文治六年(1190)庚戌正月〔四月十一日改元建久元年
文治六年(1190)正月小一日丙辰。二品御參鶴岳八幡宮。御奉幣訖。還御之後。被行垸飯云々。 |
読下し にほん
つるがおかはいまんぐう おんまい ごほうへいおは かんごののち おうばん おこな らる うんぬん
文治六年(1190)正月小一日丙辰。二品、鶴岳八幡宮へ御參る。御奉幣訖り、還御之後。垸飯を行は被ると云々。
現代語文治六年(1190)正月小一日丙辰。頼朝様は、鶴岡八幡宮へ参りました。参拝されて、帰ってこられた後、御家人からのご馳走の振舞いを受けられました。
説明@元旦は、八幡宮へお参りする日と文治五年の正月に決めた。御奉幣の日。
説明A椀飯を提供した人の名がないので北条一族ではないようである。
文治六年(1190)正月小三日戊午。九郎藤次爲飛脚上洛。是鷲羽一櫃所被進仙洞也。去年可被進之處。自奥州遲到云々。」今日有御行始之儀。入御于比企藤四郎能員宅。越後守。駿河守。新田藏人。伊澤五郎。小山七郎〔役御劔〕以下候御共。 |
文治六年(1190)正月小三日戊午。九郎藤次@飛脚と爲し上洛す。是、鷲羽一櫃を仙洞へ進ぜ被る所也。
きょねん しん らる
べ のところ おうしゅう よ おそ いた うんぬん
去年、進ぜ被る可き之處。奥州自り遲く到ると云々。」
きょう みゆきはじめのぎ あ ひきのとうしろうよしかずたく に にゅうぎょ
今日、御行始之儀有り。比企藤四郎能員宅A于入御す。
えちごのかみ するがのかみ にったのくらんど いさわのごろう おやまのしちろう 〔ぎょけん えき 〕 いか
おんとも そうら
越後守。
駿河守。新田藏人。伊澤五郎。小山七郎〔御劔を役す〕以下御共に候う。
参考@九郎藤次は、安達藤九郎盛長の次男で大曽根時長。出羽国(現山形県山形市大曽根)。
参考A比企藤四郎能員宅は、鎌倉市大町の妙本寺の地。
現代語文治六年(1190)正月小三日戊午。九郎藤次大曽根時長は伝令として京都へ行きます。これは、鷲の羽根を上皇に献上する為です。去年献上する予定でしたが、東北からの納期が遅れたからです。
今日今年初めの外出式を行い、比企四郎能員の屋敷(たぶん妙本寺の地)へ入られました。越後守安田義資(信濃源氏)、駿河守太田広綱(源氏)新田蔵人義兼(上野源氏)、石和五郎信光(甲斐源氏)、小山七郎朝光〔太刀持ち〕以下の人々がお供をしました。
文治六年(1190)正月小四日己未。出雲國大社神主資忠。此間參候。而管領一社仁。出宮中。凌數日行程。下向已及兩度。太背御意之間。日來雖無御對面。今日。歸國之由依申之。偏奉優神慮。憖召御前。被付進御劔一腰於彼社云々。 |
読下し いずものくにたいしゃ
かんぬしすけただ こ かんさんこう
しか いっしゃ かんりょう じん たいしゃ
い すうじつ こうてい しの げこう すで
りょうど およ
而るに一社を管領するの仁、宮中を出で、數日の行程を凌ぎ、下向已に兩度@に及ぶ。
はなは ぎょい
そむ のかん ひごろ ごたいめん な いへど きょう
きこくの よし これ もう よつ
太だ御意に背く之間、日來、御對面無しと雖も、今日、歸國之由之を申すに依て、
ひとへ しんりょ ゆう たてまつ なまじい ごぜん め
ぎょけんひとこしを か しゃ ふ しん らる うんぬん
偏に神慮に優じ奉り、憖にA御前に召し、御劔一腰於彼の社に付し進ぜ被ると云々。
参考@兩度は、二度。
参考A憖には、しなくても良いことをわざわざやる。例、ナマジ止めるな夜の雨。
現代語文治六年(1190)正月小四日己未。出雲大社の神主の資忠が先日やってきました。
一つの神社を管理する者が、神社を空けて、何日もの旅行をして鎌倉へ下向することが二度にもなるので、頼朝様は良く思わないので、対面しませんでしたが、今日はもう国へ帰るというので、神社への崇敬の念を優先して、仕方無しに面前に呼んで、剣を出雲大社に献上するとお渡しになりました。
