吾妻鏡入門第七巻

文治三年(1187)五月小

文治三年(1187)五月小五日丙午。鶴岡神事也。御臺所御參云々。

読下し                   つるがおか しんじなり  みだいどころ ぎょさん   うんぬん
文治三年(1187)五月小五日丙午。鶴岡の神事也。御臺所 御參すと云々。

現代語文治三年(1187)五月小五日丙午。鶴岡八幡宮の端午節句の神事です。御台所政子様がお参りに行かれましたとさ。

文治三年(1187)五月小八日己酉。為土佐冠者希義主追善。於彼墳墓。被建一箇梵宇。以介良庄恒光名并津崎在家。御寄附先訖。而今日又有沙汰。供料米六十八石。為毎年役被施之。若令不足者。引募庄内乃貢。可沙汰渡琳猷上人。於事可施芳志之由。被仰遣源内民部太夫行景〔于時介良庄地頭兼預所也〕。

読下し                    とさのかじゃまれよし ぬし  ついぜん ため  か  ふんぼ  をい    いっこ  ぼんう   たてらる
文治三年(1187)五月小八日己酉。土佐冠者希義@主の追善の為、彼の墳墓に於て、一箇の梵宇を建被る。

けらのしょう つねみつみょう なら   つさき  ざいけ   もっ    ごきふ さき をはんぬ  しか    きょう また さた あ
介良庄A恒光名 并びに津崎の在家を以て、御寄附先Bに訖。而るに今日又沙汰有り。

くりょうまいろくじうはっこく   まいねん  えき  な   これ  ほどこさる   も   ふそく せし  ば   しょうない のうぐ  ひきつの    りにゅうしょうにん   さた  わた  べ
供料米六十八石、毎年の役と為し之を施被る。若し不足令め者、庄内の乃貢を引募り、琳猷上人に沙汰し渡す可し。

こと  をい  ほうし  ほどこ べ   のよし  げんないみんぶたいふゆきかげ  おお  つか  さる    〔ときに けらのしょうぢとうけんあずかりどころ なり〕
事に於て芳志を施す可し之由、源内民部太夫行景に仰せ遣は被る。〔時于介良庄地頭兼預所C也〕

参考@土佐冠者希義は、頼朝の同母弟。その墓所は、高知市介良乙に源希義神社とその近くに西養寺跡(廃寺)がある。なお、同地点を記憶して、グーの地図の検索で1km以下の地図だと神社名が出ている。
参考A介良庄は、高知県高知市介良。
参考B寄附先には、四巻元暦二年五月二日に万雑公事を免除し琳猷上人にあてがっている。
参考C地頭兼預所は、地頭は鎌倉幕府からの任命で治安維持の軍事警察権&そのための徴税権、預所は本所か領家からの任命で現地徴税権者。但し、別人の場合は、地頭が武力で預所の権限を侵して行く。

現代語文治三年(1187)五月小八日己酉。頼朝様の同母弟の土佐冠者希義の死後を弔うために、彼のお墓に一軒のお堂を建ててあります。介良庄(高知市介良)恒光名津崎の農作民の在家の年貢を宛がいました。それでも、今日新たに決められたのが、供養の儀式の費用として供料米六十八石(1石150kgなので約10トン)を、毎年の役目として与える事にしました。若し足りない時には、介良庄の年貢から差し引いて、琳猷上人へ(現地民を)指図をして渡す事。実施の際は(仏様への奉仕なので)心を込めて丁寧にするように、源内民部太夫行景に命令を出されました。〔この時の介良庄の地頭兼務預所なのです〕

文治三年(1187)五月小十三日甲寅。閑院皇居。去々年七月。大地震動之時破壞。可被加修造之由。有其沙汰。而彼時倒傾殿舎。同冬比被引直之處。C凉殿東西六箇間役。雖被宛參河守〔範頼〕无沙汰。而參向關東之由。有傳申二品之者。仍乍浴朝恩。懈緩國役。太无謂。可有罪科之由。以此次被仰。參州殊恐申。今度造營之時。可勵微力云々。

