吾妻鏡入門第六巻

文治二年(1186)九月大

文治二年(1186)九月大五日戊申。諸國庄公地頭等忽緒領家所務之由。依有其聞。有限地頭地利之外不可相交。乃貢以下不可存懈緩。於違越輩者可有殊罪科之由。被定云々。」又賀茂別雷社領事。 院宣到來之間。停止地頭知行。被付社家之由。令下知給。此外。同社領備後國有福庄。可停止實平狼藉之由云々。
 下 近江國安曇河御厨
  可令早停止定綱知行任先例勤仕神役事
 右件御厨者。賀茂別雷社領也。而近日依彼定綱之無道知行。有限神役及闕怠之旨。以社家之申状。自院所被仰下也。於自今以後者。早可停止定綱之知行。武士之妨之外者。直經奏聞。可令蒙御裁定状如件。以下。
   文治二年九月五日

読下し             しょこくしょうこう   ぢとうらりょうけ   しょむ   こっしょ     のよし  そ   きこ  あ     よつ
文治二年(1186)九月大五日戊申。諸國庄公の地頭等領家の所務を忽緒する之由、其の聞へ有るに依て、

かぎ  あ   ぢとう  ちりのほか あいまじ べからず  のうぐ いか  けたい  ぞん  べからず
限り有る地頭地利之外相交う不可。乃貢以下の懈緩を存ず不可。

いえつ  やから をい  は  こと  ざいか あ   べ   のよし  さだ  らる    うんぬん
違越の輩に於て者、殊に罪科有る可し之由、定め被ると云々。」

また かものわけいかづちしゃ りょう こと いんぜんとうらいのかん ぢとう  ちぎょう  ちょうじ    しゃけ  ふせら   のよし   げち せし  たま
又、賀茂別雷社@領の事、院宣到來之間、地頭の知行を停止し、社家に付被る之由、下知令め給ふ。

こ   ほか どうしゃりょうびんごのくにありふくのしょう さねひら ろうぜき ちょうすべ  のよし  うんぬん
此の外、同社領備後國有福庄A、實平の狼藉を停止可き之由と云々。

  くだ    おうみのくにあどがわのみくりや
 下す 近江國安曇河御厨B

    はやばや さだつな ちぎょう  ちょうじ  せんれい まか しんえき  きんじ せし  べ  こと
  早々と定綱の知行を停止し先例に任せ神役を勤仕令む可き事

  みぎ くだん みくりやは かものわけいかづちしゃりょうなり しか  きんじつ か さだつなのむどう   ちぎょう  よつ    かぎ  あ  しんえきおよ  けったいのむね
 右、件の御厨者、賀茂別雷社領也。而るに近日彼の定綱之無道な知行に依て、限り有る神役及び闕怠之旨、

  しゃけののうしじょう  もつ   いんよ  おお  くださる ところなり  いまよ    いご   をい  は   はや  さだつなのちぎょう ちょうすべ
 社家之申状を以て、院自り仰せ下被る所也。今自り以後に於て者、早く定綱之知行を停止可し。

  ぶしのさまた    のほかは  ぢき  そうもん  へ     ごさいてい  こうむ せし  べ   じょうくだん  ごと    もつ  くだ
 武士之妨げ之外者、直に奏聞を經て、御裁定を蒙り令む可きの状件の如し。以て下す。

       ぶんじにねんくがついつか
   文治二年九月五日

参考@賀茂別雷社は、京都府京都市北区上賀茂本山339の賀茂別雷社。山城国一宮。
参考A有福庄は、広島県府中市上下町有福。
参考B安曇河御厨は、滋賀県高島市安曇川町四津川に賀茂神社あり。

現代語文治二年(1186)九月大五日戊申。諸国の荘園や公領の支配を無視しているとの話が、伝わってくるので、決められた土地からの収益以外には介入してはならないので、地頭の取り分以外を求めてはいけない。年貢を始めとする勤労奉仕等の義務を怠けてはいけない。違反した連中は、特に罰するように決められましたとさ。

又、賀茂別雷社の所領の事で、後白河法皇からの手紙が届いたのには、地頭の支配を止めて、社家に任せるように命じられました。その他にも、同社の所領の備後国有福庄での、土肥次郎実平の年貢の横取りを止めるように命じたんだとさ。

