吾妻鏡入門第九巻   

文治五年(1189)己酉十二月大

文治五年(1189)十二月大一日丙戌。二品若公御參鶴岡。御騎馬也。於宮寺。被奉神馬二疋。三浦十郎。和田三郎等引之。

読下し                                 にほん  わかぎみ つるがおか まい たま    おんきばなり   ぐうじ  をい    しんめ にひき  たてまつらる
文治五年(1189)十二月大一日丙戌。二品、若公、鶴岡へ參り御う。御騎馬也。宮寺に於て、神馬二疋を奉被る。

みうらのじうろう  わだのさぶろう ら これ  ひ
三浦十郎、和田三郎等之を引く。

現代語文治五年(1189)十二月大一日丙戌。頼朝様と若君(後の頼家8才)は鶴岡八幡宮へお参りされました。御乗馬です。八幡宮寺で馬を二頭寄付されました。三浦十郎義連と和田三郎宗実が引いていきました。

文治五年(1189)十二月大六日辛夘。依泰衡征伐事。猶可被行勸賞之趣。爲中納言經房奉。 院宣到來之間。重令辞申給。但奥州羽州地下管領間事。明春可有御沙汰歟之由被申之。又降人等事。可被下配流官府之趣。載一紙同言上給。依此事。今日被立飛脚也。
 相摸國 高衡〔可預之由。先日申上候訖〕 師衡 經衡 隆衡〔相待御定召置候〕
 伊豆國 景衡
 駿河國 兼衡
 下野國 季衡〔當時預置人候許也。不可依在所歟〕
 件輩。不可依當時之在所候歟。只被定下其國者。隨御定可配遣候也。

読下し                                やすひらせいばつ こと  よっ    なお けんじょう おこな れる  べ のおもむき  ちうなごんつねふさ うけたまは  な
文治五年(1189)十二月大六日辛夘。泰衡征伐の事に依て、猶 勸賞を行は被る可し之趣、 中納言經房の 奉りと爲し、

いんぜん とうらいのあいだ  かさ    じ   もう  せし  たま
院宣 到來之間、重ねて辞し申さ令め給ふ。

ただ  おうしゅう うしゅう   ぢげ かんりょう かん  こと みょうしゅん ごさた あ   べ   か の よしこれ  もうさる
但し奥州、羽州の地下管領の間の事、明春 御沙汰有る可き歟之由之を申被る。

また  こうじんら   こと  はいる   かんぷ  くだされ べ のおもむき   いっし  の   おな    ごんじょう たま
又、降人等の事、配流の官府を下被る可し之趣、一紙に載せ同じく言上し給ふ。

かく  こと  よっ    きょう ひきゃく   た   られ  なり
此の事に依て、今日飛脚を立て被る也。

  さがみのくに  たかひら 〔あず  べ   のよし  せんじつもう  あ そうらひをはんぬ〕  もろひら  つねひら  たかひら 〔ごじょう   あいま   め   お  そうろう 〕
 相摸國 高衡〔預く可し之由、先日申し上げ候訖〕 師衡 經衡 隆衡〔御定を相待ち召し置き候〕

  いずのくに   かげひら
 伊豆國 景衡

  するがのくに  かねひら
 駿河國 兼衡

  しもつけのくに すえひら 〔とうじ ひと   あず  お  そうろうばか なり   ざいしょ   よ   べからざるか 〕
 下野國 季衡 〔當時人に預け置き候許り也。在所に依る不可歟〕

  くだん やから  とうじ の ざいしょ  よ   べからざるか  ただ そ   くに  さだ  くださ   ば   ごじょう  したが はい  つか    べ  そうろうなり
 件の輩、當時之在所に依る不可@候歟。只其の國を定め下被れ者、御定Aに隨い配し遣はす可く候也。

