吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉八月大

文治五年(1189)八月大七日甲午。二品着御于陸奥國伊逹郡阿津賀志山邊國見驛。而及半更雷鳴。御旅館有霹靂。上下成恐怖之思云々。泰衡日來聞二品發向給事。於阿津賀志山。築城壁固要害。國見宿与彼山之中間。俄搆口五丈堀。堰入逢隈河流柵。以異母兄西木戸太郎國衡爲大將軍。差副金剛別當秀綱。其子下須房太郎秀方已下二万騎軍兵。凡山内三十里之間。健士充滿。加之於苅田郡。又搆城郭。名取廣瀬兩河引大繩柵。泰衡者陣于國分原。鞭楯。亦栗原。三迫。黒岩口。一野邊。以若九郎大夫。余平六已下郎從爲大將軍。差置數千勇士。又遣田河太郎行文。秋田三郎致文。警固出羽國云々。入夜。明曉可攻撃泰衡先陣之由。二品内々被仰合于老軍等。仍重忠召所相具之疋夫八十人。以用意鋤鍬。令運土石。塞件堀。敢不可有人馬之煩。思慮已通神歟。小山七郎朝光退御寢所邊〔依爲近習祗候〕相具兄朝政之郎從等。到于阿津賀志山。依懸意於先登也。

読下し                     にほん  むつのくに だてぐん  あつかしやま へん  くにみのうまやに ちゃくご
文治五年(1189)八月大七日甲午。二品、陸奥國伊逹郡阿津賀志山@邊の國見驛于着御。

しか   はんそう  およ  らいめい  ごりょかん  へきれきあ     じょうげきょうふのおもい  な   うんぬん
而るに半更に及び雷鳴。御旅館に霹靂有り。
上下恐怖之思を成すと云々。

やすひら  ひごろ にほん はっこう  たま  こと  き      あつかしやま     をい    じょうへき きづ  ようがい  かた
泰衡、日來二品發向し給ふ事を聞き、阿津賀志山に於て、城壁を築き要害を固む。

くにみしゅく と か  やまの ちゅうかん  にはか くちごじょう  ほり  かま    あぶくまがわ なが   せき い  さく
國見宿与彼の山之中間に、俄に口五丈の堀を搆へ、逢隈河の流れを堰入れ柵とす。

いぼけい   にしきどのたろうくにひら   もつ  だいしょうぐん な   こんごうにべっとうひでつな そ  こ かすほのたろうひでかた いか にまんき   ぐんぴょう  さ   そ
異母兄の西木戸太郎國衡Aを以て大將軍と爲し、金剛別當秀綱、其の子下須房太郎秀方已下二万騎の軍兵を差し副える。

およ  さんないさんじゅうりのかん  けんしじゅうまん   これ  くは  かったぐん  をい    またじょうかく  かま    なとり   ひろせ  りょうかわ おおつな  ひ   さく
凡そ山内三十里之間、健士充滿す。之に加へ苅田郡Bに於て、又城郭を搆へ、名取、廣瀬の兩河に大繩を引きC柵とす。

やすひらは  こくぶがはら むちたて にじん
泰衡者、國分原の鞭楯D于陣す。

また  くりはら さんのはざま くろいわぐち いちの へん  わかくろうだいぶ   よへいろく いか   ろうじゅう  もつ  だいしょうぐん な     すうせん ゆうし    さしお
亦、栗原E、三迫F、黒岩口G、一野H邊に、若九郎大夫、余平六已下の郎從を以て大將軍と爲し、數千の勇士を差置く。

また たがわのたろうゆきふみ あいだのさぶろうむねふみ つか     ではのくに  けいご     うんぬん
又、田河太郎行文I、秋田三郎致文を遣はし、出羽國を警固すと云々。

よ    い    みょうぎょうやすひら せんじん こうげきすべ のよし にほんないない  ろうぐんらに おお あわ  らる
夜に入り、明曉泰衡の先陣を攻撃可し之由、二品内々に老軍等于仰せ合せ被る。

よつ  しげただ  あいぐ  ところのひっぷはちじゅうにん め    ようい  すきくわ  もつ     どせき   はこ  せし    くだん ほり  ふさ
仍て重忠が相具す所之疋夫八十人を召し、用意の鋤鍬を以て、土石を運ば令め、件の堀を塞ぐ。

あえ  じんばの わずら あ   べからず  しりょすで  かみ  つう    か
敢て人馬之煩ひ有る不可。思慮已に神に通ずる歟。

おやまのしちろうともみつごしんじょへん の      〔きんじゅうた   よつ   しこう    〕  あに ともまさのろうじゅうら  あいぐ      あつかしやま  に いた
小山七郎朝光御寢所邊を退き、〔近習爲るに依て祗候す〕兄朝政之郎從等を相具し、阿津賀志山于到る。

い を せんと   かけ   よつ  なり
意於先登に懸るに依て也。

参考@阿津賀志山は、福島県伊達郡国見町西大枝原前に史跡〔阿津賀志山防塁〕あり。
参考A
西木戸太郎國衡は、錦戸。
参考B
苅田郡は、白石市。
参考C河に大繩を引きは、馬が足を引っ掛け泳いで渡れないようにする。
参考D
國分原の鞭楯は、仙台市宮城野区五輪の榴岡公園あたりに公共機関が集中している。
参考E栗原は、宮城県栗原市築館(築館薬師台の双林寺に平安時代の薬師如来有)。
参考F三迫は、サンノハザマと読み栗原市金成に小迫の地名有、又三迫川の名あり、なお志波姫からの川が一迫川で栗駒泉沢からが二迫川で三川が合流すると迫川になり、下流で旧北上川と合流する。
参考G黒岩口は、栗原市栗駒か宮城県白石市鷹巣黒岩下。
参考H一野は、宮城県白石市越河市野か。
参考I
田河太郎行文は、山形県鶴岡市。

現代語文治五年(1189)八月大七日甲午。頼朝様は、福島県伊達郡国見町厚樫山の国見宿へ到着なさいました。それなのに真夜中になって雷が鳴りました。旅館の近所に雷が落ちたらしく、縁起の悪いことだと皆で心配をしましたとさ。
泰衡は前もって、頼朝様が東北へ向けて出発したことを聞いて、厚樫山に砦を築いて要塞化して、国見宿と厚樫山との間に五丈(全幅15m)の堀を掘って阿武隈川の流れに堰を作り、そこから水を引き込んで、母違いの兄の
西木戸太郎國衡を大将に、金剛別當秀綱その子の下須房太郎秀方以下二万騎の軍隊を派遣しました。
およそ、厚樫山の三十里(18km
(七里ガ浜同様一里を六町600mとして計算))程に元気な兵隊が充満しています。これだけではなく、刈田郡でも、砦を築いて、名取川と広瀬川に大縄を張って、馬が渡れないようにしました。
泰衡は
国分原の鞭楯(仙台市
榴岡)に本陣を置きました。又、栗原、金成、黒岩口、市野の辺りに若九郎大夫。余平六たちを將軍として数千の軍隊を布陣させました。又、田河太郎行文、秋田三郎致文等を行かせて山形、秋田を守らせましたとさ。
夜になって、明日の朝に泰衡軍の先方(厚樫山)を攻撃するように秘密裏にベテランの兵達に命令をされました。そこで、畠山次郎重忠が連れて来た工兵80人に準備をさせ、鋤や鍬で土や石を運んで厚樫山の堀を埋めて、人馬の攻撃の妨げにならないように、配慮する考えは神様が味方したのかも知れませんね。
小山七郎朝光は頼朝様の寝室のそばを離れ〔そば仕えなのでいました〕兄の小山四郎朝政の部下達を従えて、厚樫山へ向かいました。これは一番乗りの手柄を立てたいからです。

説明安津賀志山防塁は、福島県伊達郡国見町に二段の土塁が残っている。写真は現在の防塁跡と福島県立博物館の安津賀志山防塁合戦ジオラマ

 

文治五年(1189)八月大八日乙未。金剛別當季(秀)綱率數千騎。陣于阿津賀志山前。夘剋(明け六つ)。二品先試遣畠山次郎重忠。小山七郎朝光。加藤次景廉。工藤小次郎行光。同三郎祐光等。始箭合。秀綱等雖相防之。大軍襲重。攻責之間。及巳剋。賊徒退散。秀綱馳歸于大木戸。告合戰敗北之由於大將軍國衡。仍弥廻計畧云々。又泰衡郎從信夫佐藤庄司〔又号湯庄司。是繼信忠信等父也〕相具叔父河邊太郎高經。伊賀良目七郎高重等。陣于石那坂之上。堀湟懸入逢隈河水於其中。引柵。張石弓。相待討手。爰常陸入道念西子息常陸冠者爲宗。同次郎爲重。同三郎資綱。同四郎爲家等潜相具甲冑於秣之中。進出于伊逹郡澤原邊。先登發矢石。佐藤庄司等爭死挑戰。爲重資綱爲家等被疵。然而爲宗殊忘命。攻戰之間。庄司已下宗者十八人之首。爲宗兄弟獲之。梟于阿津賀志山上經岡也云々〕今日早旦。於鎌倉。專光房任二品之芳契。攀登御亭之後山。始梵宇營作。先白地立假柱四本。授觀音堂之号。是自御進發日。可爲廿日之由。雖蒙御旨。依夢想告如此云々。而時尅自相當于阿津賀志山箭合。可謂奇特云々。

読下し                    こんごうのべっとうひでつな すうせんき ひき     あつかしやま    まえに じん
文治五年(1189)八月大八日乙未。金剛別當秀綱、數千騎を率い、阿津賀志山の前于陣す。

うのこく    にほん ま  こころ  はたけやまのじろうしげただ おやまのしちろうともみつ  かとうじかげかど   くどうのこじろうゆきみつ
夘剋@二品先ず試みに 畠山次郎重忠、 小山七郎朝光、加藤次景廉、工藤小次郎行光、

おな    さぶろうすけみつら つか      やあわ     はじ
同じく三郎祐光等を遣はし、箭合せを始める。

ひでつなら これ あいふせ  いへど   たいぐんおそ かさ    せ    せ     のかん  みのこく  およ    ぞくと たいさん
秀綱等之を相防ぐと雖も、大軍襲い重なり攻めに責むる之間、巳剋に及び、賊徒退散す。

ひでつなおおきどに は   かえ   かっせん はいぼくのよしを だいしょうぐんくにひら つ    よつ いよいよけいりゃく めぐ    うんぬん
秀綱大木戸于馳せ歸り、合戰 敗北之由於 大將軍國衡に告ぐ。仍て 弥 計畧を廻らすと云々。

また  やすひら ろうじゅう しのぶのさとうしょうじ  〔 また  ゆのしょうじ  ごう     これ   つぐのぶ   ただのぶら   ちちなり  〕  おじ かわべのたろうたかつね
又、泰衡が郎從の信夫佐藤庄司A〔又は湯庄司と号す。是は繼信、忠信等の父也〕叔父河邊太郎高經、

い か ら め のしちろうたかしげ ら あいぐ    いしなさか の うえに じん
伊賀良目七郎高重B等を相具し、石那坂C之上于陣す。

ほり  ほ   あぶくまがわ みずを そ   なか  か    い    さく  ひ     いしゆみ は     うつて   あいま
湟を堀り逢隈河の水於其の中へ懸け入れ、柵を引き、石弓を張り、討手を相待つ。

ここ ひたちのにゅうどうねんさい しそく ひたちのかじゃためむね おな  じろうためしげ  おな   さぶろうすけつな
爰に常陸入道念西は子息常陸冠者爲宗、同じく次郎爲重、同じく三郎資綱、

おな   しろうためいえら ひそか かっちゅうを まぐさのなか あいぐ       だてぐん さわはら へんに すす  い    せんと  やせき   はな
同じく四郎爲家等潜に甲冑於秣之中に相具して、伊逹郡澤原D邊于進み出で、先登に矢石を發つ。

さとうのしょうじら  し   あらそ  のぞ  たかか   ためしげ すけつな ためいえら きずせら
佐藤庄司等死を爭ひて挑み戰う。爲重、資綱、爲家等疵被る。

しかれども ためむね こと いのち わす   せ  たたか  のかん  しょうじ いか  むねと   もの じゅうはちにんのくび ためむねきょうだいこれ え
然而、爲宗は殊に命を忘れ、攻め戰う之間、庄司已下の宗たる者十八人之首、 爲宗 兄弟之を獲て、

 あつかしさんじょう  きょうがおかに  きょう  なり   うんぬん
阿津賀志山上の經ケ岡于梟す也と云々。

きょう そうたん  かまくら  をい    せんこうぼう にほんの ほうきつ  まか    おんていのうしろやま  よ  のぼ    ぼんう   えいさく  はじ
今日早旦。鎌倉に於て、專光房二品之芳契に任せ、御亭之後山へ攀ぢ登り、梵宇の營作を始める。