 命令する 近江国安曇川御厨
 さっさと佐々木太郎定綱の支配を止めて、前々からの例の様に、神様への納付や奉仕をきちんと勤めること
 右の内容は、その御厨は、賀茂別雷社の所領である。それなのに最近、あの佐々木太郎定綱の無道な支配によって、決められた神様への奉仕を怠っているとの事を、社家の申し出状を副えて、後白河法皇から云って来られました。今から以後は、早く佐々木太郎定綱の支配を止めるように。関東の武士の仕業以外の事は、後白河法皇の京都朝廷へ申し出て、判断を受けるようにとの手紙はこのとおりである。そこで命令する。
   文治二年九月五日

文治二年(1186)九月大七日庚戌。二品令歴覽由比深澤給。岡崎四郎義實献駄餉云々。

読下し             にほん    ゆい   ふかざわ  れきらんせし たま   おかざきのしろうよしざねだしゅう  けん   うんぬん
文治二年(1186)九月大七日庚戌。二品、由比@・深澤Aを歴覽令め給ふ。岡崎四郎義實駄餉Bを献ずと云々。

参考@由比は、鎌倉市由比ガ浜あたりと思われる。
参考A
深澤は、現在は鎌倉市梶原一丁目あたりをさすが、鎌倉大仏の地も吾妻鏡では深沢里と云っている。
参考B駄餉は、弁当

現代語文治二年(1186)九月大七日庚戌。頼朝様は、由比浦から深沢の里あたりまで、色々と見て回られました。岡崎四郎義実が弁当を差し上げましたとさ。

文治二年(1186)九月大九日壬子。迎重陽節。藤判官代邦通献菊花。則移南縣之流。被裁北面之壷。芬芳得境。艶色滿籬。毎秋必可進此花之由。被仰邦通之。又結付一紙於花枝。御披覽之處。載絶句詩云々。

読下し             ちょうようのせつ むか  とうのほうがんだいくにみちきっか けん  すなは なんけんのながれ うつ  ほくめんのつぼ  うえらる
文治二年(1186)九月大九日壬子。重陽節@を迎へ、藤判官代邦通菊花を献ず。則ち南縣之流Aを移し、北面之壷に裁被る。

ふんぽう さかい え   つやいろまがき み   まいあきかなら こ  はな  しん  べ   のよし  これ  くにみち  おお  らる
芬芳B境を得て、艶色籬に滿つ。毎秋必ず此の花を進ず可し之由、之を邦通に仰せ被る。

また  いっしをはなえだ  むす  つ     ごひらんのところ  ぜつく   うた  の       うんぬん
又、一紙於花枝に結び付く。御披覽之處、絶句Cの詩を載せると云々。

参考@重陽節は、重陽の節句で、〔陽数である九が重なることから〕五節句の一。陰暦九月九日に行われる節会(せちえ)。中国から伝わり、平安時代には宮中の年中行事となって観菊の宴が催された。菊の節句。この事から屋島の合戦に遅れて来た梶原景時軍を戦の終えた義経軍が「六日の菖蒲、十日の菊」と遅れて間に合わないの意味でからかった。
参考A南縣之流は、中国河南省南陽郡酈()県に甘谷というところがあり、その谷の水は甘美である。それは山上に菊が群生しているため、水が菊の滋液を含んでいるからである。その水を日常的に飲用している周辺の人々はみな長寿になるという。http://www1.odn.ne.jp/kushida/hk_kwb-j/hk_0803j.html
参考B芬芳は、よい香り。また、よい香りを発するさま。
参考C絶句は、漢詩の近体詩の一種で、起・承・転・結の四句からなる定型詩。五言絶句と七言絶句とがある。

現代語文治二年(1186)九月大九日壬子。重陽の節句を迎えて、大和判官代邦道が菊の花を献上しました。すぐに中国の諺にある長寿の基の菊の花を、北側屋敷の坪庭に植えさせました。良い香りが周囲の建物で囲まれたので、菊の持つ甘い雰囲気が柵の内に満ち満ちていました。毎年必ずこの菊の花を献上するようにと、大和判官代邦道に言いつけなされました。気が付くと一枚の紙が菊の花の枝に結び付けられていましたので、ひらいてみたところ七言絶句の詩が書かれていましたとさ。

文治二年(1186)九月大十三日丙辰。最勝寺領越前國大藏庄事。北條四郎時政代時定。并常陸房昌明等致押領之由。副寺解。所被下 院宣也。仍被經御沙汰。自今以後。時政雖知行地頭職。不可忽緒本寺下知。早停止新儀之無道。從本寺之進止。可令致年貢課役勤之由。所被仰下也。