文治六年(1190)正月小六日辛酉。奥州故泰衡郎從大河次郎兼任以下。去年窮冬以來。企叛逆。或号伊豫守義經。出於出羽國海邊庄。或稱左馬頭義仲嫡男朝日冠者。起于同國山北郡。各結逆黨。遂兼任相具嫡子鶴太郎。次男於畿内次郎。并七千余騎凶徒。向鎌倉方令首途。其路歴河北秋田城等。越大關山。擬出于多賀國苻。而於秋田大方。打融志加渡之間。氷俄消而。五千餘人忽以溺死訖。蒙天譴歟。爰兼任送使者於由利中八維平之許云。古今間。報六親若夫婦怨敵之者。尋常事也。未有討主人敵之例。兼任獨爲始其例。所赴鎌倉也者。仍維平馳向于小鹿嶋大社山毛々佐田之邊。防戰及兩時。維平被討取畢。兼任亦向千福山本之方。到于津輕。重合戰。殺戮宇佐美平次以下御家人及雜色澤安等云々。依之在國御家人等。面々進飛脚。言上事由云々。 |
読下し おうしゅう
こやすひら ろうじゅう おおかわのじろうかねとう
いげ きょねん きゅうとういらい ほんぎゃく くはだ
文治六年(1190)正月小六日辛酉。奥州の故泰衡が郎從、大河次郎兼任@以下、去年の窮冬以來、叛逆を企て、
ある いよのかみよしつね ごう ではのくに うなべのしょう をい い ある さまのかみよしなか
ちゃくなん あさひかじゃ しょう
或ひは伊豫守義經と号して、出羽國海邊庄Aに於て出で、或ひは左馬頭義仲が嫡男の朝日冠者と稱し、
どうこくせんぼくぐん に た おのおの ぎゃくとう むす
同國山北郡B于起ち、 各、
逆黨を結ぶ。
つい かねとう ちゃくしつるたろう じなん をいくないじろう なら
ななせんよき きょうと あいぐ かまくらがた むか かどでせし
遂に兼任は嫡子鶴太郎、次男於畿内次郎并びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉方へ向ひ首途令む。
そ
みち かほく あきたじょう ら へ おおぜきやま こ たがこくふ に いで こ
其の路、河北C秋田城等を歴て、大關山Dを越へ、多賀國苻于出んと擬らす。
しか あきた
おおがた をい しが わた う とお
のかん こおり にはか き て ごせんよにん たちま
もつ できし をはんぬ
而るに秋田大方Eに於て、志加の渡りFを打ち融る之間、
氷 俄に消へ而、五千餘人忽ち以て溺死し訖。
てんけん こうむ か
天譴を蒙る歟。
ここ かねとう ししゃを ゆりのちゅうはちこれひら
の もと おく い
爰に兼任、使者於
由利中八維平G之許に送りて云はく。
ここん かん
ろくしん も めおと おんてき むく のもの じんじょう ことなり いま しゅじん かたき
う のれい あ
古今の間、六親H若しくは夫婦の怨敵に報いる之者、尋常の事也。未だ主人の敵を討つ之例有らず。
かねとうひと
そ れい はじ ため かまくら おもむ ところなりてへ
兼任獨り其の例を始めん爲、鎌倉へ赴く所也者り。
よつ これひら おがしまたいしゃやま ももさだ のへんに は むか ぼうせんりょうとき
およ これひら う とられをはんぬ
仍て維平、小鹿嶋大社I山毛々佐田J之邊于馳せ向ひ、防戰兩時に及びて、維平討ち取被畢。
かねとう また せんぼくやまもと のほう
むか つがる に いた かさ かっせん
兼任、亦、千福山本K之方へ向ひ、津輕L于到り、重ねて合戰し、
うさみのへいじ いか ごけにん およ ぞうしき
さわやすら さつりく うんぬん
宇佐美平次以下の御家人及び雜色澤安等を殺戮すと云々。
これ よつ ざいこく ごけにんら めんめん ひきゃく
しん こと よし ごんじょう うんぬん
之に依て在國の御家人等、面々に飛脚を進じ、事の由を言上すと云々。
参考@大河次郎兼任は、秋田県南秋田郡五城目町。
参考A出羽國海邊庄は、海辺庄は最上川南側で、立川町(現山形県東田川郡庄内町)・余目町(同左)・酒田市。
参考B山北郡は、秋田県仙北郡。