参考@當時之在所に依る不可は、今預けられているところに関わらず。
参考A御定は、御諚で「おおせ」。

現代語文治五年(1189)十二月大六日辛卯。泰衡を征伐した事に対して、なおも表彰したいからと、中納言吉田経房が命を受けて書いた院からの手紙が届きましたが、今までどおり辞退を申されました。但し、陸奥と出羽両国の土地の管理に関しては、朝廷が来春にはお決めになられるようにと(頼朝様は)申し入れておられます。又、捕虜の扱いについては、流罪にする太政官布告を出してくれるように、同じ紙に書き乗せて上申しました。これ等の事について、今日伝令を発しました。(流罪先は)

 相模国が、高衡〔預かっていると先日申し上げております〕 師衡 経衡 隆衡〔裁決を待ってる間、預かってます〕
 伊豆国が、景衡。
 駿河国が、兼衡。
 下野国が、季衡〔現在、人に預けていますが、居る場所に関わらないように〕
 以上の連中は、今預けられている所に関わらず、流罪先の国を決めて下されれば、仰せに従ってその国へ流罪に致します。

文治五年(1189)十二月大九日甲午。此間。被建御厩〔十五箇間〕奥州駒中被撰上馬三十疋。始被立置之。景時可爲別當之由奉之云々。」今日永福寺事始也。於奥州。令覽泰衡管領之精舎。被企當寺花搆之懇府。且宥數万之怨靈。且爲救三有之苦果也。抑彼梵閣等。並宇之中。有二階大堂〔号大長壽院〕專依被摸之。別号二階堂歟。梢雲挿天之極碧落。起從中丹之謝。揚金荊玉之餝紺殿。剩加後素之圖。謂其濫觴。非無由緒云々。」又伊豆國願成就院北畔。爲被搆二品御宿舘犯土。忽掘出古額。其文。願成就院云々。星序之運轉。遠近雖難量。露點之鮮妍。蹤跡猶無消。凡件寺者。依泰衡征伐御祈。北條殿草創之。群黨逆乱。速伏白刄。兩國靜謐。併如丹祈。寺号又任御心願之所催。兼被撰定之處。重今依無一字之依違有自然之嘉瑞。即加修餝。可被用于當寺之額云々。誠是希代之嚴重。濁世之規摸。何事如之。以始察後。引古思今。佛閣之不朽。武家之繁營。不可違此額字者歟。

読下し                                かくのかん みんまや 〔じうごかけん〕    たてらる
文治五年(1189)十二月大九日甲午。此間。御厩〔十五箇間〕を建被る。

おうしゅう こま  うち  じょうめ さんじっぴき えらばれ  はじ    これ  たておかれ   かげときべっとう  な   べ   のよし  これ たてまつ   うんぬん
奥州の駒の中、上馬 三十疋を撰被、始めて之を立置被る。景時別當を爲す可し之由、之を奉ると云々。

きょう ようふくじ ことはじめなり  おうしゅう をい   やすひら かんりょうのしょうじゃ み せし    とうじ かこう の こんぷ  くはだ られ
今日永福寺 事始也。奥州に於て、泰衡 管領之精舎を覽令め、當寺花搆之懇府を企て被る。

かつう すうまんのおんりょう  なだ   かつう  さんうの くが   すく    ためなり
且は數万之怨靈を宥め、且は三有@之苦果を救はん爲也。

そもそも か  ぼんかくら のき  なら    の なか  にかいだいどうあ    〔だいちょうじゅいん  ごう  〕 もっぱ これ  も され    よっ  べつ    にかいどう  ごう     か
 抑、彼の梵閣等宇を並ぶる之中に二階大堂有り〔大長壽院と号す〕專ら之を摸被るに依て別して二階堂と号する歟。

しょううん そうてんの へきらく   きは    ちうたんの しゃよ   おこ   けいきんけいぎょくの こんでん かざ   あまつさ こうその ず   くは
梢雲 挿天之碧落Aを極め、中丹之謝B從り起り。掲金荊玉C之紺殿を餝り、剩へ後素D之圖を加う。