読下し               さいしょうじ りょう  えちぜんのくに おおくらのしょう こと ほうじょうしろうときまさ かわ ときさだなら
文治二年(1186)九月大十三日丙辰。最勝寺@領 越前國 大藏庄Aの事、北條四郎時政の代りの時定B并びに

ひたちぼうしょうめいらおうりょういた  のよし   じげ    そ    いんぜん  くださる ところなり
常陸房昌明等押領致す之由、寺解Cを副へ、院宣を下被る所也。

よつ   ごさた    へられ  いまよ    いご   ときまさ ぢとうしき  ちぎょう    いへど    ほんじ   げち   こっしょ  べからず
仍て御沙汰を經被、今自り以後、時政地頭職を知行すると雖も、本寺の下知を忽緒す不可。

はや  しんぎ の むどう  ちょうじ    ほんじ の しんじ したが   ねんぐ かえき  つと   いた  せし  べ    のよし  おお  くださる ところなり
早く新儀之無道を停止し、本寺之進止に從ひ、年貢課役の勤めを致さ令む可し之由、仰せ下被る所也。

参考@最勝寺は、白河の地には代々の天皇・上皇・女院たちの御願によって建てられた6つの寺院六勝寺が並んでいた。最勝寺(さいしょうじ)は鳥羽天皇御願。元永元(1118)年落慶供養。
参考A大藏庄は、福井県鯖江市大倉町。
参考B時定は、北條時政の本家の従兄弟とする説(奥富敬之氏)と時政の弟とする説(野口実氏)がある。
参考C
寺解は、寺からの上申書。解は、下役から上役へ出すのを解、上役から下役へは符す、同格には移か牒となる

現代語文治二年(1186)九月大十三日丙辰。最勝寺の領地、越前国大蔵庄について、北条四郎時政の代官時定と常陸坊昌明が年貢を横取りしたので、寺からの上申書を副えて、院宣をよこされました。それなので、頼朝様の判断を経て、今から後は、北条四郎時政が支配しているとは云っても、本所の寺の命令を無視してはいけない。早く新しく行っている本来の慣習ではない行動を止めて、本所の寺の指図に従って、年貢や勤労奉仕の勤めをするように、命じて下さいました。

文治二年(1186)九月大十五日戊午。梶原刑部丞朝景去夜自京都皈參。是去年被撰遣勇士於廿六ケ國之時所向土佐國也。件國如嚴命沙汰鎭之參上。今日召御前。尋洛中事等給。先豫州逐電之後沙汰次第并同意之輩事。具言上。又申云。春三月之比。召群盜張本平庄司〔丹波國住人〕。被禁置左獄。餘人竸來。切破彼獄。庄司已下犯人悉遁出訖。仍別當〔家通〕仰廷尉等。雖搜尋諸方不出來。而八月十一日朝景搦獲之。同廿一日將參大理門下。令請取廷尉云々。

読下し               かじわらぎょうぶのじょうともかげ さんぬ よきょうとよ  きさん
文治二年(1186)九月大十五日戊午。梶原刑部丞朝景、去る夜京都自り皈參す。

これ  きょねんゆうし を にじっかこく   えら  つか  さる  のとき  とさのくに  むか ところなり  くだん くにげんめい ごと   さた  これ しず  さんじょう
是、去年勇士於廿六ケ國に撰び遣は被る之時、土佐國へ向う所也。件の國嚴命の如く沙汰し之を鎭め參上す。

きょう ごぜん  め     らくちう  ことなど  たず  たま    ま  よしゅうちくてんののち    さた しだいなら    どういのやから  こと  つぶさ  ごんじょう
今日御前に召し、洛中の事等を尋ね給ふ。先ず豫州逐電之後の沙汰次第并びに同意之輩の事、具に言上す。

また  もう    い       はるさんがつのころ  ぐんとうちょうほんたいらのしょうじ〔たんばのくにじゅうにん〕  め   さごく  いまし おかれ
又、申して云はく、春三月之比、群盜張本 平庄司 〔丹波國住人〕を召し左獄へ禁め置被る。

よにんきそ  き      か   ごく  き  やぶ    しょうじいかはんにんことごと に  いだ をはんぬ
餘人竸い來て、彼の獄を切り破り、庄司已下犯人悉く遁げ出し訖。

よつ  べっとう 〔いえみち〕 ていい ら   おお      しょほう  さが  たず     いへど  い   きたらず
仍て別當〔家通〕廷尉@等に仰せて、諸方に搜し尋ねると雖も、出で來不。