参考C河北は、山形県西村山郡河北町。
参考D大關山は花巻。
参考E大方は大潟だが、現在の南秋田郡大潟村は昭和に干拓し出来た町なので、この時代の大潟は細かく指定できない。ところが地元の方からの投書で「大潟は八郎潟のこと」と分った。それで、大潟村と名付けたのかもしれない(私の推測)。
参考F志加の渡りは、地元の方の投書では「八郎潟の東岸の鯉川あたり」だそうです。今まで書いていた秋田県雄勝郡羽後町鹿内は間違い。
参考G由利中八維平は、旧秋田県由利郡由理町。現由利本荘市。
参考H六親は、父母兄弟妻子。
参考I小鹿嶋大社は、
参考J毛々左田は、百三段ももさだ。秋田市新屋町割山、雄物川河口にある新屋海浜公園。ももさだとは、百三段というこの新屋浜の昔の呼び名。
参考K千福山本は、仙北山本郡で、地元の方の投書で理解できたので、訂正した。08.01.10
参考L津輕は、津軽半島の方と思われる。
現代語文治六年(1190)正月小六日辛酉。奥州藤原氏の故泰衡の家来大河次郎兼任以下が去年の十二月以来、反逆を計画し、義経だといって出羽の国の余目町に現れ、又は木曽冠者義仲の息子の朝日冠者(義高)と名乗って秋田県横手市で蜂起して、互いに連絡を取り合って、ついに兼任は、長男の鶴太郎次男の於畿内次郎(花巻)と七千余騎の兵を連れて、鎌倉方に向かって出発した。
その道は、河北村、秋田市などを通って大関山を越えて多賀城市の国府へ出ようとして、秋田、大潟(八郎潟)で東岸の志加の渡しを冑を冠って通っていたら急に氷が解けて、五千人以上が溺れ死んでしまいました。天罰が当たったのかしら。
ここで兼任は、伝令を由利中八惟平の所へ贈って伝えました。「昔から父母兄弟妻子や連れ合いの敵討ちをすることは普通である。しかし、主人の仇討ちをした例は聞いたことがない。兼任一人がその例を始めるので鎌倉へ行くのだ。」と伝えてきたので、由利中八惟平は男鹿真山神社・百三段のあたりへ駈けて行き、闘いは二度に渡り、由利中八惟平は討たれてしまいました。勝った兼任は仙北山本郡の方へ向かい津軽に着いて又もや戦い、宇佐美平次実政等の御家人と戦目付けの雑用の沢安を殺しましたとの事です。このことによって東北に住んでいる御家人達はそれぞれに鎌倉へ伝令を発して、事件の内容を報告しましたとの事です。
説明山本郡は、は出羽国にかつて存在した郡である。『日本三代実録』870年(貞観12年)12月8日条に郡名が初めて見えることから、平安時代初期に平鹿郡から分離したと推定されている。その後、南隣の平鹿郡、その南の雄勝郡とともに山北三郡と呼ばれ、『吾妻鏡』では仙北山本郡とされ、その後中世を通じて北部を仙北北浦郡、南部を平鹿郡と合わせて仙北中郡と呼ぶこともあった。近世に入り、佐竹氏が入部し領内の郡制を整備した際に仙北郡に呼称が統一され、これと同時に中世の檜山郡が山本郡と改称された。なおこれらの郡名の混乱の原因は、副川神社(国内最北の式内社)の比定地を政治的な理由により変更した佐竹氏の神社行政にあると見る見解がある。ウイキペディアから
文治六年(1190)正月小七日壬戌。去年奥州囚人二藤次忠季者。大河次郎兼任弟也。頗不背物議之間。已爲御家人。仍有被仰付事。下向奥州。於途中。聞兼任叛逆事。今日所歸參也。是雖爲兄弟。全不同意之由。爲顯貞心云々。殊有御感。早馳向于奥州。可追討兼任之旨。被仰含云々。忠季兄新田三郎入道。同背兼任參上云々。彼等參上之今。始依聞食驚之。可被發遣軍勢之由。及其沙汰。盛時行政等書召文。被下于相摸國以西御家人。存征伐之用意。可參上之趣也。 |
読下し きょねん おうしゅうめしうど
にとうじただすえ は おおかわのじろうかねとう おとうとなり
文治六年(1190)正月小七日壬戌。去年の奥州囚人二藤次忠季@者、大河次郎兼任の弟也。
すこぶ ぶつぎ
そむかずのかん すで ごけにん た
頗る物議に不背之間。已に御家人爲り。