 そ  らんしょう  いは    ゆいしょ な    あらず うんぬん
其の濫觴の謂れ、由緒無きに非と云々。

また  いずのくに がんじょうじゅいん ほくはん   にほん  ごしゅくかん  かま  られ  ため  ぼんど    たちま  こがく   ほ  いだ
又、伊豆國 願成就院の北畔に、二品の御宿舘を搆へ被ん爲に犯土す。忽ち古額を掘り出す。

そ   ぶん がんじょうじゅいん  うんぬん
其の文、願成就院と云々。

せいじょの うんでん  えんきんはか がた   いへど   ろてんの せんけん  しょうせき なお き         な
 星序之運轉、 遠近量り難しと雖も、露點之鮮妍E、蹤跡F猶消えること無し。

およ  くだん てらは  やすひらせいばつ  おいのり よっ   ほうじょうどのこれ  そうそう
凡そ件の寺者、泰衡 征伐の御祈に依て、北條殿之を草創す。

ぐんとう  ぎゃくらん すみやか はくじん ふく    りょうごく せいひつ  あわ    たんき  ごと
群黨の逆乱、 速に白刄に伏し、兩國の靜謐、併せて丹祈の如し。

じごう また ごしんがんの もよお ところ まか    かね せんていせら のところ  かさ    いま いちじの  いい   な   じねんの きずい あ     よつ
寺号又御心願之催す所に任せ、兼て撰定被る之處、重ねて今一字之依違も無く自然之嘉瑞有るに依て、

すなは しょうしょく くは   とうじ の がくに もち  らる  べ    うんぬん  まこと これ  きだいのげんちょう  じょくせ の  きぼ   なにごと  これ  しか
即ち修餝を加へ、當寺之額于用い被る可しと云々。誠に是、希代之嚴重、濁世之規摸、何事か之に如ん。

はじ    もつ  のち  さつ  いにしへ ひ    いま  おも      ぶっかくのふきゅう  ぶけ の はんえい   かく  がくじ   たが  べからざるものか
始めを以て後を察し、古を引きて今を思うに、佛閣之不朽、武家之繁營、此の額字に違う不可者歟。

参考@三有は、欲界・色界・無色界の三界の生存である欲有・色有・無色有。
参考A
挿天之碧落は、屋根の梢が雲まで届くほど大きな建物を。
参考B中丹之謝は、心底からの感謝の念。
参考C揚金荊玉は、金を掲揚し玉を荊のように巡らす。つまり金銀宝石で豪華に飾る。
参考D後素は、絵画の異称《「論語」八佾の「絵事は素を後にす」から。「素」は、白色の絵の具の意》。kotobank.jpから
参考E鮮妍は、鮮やかで美しい。
参考F蹤跡は、事跡。

現代語文治五年(1189)十二月大九日甲午。ここへ来て、厩〔十五間〕を建てられました。奥州平泉から連れてきた馬のうちでも、上等の馬三十頭を選ばれて、初めて奥州馬専用の厩を建てられました。梶原平三景時が指揮担当をしたいと申し出ましたとさ。

今日が、永福寺建立を決めた最初です。奥州平泉で、泰衡が管理している寺院をご覧になって、この寺の建立を思い立ちました。一つは、今までの戦での死んだ数万の怨霊をなだめ、又、欲有・色有・無色有の三界に惑う苦悩を救うための供養なのです。じつは、平泉の寺院群の中に、二階建てに見える大きなお堂〔大長寿院と云います〕があります。もっぱらこれに似せているので、特別に二階堂と云うのでしょうか。屋根の梢が雲まで届くほど遥かにそびえている大きな建物なのです。心の底から感謝の念を起こして、金銀宝石で飾り立て、そればかりか、絵画を書き加えております。その事の起こりは、そういう訳なのであります。