しか   はちがつじういちにちともかげこれ から え    おな   にじういちにち だいり  もんか  い   まい   ていじょう  う    と  せし    うんぬん
而るに八月十一日朝景之を搦め獲る。同じき廿一日大理Aの門下に將て參り、廷尉に請け取ら令むと云々。

参考@廷尉は、検非違使の尉。
参考A
大理は、検非違使別当の唐名。

現代語文治二年(1186)九月大十五日戊午。梶原刑部烝朝景が、昨夜京都から帰ってきました。これは、去年勇敢な武士達を選んで西国の二十六カ国に派遣した時、土佐国へ向かいました。頼朝様からの厳しい命令どおりにきちんと処理をして、地域を平和に鎮めたので鎌倉へ帰ってきました。今日、頼朝様は御前にお呼びになられ、京都の連中の動向を質問されました。始めに与州義経が逃げ去った後の朝廷の始末の様子と義経に同意した公家の連中の事などを、残らず詳しく報告申し上げました。又、朝景が云うのには、春三月の頃に、盗賊の親分の平庄司〔丹波の侍〕を召し取って検非違使の左獄舎(監獄)へ閉じ込め置きました。そしたら、子分供が襲撃をしてきて、その監獄を破って、親分の平庄司以下の囚人が全て逃げ出してしまいました。それなので警察庁長官の検非違使長官〔家通〕は、検非違使の役人廷尉達に命令して、あっちこっちを探させましたが、出てきませんでした。そこで、八月十一日に梶原刑部烝朝景がふんづかまえて、同二十一日に検非違使長官(大理)の検非違使所へ連れて行って、検非違使の役人廷尉に受け取らせましたとさ。

文治二年(1186)九月大十六日己未。靜母子給暇歸洛。御臺所并姫君依憐愍御。多賜重寳。是爲被尋問豫州在所。被召下畢。而別離以後事者。不知之由申之。則雖可被返遣。産生之程所逗留也。

読下し              しずかおやこいとま たま    きらく     みだいどころなら  ひめぎみれんみん  たま   よつ   おお ちょうほう   たま
文治二年(1186)九月大十六日己未。靜母子暇を給はり歸洛す。御臺所并びに姫君憐愍@し御ふに依て、多く重寳Aを賜はる。

これ  よしゅう  ざいしょ  たず  と   れんため  め くだされをはんぬ  しか   べつりいご  ことは   しらずのよし これ  もう
是、豫州の在所を尋ね問は被爲、召し下被畢。而るに別離以後の事者、不知之由之を申す。

すなは かへ つか さる  べ   いへど   さんじょう のほど  とうりゅう   ところなり
則ち返し遣は被る可しと雖も、産生B之程、逗留する所也。

参考@憐愍は、哀れんで。
参考A
重寳は、宝物。
参考B
産生は、産後の養生。

現代語文治二年(1186)九月大十六日己未。静御前とその母が許されて京都に帰ります。御台所政子様と大姫君(数え年9歳)は憐れみ慈しんで沢山のお土産を贈りました。彼女は、義経の居場所を調べるため、鎌倉に連行され下ってきました。しかし、吉野で別れてからのことは知らないと云いました。すぐに帰してやることにしましたが、産後の養生のためしばらく留まっていたのです。

文治二年(1186)九月大廿日癸亥。女房少將局使者到來于鎌倉。蓮花王院法華堂領伊勢國釋尊寺。武士致妨。早可被停止之由云々。

読下し             にょぼうしょうしょうのつぼね ししゃかまくらにとうらい  れんげおういんほけどうりょういせのくにしゃくそんじ  ぶしさまた    いた
文治二年(1186)九月大廿日癸亥。 女房少將局@の使者鎌倉于到來す。蓮花王院法華堂領伊勢國釋尊寺、武士妨げAを致す。

はや  ちょうじさる  べ   のよし  うんぬん
早く停止被る可し之由と云々。

参考@女房少將局は、誰か不明だが、領家と思われる。
参考A
妨げは、年貢の納入を邪魔する。=横取りをする。

現代語文治二年(1186)九月大二十日癸亥。女房少将局の使いの者が、鎌倉にやってきました。蓮華王院法華堂の領地、伊勢国釈尊寺を武士に横取りされているので、早く止めさせて欲しいとのことでした。