よつ おお つ
らる こと あ おうしゅう げこう とちゅう をい かねとうはんぎゃく こと
き きょう きさん ところなり
仍て仰せ付け被る事有りて、奥州へ下向する途中に於て、兼任叛逆の事を聞き、今日歸參する所也。
これ きょうだいた いへど まった ふどういの よし ていしん
あらは ため うんぬん
是、兄弟爲りと雖も、全く不同意之由、貞心を顯さん爲と云々。
こと ぎょかん
あ はや おうしゅうに は むか かねとう ついとうすべ
のむね おお ふく らる うんぬん
殊に御感有り。早く奥州于馳せ向ひ、兼任を追討可し之旨、仰せ含め被ると云々。
ただすえ あに
しんでんさぶろうにゅうどう おな かねとう そむ
さんじょう うんぬん
忠季が兄の新田三郎入道は、同じく兼任に背き參上すと云々。
かれら さんじょうのいま はじ き め これ
おどろ よつ ぐんぜい はっけんせら べ のよし そ
さた およ
彼等が參上之今、始めて聞こし食し之を驚くに依て、軍勢を發遣被る可し之由、其の沙汰に及ぶ。
もりとき ゆきまさら
めしぶみ か さがみのくに いせい ごけにん に
くだせら せいばつの ようい ぞん さんじょうすべ のおもむきなり
盛時、行政等召文を書き、相摸國以西の御家人于下被る。征伐之用意を存じ、參上可し之趣也。
参考@二藤次忠季は、二桃枝。秋田県鹿角市八幡平字桃枝平。
現代語文治六年(1190)正月小七日壬戌。去年の奥州合戦で捕虜となった二藤次忠季は、大河次郎兼任の弟です。とても常識的なので、もう御家人となっています。ですから頼朝様から命令されたことがあって東北へ向かっていました。その途中で兄兼任の反乱の話を聞いて、今日鎌倉へ戻ってきたところです。
かれは兄弟ではあっても、全然兄に同意しない忠義心を現わすためだとの事です。特に頼朝様は気に入り、「早く奥州へ駈けて行き兼任を攻め滅ぼしなさい。」と、言い含めましたとの事です。
この忠季の別の兄の新田三郎入道は同様に兼任に反発して鎌倉へ参ったとの事です。彼等の参上で、初めて事の次第を頼朝様は知り、驚いて軍隊を派遣するように決められました。平盛時と二階堂行政に軍隊の召集の手紙を書いて、相模国より西の御家人に発しました。戦いの準備をして鎌倉へ来るようにとの事です。
文治六年(1190)正月小八日癸亥。依奥州叛逆事。被分遣軍兵。海道大將軍千葉介常胤。山道比企藤四郎能員也。而東海道岩崎輩。雖不相待常胤。可進先登之由。申請之間。神妙之旨被仰下。仍彼輩者。雖爲奥州住人。不存貳歟。各無隔心相具之。可遂合戰之趣。今日付飛脚。被仰遣奥州守護御家人等許云々。此外近國御家人結城七郎朝光以下。於在奥州所領之輩。不存可同道于一族等之旨。面々忩可下向由。被仰遣云々。 |
読下し おうしゅう
ほんぎゃく こと よつ ぐんぴょう わか つか さる
文治六年(1190)正月小八日癸亥。奥州
叛逆の事に依て、軍兵を分ち遣は被る。
かいどう だいしょうぐん
ちばのすけつねたね さんどう ひきのとうしろうよしかず なり
海道の大將軍は、千葉介常胤。
山道は、比企藤四郎能員也。
しか とうかいどう
いわさき やから つねたね あいまたず いへど せんと すす べ のよし
もうしうく のかん しんみょうのむねおお くださる
而るに東海道岩崎@の輩は、常胤を相待不と雖も、先登に進む可し之由、申請る之間、神妙之旨仰せ下被る。
よつ か
やからは おうしゅうじゅうにんた いへど ふたごころ ぞんぜざ か おのおの かくしん
な これ あいぐ かっせん と べ のおもむき
仍て彼の輩者、奥州住人爲りと雖も、 貳を 存不る歟。 各、隔心無く之を相具し合戰を遂げる可し之趣。
きょう
ひきゃく つ おうしゅうしゅご ごけにんら もと おお つか さる うんぬん
今日、飛脚に付け奥州守護の御家人等の許へ仰せ遣は被ると云々。