ま   しらぢ   かりはしらよんほん た    かんのんどうのごう   さず
先ず白地の假柱四本を立て、觀音堂之号を授く。

これ ごしんぱつ ひ よ     はつかたるべ   のよし   おんむね  こうむ いへど    むそう  つげ  よつ  かく  ごと   うんぬん
是御進發の日自り、廿日爲可し之由、御旨を蒙ると雖も、夢想の告に依て此の如しと云々。

しか    じこく   おの    あつかしやま  やあわせに あいあた     きとく   いひ  べ    うんぬん
而るに時尅、自づと阿津賀志山の箭合于相當る。奇特と謂つ可しと云々。

参考@夘剋は、卯刻で明け六つ。
参考A
信夫佐藤庄司は、佐藤元治で飯坂温泉なので湯の庄司とも言われる。奥の細道では芭蕉が遺跡を訪れ「笈(おひ)も太刀(たち)も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)」と詠っている。
参考B伊賀良目七郎高重は、福島市五十辺。
参考C石那坂は、福島市飯坂の佐藤庄司館の後山の舘ノ山大鳥城らしい。
参考D伊逹郡澤原は、福島県伊達郡桑折町沢?厚樫山から飯坂へ向う事になる。

現代語文治五年(1189)八月大八日乙未。金剛別当秀綱が、数千騎の軍隊を率いて、厚樫山の前に陣を敷きました。
卯の刻(午前六時頃)頼朝様は様子を見るため、畠山次郎重忠、小山七郎朝光、加藤次景廉、工藤小次郎行光、工藤三郎祐光に進軍させ、合戦始めの合図の鏑矢を射合わせさせました。
金剛別当秀綱達はこれを防ぎましたが、あまりの大軍が次々と襲ってくるので、巳刻(午前十時)には、反逆軍は退却しました。
金剛別当秀綱は、大木戸に走って戻り、合戦に負けてしまったと大将軍の大木戸太郎国衡に告げました。それなので、何か作戦を考えましたとさ。
又、泰衡の家来の信夫佐藤庄司〔又は湯の庄司とも呼ばれます。この人は義経の部下の継信、忠信の父です〕と泰衡の叔父川辺太郎高経と伊賀良目七郎高重などを一緒に連れて、石那坂の上に陣を敷きました。堀を掘って阿武隈川の水をその堀に引き入れて、水中に柵を設けて、石弓を用意して待ちました。
この時、常陸入道念西(伊佐時長)、息子の伊佐冠者為宗、次郎為重、三郎資綱、四郎為家達は、そっと鎧兜を秣の中に隠し持って、伊達郡沢原辺に進んでいって、一番先頭に弓箭を発射しました。
佐藤庄司達は、必死で挑戦してきましたので、伊佐為重、伊佐資綱、伊佐為家達は手傷を負わせられました。しかしながら、伊佐為宗は命を惜しまず攻めて行ったので、佐藤庄司を始め主だった人々十八人の首を伊佐兄弟は獲物にして、厚樫山の上の経ケ岡に晒しましたとさ。」

話し変って鎌倉では、今日の早朝に專光坊良暹は、頼朝様との約束どおりに、御所の後ろの山へよじ登り、庵の造作を始めました。まず、さしあたり柱を四本立てて、観音堂と名付けました。その日は、出発から二十日目にせよと命じられましたが、夢のお告げがあったので、このように今日にしましたとさ。それがなんと、自然に厚樫山の合戦の合図の矢あわせの時に当たりました。なんとも不思議なことだとさ。

説明石弓について、投石器との説も有るが、1999平成11年6月22日新聞の記事に下記の通りなので、東北地方では未だに保有していたのかもしれない。

実用品の「弩」出土 宮城・築館 青銅製の引き金部分 中国から伝わり、古代日本で弓に似た武器として使われた「弩」の青銅製の部品が、宮城県築館町の伊治城址にある奈良時代から平安時代初頭にかけての住居跡から出土したと、宮城県教委が二十一日発表した。国内では、島根県内の弥生時代の遺跡から先月、出土した木製の弩に次ぐ出土だが、坪井清足・大阪府文化財調査センター理事長によると、「実際に使われたものとしては、今回が初めてだ」という。 弩は洋弓に似た武器で、弓のついた本体の台に矢を装てんし、引き金を引いて発射する。出土したのは「機」という引き金の部分で、大きさは、縦六a、横三・五a、高さ二a。ほとんどが青銅製で、一部に鉄が使われている。同県教委は「中国で出土した弩と同じ構造」とみている。坪井理事長は「当時は青銅が貴重品で、律令政府が回収、リサイクルしていたため、これまでに弩は出土しなかったのだろう。出土地点は兵舎だったと考えられる」と話している。

 

 

文治五年(1189)八月大九日丙申。入夜。明旦越阿津賀志山。可遂合戰之由被定之。爰三浦平六義村。葛西三郎C重。工藤小次郎行光。同三郎祐光。狩野五郎親光。藤澤次郎C近。河村千鶴丸年十三才以上七騎。潜馳過畠山次郎之陣。越此山。欲進前登。是天曙之後。与大軍同時難凌嶮岨之故也。于時重忠郎從成C伺得此事。諌主人云。今度合戰奉先陣。抜群眉目也。而見傍輩所爭。難温座歟。早可塞彼前途。不然者。訴申事由。停止濫吹。可被越此山云々。重忠云。其事不可然。縱以他人之力雖退敵。已奉先陣之上者。重忠之不向以前合戰者。皆可爲重忠一身之勳功。且欲進先登之輩事。妨申之條。非武略本意。且獨似願抽賞。只作惘然。神妙之儀也云々。七騎終夜越峯嶺。遂馳着木戸口。各名謁之處。泰衡郎從部伴藤八已下強兵攻戰。此間。工藤小次郎行光先登。狩野工藤五郎損命。伴藤八者。六郡(奥六郡)第一強力者也。行光相戰。兩人並轡取合。暫雖爭死生。遂爲行光被誅。行光取彼頚付鳥付。差木戸登之處。勇士二騎離馬取合。行光見之。廻轡問其名字。藤澤次郎C近欲取敵之由稱之。仍落合。相共誅滅件敵之。兩人安駕。休息之間。C近感行光合力之餘。以彼息男可爲聟之由。成楚忽契約云々。次C重并千鶴丸等。撃獲數輩敵。亦親能猶子左近將監能直者。當時爲殊近仕。常候御座右。而親能兼日招宮六兼仗國平。談云。今度能直赴戰塲之初也。汝加扶持。可令戰者。仍國平固守其約。去夜。潜推參二品御寢所邊。喚出能直〔上臥也〕相具之。越阿津賀志山。攻戰之間。討取佐藤三秀員父子〔國衡近親郎等〕畢。此宮六者。長井齊藤別當實盛(埼玉県妻沼町)外甥也。實盛属平家。滅亡之後。爲囚人。始被召預于上総權介廣常。々々誅戮之後。又被預親能。而依有勇敢之譽。親能申子細。令付能直云々。

読下し                     よ   い     みょうたん あつかしやま   こ    かっせん  と   べ   のよしこれ  さだ  らる
文治五年(1189)八月大九日丙申。夜に入り。明旦阿津賀志山を越え、合戰を遂ぐ可し之由之を定め被る。

ここ みうらのへいろくよしむら かさいのさぶろうきよしげ くどうのこじろうもちみつ  おな    さぶろうすけみつ かのうのごろうちかみつ ふじさわのじろうきよちか
爰に三浦平六義村、葛西三郎C重、工藤小次郎行光、同じく三郎祐光、狩野五郎親光、藤澤次郎C近、

かわむらのせんつるまる〔としじゅうさんさい〕 いじょう しちき ひそか はたけやまのじろうのじん は   す     こ   やま  こ     せんと  すす      ほつ
河村千鶴丸〔年十三才〕の以上七騎、潜に畠山次郎之陣を馳せ過ぎ、此の山を越え、前登に進まんと欲す。

これ てんあけぼのののち たいぐんと どうじ  けんそ  しの  がた  のゆえなり
是、天曙之後、大軍与同時に嶮岨を凌ぎ難き之故也。

ときに しげただ ろうじゅう なりきよ こ  こと  うかが え     しゅじん  かん    い       このたび  かっせん せんじん たてまつ   ばつぐん びもくなり
時于重忠が郎從の成C此の事を伺い得て、主人に諌じて云はく、今度の合戰に先陣を奉るは、抜群の眉目也。

しか    ぼうはい あらそ ところ  み    おんざ   がた  か   はや  か   ぜんと  ふさ   べ
而るに傍輩の爭う所を見て、温座し難き歟。早く彼の前途を塞ぐ可し。

しからずんば こと  よし  うった もう    らんすい  ちょうじ    こ   やま  こ    らる  べ    うんぬん
不然者、事の由を訴へ申し、濫吹を停止し、此の山を越へ被る可しと云々。

しげただ い      そ   こと しか べからず  たと  たにんのちから  もつ  たいさん   いへど  すで  せんじん たてまつ のうえは
重忠云はく。其の事然る不可。縱ひ他人之力を以て退敵すと雖も、已に先陣を奉る之上者、

しげただのむかはずいぜん かっせんは  みなしげただいっしんのくんこうた  べ
重忠之向不以前の合戰者、皆 重忠一身之勳功爲る可し。

かつう   せんと   すす      ほつ    のやから  こと  さまた もう  のじょう   ぶりゃく   ほい   あらず
且は、先登に進まんと欲する之輩の事、妨げ申す之條、武略の本意に非。

かつう   ひと  ちうしゅう ねが    に       ただ ぼうぜん つく       しんみょうのぎなり   うんぬん
且は、獨り抽賞を願ふに似たり。只惘然を作ること、神妙之儀也と云々。」

しちき  よもすがらほうりょう こ     つい  きどぐち  は    つ
七騎は終夜峯嶺を越え、遂に木戸口に馳せ着く。

おのおの  な の  のところ やすひら ろうじゅう しもべ とものとうはちいか  きょうへい せ たたか
各、名謁る之處、泰衡が郎從の部の伴藤八已下の強兵攻め戰う。

こ   かん  くどうのこじろうゆきみつ せんと    かのうのくどうのごろう  いのち  おと
此の間、工藤小次郎行光先登す。狩野工藤五郎は命を損す。

とものとうはちは りくぐん だいいち  ごうりき  ものなり  ゆきみつあいたたか りょうにんくつわ なら と   あ
伴藤八者、六郡@第一の強力の者也。行光相戰ひ、兩人轡を並べ取り合う。

しばら ししょう   あらそ   いへど   つい  ゆきみつ  ためちうさる
暫く死生を爭うと雖も、遂に行光の爲誅被る。

ゆきみつ  か   くび  と   とっつけ  つ     きど   さ     のぼ  のところ   ゆうし にき うま  はな  と   あ
行光、彼の頚を取り鳥付Aに付け、木戸を差して登る之處。勇士二騎馬を離れ取り合う。

ゆきみつこれ  み    くつわ めぐ    そ   みょうじ  と     ふじさわのじろうきよちかてき  と       ほつ    のよし これ  しょう
行光之を見て、轡を廻らし其の名字を問ふ。藤澤次郎C近敵を取らんと欲する之由之を稱す。

よつ  おちあ    あいとも くだん てきこれ  ちうめつ
仍て落合い、相共に件の敵之を誅滅す。

りょうにん が やす      きゅうそくのかん きよちかゆきみつ ごうりき かん    のあまり   か   そくなん  もつ  むこ  な   べ   のよし
兩人駕を安んじ、休息之間、C近行光の合力を感ずる之餘、彼の息男を以て聟と爲す可し之由、

そこつ  けいやく  な    うんぬん
楚忽に契約Bを成すと云々。」

参考@六郡は、奥六郡。
参考A
鳥付は、馬の鞍の後輪(しずのわ)に尻懸(しりがい)を結ぶ鞖(しおで)の部分らしい。
参考B楚忽に契約は、この婿入りにより諏訪一族は工藤に支配権を譲り、工藤は義時の被官化していくと、諏訪一族も得宗家の被官となっていく。

つい  きよしげなら   せんつるまるら  すうやから てき  う   え
次でC重并びに千鶴丸等、數輩の敵を撃ち獲る。」

また  ちかよし  ゆうし さこんしょうげんよしなおは  とうじ こと     きんじ    な     つね  おんざう   そうら
亦、親能の猶子左近將監能直C者、當時殊なる近仕と爲し、常に御座右に候ふ。

しか    ちかよし  けんじつきゅうろくけんじょうくにひら まね   だん   い
而るに親能、兼日 宮六兼仗國平を招き、談じて云はく。

このたび  よしなお せんじょう おもむ  のはじ なり  なんじ ふち  くは   たたか せし  べ   てへ
今度、能直は戰塲に赴く之初め也。汝扶持を加へ、戰は令む可し者り。