文治二年(1186)九月大廿二日乙丑。糟谷藤太有季於京都生虜与州家人堀弥太郎景光〔此間隱住京都〕。又於中御門東洞院。誅同家人忠信云々。有季竸至之處。忠信本自依爲精兵相戰。輙不被討取。然而以多勢襲攻之間。忠信并郎從二人自戮訖。是日來相從与州之處。去比自宇治邊別離歸洛中。尋往日密通女。遣一通書。彼女以件書令見當時夫。其夫語有季之間。行向獲之云々。是鎭守府將軍秀衡近親者也。豫州去治承四年被參向關東之時。撰勇敢士差進繼信等云々。

読下し              かすやのとうたありすえ きょうと  をい  よしゅう けにん ほりのいやたろうかげみつ 〔こ  かんきょうと  かく す  〕     いけど
文治二年(1186)九月大廿二日乙丑。糟谷藤太有季@京都に於て与州の家人堀弥太郎景光〔此の間京都に隱れ住む〕を生虜る。

また  なかみかどひがしのとういん をい   おな   けにん ただのぶ  ちう   うんぬん
又、中御門東洞院Aに於て、同じき家人忠信を誅すと云々。

ありすえきそ  いた  のところ  ただのぶもとよ  せいへいたる  よつ  あいたたか  たやす う   とられず
有季竸い至る之處、忠信本自り精兵爲に依て相戰ひ、輙く討ち取被不。

しかれども たぜい  もつ  おそ  せ  のかん  ただのぶなら  ろうじゅうふたり じさつ をはんぬ
然而、多勢を以て襲い攻む之間、忠信并びに郎從二人自戮し訖。

これ  ひごろ よしゅう あいしたが のところ さんぬ ころ うじへんよ   べつり    らくちゅう  かえ   おうじつみっつう あおめ  たず    いっつう  しょ  つか
是、日來与州に相從う之處、去る比宇治邊自り別離して洛中へ歸り、往日密通の女Bを尋ね、一通の書を遣はす。

か おんなくだん しょ  もつ  とうじ  おっと  みせし    そ おっとありすえ  かた  のかん  ゆ  むか  これ  え    うんぬん
彼の女件の書を以て當時の夫に見令む。其の夫有季に語る之間、行き向ひ之を獲ると云々。

これ ちんじゅふしょうぐんひでひら きんしんしゃなり
是、鎭守府將軍秀衡の近親者也。

よしゅうさんぬ じしょうよねんかんとう さんこうさる  のとき   ゆうかん  し  えら  つぐのぶら   さ   しん    うんぬん
豫州去る治承四年關東へ參向被る之時、勇敢の士を撰び繼信等を差し進ずと云々。

参考@糟谷藤太有季は、神奈川県伊勢原市上粕屋、下糟屋。同所の高部屋神社は有季が社殿を造営と伝える。又館跡とも謂われる。堀田璋左右先生は、下糟屋西北方の八幡神社が殿ノ窪と云う館跡と書かれているのは、高森一丁目の八幡神社かもしれない。
参考A中御門東洞院は、中御門大路と東洞院大路の交差したあたり。現在の京都府京都市上京区京都御苑宗像神社あたりと思われる。
参考Bは、青二才と同じ未だ若い女。眉を剃っていない女=正式に妻になっていない。

現代語文治二年(1186)九月大二十二日乙丑。糟谷藤太有季は、京都内で義経の家来の堀弥太郎景光〔暫く京都に隠れ住んでいました〕を生け捕りました。又、中御門東洞院で、同じ義経の家来の佐藤忠信を殺しましたとさ。有季が勢い良く駆けつけましたが、忠信は元々豪傑ですので、ひるまず戦いましたので、簡単には討ち取ることができません。それでも、多勢で攻めかかったので、忠信と従者の二人は叶わないと知って自殺してしまいました。この人は、義経に従っていましたが、あの日宇治のあたりで別行動に移り、京都の街中へ戻り、以前に関係していた若い女を見つけて、一通の手紙を届けさせました。その女はその手紙を見て、今の夫に見せました。その夫は糟谷藤太有季に通報しましたので、現場に急行していって忠信を見つけることができましたとさ。この忠信は、東北の王者鎮守府将軍藤原秀衡の親戚の者です。義経が去る治承四年に関東へ向かった時に、勇敢な武士を選んで、兄継信と一緒に義経に付け与えましたとさ。