話し変って、伊豆国の北条の願成就院の北隣に、頼朝様の別荘を建てようとして、造成工事で土を掘り返したら、なんと古い扁額が出てきました。それに書かれた文字は「願成就院」でした。夜空の星の運航や遠近は計り知れないけれども、目に見えている鮮やかな美しさは、その事跡を失なわれてはいないという事であろう。(仏教の力を語っている)おおよそこの寺は、泰衡を征伐するためのお祈りを捧げるために、北条時政殿が創立したのです。敵方の反抗も、簡単に刀の前に倒され、陸奥出羽両国が平定されたのも、すべてこの入念なお祈りどおりになりました。寺の名も、願い思ったとおりに、前もって選んでいたのに、一字の違いも無い思いがけないめでたい現象があったので、直ぐに綺麗に修理して、この寺の額に使いましたとさ。本当にこれは、すごく珍しい出来事で、この穢れた世にこれ以上の良い事がありましょうか最初の出来事で後の出来事を推測し、昔の事を参考に現在を考えると、仏閣が衰えない事も、武家が繁栄する事も、この額の因縁話にとおりになされるであろう。

説明永福寺は、頼朝が平泉中尊寺毛越寺を模倣し神奈川県鎌倉市二階堂216に建立した寺院。廃寺。その見かけが二階建てに見えたので「二階堂」と呼ばれ、それが地名となり、その地に住んだ藤原行政の子孫が「二階堂氏」となった。

文治五年(1189)十二月大十六日辛丑。戌剋月蝕。

読下し                                 いぬのこくげっしょく
文治五年(1189)十二月大十六日辛丑。戌剋月蝕。

現代語文治五年(1189)十二月大十六日辛丑。戌の刻(午後八時頃)に月食がありました。

説明月蝕は、陰陽的には災いの元で、その光を天皇や将軍は浴びてはいけない。その例が「竹取物語」の筵で館を囲み月の光が当たらないようにする。平安時代には月食の晩は、実際に天皇の紫寝殿を工事の養生テントのように筵で囲った。

文治五年(1189)十二月大十八日癸夘。御臺所御參鶴岡。是二品奥州御下向之時。有御立願之間。爲被果之也。日來聊依御憚等延引及今日。北條五郎殿被供奉。於宮寺有御神樂云々。

読下し                                   みだいどころ つるがおか まい たま
文治五年(1189)十二月大十八日癸夘。御臺所@鶴岡へ參り御う。

これ  にほん おうしゅう ごげこうの とき  ごりゅうがん あ  のあいだ  これ  はたされ  ためなり
是、二品 奥州御下向之時、御立願有る之間、之を果被ん爲也。

ひごろ  いささ おんはばか  ら  よっ  えんいん  きょう   およ    ほうじょうごろうどの ぐぶ され    ぐうじ  をい  おかぐら あ     うんぬん
日來、聊か御憚りA等に依て延引し今日に及ぶ。北條五郎殿供奉被る。宮寺に於て御神樂有りBと云々。

参考@御臺所は、政子で、頼朝の無事な帰還を祈願したので、それが無事にすんだので、そのお礼参りと思われる。
参考A憚りは、義弟の義經の死穢によると思われる。
参考B御神樂有りは、政子がスポンサーとして奉納したものと思われる。

現代語文治五年(1189)十二月大十八日癸卯。御台所政子様が、鶴岡八幡宮へお参りに行かれました。これは、頼朝様が奥州平泉へ下るときに、(御台所政子様がその無事を)願掛けしたので、このお礼参りをするためです。最近、ちょっと支障があって、延び延びとなり今日になってしまいました。北条五郎時連殿がお供をされました。八幡宮寺でお神楽を奉納しましたとさ。