よつ くにひら かた そ   やく  まも    さんぬ よ  ひそか にほん  ごしんじょへん  すいさん    よしなお 〔うわぶせ なり〕   よ   だ   これ  あいぐ
仍て國平固く其の約を守り、去る夜、潜に二品の御寢所邊へ推參し、能直〔上臥D也〕を喚び出し之を相具し、

  あつかしやま    こ     せ  たたか のかん  さとうざひでかず  ふし  〔くにひらきんしんろうとう〕  う    と  をはんぬ
阿津賀志山を越え、攻め戰う之間、佐藤三秀員父子〔國衡近親郎等〕を討ち取り畢。

このきゅうろくは  ながいのさいとうのべっとうさねもり がいせいなり
此宮六者、 長井齊藤別當實盛Eの外甥也。

さねもり へいけ ぞく    めつぼうののち  めしうど  な     はじ  かずさごんのすけひろつねに め あず らる
實盛平家に属し、滅亡之後、囚人と爲し、始め上総權介廣常于召し預け被る。

ひろつね ちうりくののち また  ちかよし  あず  らる    しか    ゆうかんのほまれあ   よつ    ちかよし しさい  もう    よしなお  つ   せし   うんぬん
々々誅戮之後、又、親能に預け被る。而るに勇敢之譽有るに依て、親能子細を申し、能直に付け令むと云々。

参考C能直は、大友氏で小田原市東西大友。
参考D上臥は、宿直。
参考E
長井齊藤別當實盛は、埼玉県妻沼町。

現代語文治五年(1189)八月大九日丙申。夜になって、明日の朝早く厚樫山を越えて、合戦をするようにお決めになられました。
そしたら、三浦平六義村、葛西三郎清重、工藤小次郎行光、工藤三郎祐光、狩野五郎親光、藤沢次郎清近、河村千鶴丸(後の
河村四郎秀清)の全部で七騎が、内緒で畠山次郎重忠の陣を追い越して、この山を越えて先頭に進もうと考えました。それは、夜が明けた後では、大軍と一緒になり、険しい山道を越えて抜け駆けがしにくいからなのです。
それを重忠の部下の成清が感づいて、主人に諫言しました。「この戦争の一番先頭を命じられたのは、抜群の名誉です。それなのに、同輩の連中が一番乗りを競っているのを見ていては、安心してはいられません。早く、彼等の前を塞ぎましょうよ。そうしておいて、抜け駆けを訴え出れば、出鱈目を止めてもらい、この山を一番乗りで越える事が出来ます。」重忠は、言いました。「その必要はない。たとえ、他の人達の武力で敵が退散したとしても、先陣は私が承っているのだから、畠山次郎重忠が出張って行く前に興った合戦は、全て重忠の手柄となるであろう。それに、先頭に戦おうとしている連中の邪魔をするのは、武士としての精神にあっては居ない。又、手柄を独り占めしようとしているようである。がつがつせず知らん振りしているに限る。」

七騎は一晩中、山の峯を越えて進み、遂に厚樫山陣地の木戸口に駆けつけました。それぞれ、戦の名乗りを上げたならば、泰衡の配下の侍の下男の伴藤八を始めとする強い軍隊が(木戸を出て)攻めて来ました。この合戦に工藤小次郎行光が一番乗りをしました。狩野工藤五郎は命を落としました。伴藤八は、奥六郡で一番の力持ちなので、工藤行光と両方は馬の轡(くつわ)を並べて互いに相手を組み伏せようとして、暫く戦いましたが、遂に工藤行光に殺されました。
工藤小次郎行光は、彼の首を取って、取付(鞍の後ろの紐)に付けて、木戸を目指して登って行くと、勇壮な武士二騎が馬から降りて取っ組み合って居るのを行光は見て、馬の轡
(くつわ)をそちらへ向けながら、誰なんだと名を聞きました。藤沢次郎清近が敵の首を取ろうとしているんだと答えましたので、寄って行って一緒に敵をやっつけてしまいました。そして、二人そろって手綱を緩めて休憩をしている間に、藤沢次郎清近は工藤小次郎行光の手助けに感謝する余り、行光の息子を婿に貰おうと、いとも軽率な約束をしてしまいましたとさ。」

葛西三郎清重と河村千鶴丸達は、数人の敵を討ち取りました。」

又、中原親能の養子の大友左近将監能直は、現在、特別なお側役として、常に頼朝様のそばに仕えています。それでも、中原親能が兼ねて宮六{仗近藤七国平を呼んで言って置いたのは、「大友能直は、合戦に出るのは、今度が初めてなので、あんたが宜しく面倒を見て、戦わせて下さい。」と言いました。
それなので、近藤七国平はその約束を守って、昨夜にそっと頼朝様の寝所へ行って、能直〔宿直です〕を呼び出して一緒に連れて、厚樫山を越えて、攻めたので、佐藤三秀員親子〔西木戸太郎国衡の近親で家来〕を討ち取ってしまいました。この宮六{仗近藤七国平は、長井斉藤別当実盛の外の甥っ子です。実盛が平家について滅びてしまったので、預かりめしうどとして、始めは上総権介広常に預けられていました。上総広常が上意討ちで殺された後は、中原親能に預けられました。しかしながら、勇敢だと名声があるので、親能は詳しい事情を頼朝様に話して、大友能直に付けたのです。

文治五年(1189)八月大十日丁酉。夘剋(午前六時)。二品已(予定通りに)越阿津賀志山給。大軍攻近于木戸口。建戈傳箭。然而國衡輙難敗傾。重忠。朝政。朝光。義盛。行平。成廣。義澄。義連。景廉。C重等。振武威弃身命。其鬪戰之聲。響山谷。動郷村。爰去夜小山七郎朝光。并宇都宮左衛門尉朝綱郎從。紀權守。波賀次郎大夫已下七人。以安藤次爲山案内者。面々負甲疋馬。密々出御旅舘。自伊逹郡藤田宿。向會津之方。越于土湯之嵩。鳥取越等。樊登于大木戸上。國衡後陣之山。發時聲飛箭。此間。城中大騒動。稱搦手襲來由。國平已下邊將。無益于搆塞。失力于廻謀。忽以逃亡。于時雖天曙。被霧隔。秋山影暗。朝路跡滑。不分兩方之間。國衡郎從等。漏網之魚類多之。其中金剛別當子息下須房太郎秀方〔年十三〕殘留防戰。駕黒駮馬。敵向髦陣。其氣色掲焉也。工藤小次郎行光欲馳並之剋。行光郎從藤五男。相隔而取合于秀方。此間見顏色。幼稚者也。雖問姓名。敢不發詞。然而一人留之條。稱有子細。誅之畢。強力之甚不似若少。相爭之處。對揚良久云々。又小山七郎朝光討金剛別當。其後退散武兵等。馳向于泰衡陣。阿津賀志山陣大敗之由告之。泰衡周章失度。逃亡赴奥方。國衡亦逐電。二品令追其後給。扈從軍士之中。和田小太郎義盛馳抜于先陣。及昏黒。到于芝田郡大高宮邊。西木戸太郎國衡者。經出羽道。欲越大關山。而今馳過彼宮前路右手田畔。義盛追懸之。稱可返合之由。國衡令名謁。廻駕之間。互相逢于弓手。國衡挟十四束箭。義盛飛十三束箭。其矢。國衡未引弓箭。射融國衡之甲射向袖。中膊之間。國衡者痛疵開退。義盛者又依射殊大將軍。廻思慮搆二箭相開。于時重忠率大軍馳來。隔于義盛國衡之中。重忠門客大串次郎相逢國衡。々々所駕之馬者。奥州第一駿馬〔九寸〕号高楯黒也。大肥満國衡駕之。毎日必三ケ度。雖馳登平泉高山。不降汗之馬也。而國衡怖義盛之二箭。驚重忠之大軍。閣道路。打入深田之間。雖加數度鞭。馬敢不能上陸。大串等弥得理。梟首太速也。亦泰衡郎從等。以金十郎。匂當八。赤田次郎。爲大將軍。根無藤邊搆城郭之間。三澤安藤四郎。飯富源太已下猶追奔攻戰。凶徒更無雌伏之氣。弥結烏合之群。於根無藤与四方坂之中間。兩方進退及七ケ度。然金十郎討亡之後皆敗積。匂當八。赤田次郎已下。生虜卅人也。此所合戰無爲者。偏在三澤安藤四郎兵略者也〕今日於鎌倉。御臺所以御所中女房數輩。有鶴岳百度詣。是奥州追討御祈精也云々。

読下し                    うのこく   にほん すで   あつかしやま    こ   たま
文治五年(1189)八月大十日丁酉。夘剋。二品已に阿津賀志山を越え給ふ。

たいぐん きどぐちに せ  ちか      ほこ  た   や  つた    しかれども くにひら たやす はいけい がた
大軍木戸口于攻め近づき、戈を建て箭を傳ふ。然而、 國衡 輙く敗傾し難し。

しげただ  ともまさ ともみつ  よしもり  ゆきひら なりひろ  よしずみ よしつら  かげかど きよしげら   ぶい   ふる    しんめい す
重忠、朝政、朝光、義盛、行平、成廣、義澄、義連、景廉、C重等、武威を振いて身命を弃つる。

そ   とうせんの こえ  さんや  ひび    ごうそん  ゆる
其の鬪戰之聲、山谷に響き、郷村を動がす。

ここ いんぬ よ おやまのしちろうともみつなら  うつのみやさえもんのじょうともつな ろうじゅう  きいのごんのかみ はがのじろうだいぶ いげしちにん
爰に去る夜小山七郎朝光并びに宇都宮左衛門尉朝綱が郎從、紀權守、波賀次郎大夫已下七人。

あんどうじ  もつ  やま  あないじゃ   な    めんめん よろい ひきうま  お       みつみつ ごりょかん  い
安藤次を以て山の案内者と爲し、面々に甲を疋馬に負はせ、密々に御旅舘を出で、

だてぐん ふじたのしゅく  よ    あいづの かた  むか    つちゆのたけ  とっとりごえらに  こ     おおきど   うえ  くにひらこうじんの やまに よじのぼ
伊逹郡藤田宿@自り、會津之方へ向い、土湯之嵩A、鳥取越B等于越え、大木戸Cの上、國衡後陣之山于樊登り、

とき  こえ  はつ  や   と       こ   かん  じょうちゅうおお  そうどう    からめて おそ  きた   よし   しょう
時の聲を發し箭を飛ばす。此の間、城中大いに騒動す。搦手も襲い來るの由を稱す。

くにひら いか  へんしょう こうさいに えきな   はかりごと めぐ   にちから  うしな  たちま もつ  とうぼう     ときに てんあく   いへど   きり  へだ  らる
國平已下の邊將、搆塞于益無し。謀を廻らす于力を失い、忽ち以て逃亡す。時于天曙ると雖も、霧に隔て被る。

しゅうざんかげくら   ちょうろあとなめら   りょうほう   わ  られずのかん くにひら  ろうじゅうら  あみ  も    のうお  たぐいこれおお
秋山影暗く、朝路跡滑かに、兩方を分け不之間、國衡が郎從等、網を漏る之魚の類之多し。

そ   なか  こんごうのべっとう しそく かすほのたろうひでかた 〔としじゅうさん〕 のこ  とど   ぼうせん   くろぶちうま  が     てき たてがみ む  じん
其の中に金剛別當が子息下須房太郎秀方〔年十三〕殘り留まり防戰す。黒駮馬に駕し、敵に髦を向け陣す。

そ   けしき けちえんなり  くどうのこじろうゆきみつ は   なら      ほつ    のとき   ゆきみつ ろうじゅうとうごおとこ あいへだ てひでかたに と   あ
其の氣色掲焉也。工藤小次郎行光馳せ並ばんと欲する之剋、行光が郎從藤五男。相隔て而秀方于取り合う。

こ   かん がんしょく み       ようち   ものなり  せいめい  と     いへど   あえ ことば はつ ず
此の間顏色を見れば、幼稚の者也。姓名を問うと雖も、敢て詞を發せ不。

しかれども ひとりとど  のじょう   しさいあ     しょう   これ ちう をはんぬ
然而、一人留る之條、子細有りと稱し、之を誅し畢。

ごうりきのはなはだ    じゃくしょう にはわず  あいあらそうのところ たいよう      ややひさ   うんぬん
強力之甚しきこと若少に似不、相爭之處、對揚すること良久しと云々。

参考@伊逹郡藤田宿は、福島県伊達郡国見町。JR藤田駅あり。
参考A土湯嵩は、土湯温泉かと思ったが、後戻りしすぎるのでおかしい。土湯峠はもっと遠いので違うと思う。
参考B鳥取越は、国見町小坂峠へ上ると鳥取股根ケ窪に地名が残るし、阿津賀志山の裏へ出られそうである
参考C
大木戸は、福島県伊達郡国見町の阿津賀志山防塁遺跡仙台側に国見町大木戸区に名が残る。