参考これが義経千本桜などで有名な継信・忠信兄弟で、兄の継信は屋島の合戦で戦死、弟の忠信がここで死ぬ。

文治二年(1186)九月大廿五日戊辰。平六兵衛尉時定執進召使則國状。二通書之。一通付職事云々。彼一通。今日所到來也。是紀伊國由良庄七條紀太濫行事也。
 下 遣蓮花王院御領廣由良御庄
  召使則國申藤三次郎吉助丸謀計濫妨事
 右。則國捧持 院宣。相具御使。〔檢非違使平六兵衛尉代官〕罷入御庄。相尋根元之處。彼吉助。以前ニハ号左馬頭殿御使字藤内。而今則國罷向之時。吉助申云。左馬頭殿トハ僻事也。吉田中納言阿闍梨使也ト稱申テ。於 院宣者不可用トテ。放種々悪口。企陵礫御使。申云。我兄弟者。於伊与國。斬院力者二人頚。况於召使者。不及沙汰之由申之。然而則國申含由緒檢非違使所小目代。披陳子細之刻。謀計露顯。支度相違。夜中逃去了。件吉助者。貞能法師之郎從高太入道丸之舎弟也。今又巧濫妨。欲押領蓮花王院御庄。罪過旁深歟。又件阿闍梨者。自七條紀太守貞之手取文書。耽賄賂。相語北條小御舘。所巧謀略也云々。件阿闍梨并七條紀太ヲ召取院廳。被加炳誡者。無後日之狼藉歟。仍勒在状。言上如件。
    文治二年九月十一日                      御使召仗(使之誤)藤井〔判〕

読下し              へいろくひょうえのじょうときさだ めしつか  のりくに じょう と  すす
文治二年(1186)九月大廿五日戊辰。平六兵衛尉時定@、召使ひA則國の状を執り進む。

につう これ  か     いっつう  しきじ    つ    うんぬん
二通之を書く。一通は職事Bに付くと云々。

か   いっつう    きょう とうらい   ところなり  これ  きいのくにゆらのしょう  しちじょうきた  らんぎょう  ことなり
彼の一通は、今日到來する所也。是、紀伊國由良庄C、七條紀太が濫行Dの事也。

参考@平六兵衛尉時定は、平六時定は北条氏だが北條時政の本家の従兄弟とする説(奥富敬之氏)と時政の弟とする説(野口実氏)がある。
参考A召使ひ(めしつかい)は、宮中で雑事に使われた、身分の低い官人。この場合は院の召使。
参考B職事は、院の蔵人の別当。
参考C由良庄は、和歌山県日高郡由良町。
参考D
七條紀太が濫行は、文治二年八月二十六日参照。

  くだ  つか    れんげおういんごりょうひろゆらのおんしょう
 下し遣はす蓮花王院御領廣由良御庄

  めしつか  のりくにもう  とうざじろうきちすけまる  ぼうけいらんぼう  こと
 召使ひ則國申す藤三次郎吉助丸が謀計濫妨の事

  みぎ    のりくにいんぜん  ささ  も     おんし 〔けびいしへいろくひょうえのじょうだいかん〕  あいぐ  おんしょう  まか  い
 右は、則國院宣を捧げ持ち、御使〔檢非違使平六兵衛尉代官〕を相具し御庄へ罷り入り、

  こんげん  あいたず    のところ  か   きちすけ  いぜんには さまのかみどのおんしあざとうない  ごう
 根元を相尋ねる之處、彼の吉助、以前ニハ左馬頭殿御使字藤内と号す。

  しか   いま  のりくにまか むか  のとき  きちすけもう    い       さまのかみどのとは ひがごと なり
 而るに今、則國罷り向う之時、吉助申して云はく。左馬頭殿トハ僻事E也。

  よしだのちうなごんあじゃり  つかいなりとしょう  もう  て  いんぜん  をい  は もち べからずとて  かずかず  あっこう  はな
 吉田中納言阿闍梨の使也ト稱し申しテ、院宣に於て者用う不可トテ、種々の悪口を放つ。

  おんし りょうりゃく くはだ    もう    い      わがきょうだいは  いよのくに  をい    いん  りきしゃ ふたり  くび  き
 御使の陵礫を企て、申して云はく。我兄弟者、伊与國に於て、院の力者F二人の頚を斬る。

  いはん めしつかい をい は   さた  およ  ざるのよし これ もう
 况や召使に於て者、沙汰に及ば不之由之を申す。

  しかれども のりくにゆいしょ  けびいしどころ   しょうもくだい  もう  ふく    しさい   ひちんのとき   ぼうけいろけん
 然而、則國由緒を檢非違使所Gの小目代に申し含め、子細を披陳之刻、謀計露顯し、