文治五年(1189)十二月大廿三日戊申。奥州飛脚去夜參申云。有豫州〔義經〕并木曽左典厩〔義仲〕子息〔義高〕。及秀衡入道男等者。各令同心合力。擬發向鎌倉之由。有謳歌説云々。仍可分遣勢於北陸道歟之趣。今日有其沙汰。雖爲深雪之期。皆可廻用意之旨。被遣御書於小諸太郎光兼。佐々木三郎盛綱已下。越後信濃等國御家人云々。俊兼奉行之。

読下し                                   おうしゅう ひきゃくいんぬ よ  さん  もう    い
文治五年(1189)十二月大廿三日戊申。奥州の飛脚去る夜參じ申して云はく。

よしゅう 〔よしつね〕 なら     きそさてんきゅう  〔よしなか〕   しそく 〔よしたか〕 およ  ひでひらにゅうどう むすこら     もの あ
豫州〔義經〕并びに木曽左典厩〔義仲〕が子息〔義高〕及び秀衡入道が男等という者有り。

おのおの どうしんごうりきせし    かまくら  はっこう      ぎ    のよし   おうか  せつあ    うんぬん
 各、 同心合力令め、鎌倉へ發向せんと擬す之由、謳歌の説@有りと云々。

よっ  せいを ほくろくどう  わ   つか    べ  かのおもむき  きょう そ   さた あ
仍て勢於北陸道へ分け遣はす可き歟之趣、今日其の沙汰有り。

しんせつのご たり いへど   みなようい   めぐ    べ   のむね
深雪之期爲と雖も、皆用意を廻らす可し之旨、

おんしょを こもろのたろうみつかね  ささきのさぶろうもりつな いげ   えちご   しなのら   くにごけにん   つか  さる    うんぬん  としかねこれ  ぶぎょう
御書於小諸太郎光兼A、佐々木三郎盛綱B已下の越後、信濃等の國御家人に遣は被ると云々。俊兼之を奉行す。

参考@謳歌の説は、うわさ。
参考A小諸太郎光兼は、長野県小諸市。
参考B
佐々木三郎盛綱は、越後守護。加治庄地頭。

現代語文治五年(1189)十二月大二十三日戊申。奥州平泉からの伝令が夜、やってきて云いました。与州義経とも木曽左典厩義仲の息子義高とも、藤原秀衡の息子だとも名乗る男がおります。それぞれ力をあわせて、鎌倉へ向けて攻めようとしているとの、噂が流れていますなんだとさ。
そこで、軍勢を北陸道(新潟経由)へ派遣しようと審議がありました。深い雪の季節ではあるけれど皆、出発準備をするようにとの命令書を、
小諸太郎光兼、佐々木三郎盛綱を始めとする越後(新潟県)信濃(長野県)の在国御家人に出す事にしました。筑後権守藤原俊兼が担当です。

文治五年(1189)十二月大廿四日己酉。工藤小次郎行光。由利中八維平。宮六兼仗國平等。發向奥州。件國又物忩之由。依告申之。可致防戰用意之故也。

読下し                                    くどうのこじろうゆきみつ  ゆりのちうはちこれひら  きゅうろくけんじょうくにひらら  おうしゅう はっこう
文治五年(1189)十二月大廿四日己酉。工藤小次郎行光、由利中八維平、 宮六兼仗國平 等 奥州へ發向す。

くだん くに  またぶっそうの よし  これ  つ   もう     よつ    ぼうせん  ようい   いた  べ   のゆえなり
件の國も又物忩之由、之を告げ申すに依て、防戰の用意を致す可し之故也。

現代語文治五年(1189)十二月大二十四日己酉。工藤小次郎行光、由利中八維平、 宮六兼仗近藤七国平達が、奥州へ出発しました。一連の反乱者の噂で東北地方も危ないじゃないんじゃないかと、云ってきたので、反乱者との戦いに供えるようにとの事なのです。

文治五年(1189)十二月大廿五日庚戌。於伊豆相摸兩國者。永代早可知行之由。被仰下之間。二品已被申領状訖。又可上洛之由。同所被仰也。被申御返事云々。討平奥州畢。於今者。罷入見參之外。無今生余執。臨明年可參洛者。