現代語文治五年(1189)八月大十日丁酉。卯の刻(午前六時頃)、頼朝様はすでに厚樫山を越えられました。

大軍が木戸口を攻め立てながら近づいて行き、鉾や長刀が林立し、矢は雨のように飛んでいます。それでも、西木戸太郎国衡は、おいそれと敗北をしそうもありません。畠山次郎重忠、小山左衛門尉朝政、小山七郎朝光、下河辺庄司行平、成広、三浦介義澄、三浦左衛門尉義連、加藤次景廉、葛西兵衛尉清重達が、武力に任せ、命を顧みず奮戦しました。その戦いの喚き声や叫び声は、山野に響いて、村里を揺るがすほどです。

ここで、七日の晩に小山七郎朝光と兄小山左衛門尉朝政の家来の紀権守、波賀次郎など七人で、安藤次を山道の案内人に頼んで、それぞれが鎧兜を馬の背に乗せて引きながら、内緒で旅館を出て伊達郡藤田宿(福島県伊達郡国見町)から、一旦会津の方へ向かって土湯嵩、鳥取を越えて、大木戸の上の国衡の陣地の裏山に登り、戦闘開始の大声を上げて矢を放ちました。これに城中では驚いて、搦め手からも攻めて来たぞーと大騒ぎです。国衡以下の大将たちは、要塞に閉じこもっていては勝ち目はないが、かといってどう作戦を立てたらよいか智恵も回らずに、たちどころに逃げ散ってしまいました。

空は明けて来ましたが、霧が濃くて見通せません。秋の山は薄暗くて、明けたと言っても道は濡れて滑りやすく、敵味方の区別がしにくい間に、国衡の家来達は、魚が網の目を抜けるようにして居なくなる者が多いのです。
しかし、その中に金剛別当の息子の須房太郎秀方〔十三歳〕は、踏みとどまって防戦します。黒ぶちの馬にまたがり、たてがみを風になびかせ正面に構えています。その戦闘意欲は顕かです。工藤小次郎行光が駆け出してそばに行こうとすると、行光の家来の藤五男が間に割って入って、秀方と取っ組み合いになりました。顔を良く見れば、未だ幼い童顔です。名前を聞いても、会えて名乗りません。しかし、一人で居残って構えていたのには、さぞかし心構えが出来ているのであろうと、取っ組み合いの末に殺しました。その力たるやとても強くて童顔には似合いません。組み合っていても対等なので、戦いの時間がかなりかかってしまいましたとさ。

また おやまのしちろうともみつ こんごうのべっとう う
又、小山七郎朝光、金剛別當を討つ。

そ   ご たいさん  ぶひょうら  やすひら  じんに は  むか    あつかしやま   じんたいはいのよしこれ つ
其の後退散の武兵等、泰衡の陣于馳せ向ひ、阿津賀志山の陣大敗之由之を告ぐ。

やすひら しゅうしょう ど うしな とうぼう    おく  かた  おもむ   くにひら  またちくてん   にほん そ   あと  お   せし  たま
泰衡周章し度を失い逃亡し、奥の方へ赴く。國衡も亦逐電す。二品其の後を追は令め給ふ。

こしょう  ぐんし の なか  わだのこたろうよしもり  せんじんに は  ぬ    こんこく  およ   しばたぐんおおたかみや へんに いた
扈從の軍士之中、和田小太郎義盛先陣于馳せ抜き、昏黒に及び、芝田郡大高宮D邊于到る。

にしきどのたろうくにひら は   でわみち   へ    おおぜきやま  こ       ほつ
西木戸太郎國衡者、出羽道を經て、大關山Eを越さんと欲す。

しか    いま  か   みや ぜんろ    めて   た  あぜ  は   す     よしもり これ  お  かけ    かえ  あは  べ   のよし  しょう
而して今、彼の宮の前路の右手の田の畔を馳せ過ぐ。義盛之を追い懸て、返し合す可し之由を稱す。

くにひら なの  せし    が   めぐ    のかん  たが    ゆんで   あいあ     くにひら じゅうよんつか や  はさ   よしもり じゅうさんつか や  と
國衡名謁ら令め、駕を廻らす之間、互ひに弓手に相逢い、國衡十四束の箭を挟み、義盛十三束の箭を飛ばす。

そ   や   くにひらいま  きゅうせん  ひ          くにひらのよろい いむけ  そで  いとお      かいな あた  のかん  くにひらは きず  いた  ひら  の
其の矢、國衡未だ弓箭を引かざるに、國衡之甲の射向の袖を射融して、膊に中る之間、國衡者疵を痛み開き退く。

よしもりは またこと    だいしょうぐん い     よつ    しりょ  めぐ     に   や   かま    あいひら
義盛者又殊なる大將軍を射るに依て、思慮を廻らし二の箭を搆へて相開く。

ときに しげただ ひき    たいぐん は   きた   よしもり  くにひらの なかに へだ   しげただ  もんきゃく おおぐしのじろう  くにひら  あいあ
時于重忠が率いる大軍が馳せ來り、義盛と國衡之中于隔つ。重忠が門客の大串次郎F、國衡に相逢う。

くにひら が    ところのうまは おうしゅうだいいち しゅんめ 〔 くき 〕   たかだてぐろ  ごう  なり
々々駕する所之馬者、奥州第一の駿馬〔九寸〕G高楯黒と号す也。

だいひまん  くにひらこれ  が    まいにちかなら さんかど  ひらいずみ たかやま は  のぼ   いへど    あせ  くださざるの うまなり
大肥満の國衡之に駕し、毎日必ず三ケ度、平泉の高山へ馳せ登ると雖も、汗を不降之馬也。

しか    くにひら  よしもりのに  や   おそ    しげただの たいぐん おどろ   どうろ  さしお   ふかだ   うちい   のかん
而るに國衡、義盛之二の箭を怖れ、重忠之大軍に驚き、道路を閣き、深田に打入る之間、

すうど むち  くは      いへど   うま あえ じょうりく  あたはず  おおぐしら やや り  え  きょうしゅ   はなは すみや なり
數度鞭を加へると雖も、馬敢て上陸に不能。大串等弥理を得て梟首す。太だ速か也。

参考D芝田郡大高宮邊は、宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬の大高山神社。
参考E大関山は、宮城県柴田郡村田町らしい。
参考F
大串次郎は、埼玉県吉見町大串。
参考G〔九寸〕は、当時の日本馬の体高は4尺を超えるのを龍蹄と呼び、4尺を越えた分を一寸二寸と書いて一騎二騎と呼ぶ。頼朝は4尺8寸が好きで〔やき〕と呼ぶ。なお、、4尺以下を駒と呼ぶ。

現代語一方、小山七郎朝光は、金剛別当を討ち取りました。それから、逃げ帰った兵隊達は、泰衡の陣地へ走っていって、厚樫山の陣地は、大敗したと報告しました。泰衡は、思いがけない経緯に落ち着きを失い、慌てふためきながら逃げて、北の方へ行きました。国衡も行方をくらましました。頼朝様は、その後を追うことになりました。

お供の武士の中の和田太郎義盛は、軍隊の先頭を駆け抜けて、真っ暗な夜になって柴田郡の大高山神社のあたりに行きました。
西木戸太郎国衡は、出羽街道を通って、大関山を越そうと考えました。なんと偶然にも今、大高山神社の前の道の右側のたんぼの畔を駆け過ぎました。
和田太郎義盛は、これを追いかけて、「戻って手合わせをしろ。」と怒鳴りました。国衡がそれに答えて名乗りながら、馬をこちらへ向かせてたので、お互いに左側の弓手に敵を迎えて、国衡は十四握りの矢をつがえ、義盛は十三握りの矢を放ちました。その矢が、国衡が未だ弓を引く前に、国衡の鎧の左側の鎧袖を射抜いて腕に当たりましたので、国衡はその痛みに耐えかねて、攻撃態勢を解いて逃げ出しました。和田義盛は、これは特別な大将軍を射たので、遠矢にあてようと次ぎの矢を構えて体制を整えました。
ところが時悪しく、畠山次郎重忠が率いている大軍が駆けてきて、義盛と国衡の間に割り込んできてしまいました。重忠の客分の大串次郎が国衡にでくわしました。国衡の乗馬は、東北一の優秀馬〔四尺九寸147cm〕で、高楯黒と名付けられています。ものすごい肥満の国衡がこれに乗って、毎日必ず三回は、平泉の高山へ駆け上っても、汗をかかない馬なのです。それなのに、国衡は和田義盛の二の矢を恐れ、しかも重忠の大軍を見てビックリして、逃げようとあわてて、手綱さばきを誤り、馬を深田に入れてしまいましたので、何度鞭を振るっても馬は田んぼから出られません。大串達は、チャンスを逃さずに殺してしまいました。すばやい動作でした。

また  やすひら ろうじゅうら かねのじゅうろう こうとうのはち あかだのじろう  もつ    だいしょうぐん な    ねなしふじ へん  じょうかく  かま   のかん
亦、泰衡が郎從等の 金十郎、匂當八、赤田次郎を以て、大將軍と爲し、根無藤H邊に城郭を搆へる之間、

みさわのあんどうしろう  いいとみのげんたいか なおお  はし  せ   たたか   きょうとさら  しふくの け な
三澤安藤四郎、飯富源太已下猶追い奔り攻め戰う。凶徒更に雌伏之氣無し。

いよいよ うごうのむれ むす   ねなしふじと しほうさか  の ちゅうかん をい   りょうほう  しんたい ななかど  およ
弥、烏合之群を結び、根無藤与四方坂I之中間に於て、兩方の進退七ケ度に及ぶ。

しか   かねのじゅうろう う ほろ ののち みな はいせき
然るに金十郎討ち亡ぶ之後皆敗積す。

こうとうのはち あかだのじろう いか  いけどりさんじゅうにんなり  こ ところ  かっせん  むい     は  ひとへ みさわのあんどうしろう へいりゃく あ   ものなり
匂當八、赤田次郎已下、生虜 卅人也。 此の所の合戰で無爲なの者、偏に三澤安藤四郎の兵略に在る者也。」

参考H根無藤は、前九年の役に頼義が鞭を地に刺したら、その鞭から芽が出て藤の木になったとの伝説。宮城県蔵王町円田字根無藤。
参考I四方坂は、宮城県蔵王町四方峠標高365m。

きょう かまくら  をい   みだいどころごしょちゅう にょうぼうすうやから もつ  つるがおか ひゃくどもうであ    これおうしゅうついとう ごきしょうなり  うんぬん
今日鎌倉に於て、御臺所御所中の女房數輩を以て、鶴岳へ百度詣有り。是奥州追討の御祈精也と云々。

現代語一方、泰衡の家来の金十郎、匂當八、赤田次郎を大将軍として、根無藤の辺りに城砦を構えていましたので、三沢安藤四郎、飯富源太を始めとする軍隊が兵を追いかけて走りながら攻撃を仕掛けました。敵軍も、降伏する気はさらさらありません。それなのでいよいよ持って互いに群れての戦いは、根無藤と四方坂の中間で、双方が戦い合わせること七回にも及びました。それでも、金十郎が討たれた後は、皆負けてしまいました。匂當八、赤田次郎を始めとする捕虜は三十人にものぼりました。この合戦が無事に済んだのは、全て三沢安藤四郎の作戦のおかげです。

一方鎌倉では、今日、御台所政子様が御所の女官達数人を、鶴岡八幡宮へお百度参りをさせました。これは、奥州合戦の勝利を祈ったのです。

文治五年(1189)八月大十一日戊戌。今日。二品逗留船迫宿給。於此所。重忠献國衡頚。太蒙御感仰之處。義盛參進御前。申云。國衡中義盛箭亡命之間。非重忠之巧云々。重忠頗笑申云。義盛口状可謂髣髴。令誅之支證何事哉。重忠獲頚。持參之上。無所疑歟云々。義盛重申云。頚事者勿論。但國衡甲者。定被剥取歟。召出彼。可被决實否。其故者。於大高宮前田中。義盛与國衡。互相逢于弓手。義盛之所射箭。中于國衡訖。其箭孔者。甲射向之袖二三枚之程。定在之歟。甲毛者紅也。馬黒毛也云々。因茲。被召出件甲之處。先紅威也。召寄御前覽之。射向袖三枚。聊寄後方。射融之跡掲焉也。殆如通鑿。于時仰曰。對國衡。重忠不發矢乎者。重忠申不發矢之由。其後付是非無御旨。是件箭跡。異他之間。非重忠之箭者。義盛矢之條勿論也。凡義盛申詞。始終符合。敢無一失。但重忠其性稟C潔。以無詐僞爲本意者也。於今度儀者。殊不存奸曲歟。彼時郎從爲先。重忠在後。國衡兼中箭事。一切不知之。只大串持來彼頚。与重忠之間。存討獲之由。不乖物儀歟。