  したくそうい      よなか  に  さ をはんぬ
 支度相違して、夜中に逃げ去り了。

  くだん きちすけは  さだよしほっし のろうじゅう こたにゅうどうまるのしゃていなり
 件の吉助者、貞能法師H之郎從高太入道丸之舎弟也。

  いままたらんぼう  たく   れんげおういんごしょう  おうりょう     ほつ   ざいかまこと ふか  か
 今又濫妨を巧み、蓮花王院御庄を押領せんと欲す。罪過旁に深き歟。

  また  くだん   あじゃりは   しちじょうきたもりさだの て よ   もんじょ  と     まいない  しず    ほうじょう  こみたち  あいかたら
 又、件の阿闍梨者、七條紀太守貞之手自り文書を取り、賄賂に耽み、北條の小御舘を相語ひ、

  ぼうりゃく  たく ところなり  うんぬん
 謀略を巧む所也と云々。

  くだん  あじゃり なら    しちじょうきたを いんのちょう めしと   へいかい  くは  らる  ば   ごじつの ろうぜき な  か
 件の阿闍梨并びに七條紀太ヲ院廳に召取り、炳誡Iを加へ被れ者、後日之狼藉無き歟。

  よつ  ざいじょう  ろく   ごんじょうくだん ごと
 仍て在状Jを勒し、言上件の如し。

         ぶんじにねんくがつじいちにち                                              おんしめしつかいふじい 〔はん〕
    文治二年九月十一日                      御使召使藤井〔判〕

参考E僻事は、嘘。関係ない。間違いだ。
参考F
力者は、輿を担ぐ人。輿丁。
参考G
檢非違使所は、国衙の(刑事事件を扱う)検非違使。
参考H貞能法師は、平貞能で平家家人。
参考I炳誡は、いましめ。
参考J在状は、ありのままに。

現代語文治二年(1186)九月大二十五日戊辰。平六兵衛尉北条時定は、院の雑事をする召使の則国の手紙をとりなしました。この手紙は二通書かれています。一通は院の蔵人長に渡したそうです。もう一通が今日、鎌倉へ到着しました。この内容は、紀伊国の由良庄の年貢を七条細工紀太が横取りをした内容です。

 命令を伝える。蓮華王院三十三間堂の領地の広庄と由良庄のこと
 院の雑事をする召使の則国が云う藤三郎吉助丸が企てた荘園での横取りのこと
 右の内容は、則国は後白河法皇の命令書を持って、鎌倉の使者〔検非違使の平六兵衛尉時定の代官〕と一緒にその庄園へ出張してきて、原因を調べたところ、その吉助は、以前には左馬頭一条能保様の使者で通称を藤内と言ってました。それで今は則国がやってきた時は、吉助が云うには、「左馬頭殿と云うのは真っ赤な嘘なんだ。吉田中納言阿闍梨(忠豪)の使者である。」と名乗っておいて、「後白河法皇の院宣なんか関係ないんだ。」と云って、散々に悪口を言って使者を叩き出そうと考えて云いました。「俺の兄弟分は、伊予国(愛媛県)で院の輿を担ぐ力者二人の首を切ったんだぞ。ましてや召使なんぞの言うことをいちいち問題にするかよ。」と云う始末です。
 しかし、則国が詳しい経緯を国衙の(刑事事件を扱う)検非違使所の次席代官の小目代に言い聞かせたので、小目代が詳しい事を陳述したので、企みが露見して、予期せぬことになったので、夜中に逃げ去ってしまいました。
 この吉助は、平家家人の平貞能の家来の高太入道丸の舎弟分です。今又も悪巧みを企んで、蓮花王院の庄園を横取りしようとしました。その罪は本当に深いものでしょう。又、その吉田中納言阿闍梨(忠豪)は、七条細工紀太守貞から文書を入手して賄賂を使い、北条一門の関係者と仲間に引き込み、悪事を企んだと云うことだとさ。その吉田中納言阿闍梨(忠豪)は、七条細工紀太守貞を院の庁で捕まえて、戒めを与えれば、これ以後の無法な行為はなくなるでしょう。そう云う訳で、ありのままに文書を書いて、申し上げるのはこのとおりです。
   文治二年九月十一日                   御使の召使藤井〔花押〕

文治二年(1186)九月大廿九日壬申。北條兵衛尉飛脚參着。申云。去廿二日糟谷藤太有季虜堀弥太郎〔景光〕。誅佐藤兵衛尉〔忠信〕者。景光白状云。豫州此間在南京聖弘得業邊。又景光爲与州使者。度々向木工頭範季之許。有示合事云々。仍南都之事。付左典厩。經奏聞。差副五百餘騎於比企藤内朝宗。爲搜求之。遣南都了云々。