読下し                                    いず   さがみ  りょうごく  をい  は   えいたい はやばや ちぎょうすべ  のよし  おお  くださる  のあいだ
文治五年(1189)十二月大廿五日庚戌。伊豆、相摸の兩國に於て者、 永代 早々と知行可し@之由、仰せ下被る之間、

にほん すで りょうじょう もうされをはんぬ  また  じょうらくすべ   のよし  おな    おお  らる ところなり  ごへんじ  もうさる    うんぬん
二品已に領状を申被 訖。 又、 上洛可し之由、同じく仰せ被る所也。御返事を申被ると云々。

おうしゅう  う  たいら をは  いま  をい  は   げざん  まか  い   のほか  こんじょう よしつ な    みょうねん のぞ  さんらくすべ  てへ
奥州を討ち平げ畢る今に於て者、見參に罷り入る之外、今生の余執無し。明年に臨み參洛可し者り。

参考@伊豆國相摸兩國於て者、永代に早く知行可しは、国司を推薦するようにの意。

現代語文治五年(1189)十二月大二十五日庚戌。伊豆と相模の二カ国の国司を早く推薦するように、言ってきたので、頼朝様は了承の返事をされました。
また、近いうちに京都へ上るからと云っている返事を出されましたとさ。「奥州平泉を統治した今となっては、法皇様にお目見えする以外には、他に望みもありません。来年には、京都へ参ります」とおっしゃられました。

文治五年(1189)十二月大廿六日辛亥。奥州降人等被配流事。今日十八日所被 宣下也。職事藏人大輔家實。上卿別當〔隆房〕弁權右中弁棟範朝臣云々。」自是所被進之飛脚。去十七日辰剋入洛。師中納言即依被 奏聞。翌日及此御沙汰。於兩國事者。明春可有沙汰之由云々。

読下し                                      おうしゅうこうじんら  はいる さる  こと   きょう じうはちにち せんげさる  ところなり
文治五年(1189)十二月大廿六日辛亥。奥州降人等を配流被る事、今日十八日 宣下被る所也。

しきじ  くろうどたいふいえざね   しょうけい べっとう 〔たかふさ〕   べん  ごんのうちうべんむねのりあそん  うんぬん
職事は藏人大輔家實。上卿は別當〔隆房〕。弁は 權右中弁棟範朝臣 と云々。

これよ   しん  らる  ところのひきゃく  いんぬ じうしちにち たつのこく じゅらく   そちのちうなごん すなは そうもんさる    よつ    よくじつ こ   おんさた   およ
是自り進ぜ被る所之飛脚、 去る 十七日 辰剋 入洛す。師中納言 即ち奏聞被るに依て、翌日此の御沙汰に及ぶ。

りょうごく  こと  をい  は   みょうしゅん さた あ   べ   のよし  うんぬん
兩國の事に於て者、明春 沙汰有る可く之由と云々。

現代語文治五年(1189)十二月大二十六日辛亥。奥州平泉の捕虜達を流罪にする事が、今月十八日に公示されました。実務担当は、蔵人大輔日野家実。議事の主席は、検非違使長官の隆房。行政担当は、権右中弁平棟範朝臣だそうです。こちらから行かせた伝令が先日の十七日辰の刻(午前八時頃)に京都入りしたので、師中納言吉田経房が、直ぐに法皇に取次いだので、翌日にはこの裁決に至ったのです。陸奥出羽の扱いについては、来春にお決めになられそうです。

文治五年(1189)十二月大廿八日癸丑。平泉内無量光院供僧一人〔号助公〕爲囚人參着。是慕泰衡之跡。欲奉反關東之由。依有風聞。所被召禁也。今日。以景時被推問子細之處。件僧謝申云。師資相承之間。C衡已下四代。皈依續佛法惠命也。爰去九月三日。泰衡蒙誅戮之後。同十三日夜。天陰。名月不明之間。
 昔にも非成夜の志るしにハ今夜の月し曇ねる哉
如此詠畢。此事更非奉蔑如當時儀。只折節懐舊之所催也。無異心云々。景時頗褒美之。則達此由二品。還有御感。厚免其身。剩被加賞云々。