読下し                     きょう   にほん ふなばさまのしゅく とうりゅう たま   こ  ところ をい    しげただ くにひら くび  けん
文治五年(1189)八月大十一日戊戌。今日。二品 船迫宿@に逗留し給ふ。此の所に於て、重忠國衡が頚を献ず。

はなは ぎょかん おお  こうむ  のところ  よしもり ごぜん   さん  すす    もう    い
太だ御感の仰せを蒙る之處、義盛御前に參じ進み、申して云はく。

くにひら  よしもり  や   あた いのち ほろぼ のかん  しげただのこう あらず うんぬん
國衡、義盛の箭に中り命を亡す之間、重忠之巧に非と云々。

しげただ すこぶ わら もう     い       よしもり  こうじょうほうはつ  いひ  べ    ちうせし    のししょうなにごと   や
重忠、頗る笑ひ申して云はく、義盛が口状髣髴と謂つ可し。誅令むる之支證何事ぞ哉。

しげただくび  え     じさんの うえ    うたが ところ な      か   うんぬん  よしもり かさ    もう    い       くび  ことは もちろん
重忠頚を獲て、持參之上は、疑う所無からん歟と云々。義盛重ねて申して云はく。頚の事者勿論なり。

ただ  くにひら よろいは  さだ    は   と らる  か    か   め   いだ    じっぷ   けつ  らる  べ
但し國衡が甲者、定めし剥ぎ取被る歟。彼を召し出し、實否を决せ被る可し。

そ   ゆえは  おおたかみやまえ た  なか   をい   よしもりと くにひら  たが    ゆんでに あいあ    よしもりの い   ところ  や  くにひらに あた をはんぬ
其の故者、大高宮前の田の中に於て、義盛与國衡、互ひに弓手于相逢ひ、義盛之射る所の箭、國衡于中り訖。

そ   や   あなは  よろい いむけのそで にさんまいの ほど   さだ    これ あ    か  よろい けはくれないなり  うま くろげなり  うんぬん
其の箭の孔者、甲の射向之袖二三枚之程に、定めて之在らん歟。甲の毛者紅也。馬は黒毛也と云々。

これ  よつ   くだん よろい  め  いださる のところ  ま  くれないおどしなり
茲に因て、件の甲を召し出被る之處、先ず紅威也。

ごぜん   め    よ   これ  み       いむけ そでさんまい いささ こうほう  よ      いとおすのあとけちえんなり  ほと   のみ  とお  ごと
御前に召し寄せ之を覽るに、射向の袖三枚、聊か後方に寄り、射融之跡掲焉也。殆んど鑿を通す如し。

ときに おお    い       くにひら  たい    しげただや  はなたざるかてへ  しげただや  はなたざるのよし  もう    そ    ご  ぜひ   つ     おんむねな
時于仰せて曰はく、國衡に對し、重忠矢を不發乎者り。重忠矢を不發之由を申す。其の後是非に付きて御旨無し。

これくだん や  あと   ほか ことな  のかん  しげただの や  あらず ば   よしもり  やのじょうもちろんなり
是件の箭の跡、他に異る之間、重忠之箭に非ん者、義盛の矢之條勿論也。

およ  よしもり  もう  ことば ししゅう ふごう     あえ  いっしつ な
凡そ義盛が申す詞に始終符合す。敢て一失無し。

ただ  しげただ そ せいひん せいけつ       さぎ  な      もつ   ほい   な  ものなり  このたび  ぎ  をい  は   こと  かんきょく ぞんぜざるか
但し重忠其の性稟C潔にして、詐僞無きを以て本意と爲す者也。今度の儀に於て者、殊に奸曲を不存歟。

か   とき  ろうじゅう  さき  な     しげただうしろ あ    くにひら かね や   あた  こと  いっさいこれ  しらず
彼の時、郎從を先と爲し、重忠後に在り。國衡兼て箭に中る事、一切之を不知。

ただ  おおぐし も   きた  か   くび  しげただ  あた    のかん  う   え      のよし  ぞん    ぶつぎ  そむかざるか
只、大串が持ち來る彼の頚、重忠に与える之間、討ち獲たる之由を存ず。物儀に不乖歟。

参考@船迫宿は、宮城県柴田郡柴田町本船迫。

現代語文治五年(1189)八月大十一日戊戌。今日、頼朝様は船迫(ふなばさま)の宿にお泊りになられました。
ここで、畠山重忠が国衡の首をご覧に入れました。「とても天晴れだ。」とお褒めのお言葉を戴いていると、和田義盛が頼朝様の御前に進み出て、申し上げました。「国衡は、私義盛の矢に当たって命をとられる事になったので、畠山殿の手柄ではありません」だとさ。重忠は、大笑いをしながら言いました。「義盛殿の言ってる事は、伸び放題の髭と同じ大法螺と言うんだ。殺したという証拠は何なんだね?重忠が首を手に入れ持ってきている以上は、疑いようが無いだろう。」とさ。義盛は続けて言いました。「首については言うとおりです。但し、国衡の鎧は、当然剥ぎ取ってしまったのでしょう。それをここへ持ってこさせて、事実か否か決めましょう。その理由は、大高山神社の前の田んぼの中で、義盛と国衡は、お互いに弓手に向き合い、義盛の射た矢が国衡に当たりました。その矢の穴は、国衡の鎧の左側の袖の上から二三枚目の小札に、絶対にあるはずなんだ。鎧の威毛(鎧を縅した糸や革ひも)は紅色で、馬は黒毛でした。」とさ。

その言い分によって、話の鎧を呼び出させたところ、紅威(くれないおどし)しです。頼朝様の御前に持ってこさせて、これをよく見ると左側の袖の上から三枚目の小札のやや後ろ側に、射抜いた穴が顕かです。まるで鑿を突き通したようです。そこで、頼朝様が仰せられました。「国衡に対して重忠は矢を放ちませんでしたか?」重忠は「矢を放ちません。」と答えましたので、それ以上問いませんでした。そうすると、その矢の跡は他とはちょっと違うので、畠山重忠の矢でなければ、義盛の矢であることは勿論であります。概ね和田太郎義盛の言っている事は、全てあっているので、間違いはありません。そうなると、畠山重忠は清廉潔白が信条で、嘘など無いのを本心としている人です。今度の事についても、何も悪巧みはしておりません。その時は、家来を先に行かせて、重忠は大軍の後方にいました。国衡が矢に当たった事も一切知らないので、単に大串が持ってきた首を重忠に差し出したので、討ち取った事を知った訳です。もののどおりに背いてはおりません。

文治五年(1189)八月大十二日己亥。一昨日合戰之時。千鶴丸若少之齢而入敵陣。發矢及度々。又名謁云。河村千鶴丸云々。二品始令聞其号給。仍御感之餘。今日於船迫驛。被尋仰其父。小童爲山城權守秀高四男之由申之。依之。於御前俄加首服。号河村四郎秀C。加冠加々美次郎長C也。此秀C者。去治承四年。石橋合戰之時。兄義秀令与景親謀叛之後。窂籠之處。母〔二品官女。号京極局〕相計而暫隱其号。置休所之傍。而今度御進發之日。稱譜第之勇士。企慇懃吹舉之間候御共。忽顯兵略。即開佳運者也。晩景令着多賀國府給。又海道大將軍千葉介常胤。八田右衛門尉知家等參會。千葉太郎胤正。同次郎師常。同三郎胤盛。同四郎胤信。同五郎胤通。同六郎大夫胤頼。同小太郎成胤。同平次常秀。八田太郎朝重。多氣太郎。鹿嶋六郎。眞壁六郎等。相具于常胤知家。各渡逢隈湊參上云々。

読下し                       おととい   かっせんの とき  せんつるまる じゃくしょうのよわい して てきじん  い   や   はつ        たびたび  およ
文治五年(1189)八月大十二日己亥。一昨日の合戰之時。 千鶴丸@若少之 齢に而敵陣に入り、矢を發すること度々に及ぶ。

また なの     い      かわむらのせんつるまる うんぬん  にほん はじ   そ    ごう  き   せし   たま
又名謁りて云はく、河村 千鶴丸と云々。二品始めて其の号を聞か令め給ふ。

よっ  ぎょかんの あま   きょう ふなばさまのうまや をい  そ  ちち  たず  おお  らる   こわらわ やましろごんのかみひでたか よんなん た のよし これ もう
仍て御感之餘り、今日 船迫驛に於て、其の父を尋ね仰せ被る。小童、 山城權守秀高の 四男爲る之由之を申す。

これ  よつ    ごぜん   をい にわか しゅふく  くわ    かわむらのしろうひできよ ごう    かかん  かがみのじろうながきよ なり
之に依て、御前に於て俄に首服Aを加へ、河村四郎秀Cと号す。加冠は加々美次郎長C也。

こ   ひできよは  いんぬ じしょうよねん  いしばしかっせんのとき  あによしひで  かげちか  むほん くみせし  ののち   ろうろうのところ
此の秀C者、去る治承四年、石橋合戰之時、兄義秀、景親が謀叛に与令む之後、窂籠之處、

はは 〔にほん  かんじょ  きょうごくのつぼね ごう 〕  あいはか て  しばら そ   ごう  かく   やすみどころのかたわら お
〔二品の官女、京極局と号す〕相計り而、暫く其の号を隱し、休所之傍に置く。

しか    このたび ごしんんぱつのひ ふだいのゆうし   しょう    いんぎん  すいきょ くわだ    のかん おんとも そうら   たちま へいりゃく あらわ
而るに今度の御進發之日、譜第之勇士と稱し、慇懃の吹舉を企つる之間御共に候い、忽に兵略を顯す。

すなは かうん  ひら  ものなり
即ち佳運を開く者也。

ばんけい   たがこくふ    つ  せし  たま    また  かいどう だいしょうぐん ちばのすけつねたね はったのうえもんのじょうともいえら さんかい
晩景に多賀國府Bに着か令め給ふ。又、海道の大將軍 千葉介常胤、 八田右衛門尉知家等參會す。

ちばのたろうたねまさ  おな    じろうもるつね  おな    さぶろうたねもり  おな    しろうたねのぶ  おな    ごろうたねみち  おな    ろうくろうだいぶたねより
千葉太郎胤正、同じく次郎師常、同じく三郎胤盛、同じく四郎胤信、同じく五郎胤通、同じく六郎大夫胤頼、

おな    こたろうなりたね   おな   へいじつねひで  はったのたろうともしげ  たけのたろう   かしまのろくろう  まかべのろくろうら
同じく小太郎成胤、同じく平次常秀、八田太郎朝重、多氣太郎、鹿嶋六郎、眞壁六郎等は

つねたね  ともいえに あいぐ    おのおの あぶくま  みなと わた さんじょう   うんぬん
常胤、知家于相具し、 各、 逢隈C湊をり參上すと云々。

参考@千鶴丸は、河村氏で神奈川県足柄上郡山北町に河村城あり。
参考A
首服は、元服のこと。父から秀の文字を継ぎ、加冠親の長CからCの字を貰い、秀Cと名乗る。
参考B多賀國府は、宮城県多賀城市市川城前の多賀城。東北本線「国府多賀城駅」下車、北。南に国立東北歴史博物館あり。
参考C逢隈は、阿武隈川。

現代語文治五年(1189)八月大十二日己亥。一昨日の合戦の時に、千鶴丸は、若い少年の歳ながらも敵陣に攻め入り、何度も矢を放ちました。また、名乗りを河村千鶴丸と上げておりましたそうな。頼朝様は初めてその名を聞かれました。そこで感激の余り、今日船迫(ふなばさま)の宿で、その父の名を尋ねられました。その子は、山城権守秀高の四男であると申し上げました。そこで、頼朝様の御前で元服式を行い、河村四郎秀清と名乗らせました。烏帽子親は、加々美二郎長清です。
この秀清は、大分前の治承四年の石橋山合戦の時に、兄河村三郎義秀は大庭三郎景親の謀反に参加したので、敗戦後浪々の身となり、母〔頼朝様の御所の女官で京極局と云います〕が、策を練って暫く名を隠して、局の傍らに置いて置きました。そうしておいて、今度の奥州合戦に出発される日に、元々の家来の勇士として認めてもらうようにお供についてきましたが、直ぐに合戦の腕を披露して、良い運が開けたのです。
夕暮れになって、多賀国府にお着きになられました。