読下し              ほうじょうひょうえのじょう ひきゃくさんちゃく    もう    い
文治二年(1186)九月大廿九日壬申。北條兵衛尉が 飛脚 參着し、申して云はく。

さんぬ にじうににちかすやのとうたありすえ ほりのいやたろう 〔かげみつ〕 とりこ     さとうひょうえのじょう 〔ただのぶ〕 ちう  てへ
去る廿二日糟谷藤太有季、堀弥太郎〔景光〕を虜にし、佐藤兵衛尉〔忠信〕誅す者り。

かげみつはくじょう  い       よしゅう こ かんみなみきょう しょうこうとくごう へん  あ
景光白状@して云はく。豫州此の間南京の聖弘得業A邊に在り。

また  かげみつよしゅう  ししゃ  な    たびたびもくのかみのりすえ のもと むか   しめ  あわ  ことあ    うんぬん
又、景光与州の使者と爲し、度々木工頭範季B之許へ向い、示し合すC事有りと云々。

よつ  なんとのこと   さてんきゅう  ふ     そうもん  へ     ごひゃくよき を ひきのとうないともむね さ   そ
仍て南都之事、左典厩に付し、奏聞を經て、五百餘騎於比企藤内朝宗に差し副へ、

これ  さが  もと    ため  なんと   つか  をはんぬ うんぬん
之を搜し求めん爲、南都へ遣はし了と云々。

参考@白状は、事情を申す。白は申すの意。状は、状態の意。
参考A聖弘得業は、後鎌倉へ召還され、文治三年三月八日に頼朝と会い、整然と経緯を語る。頼朝感心して勝長寿院供僧を命じる。
参考B木工頭範季は、藤原。大治5年(1130年)- 元久2年(1205年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。九条兼実の家司。羽林家南家高倉流の祖。後白河法皇の近臣。父は藤原南家の藤原能兼。母は高階為時娘。藤原範兼は兄で養父でもある。妻は平教盛の娘・教子。娘に後鳥羽天皇女院で順徳天皇生母である修明門院重子がいる。ウィキペディアから
参考C示し合すは、相談する。

現代語文治二年(1186)九月大二十九日壬申。平六兵衛尉北条時定の伝令が到着して申し上げました。先日の二十日に糟谷藤太有季が堀弥太郎景光を捕虜にして、佐藤兵衛尉忠信を殺しました。景光が事情を申すには、「義経はその間に、奈良の聖弘得業の所にいました。景光は義経の使者として、何度か木工頭藤原範季の所へ行って、相談することがあったんだ。」なんだとさ。それで奈良の事を左典厩一条能保様に頼んで、後白河法皇に申し上げて、五百余騎の軍勢を比企藤内朝宗の配下につけて、義経を探すために、奈良へ行かせましたとさ。

文治二年(1186)九月大卅日癸酉。下野國寒河郡内以田地十五町。被付日光山三昧田。當郡去年雖被寄進野木宮。於件十五町者。可被切改國領之由云々。

読下し             しもつけのくにさむかわぐん ない でんちじうごちょう もつ   にっこうさん  さんまいだ   つけらる
文治二年(1186)九月大卅日癸酉。下野國 寒河郡@内の田地十五町を以て、日光山Aの三昧田Bに付被る。

とうぐん  きょねん のぎみや   きしんさる    いへど  くだん じうごちょう  をい  は   こくりょう  きりあらた らる  べ  のよし  うんぬん
當郡は去年野木宮Cに寄進被る と雖も、件の十五町に於て者、國領に切改め被る可し之由と云々。

参考@寒河郡は、寒川郡(さむかわぐん)で下野国にかつて存在した郡である。1889年(明治22年)4月1日、下都賀郡に編入された。小山市南部、思川西岸にあたる。ウィキペディアから
参考A日光山は、二荒山神社で国衙が信仰していた。
参考B三昧田は、仏道修行の経費捻出用の田。
参考C野木宮は、は、栃木県下都賀郡野木町大字野木に野木神社寿永2年(1183)2月23日小山朝政が志田義廣と戦った時に隠れた。

現代語文治二年(1186)九月大三十日癸酉。下野国(栃木県)寒川郡内の田んぼ十五町(15ha)を、日光山(二荒山神社)の仏道修行系費用の田として与えました。この寒川郡は、去年野木神社に寄付したのですが、その十五町は国衙領に切り離して扱うようにとのことなんだとさ。

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吾妻鏡入門第六巻

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