読下し                     かんいんこうきょ  おととし しちがつ  だいち しんどうのときはかい    しゅうぞう くは  らる  べ   のよし   そ   さた あ
文治三年(1187)五月小十三日甲寅。閑院皇居@去々年七月。大地震動之時破壞し、修造を加へ被る可し之由、其の沙汰有り。

しか    か   ときでんしゃとうけい    おな    ふゆ  ころひきなおされ のところ  せいりょうでん とうざいろっかけん やく  みかわのかみ 〔のりより〕  あてらる    いへど    さた な
而るに彼の時殿舎倒傾す。同じき冬の比引直被る之處、C凉殿の東西六箇間の役、參河守〔範頼〕に宛被ると雖も、沙汰无し。

しか    かんとう  さんこうのよし  にほん  つた  もう  のもの あ     よっ  ちょうおん よく  なが    くにやく  けかん        はなは  いは  な
而して關東へ參向之由、二品に傳へ申す之者有り。仍て朝恩に浴し乍ら、國役を懈緩するは、太だ謂れ无し。

ざいか あ   べ  のよし  こ  ついで  もっ  おお  らる   さんしゅうこと  おそ  もう    このたび  ぞうえいのとき  びりょく  はげ  べ    うんぬん
罪科有る可き之由、此の次を以て仰せ被る。參州殊に恐れ申し、今度の造營之時、微力を勵む可しと云々。

参考@閑院皇居は、平安末期からの里内裏で、二条大路南、西洞院通り東。

現代語文治三年(1187)五月小十三日甲寅。天皇の里内裏が、一昨年七月の大地震で壊れた所を、修理するように決めました。しかし、その時に建物が傾いてしまいました。同じ年の冬までに引き直させる所、天皇の居所の清涼殿(九間ふたま)の東西六間の修理役を、源参河守範頼に割り当てられましたが、やっていません。そのまま関東へ来てしまったので、頼朝様に言いつけてきた者がおります。それなので、京都朝廷から官職をもらいながら、国に宛てられた役務を怠けているのは、何と言うことだ。罰を与える事になるぞと、それとなく命じられました。源参河守範頼は恐れ入って、今度こそ僅かな力では御座いますが、懸命に尽くしますのでと謝りましたとさ。

文治三年(1187)五月小十五日丙辰。大和守重弘自京都參着。 上皇御惱事。已令復本御。依此御事。去月三日被行非常赦。但伊豫守義顯并縁坐衆者被除之由申之。

読下し                     やまとのかみしげひろ きょうとよ  さんちゃく   じょうこう ごのう こと  すで  ふくほんせし  たま
文治三年(1187)五月小十五日丙辰。 大和守重弘 京都自り參着す。上皇御惱の事、已に復本令め御う。

こ   おんこと  よっ    さんぬ つきみっか ひじょうしゃ おこなはれ  ただ  いよのかみよしあきなら   えんざ  しゅうはのぞかれ  のよし  これ  もう
此の御事に依て、去る月三日非常赦を行被る。但し伊豫守義顯并びに縁坐の衆者除被る之由、之を申す。

現代語文治三年(1187)五月小十五日丙辰。大和守山田重弘が京都から到着しました。後白河上皇の病はもう、治りました。この目出たい出来事があったので、先日三日に臨時の恩赦を行われました。但し、伊予守義顕(源九郎義経)とその関係者の罪には適用しませんでした。と報告しました。

文治三年(1187)五月小廿日辛酉。藤原行政為使節下向常陸國。是鹿嶋社領名主貞家押領御寄進地之旨。御物忌依訴申之。為廣元奉行。日來有其沙汰。為沙汰付之。所被差遣也。

読下し                   ふじわらのゆきまさ しせつ  な   ひたちのくに げこう
文治三年(1187)五月小廿日辛酉。 藤原行政 使節と為し常陸國へ下向す。