読下し                     ひらいずみない むりょうこういん  ぐそう ひとり  〔じょこう   ごう  〕  めしうど  な   さんちゃく
文治五年(1189)十二月大廿八日癸丑。平泉内 無量光院の供僧一人〔助公と号す〕囚人と爲し參着す。

これ  やすひらのあと  した    かんとう  そむ たてまつ    ほっ     のよし  ふうぶん あ    よつ    め   きん  らる ところなり
是、泰衡之跡を慕い、關東を反き奉らんと欲する之由、風聞有るに依て、召し禁ぜ被る所也。

きょう   かげとき  もつ  しさい  すいもんさる  のところ  くだん そう しゃ  もう    い
今日、景時を以て子細を推問被る之處、件の僧謝し申して云はく。

 しし そうしょうのあいだ  きよひら いげ よんだい  きえ       ぶっぽう  えみょう  つ   なり
師資相承@之間、C衡已下四代の皈依をうけ佛法の惠命を續ぐ也。

ここ  いんぬ くがつみっか  やすひらちうりく こうむ ののち  おな    じうさんや   よ   てんくも   めいげつ あきらかざる のあいだ
爰に去る九月三日、泰衡誅戮を蒙る之後、同じく十三日の夜、天陰り、名月 不明 之間、

  むかし   あらずなるよ し       は こんや  つき  くもり   かな
 昔にも非成夜の志るしにハ今夜の月し曇ねる哉

かく  ごと  えい をはんぬ  こ   ことさら  とうじ   ぎ   べつじょ たてまつ あらず  ただ おりふし かいきゅうの もよお ところなり  いしん な    うんぬん
此の如く詠じ畢。 此の事更に當時の儀を蔑如 奉るに非、 只 折節 懐舊之 催す 所也。異心無しと云々。

かげとき すこぶ これ  ほうび    すなは こ   よし   にほん  たつ   かえっ ぎょかんあ    そ   み   こうめん  あまつさ しょう くは  らる    うんぬん
景時、頗る之を褒美し、則ち此の由を二品に達す。還て御感有り。其の身を厚免し、剩へ賞を加へ被ると云々。

参考@師資相承は、師匠から弟子へ、弟子からその又弟子へと伝えられること。

現代語文治五年(1189)十二月大二十八日癸丑。平泉の無量光院の平の坊さんが一人〔助公と云う〕囚人として護送されて来ました。この人は、泰衡の業績をしたって、関東に対し反抗しようとしているとの、噂があって逮捕されたのです。
今日、(侍所所司の)梶原景時に命じて、詳しい事を尋問させたら、その坊さんが謝りながら云いました。「師匠から弟子へ、その又弟子へと仏教が伝えられて来て、清衡から四代が帰依している仏法の奥義を受け継いで来ました。ここへ来て、先の九月三日に泰衡が殺されてしまったので、九月の十三夜の夜は曇っていて、明月を拝む事が出来ませんでしたので、

 昔にもあらずなるよの印には今夜の月し曇りぬるかな
(昔は既に失われてしまった夜ですね その証拠に今夜の月は曇って見えないではないですか)

このように、詩をよみました。このことは、現在をののしった訳ではありません。ただ単に、昔を偲んでいる気持なのです。特に反抗の心はありません」だとさ。
梶原平三景時は、とてもこの詩と心根を褒めて、直ぐに頼朝様にお知らせしました。(罪を攻めるどころか)かえって感激をされまして、その人を釈放し丁寧に扱われ、そればかりか褒美をお与えになられましたとさ。

吾妻鏡入門第九巻   

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