同様に、海道(常磐道)の大将軍、千葉介常胤、八田右衛門尉知家が参りました。千葉太郎胤正、同じ千葉の相馬次郎師常、同じ武石三郎胤盛、大須賀四郎胤信、国分五郎胤道、東六郎大夫胤頼、千葉小太郎成胤、境平次常秀と八田太郎知重、多気太郎義幹、鹿島六郎頼幹、真壁六郎長幹達は、千葉常胤や八田知家と一緒に、それぞれ阿武隈港を渡って参りましたとさ。

文治五年(1189)八月大十三日庚子。比企藤四郎。宇佐美平次等。打入出羽國。泰衡郎從田河太郎行文。秋田三郎致文等梟首云々。」今日。二品令休息于多賀國府給。

読下し                       ひきのとうしろう     うさみのへいじ  ら   でわのくに  う    い
文治五年(1189)八月十三日庚子。比企藤四郎。宇佐美平次等。出羽國へ打ち入り、

やすひら ろうじゅう たがわのたろうゆきふみ あきたのさぶろうすえふみら きょうしゅ   うんぬん
泰衡が郎從の田河太郎行文、秋田三郎致文等を梟首すと云々。」

きょう    にほん  たがのこくふに きゅうそくせし  たま
今日。二品、多賀國府于休息令め給ふ。

現代語文治五年(1189)八月大十三日庚子。比企藤四郎能員や宇佐美平次実政達は、出羽国(山形県秋田県)へ攻め込んで、泰衡の家来の田河太郎行文や秋田三郎致文達の首を上げましたとさ。」
今日、頼朝様は、多賀国府にお泊りです。

文治五年(1189)八月大十四日辛丑。泰衡在玉造郡之由風聞。亦國府中山上物見岡取陣之由。有其告。縡亘兩舌。雖賢慮未决。在玉造之儀。猶可然之間。自多賀國府。經黒河。令赴彼郡給。然而爲尋物見岡。小山兵衛尉朝政。同五郎宗政。同七郎朝光。下河邊庄司行平等。仍各馳向件岡。相圍之處。大將軍者。先之逐電。其居所殘置幕許。其内相留郎從四五十人雖防戰。以朝政。行平等武勇。或梟首。或生虜。皆悉獲之。于時朝政云。吾等者經大道。於先路可參曾歟。行平云。玉造郡合戰者。可爲繼子歟。早追可參彼所者。行平則揚鞭之間。朝政等相具之云々。

読下し                      やすひら  たまつくりぐん  あ   のよし ふうぶん
文治五年(1189)八月十四日辛丑。泰衡、玉造郡@る之由風聞す。

また  こくふなかやま   かみ  ものみおか   じん  と    のよし  そ   つげ あ
亦、國府中山Aの上の物見岡Bに陣を取る之由、其の告有り。

こと  りょうぜつ わた    けんりょ いま  けつ          いへど  たまつくり あ   のぎ    なおしか べ   のかん
縡、兩舌に亘り、賢慮未だ决しがたしと雖も、玉造に在る之儀、猶然る可き之間、

たがのこくふ よ     くろかわ   へ     か   こおり おもむ せし  たま
多賀國府自り、黒河Cを經て、彼の郡へ赴か令め給ふ。

しかれどもものみおか たず   ため  おやまのひょうえのじょうともまさ  おな    ごろうむねまさ  おな    しちろうともみつ  しもこうべのしょうじゆきひら ら
然而物見岡を尋ねん爲、 小山兵衛尉朝政、 同じき五郎宗政、同じき七郎朝光、下河邊庄司行平等、

よっ おのおの くだん おか  は   むか    あいかこ  のところ  だいしょうぐんは これ   さき  ちくでん  そ  きょしょ  まくばか    のこ  お
仍て 各、 件の岡へ馳せ向い、相圍む之處、大將軍者、之より先に逐電、其の居所に幕許りを殘し置く。

そ   うち あいとどま ろうじゅうしごじゅうにんぼうせん いへど    ともまさ   ゆきひらら  ぶゆう   もつ    あるひ きょうしゅ   あるひ せいりょ  みなことごと これ  え
其の内相留る郎從四五十人防戰すと雖も、朝政、行平等の武勇を以て、或は梟首し、或は生虜し、皆 悉く之を獲る。

ときに ともまさ い       われらは だいどう  へ     せんろ  をい  さんかいすべ  か
時于朝政云はく、吾等者大道を經て、先路に於て參曾可き歟。

ゆきひら い      たまつくりぐん かっせんは  ままこ た   べ   か   はや おい  か   ところ  まい  べ   てへ
行平云はく、玉造郡の合戰者、繼子爲る可き歟。早く追て彼の所に參る可し者れば、

ゆきひらすなは むち  あ     のかん  ともまさら これ  あいぐ    うんぬん
行平則ち鞭を揚げる之間、朝政等之に相具すと云々。

参考@玉造郡は、宮城県大崎市鳴子温泉、同市岩出山(後、伊達政宗が秀吉に米沢から移された所)。
参考A國府中山は、宮城県仙台市。
参考B
物見岡は、宮城県登米市津山町。
参考C黒河は宮城県黒川郡富谷町か同郡大和町。

現代語文治五年(1189)八月大十四日辛丑。泰衡が、玉造郡に居るらしいと噂がありました。又、国府中山(仙台)の北の物見岡(登米市津山町)に陣地を構えていると言う話も伝わってきています。情報が二つもあるので、どちらとも決め難いのではありますが、玉造に居ると言う方が確からしいので、多賀国府(多賀城址)から黒河(黒川郡)を通って、その玉造郡へ向かう事にしました。しかし、物見岡も調べてみたいので、小山兵衛尉朝政、同族の五郎宗政(長沼)、弟七郎朝光(結城)、下河辺庄司行平(従兄弟)達が、そのために、物見岡へ走って行き砦を囲みましたが、大将軍はその前に逃亡し、そこには幔幕だけが残されていました。それでも居残っていた四五十人が対戦してきましたが、小山四郎朝政や下河邊庄司行平の武力の強さで、或る者は首を刎ねられ、或る者は生け捕りにされ、残らず平らげてしまいました。その時、小山四郎朝政が言うには、「我々も幹線を通って先へ向かい、主力軍に合流しましょうか。」下河邊庄司行平は、「玉造の合戦にとっては枝葉に過ぎないので、早く本隊へ行きましょう。」と言って、馬に鞭を入れたので、小山四郎朝政も直ぐにこれに着いて行きましたとさ。

文治五年(1189)八月大十五日壬寅。今日。鶴岡放生會也。去月朔日。雖被行之。依爲式日。故以有其儀。筥根山兒童八人參上。有舞樂。馬長流鏑馬如例云々。

読下し                      きょう   つるがおか ほうじょうえ なり
文治五年(1189)八月十五日壬寅。
今日。鶴岡の放生會@也。

いんぬ つきついたち これ  おこなられ  いへど   しきじつ た    よっ   ことさら  もっ  そ  ぎ あ
去る月 朔日、之を行被ると雖も、式日A爲るに依て、故にB以て其の儀有り。

はこねやま  じどう はちにんさんじょう   ぶがく  あ     あげうま  やぶさめ れい  ごと   うんぬん
筥根山Cの兒童八人參上し、舞樂有り、馬長D、流鏑馬例の如しと云々。

現代語文治五年(1189)八月大十五日壬寅。今日は、鶴岡八幡宮の生き物を放って供養をする放生会です。先月の一日にこの行事を行いましたが、正式の実施日なので、強いてこの儀式を行いました。箱根権現神社の稚児が八人も参加して、舞楽を踊りました。飾り馬や流鏑馬もいつもどおりに行いましたとさ。

参考@放生會は、八幡宮の池へ魚などを生きたまま放って、生き物を助けたと云う贖罪を行う儀式。
参考A式日は、
特定の行事や用事を行うことに定めてある日。
参考B故には、わざわざ特別に。
参考C筥根山は、箱根権現で現箱根神社。
参考D馬長は、飾り馬。

文治五年(1189)八月大十八日乙巳。藤九郎盛長預囚人筑前房良心。相具盛長下向。而去十四日。於物見岡合戰之間。討泰衡郎從等。仍募其功。令厚免之由被仰出。是刑部卿忠盛朝臣四代孫。筑前守時房男也。屋嶋前内府〔宗盛〕誅戮之後。所被召預也。雖爲僧。令達武藝之間。今度相伴之云々。

読下し                      とうくろうもりなが   あずか めしうど とくぜんぼうりょうしん もりなが  あいぐ  げこう
文治五年(1189)八月十八日乙巳。藤九郎盛長が預る囚人筑前房良心、盛長に相具し下向す。

しか   いんぬ じゅうよっか  ものみおか  を     かっせんのかん  やすひら  ろうじゅうら  う
而して去る十四日、物見岡に於ける合戰之間、泰衡が郎從等を討つ。

よつ  そ   こう  つの    こうめんせし    のよし  おお  いでらる
仍て其の功に募り、厚免令める之由を仰せ出被る。

これ  ぎょうぶのきょうただもりあそん  よんだい まご  ちくぜんのかみときふさ だんなり  やしまのさきのないふ〔むねもり〕ちうりくののち  め  あずけ らる ところなり
是、 刑部卿忠盛朝臣@が四代の孫、筑前守時房が 男也。屋嶋前内府〔宗盛〕誅戮之後、召し預け被る所也。

そう た    いへど   ぶげい  たつ  せし  のかん  このたびこれ  あいともな  うんぬん
僧爲りと雖も、武藝に達さ令む之間、今度之を相伴うと云々。

参考@忠盛朝臣は、清盛の父だが、筑前守時房が分からない。

現代語文治五年(1189)八月大十八日乙巳。藤九郎盛長が預かっている預かり囚人(めしうど)の筑前房良心は、藤九郎盛長に従って奥州へ下りました。その彼が先日十四日の物見岡での合戦に、泰衡の家来を討ち取りました。そこでその手柄として囚人身分を許すように仰せになられました。この人は、刑部卿平忠盛の四代の孫、筑前守時房の息子です。壇ノ浦合戦の宗盛が殺された後は、囚人として預けられた居ました。出家はしておりますが、武芸に達しているので、この度一緒に連れて行かれましたとさ。

文治五年(1189)八月大廿日丁未。夘剋。二品令赴玉造郡給。則圍泰衡多加波々城給之處。泰衡兼去城逃亡。自殘留郎從等束手歸降。此上者。出于葛岡郡。赴平泉給。戌剋。被遣御書於先陣軍士等中。所謂小山之輩并三浦十郎。和田太郎。小山小四郎。畠山次郎。和田三郎。至于武藏國黨々者。面々取此御書。令拝見之。得旨趣。可廻合戰計之由被載之。其趣。各追敵到津久毛橋邊之時。凶徒等避其所。於入平泉者。泰衡搆城屯勢相待歟。然者僅率一二千騎。不可馳向。相調二万騎軍兵。可競至。已敗績之敵也。雖侍一人。無害之樣。可致用意者〔屯〔韻會徒渾切 聚也勒兵而守曰屯〕〕

読下し                    うのこく  にほん たまつくりぐん おもむ せし たま
文治五年(1189)八月廿日丁未。夘剋。二品玉造郡@に赴か令め給ふ。

すなは やすひら  たかはばじょう   かこ  たま  のところ  やすひらかね しろ  さ      とうぼう
則ち泰衡が多加波々城を圍み給ふ之處、泰衡兼て城を去りて逃亡す。

みづか のこ  とど      ろうじゅうら て   つか  きこう     こ   うえは   くずおかぐん に い   ひらいずみ おもむ たま
自ら殘り留まるの郎從等手を束ね歸降す。此の上者、葛岡郡A于出で、平泉へ赴き給ふ。

いぬのこく おんしょを せんじん ぐんしら   なか  つか  さる   いはゆる おやまのやからなら   みうらのじゅうろう  わだのたろう   おやまのこしろう
戌剋、御書於先陣の軍士等の中へ遣は被る。所謂、小山之輩并びに三浦十郎、和田太郎、小山小四郎、

はたけやまのじろう  わだのさぶろう  むさしのくに とうとうに いた   は   めんめん  こ   おんしょ  と
畠山次郎、和田三郎、武藏國の黨々于至りて者、面々に此の御書を取る。

これ  はいけんせし   ししゅ  え     かっせん  はか   めぐ     べ   のよし これ  の   らる
之を拝見令め、旨趣を得て、合戰の計りを廻らす可し之由之を載せ被る。

そ おもむき おのおの てき お   つくもばし へん  いた   のとき  きょうとら そ  ところ  さけ
其の趣、各、敵を追い津久毛橋B到る之時、凶徒等其の所を避ん。

ひらいずみ はい   をい  は   やすひらしろ かま  せい  たむろ あいま    か
平泉へ入るに於て者、泰衡城を搆へ勢を屯し相待たん歟。

しからずんば わずか いちにせんき ひき   は   むか  べからず  にまんき   ぐんぴょう あいととの   きそ  いた  べし  すで  はいせきのてきなり
 然者、 僅に一二千騎を率い、馳せ向う不可。二万騎の軍兵を相調へ、競い至る可。已に敗績之敵也。

