

         じうにがつふつか
        十二月二日

     じろうたいふどの
   二郎大夫殿

参考@生倫は、大神宮権祢宜。

現代語壽永元年(1182)十二月大二日戊戌。生倫からの手紙のとおり、御手紙を伊勢大神宮に送られました。

祢宜達が頼朝に味方していると、平家達が訴えてきたとは、(平家にもれたことに)驚きました。しかし、神様は平等に道理が合っていればこれを許容します。後白河法皇においてもきっとそのとおりですから、それぞれが手を抜かず熱心に祈るならば、関東が寄進した伊勢神宮領地は大丈夫ですからと、神様(二宮)に申し上げてください。心を込めてお願いします。
  十二月二日
 次郎大夫相鹿光倫殿

壽永元年(1182)十二月大七日癸卯。夜深人定之後。武衛御參鶴岳。佐々木三郎。和田次郎等之外。無候御共人。而於拝殿御念誦。宮寺承仕法師榮光咎來云。着于君御座誰人哉。早可退去云々。武衛御感之餘。召出御前。賜甘繩邊田一町。

読下し            みずのとう  よるふか   ひとさだ    ののち  ぶえいつるおがおか ぎょさん
壽永元年(1182)十二月大七日癸卯。夜深く@、人定まる之後、武衛鶴岳に御参す。

 ささきのさぶろう    わだのじろう らのほかおんとも  そうら   ひとな    しか    はいでん  をい    ごねんしょう
佐々木三郎、和田次郎等之外御共に候うの人無し。而して拜殿Aに於て、御念誦。

ぐうじ   しょうしほっしえいこう   とが  きた    い       きみ  ぎょざにちゃく    だれひとや   はや たいきょ すべ   うんぬん
宮寺の承仕法師榮光、咎め來りて云はく。君の御座于着すは誰人哉B。早く退去可しと云々。

ぶえい ぎょかんのあま  ごぜん  め   だ   あまなわへん たいっちょう たま
武衛御感之餘り御前に召し出し甘繩邊の田一町を賜はる。

参考@夜深くなってお参りするのは、静かなため神のお告げを聞きやすいから。夜の闇は穢れを隠す。
参考A拝殿は、八幡宮の神殿の作りは権現造りといって、神様の座する本殿と手前に人が座して拝む拝殿とが別棟に建てられ、その間に一間を儲け双方へ石段が上っている。一説に実朝はここで討たれたとも言われる。
参考B君の御座于着すは誰人哉は、八幡宮には頼朝専用の座席が決まっていたようだ。

現代語壽永元年(1182)十二月大七日癸卯。夜遅くなって、人が寝静まった頃に頼朝様は鶴岡八幡宮へ参拝に行きました。佐々木三郎盛綱と和田次郎義茂以外のお供は連れて行きませんでした。そして、拝殿で念仏を唱えていました。八幡宮に仕えている坊主の栄光が見つけてそばへ来て云いました。「頼朝様のお席に座っているのは誰だ。早く退きなさい。」だとさ。頼朝様はその忠義さに感動して御前へ呼び出して、甘縄辺りの田んぼ一町を与えました。

壽永元年(1182)十二月大十日丙午。御寵女〔龜前〕遷住于小中太光家小坪之宅。頻雖被恐申御臺所御氣色。御寵愛追日興盛之間。憖以順仰云々。

読下し            ひのえうま  ごちょうじょ  こちゅうたみついえ  こつぼのたくに せんじゅう
壽永元年(1182)十二月大十日丙午。御寵女、小忠太光家が小坪之宅于遷住す@

しき    みだいどころ  みけしき  おそ  もうさる    いへど  ごちょうあい ひ おっ  こうりゅうのかん  なまじ  もっ  おお    したが   うんぬん
頻りに御臺所の御氣色を恐れ申被ると雖も、御寵愛日を追て興盛之間、憖いに以て仰せに順うと云々。

参考@小坪之宅于遷住すは、月の「うはなり打ち」から幾らも経っていないのに、懲りずに少しでも近くにと鐙摺(逗子市と葉山町の境)の大多和五郎義久の宅から小坪(鎌倉市から逗子市へ入ったすぐの地)へ引越しさせています。

現代語壽永元年(1182)十二月大十日丙午。頼朝様の妾の亀の前は、小中太光家の小坪の家へ引っ越しました。さかんに御台所(政子)の嫉妬が怖いから嫌だと云いましたが、頼朝様の愛情は益々激しく求めてこられるので(近くに居るように望むので)仕方が無くお言葉に従いましたとの事だとさ。

壽永元年(1182)十二月大十六日壬子。伏見冠者廣綱配遠江國。是依御臺所御憤也。

読下し            みずのえね  ふしみのかじゃひろつな  とおとうみのくに はい      これ  みだいどころ おんいきどお よっ なり
壽永元年(1182)十二月大十六日壬子。伏見冠者廣綱@、遠江國に配される。是、御臺所の御憤りに依て也。

現代語壽永元年(1182)十二月大十六日壬子。伏見冠者廣綱は浜松の方へ島流しにされました。これは(亀の前をかくまっていた事を)御台所(政子)がお怒りになっているからです。

参考@伏見冠者廣綱は、らいとばっちりですね。

(この十二月卅日の記事は、切り貼りの誤謬で一年後の寿永二年十二月の記事なので、読み下し以下は幻の寿永二年に掲載する)

原文壽永元年(1182)十二月大卅日丙辰。上総國御家人周西二助忠以下。多以可安堵本宅之旨。奉恩裁云々。

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