吾妻鏡入門第六巻

文治二年(1186)十二月小

文治二年(1186)十二月小一日甲戌。千葉介常胤自下総國參上。今日献盃酒。二品出御西侍上。常胤。朝政。善信。義實。遠元。盛長已下宿老多以候其座。縡及數巡。爪醺十分。常胤起座舞踏。善信盡郢曲。歌催馬樂云々。

読下し              きのえいぬ  ちばのすけつねたねしもうさのくによ さんじょう  きょうはいしゅ  けん
文治二年(1186)十二月小一日甲戌。千葉介常胤下総國自り參上す。今日盃酒を献ず。

にほんにし さむらい かみ しゅつご   つねたね ともまさ  ぜんしん よしざね  とおもと もりなが いか  しゅくろうおお もつ  そ   ざ  そうら
二品西の侍の上へ出御す。常胤、朝政、善信、義實、遠元、盛長已下の宿老多く以て其の座に候う。

ことすうじゅん およ   つめじうぶん ひた   つねたね ざ  た  まいおど    ぜんしんえいきょう つく    さいばら  うた    うんぬん
縡數巡に及び、爪十分を醺す。常胤座を起ち舞踏る。善信郢曲を盡し、催馬樂を歌うと云々。

現代語文治二年(1186)十二月小一日甲戌。千葉介常胤が、領地の下総国(千葉県千葉市)から鎌倉へ参りました。今日、お酒を勧めました。頼朝様は、西の武士の詰め所(侍所)へお出になられました。千葉介常胤、小山四郎朝政、大夫属入道三善善信、岡崎四郎義実、足立右馬允遠元、藤九郎盛長などの経験を積んだ年配者の大物達がご相伴に預かりました。盃を何度か重ねて、すっかり酔いがまわりました。千葉介常胤が座から立ち上がって舞踊りました。大夫属入道三善善信は流行り歌の郢曲を歌い、催馬楽と呼ばれる民謡を雅楽風に編曲したものまで歌いましたとさ。

文治二年(1186)十二月小六日己夘。御臺所御參鶴岡。有神樂。巫女職掌面々給祿云々。

読下し                 つちのとう  みだいどころつるがおか ぎょさん  かぐら あ    みこ しきしょう めんめん ろく  たま      うんぬん
文治二年(1186)十二月小六日己夘。御臺所鶴岡へ御參す。神樂有り。巫女職掌@面々に祿を給はると云々。

参考@職掌は、雅楽を奏でる人。

現代語文治二年(1186)十二月小六日己夘。御台所政子様が、鶴岡八幡宮へお参りをなされました。お神楽を奉納なされ、巫女や雅楽師の職掌に褒美を与えられましたとさ。

文治二年(1186)十二月小十日癸未。肥前國鏡社宮司職事。以草野次郎大夫永平被定補。是且任相傳。且被優奉公勞云々。」今日。藤原遠景爲鎭西九國奉行人。又給所々地頭職等云々。

読下し               みずのとひつじ ひぜんのくにかがみしゃ ぐうじ しきじ  くさののじろうたいふながひら もつ  さだ  ぶさる
文治二年(1186)十二月小十日癸未。肥前國鏡社@宮司の職事A、草野次郎大夫永平Bを以て定め補被る。

これ かつう そうでん  まか   かつう  ほうこう  ろう  ゆうぜら   うんぬん
是、且は相傳に任せ、且は奉公の勞に優被ると云々。」

きょう  ふじわらのとおかげ ちんぜいきゅうこくぶぎょうにん な   また しょしょ   ぢとうしき ら   たま     うんぬん
今日、藤原遠景を鎭西九國奉行人と爲す。又、所々の地頭職等を給はると云々。

参考@鏡社は、佐賀県唐津市南城内3-13唐津神社で神功皇后が新羅遠征の海路の安全を祈願し、凱旋時に捧げたと伝えられる宝鏡を発見し祀ったのが始まりと伝えられる古社。
参考A職事は、蔵人の頭。なので、事務所の長官らしい。この場合は宮司を管理する立場であろう。当然神社に納められる年貢も取り扱うであろう。
参考B草野次郎永平は、文治二年閏七月二日条に推挙され、文治二年八月六日条で在国司押領使を任命。同七日条で別な褒美をと云ってるので、その結果らしい。