さむらいひとり いへど  そこな     の な  よう   ようい いた  べ   てへ     〔 とん 〔 いんかい  とこん せつしゅなり  へい  ろく て まも     とん  いは 〕  〕
侍一人と雖も、害うこと之無い樣、用意致す可し者り〔屯〔韻會に徒渾の切聚也、兵を勒し而守るを屯と曰く〕〕

参考@玉造郡は、宮城県大崎市の旧鳴子町と岩出山町。
参考A
葛岡郡は、旧宮城県玉造郡岩出山町上山里字葛岡。現大崎市岩出山字葛岡。
参考B
津久毛橋は、宮城県栗原市金成津久毛の三迫川。

現代語文治五年(1189)八月大二十日丁未。卯の刻(午前六時頃)に、頼朝様は玉造郡へ向かわれました。すぐに、泰衡の多加波々城を囲ませましたが、既に泰衡は城から出て逃げて行った後でした。自分の意思で城に残っていた家来達は、手を差し出して降伏投降して来ました。仕方が無いので葛岡郡に出て、平泉に向かわれました。
戌の刻(夜八時頃)に、命令書を先に進んでいる先陣にお出しになられました。それは、小山の連中を始めとして、三浦十郎義連、和田太郎義盛、小山小四郎朝政、畠山次郎重忠、和田三郎宗実や武蔵の国の小武士団の党の、人達はそれぞれにこの命令書の写しを取りました。これを読んで、その趣旨を理解して、作戦をねるようにと、書かれております。
その内容は、それぞれ敵を追いかけて
津久毛橋の辺りまで行っても、敵はそこには居ないでしょう。平泉に入る際には、泰衡が城を構えて、兵隊達を置いて待っている事であろう。それなので、たった千や二千騎で向かって行ってはならない。二万騎の軍隊を整えて、一気に攻め立てるように。すでに敗北の兵(手負いの獅子)が相手なので、侍一人でも無駄死にさせる事の無い様、気持を持って行きなさい。と云いました。

文治五年(1189)八月大廿一日戌申。甚雨暴風。追泰衡。令向岩井郡平泉給。而泰衡郎從。於栗原三迫等要害。雖砺鏃。攻戰強盛之間。奉防失利。爲宗之者。若次郎者。爲三浦介被誅。同九郎大夫者。所六郎朝光討獲之。此外郎從。悉以誅戮。所殘卅許輩生虜之。爰二品經松山道。到津久毛橋給。梶原平二景高詠一首和歌之由申之。
  陸奥の勢ハ御方ニ津久毛橋渡志て懸ン泰衡カ頚
祝言之由。有御感云々。泰衡過平泉舘。猶逃亡。縡急而雖融自宅門前。不能暫時逗留。纔遣郎從許件館内。高屋寳藏等縱火。杏梁桂柱之搆。失三代之舊跡。麗金昆玉之貯。爲一時之新灰。儉存奢失。誠以可愼者哉。

読下し                       じんう ぼうふう  やすひら  おつ   いわいぐんひらいずみ  むか  せし  たま
文治五年(1189)八月廿一日戌申。甚雨暴風。泰衡を追て、 岩井郡平泉へ 向は令め給ふ。

しか    やすひら ろうじゅう  くりはら  さんのはざまら ようがい  をい  やじり  と    いへど   せ  たた      きょうせいのかん  ふせ たてまつ  り  うしな
而して泰衡が郎從、栗原@、三迫A等の要害に於て鏃を砺ぐと雖も、攻め戰うこと強盛之間、防ぎ奉るに利を失ひ、

むねとた  のもの  わかじろう は  みうらのすけ ため  ちうされ   おな    くろうだいぶは  ところのろくろうともみつ これ  う  え
宗爲る之者、若次郎者、三浦介の爲に誅被る。同じく九郎大夫者、所六郎朝光之を討ち獲る。

こ   ほか ろうじゅう ことごと もつ  ちうりく     のこ ところさんじゅうばか やからこれ いけど   ここ  にほんまつやまみち  へ     つくもばし   いた  たま
此の外の郎從、悉く以て誅戮す。殘す所卅許りの輩之を生虜る。爰に二品松山道Bを經て、津久毛橋に到り給ふ。

かじわらのへいじかげたか いっしゅ わか  えい     のよし これ  もう
梶原平二景高、一首の和歌を詠ずる之由之を申す。

    みちのく  せい  みかたに  つくもばし わたし   かけ  やすひらが くび
  陸奥の勢ハ御方ニ津久毛橋渡志て懸ン泰衡カ頚

しうげんの よし  ぎょかんあ   うんぬん やすひら ひらいずみ たち す   なおとうぼう
祝言之由、御感有りと云々。泰衡 平泉の舘を過ぎ、猶逃亡す。

こと  きゅう して じたく  もんぜん とお   いへど   ざんじ  とうりゅう あたはず
縡、急に而自宅の門前を融ると雖も、暫時も逗留に不能。

わづか ろうじゅうばか   くだん たちない  つか      たかや  ほうぞうら   ひ   はな
纔に郎從許りを件の館内へ遣はし、高屋、寳藏等に火を縱つ。

きょうりょうけいちゅうのかま  さんだいのきゅうせき うしな  れいこんこんぎょくのたくは  いちじの しんかい  な
杏梁桂柱之搆へ、三代之舊跡を失ひ、麗金昆玉之貯へ、一時之新灰と爲す。

けん  そん  しゃ  しつ    まこと もつ  つつし  べきものをや
儉は存し奢は失す。誠に以て愼む可者哉。

参考@栗原は、宮城県栗原市築館。
参考A三迫は、登米市迫町か。
参考B
松山道は、陸奥上街道。奥州街道一関から栗駒・真板を通り岩出山に出て、出羽街道に出る道。

現代語文治五年(1189)八月大二十一日戊申。雨が激しく暴風です。泰衡を追いかけて、岩井郡平泉へ向かわれました。泰衡の家来が栗原や三迫等の険しい要害の砦で、鏃を研いで戦闘に備えていましたが、攻撃軍が大軍で攻めたので、防戦しきれずに主だった人の若次郎は三浦介義澄軍に殺され、九郎大夫は、所六郎朝光が討ち取りました。この他の兵隊達も徹底的に殺されました。残っていた三十人ほどを生捕りにしました。そこで頼朝様は、松山道を通って津久毛橋に到着しました。そこで梶原平次景高が一首の和歌をつくり、これを申し上げました。

 陸奥(みちのく)の勢は味方に津久毛橋 渡して懸けん泰衡が首(陸奥の勢力も既に(頼朝様のご威光の前に)味方につくもばし、後は掛け渡すべき泰衡の首だけですね)

そりゃ眼出たいと、お喜びのお言葉がありました。一方、泰衡は平泉の館を通り越して、なおも逃げていきました。敗北が予想外に急な出来事だったので、自宅の門前を通りながらも、少しも寄っている暇もありませんでした。わずかに家来達をその館に行かせて、高屋、宝倉などに火をつけさせました。杏の木の梁や、桂の木の柱など豪奢な屋敷も、先祖三代の旧跡も、華麗な金のや玉などの折角溜め込んだ宝物も、あっという間に炭や灰になってしまいました。倹約質素な者は残れるけど、奢り高ぶっている者は続かないものである。本当に慎むべきものなのである。

文治五年(1189)八月大廿二日己酉。甚雨。申剋。着御于泰衡平泉舘。主者已逐電。家者又化烟。數町之縁邊。寂寞而無人。累跡之郭内。弥滅而有地。只颯々秋風。雖送入幕之響。蕭々夜雨。不聞打窓之聲。但當于坤角。有一宇倉廩。遁餘焔之難。遣葛西三郎C重。小栗十郎重成等。令見之給。沈紫檀以下唐木厨子數脚在之。其内所納者。牛玉。犀角。象牙笛。水牛角。紺瑠璃等笏。金沓。玉幡。金花鬘以玉餝之蜀江錦直垂。不縫帷。金造鶴。銀造猫。瑠璃燈炉。南廷百〔各盛金器〕等也。其外錦繍綾羅。愚筆不可計記者歟。象牙笛。不縫帷者。則賜C重。玉幡。金花鬘者。又依重成望申同給之。可庄嚴氏寺之由。申之故也云々。彼瞽叟之牛羊者。雖顯不義之名。此武兵之金玉者。擬備作善之因。財珍係望。古今異事者哉。

読下し                      はなは あめ  さるのこく  やすひら ひらいずみ たちにちゃくご  ぬしはすで  ちくてん    いえはまたけむり  か
文治五年(1189)八月廿二日己酉。甚だ雨。申剋。泰衡が 平泉の 舘于着御。主者已に逐電す。家者又烟と化す。

すうちょうのえんぺん じゃくばく して ひとな   るいせきの かくない  ややほろ て ち あ
數町之縁邊、寂寞と而人無し。累跡之郭内、弥滅び而地有り。

ただそうそう   あき  かぜ  ばく  い   のひびき  おく   いへど    しょうしょう  やう   まど う  のこえ  きかず
只颯々たる秋の風、幕に入る之響を送ると雖も、蕭々の夜雨、窓打つ之聲を不聞。

ただ ひつじさる すみに あた    いちう  そうりん あ     よえんの なん  のが
但し坤の角于當り、一宇の倉廩有り。餘焔之難を遁る。

かさいのさぶろうきよしげ おぐりのじゅうろうしげなりら つか     これ  み せし たま    ちん  したん いか   とうぼく   ずし すうきゃくこれあ
葛西三郎C重、小栗十郎重成等を遣はし、之を見令め給ふ。沈、紫檀以下の唐木の厨子數脚之在り。

そ   うち  おさ    ところは  ごおう   さい  つの  ぞうげ  ふえ  すいぎゅう つの  こんるり  ら   しゃく  きん  くつ  ぎょく  ばん
其の内に納める所者、牛玉@、犀の角、象牙の笛、水牛の角、紺瑠璃等の笏A、金の沓、玉の幡B

きん  けまん  〔 ぎょく もつ これ  かざ  〕  しょっこうにしき ひたたれ  ぬはず かたびら  きんぞう つる  ぎんぞう ねこ   るり    とうろ
金の花鬘C〔玉を以て之を餝る〕、蜀江錦Dの直垂E、不縫の帷F、 金造の鶴、銀造の猫、瑠璃の燈炉、

なんてい ひゃく〔おのおの きん うつわ も 〕 らなり
南廷G 〔 各 金の器に盛る〕等也。

そ   ほか  きんしゅうりょうら  ぐひつ  かぞえき  べからざるものか
其の外、錦繍綾羅、愚筆に計記す不可者歟。

ぞうげ  ふえ  ぬわざる かたびらは すなは きよしげ たま      ぎょく ばん  きん  けまんは  またしげなりのぞ  もう    よつ  おな   これ  たま
象牙の笛、 不縫の帷者、則ちC重に賜はり、玉の幡、金の花鬘者、又重成望み申すに依て同じく之を給はる。

うじでら  しょうごんすべ  のよし  これ  もう     ゆえなり うんぬん
氏寺を庄嚴可し之由、之を申すの故也と云々。

か   こそう の ぎゅうよう は  ふぎ の な   あらは   いへど   こ   ぶへいの きんぎょくは  さぜんの いん  そな      こ
彼の瞽叟之牛羊H者、不義之名を顯すと雖も、此の武兵之金玉者、作善之因に備えんと擬らす。

ざいちん  のぞ   かく      ここんこと    い     もの  や
財珍に望みを係るは、古今事をに異する者を哉。

参考@牛玉は、牛の腸に出来る一首の糞石。牛の額に生える毛の固まったようなもの。中にかたい芯(しん)があり、牛王(ごおう)と称して寺院などの宝物とした。
参考Aは、束帯を着るとき、右手に持つ細長い板。初めは式次第などを紙に書き、裏に貼って備忘用としたが、のちには儀礼用となった。材質は木または象牙。手板(しゆはん)。さく。Goo電子辞書から
参考Bは、仏・菩薩の権威や力を示す荘厳具 (しようごんぐ) として用いる旗の総称。Goo電子辞書から
参考C華鬘は、仏堂内陣の欄間などにかける荘厳具。金・銅・革などを材料に、花鳥・天女などを透かし彫りにする。Goo電子辞書から
参考D蜀江錦は、中国の蜀(現在の四川省)の川で染められた、多彩な色糸のみで織られた錦織(にしきおり)のことをいいます。着物用語集から
参考E直垂は、垂領(たりくび)・闕腋(けつてき)・広袖で、組紐(くみひも)の胸紐・菊綴(きくとじ)があり、袖の下端に露(つゆ)がついている上衣と、袴と一具となった衣服。古くは切り袴、のちには長袴を用いた。元来は庶民の労働着で、身幅・袖幅の狭い、布製の上衣であった。彼らが武士として活動するようになって、端袖(はたそで)を加え、共布の袴を着けるなど形を整えた。鎌倉時代には幕府出仕の公服となり、江戸時代には三位以上の武家の礼服となった。Goo電子辞書から
参考F帷子は、几帳(きちょう・カーテン)。又は装束の下に着るひとえの布製の衣服。夏用の麻の小袖。薩摩上布・越後上布などが用いられた。Goo電子辞書から
参考G
南廷は、銀塊。レンガ大で厚みは半分。
参考H瞽叟之牛羊は、孔子の語に、昔、瞽叟(こそう)に子有り、舜という。瞽叟、これを使わさんとするも未だ嘗て往かず、すなわちこれを殺さんとするも未だ嘗て得べからず。小箠ならば待ち、大杖ならば逃げ、父を不義に陥いれざるなり。」と言う事で不義の名を残すことになった。