これ  かしましゃりょう  みょうしゅさだいえ  ごきしん   ち   おうりょう   のむね  おんものいみ これ  うった  もう    よっ    ひろもとぶぎょう  な     ひごろ そ   さた あ
是、鹿嶋社領の名主貞家、御寄進の地を押領する之旨、御物忌 之を訴へ申すに依て、廣元奉行と為し、日來其の沙汰有り。

これ   さた   つ    ため  さ   つか  さる ところなり
之を沙汰し付けん為、差し遣は被る所也。

現代語文治三年(1187)五月小二十日辛酉。主計允藤原行政は、派遣員として常陸国(茨城県)へ出張しました。その用事は、鹿島神社の領地の管理人貞家が、鹿島神社へ寄付している土地の年貢を横取りしたと、神職が訴えてきたので、大江広元が担当して、幕府で決定がされました。それを現地で実施させるため、出張させたのです。

文治三年(1187)五月小廿六日丁夘。宇治藏人三郎義定代官押領伊勢國齋宮寮田櫛田郷内所處云々。可被糺明之旨。自 仙洞被仰下之。即被尋問義定之處。在鎌倉既及多年之間。不知彼國子細。可召進眼代之由謝申之。而懷理訴者。追可言上歟。今臨群行之期。武家之輩押領件式田之上者。乍含勅定。不行其科者。似輕御旨。仍被収公義定恩地云々。

読下し                     うじのくらんどさぶろうよしさだ  だいかん  いせのくにさいぐうりょうでんくしだごうない  しょしょ  おうりょう   うんぬん
文治三年(1187)五月小廿六日丁夘。宇治藏人三郎義定が代官、伊勢國齋宮寮田櫛田郷内の所處を押領すと云々。

きゅうみょうさる べ  のむね  せんとうよ   これ  おお  くださる
糺明被る可き之旨、仙洞自り之を仰せ下被る。

すなは よしさだ  たず とわれ  のところ  かまくら  あ       すで  たねん  およ  のかん  か   くに  しさい  しらず
即ち義定に尋ね問被る之處、鎌倉に在ること既に多年に及ぶ之間、彼の國の子細を知不。

もくだい  め   しん  べ   のよし これ  しゃ  もう    しか     りそ   なつ  ば   おっ  ごんじょうすべ  か
眼代を召し進ず可き之由之を謝し申す。而して理訴を懷か者、追て言上可き歟。

いまぐんこうのご   のぞ    ぶけのやからくだん  しきでん  おうりょう    のうえは  ちょくじょう ふく  なが    そ   とが  おこな ずんば  おんむね かろ        に
今群行之期に臨み、武家之輩件の式田を押領する之上者、勅定を含み乍ら、其の科に行は不者、御旨を輕んずるに似たり。

よっ  よしさだ  おんち  しゅうこうさる   うんぬん
仍て義定の恩地を収公被ると云々。

参考@齋宮は、天皇の名代として伊勢神宮に遣わされた皇女。また、その居所。天皇が即位すると未婚の内親王または女王から選ばれ、原則として譲位まで仕えた。一四世紀の後醍醐天皇の代まで続いた。斎王。いつきのみや。いみみや。Goo電子辞書から

現代語文治三年(1187)五月小二十六日丁夘。宇治蔵人波多野三郎義定の代官が、伊勢国にある京都朝廷の斎宮寮の田で、櫛田郷の中の分を横取りしました。直ぐに調べて明らかにするように、後白河法皇から云って来られました。直ぐに波多野三郎義定に訪ねて問い合わせてみたら、当人は「鎌倉に居るのが長くなりましたので、現地の詳しい事情は分かりません。代官を呼びつけますので」と誤りました。それで、裁決に必要なら後で申し上げますよ。今、事件がおきている時なのに、武家の連中が神社の式田を横取りした事は、朝廷からの訴えを承知しながら何も罰しなければ、天皇家の命令を軽く扱っているようなものである。それなので、波多野三郎義定に新しく与えた領地を、取上げましたとさ。

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