現代語文治二年(1186)十二月小十日癸未。肥前国鏡社宮司の取締役に、草野次郎大夫永平を任命しました。これは、一つは先祖代々の慣習に従い、一つは、奉公のご恩として特に与えられたんだそうだ。
話し変って、今日、藤原天野遠景を九州平定司令官に任命しました。その外に、あちこちの地頭職も与えましたとさ。

文治二年(1186)十二月小十一日甲申。去年同意行家義顯等之凶臣事。依二品御欝陶。或被解却見任。或被下配流 官苻訖。其中。前廷尉知康殊現奇恠之間。被憤申之處。稱可陳申。所參向關東也。何樣可被沙汰哉。可随 勅定之旨。可被申京都之由云々。

読下し                   きのえさる  きょねん ゆきいえ よしあきら  どうい の きょうしん  こと  にほん   ごうっとう   よつ
文治二年(1186)十二月小十一日甲申。去年、行家、義顯等に同意之凶臣の事、二品の御欝陶に依て、

ある    げんにん げきゃくされ  ある   はいる   かんぷ  くだされをはんぬ
或ひは見任を解却被、或ひは配流の官苻を下被訖。

そ なか さきのていじょうともやす こと  きっかい あらは のかん  いか  もうさる  のところ  ちん  もう  べ     しょう   かんとう  さんこう   ところなり
其の中、前廷尉知康、殊に奇恠を現す之間、憤り申被る之處、陳じ申す可しと稱し、關東へ參向する所也。

いかよう   さた さる  べ   や ちょくじょう したが べ   のよし   きょうと  もうさる  べ   のよし  うんぬん
何樣に沙汰被る可き哉。勅定に随う可し之旨、京都へ申被る可き之由と云々。

現代語文治二年(1186)十二月小十一日甲申。去年、行家、義顕(義経)に味方をしているとんでもない公卿達の事を、二品頼朝様のお怒りによって、ある人は現職を解任され、又ある人は流罪の太政官布告を渡されてしまいました。その中で前廷尉鼓判官平知康は、特にけしからん行動をしたので、怒って申し入れたのですが、弁解をするために、関東へ出向いてきたいと云っております。しかし、「どう裁くかは、京都朝廷に預ける」と云ってやれとのことでしたとさ。

文治二年(1186)十二月小十五日戊子。當時。比企藤内朝宗已下御家人差置郎從等於南都。守聖弘得業坊。是爲尋義顯也。而去比。山階寺別當僧正企參洛。此事已可爲一寺滅亡基歟。早可尋索之趣申請之由。右武衛所被申送也。

読下し                   つちのえね  とうじ  ひきのとうないともむね いか ごけにん   ろうじゅうら を なんと  さし お     しょうこうとくごうぼう  まも
文治二年(1186)十二月小十五日戊子。當時、比企藤内朝宗已下御家人、郎從等於南都に差置き、聖弘得業坊を守る。

これ  よしあき  たず   ためなり  しか   さんぬ ころ やましなでら べっとうそうじょう さんらく くはだ
是、義顯を尋ねる爲也。而るに去る比、山階寺@別當僧正A參洛を企つ。

こ  ことすで  いちじ めつぼう  もとたる べ  か  はや  たず もと    べ  のおもむき もう   う      のよし  うぶえい もう   おくらる  ところなり
此の事已に一寺滅亡の基爲可き歟。早く尋ね索める可し之趣、申し請くる之由、右武衛申し送被る所也。

参考@山階寺は、藤原鎌足の夫人が鎌足の病気平癒のため創建。後に藤原京、平城京と動き、現在の興福寺となる。奈良県奈良市登大路町48番地。
参考A別當僧正は、信円で摂関家藤原忠通の息子。九条兼実や慈円と異母兄弟。

現代語文治二年(1186)十二月小十五日戊子。現在、比企藤内朝宗を始めとする御家人と、その子分達を南都奈良へ派遣駐留させて、聖弘得業の住まいの坊を見張らせています。それは、義顕(義経)を見つけるためです。それなのに山階寺(興福寺)長官の僧正信円は京都朝廷へ訴えに行きました。このような武士の行為は、自治権の侵害(不入の権利)ではないか。早くよそへ行って捜索をするように、申し入れてきたと、右武衛一条能保様が云ってよこしました。

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