現代語文治五年(1189)八月大二十二日己酉。土砂降りです。(頼朝様は)申の刻(午後四時頃)泰衡の平泉の館へ到着しました。家の主は行方をくらまし、家は又煙となりはてています。数町(数百b)先の範囲の縁まで、静かで人はおりません。土塁で囲まれた屋敷も、跡形も無くなり残るのは地面ばかりです。ただただ秋の風が吹きぬけ、幔幕をなびかせるような音はしていても、粛々と降る雨が窓を討つ音さえも聞く事が出来ません。
しかし、
坤(ひつじさる南西)の角に、一棟の倉庫が火を逃れてありました。葛西三郎清重、小栗十郎重成を行かせて、これを検査させました。沈香や紫檀等の異国からの輸入品の唐木の厨子がいくつかあり、中に入れてあるものが、牛の玉、犀の角、象牙の笛、水牛の角、紺色のガラス等で出来た笏、金の沓、玉でできたの仏教の旗飾りの幡、金の華鬘〔玉で飾ってある〕、中国製の蜀江錦の直垂、縫い目のない帷子、金細工の鶴、銀細工の猫、ガラスの火皿、銀塊百〔それぞれ金の器に盛ってある〕などでした。
その他にも、上質の素材を用い、刺繍を数多く施した美しい衣服の
綾羅錦繍は、名も知れずとても書き出せるものではありません。
象牙の笛と
縫い目のない帷子は葛西C重に与え、玉でできたの仏教の旗飾りの幡、金の華鬘は、小栗十郎重成が望んだので、同様にこれをくれてやりました。自分の氏寺に飾りたいのだと言っているからです。昔中国で、瞽叟(こそう)の息子の舜は親不孝の名を残したが、この武力大勢を持った大物の倅は、自分の死後に備えて、善い行いとなる仏教用具を用意していた。財宝や珍しいものを集めようとの思いは、時代によって変っていくのになあ!

文治五年(1189)八月大廿三日庚戌。被發飛脚〔時澤於京都。被遣右武衛之御消息云。八月八日。同十日兩日。遂合戰。昨日〔廿二日令着平泉候訖。而泰衡迯入深山之由。其聞候之間。重欲追繼候也云々。

読下し                      ひきゃく  〔ときさわ〕 を きょうと  はつ  らる     うぶえい  つか  さる  の ごしょうそこ  い
文治五年(1189)八月廿三日庚戌。飛脚〔時澤〕於京都へ發せ被る。右武衛に遣は被る之御消息に云はく。

はちがつようか  おな    とおか  りょうじつ    かっせん  と     さくじつ〔にじゅうににち〕ひらいずみ つ  せし そうらひをはんぬ
八月八日、同じく十日の兩日に、合戰を遂げ、昨日〔廿二日〕平泉に着か令め候訖。

しか    やすひらしんざん  に  い    のよし  そ  きこ そうろうのかん  かさ    お   つ       ほつ そうろうなり うんぬん
而るに泰衡深山へ迯げ入る之由、其の聞へ候之間、重ねて追い繼がんと欲し候也と云々。

現代語文治五年(1189)八月大二十三日庚戌。伝令〔雑色の時沢〕を京都へ走らせました。右武衛一条能保様に出したお手紙に書いてあるのは、8月8日と同月の10日の二日に合戦をして、昨日〔22日〕に平泉に到着し終えました。しかし、泰衡はなお深い山へ逃げて行ってしまったと、聞いておりますので、なおも追いかけて行こうとしていますとのこと。

文治五年(1189)八月大廿五日壬子。泰衡逐電之間。分遣軍兵於方々。雖被搜尋之。未知其勢存亡。仍猶可追奔奥方之由。有其定。今日遣千葉六郎大夫胤頼於衣河舘。召前民部小輔基成父子。胤頼欲生虜彼等之處。基成不及取兵具。束手爲降人。然間相具之參上。子息三人同從父云々。

読下し                      やすひらちくてんのかん  ぐんぴょうを ほうぼう  わか つか      これ  さが  たず  らる   いへど
文治五年(1189)八月廿五日壬子。泰衡逐電之間、軍兵於方々へ分ち遣はし、之を搜し尋ね被ると雖も、

いま  そ   せい  そんぼう  し        よつ  なお  おく  ほう  ついふんすべ  のよし  そ   さだ  あ
未だ其の勢の存亡を知らず。仍て猶、奥の方へ追奔可し之由、其の定め有り。

きょう   ちばのろうくろうだいぶたねよりを ころもがわのたち つか    さきのみんぶしょうゆうもとなりおやこ め
今日、千葉六郎大夫胤頼於衣河舘へ遣はし、前民部小輔基成父子を召す。

たねよりかれら  いけど      ほつ    のところ  もとなりひょうぐ   と     およばず  て  つか    こうじん  な
胤頼彼等を生虜らんと欲する之處。基成兵具を取るに不及。手を束ねて降人と爲す。

しかるかん これ  あいぐ  さんじょう   しそく さんにんおな   ちち  したが   うんぬん
然間、之を相具し參上す。子息三人同じく父に從ふと云々。

現代語文治五年(1189)八月大二十五日壬子。泰衡が行方をくらましているので、軍隊を方々へ派遣して捜しましたが、未だに行方が分かりません。それで、なお東北の奥のほうへ追いかけていくようにお決めになられました。今日、千葉六郎大夫東胤頼を衣川の館へ行かせ、前民部小輔藤原基成父子を捕まえさせました。千葉胤頼が生け捕りにしようとしたら、基成は武器を手にせずに、手を前へ揃えて降伏をしてきました。そこで、彼を連れて参りました。子供三人も同様に父についてきましたとさ。

文治五年(1189)八月大廿六日癸丑。日出之程。疋夫一人推參御旅舘邊。投入一封状。逐電不知其行方。諸人恠之。召覽之處。表書云。進上鎌倉殿〔侍所〕泰衡敬白云々。状中云。伊豫國司〔義經〕事者。父入道奉扶持訖。泰衡全不知濫觴。亡父之後。請貴命奉誅訖。是可謂勳功歟。而今無罪而忽有征伐。何故哉。依之去累代在所。交山林尤以不便也。兩國者已可爲御沙汰之上者。於泰衡蒙免除。欲列御家人。不然者。被減死罪可被處遠流。若垂慈惠。有御返報者。可被落置于比内郡邊。就其是非。歸降可走參之趣載之。親能讀申御前。依之有重々沙汰。試捨置御返報於比内邊。潜付勇士一兩於其所。爲取御書。有窺來者之時。搦取可被問泰衡在所之由。實平雖申行之。不及其儀。可置書於比内郡之由。泰衡言上之上者。軍士等各可搜求彼郡内之旨。被仰下云々。

読下し                        ひのでのほど  ひっぷ ひとり ごりょかんへん  すいさん    ひと    ふうじょう   な   い
文治五年(1189)八月廿六日癸丑。日出之程、疋夫一人御旅舘邊に推參し、一つの封状@を投げ入れ、

ちくてん    そ   いくえ  しらず
逐電して其の行方を不知。

しょにん これ あやし  しょうらんのところ おもてがき い     しんじょうかまくらどの 〔さむらいどころ〕 やすひらけいびゃく  うんぬん
諸人之を恠む。召覽之處、表書に云はく、進上鎌倉殿 〔侍所〕 泰衡敬白と云々。

じょうちゅう い        いよこくし  〔よしつね〕   ことは   ちちにゅうどう ふち たてまつ をはんぬ やすひら まった らんしょう しらず
状中に云はく、伊豫國司〔義經〕の事者、父入道が扶持し奉り訖。 泰衡、全く濫觴を不知。

ちち うしな ののち   きめい  う   ちう  たてまつ をはんぬ これ くんこう  いひ  べきか
父を亡う之後。貴命を請け誅し奉り訖。 是、勳功と謂つ可歟。

しか    いま つみな    て たちま せいばつあ   なにゆえや  これ  よつ  るいだい  ざいしょ  さ      さんりん  まじ      もっと もつ  ふびんなり
而るに今罪無くし而忽ち征伐有り。何故哉。之に依て累代の在所を去り、山林に交はる。尤も以て不便也。

りょうごくは すで  ごさた    な   べ   のうえは  やすひら  をい   めんじょ  こうむ    ごけにん   れつ      ほつ
兩國者已に御沙汰と爲す可き之上者、泰衡に於ては免除を蒙り、御家人に列せんと欲す。

しからずんば  しざい  げん  られ  おんる  しょせら  べ     も    じけい   た     ごへんぽう あ   ば   ひないぐんへんに おと  お   れる べ
不然者、死罪を減ぜ被て遠流に處被る可し。若し慈惠を垂れ、御返報有ら者、比内郡邊于落し置か被可し。

そ   ぜひ    つ     きこう  はし  まい  べ  のおもむきこれ  の      ちかよし ごぜん  よ   もう     これ  よつ かさねがさね  さた あ
其の是非に就き、歸降し走り參る可し之趣之を載せる。親能御前に讀み申す。之に依て重々の沙汰有り。

こころ   ごへんぽうを ひないへん す   お    ひそか ゆうし いちりょうを そ  ところ  つ    おんしょ  と     ため  うかが きた  もの あ   のとき
試みに御返報於比内邊に捨て置き、潜に勇士一兩於其の所に付け、御書を取らん爲、窺い來る者有る之時、

から  と   やすひら  ざいしょ  と   れる べ  のよし  さねひらこれ  もう  おこな  いへど    そ   ぎ  およばず
搦め取り泰衡の在所を問は被可し之由、實平之を申し行うと雖も、其の儀に不及。

しょを ひないぐん  お   べ   のよし  やすひらごんじょうのうえは  ぐんしら おのおの か  ぐんない  さが  もと     べ   のむね  おお  くださる    うんぬん
書於比内郡に置く可き之由、泰衡言上之上者、軍士等 各、彼の郡内を搜し求める可し之旨、仰せ下被ると云々。

参考@封状は、捩り封書で、正式でない結文むすびぶみ。

現代語文治五年(1189)八月大二十六日癸丑。日の出の時間に、身分の低い者が一人旅館に来て、一通の手紙を投げ入れて、何処かへ逃げて行きました。
皆がこれは怪しいと云ってるので、手元に取り寄せご覧になると、表書きに、捧げます鎌倉殿〔侍所〕 泰衡敬って申すだとさ。
手紙の内容には、「伊予国司〔義経〕のことは、父の藤原秀衡入道が面倒を見ていたのです。泰衡には話の始まりは分かりません。父が死んだ後、貴方の命令どおり殺してしまいました。これは手柄と云えるのではありませんか。それなのに今は、罪も無いのに成敗されるのは何故なのでしょう。この被害にあって先祖代々の住居から離れ、山林におります。とっても悲しむべき事です。陸奥の国と出羽の国の両国は、既に制圧されたのですから、泰衡については許していただき、御家人に入れていただきたいのです。さもなければ、死罪一等を減じて流罪にでもしてください。もし、優しいお恵みを下されて、ご返事を戴けるのならば、比内郡
(秋田県大館市)に落として置いてください。その内容の是非によって、投降して走ってでも参ります。」との内容が書かれていました。
中原親能が御前で読み聞かせました。これによって色々な意見が出ました。
試しにご返事を比内の辺りに捨て置いて、分からないように強い侍を一人二人その辺りに隠しておいて、お手紙を拾いに様子を見に来た者が居れば、ひっとらえて泰衡の居る場所を聞き出すのはどうでしょうか。と土肥實平が申し出ましたが、「必要ない」と止めました。「返事の手紙を比内郡に置くようにと、泰衡が言ってきている以上は、軍隊はそれぞれにその郡内を捜し訪ねれば良いのだ」と、仰せになられましたとさ。

九月へ

吾妻鏡入門第九巻   

inserted by FC2 system inserted by FC2 system