こ ほか きんごくごけにん ゆうきのしちろうともみつ いげ おうしゅう しょりょうあ のやから をい いちぞくらにどうどうすべ のむね ぞんぜず
此の外、近國御家人Aの結城七郎朝光以下、奥州に所領在る之輩に於ては、一族等于同道可し之旨を不存B、
めんめん いぞ げこう
すべ よし おお つか さる うんぬん
面々に忩ぎ下向可しの由、仰せ遣は被ると云々。
現代語文治六年(1190)正月小八日癸亥。東北の反乱に対して、軍隊を分けて派遣しました。常磐方面の海沿い(常磐線)の司令官は千葉介常胤、東北中通り(東北本線)沿いは比企四郎能員です。そうして、海岸沿いの岩手県和賀町の連中は、千葉介常胤の到着を待たずに進撃したいと申し出があったので、中々偉いものだと頼朝様がおっしゃられました。
そこで、「東北地方の侍だけれども、鎌倉に対し異心を持っていないのなら、それぞれ疑心なくお互いに一緒に戦いをするように。」と、今日伝令に託して、東北地方の御家人に通知をされましたとさ。この他、鎌倉近在の御家人達結城七郎朝光を始めとする東北に所領を持っている者たちについては、一族の大軍に従って行こうと考えずに、それぞれに急いで出発するように、申し付けられましたとの事です。
参考@東海道岩崎は、岩手県北上市和賀町岩崎。
参考A近國御家人は、鎌倉の近国の御家人。本来は近畿地方を指していたが、この吾妻を書いている時代には鎌倉周辺を指している。
参考B一族等于同道可し之旨を不存は、一族皆がそろって出かけるのを待っていては自分の領地が気がかりで戦がおろそかになるのを心配している。或いは、自分の領地を気にさせ、一族からの独立心をあおる頼朝得意の大豪族解体が奥にあるかもしれない。
文治六年(1190)正月小十三日戊辰。右武衛進書状。出雲國大社神主資忠。背叡慮。頻雖有勅喚。曾不應之。且以關東祈祷師振威。剩潜下向東國之由。有其聞之間。無左右無御計。可被改神職歟之旨。所被申合也。而可被改替否。更難計申。凡如此類事。非口入限之由。被報申之云々。」今日爲鎭奥州凶徒。可行向之由。被觸仰上野信濃等國御家人訖。次上総介義兼爲追討使發向。又千葉新介胤正承一方大將軍。爰胤正申云。葛西三郎C重者。殊勇士也。先年上総國合戰之時。相共遂合戰。今度又可相具之由欲被仰含云々。C重當時在奥州。可相伴于胤正之旨。被下御書於C重云々。此外。古庄左近將監能直。宮六{仗國平以下。有奥州所領之輩。大畧以首途云々。 |
読下し うぶえい
しょじょう しん
いずものくにたいしゃ かんぬしすけただ えいりょ そむ しきり ちょかん
あ いへど あえ これ おうぜず
出雲國大社
神主資忠、叡慮を背き、頻に勅喚有ると雖も、曾て之に不應。
かつう かんとう きとうし もつ い ふる
且は關東の祈祷師を以て威を振う。
あまつさ ひそか とうごく げこうの よし そ きこ あ のかん
そう な おんはか な しんしょく あらた らる べ
か のむね もう あわ らる ところなり
剩へ潜に東國へ下向之由、其の聞へ有る之間、左右無く御計り無く、神職を改め被る可き歟之旨、申し合せ被る所也。
しか
かいたいさる べ いな さら はか もう がた
而るに改替被る可きや否や、更に計り申し難し。
およ かく ごと たぐい こと くにゅう かぎ
あらざ のよし これ ほう もうさる うんぬん
凡そ此の如きの類の事、口入の限りに非る之由、之を報じ申被ると云々。」
きょう おうしゅう
きょうと しず ため ゆ むか べ のよし こうづけ しなのら くにごけにん ふ おお られをはん
今日、奥州の凶徒を鎭めん爲、行き向う可し之由、上野、信濃等の國御家人@に觸れ仰せ被訖ぬ。
つぎ
かずさのすけよしかね ついとうし な はっこう また ちばのしんすけたねまさ いっぽう だいしょうぐん うけたまは
次に上総介義兼、追討使と爲し發向す。又、
千葉新介胤正 一方の大將軍を承る。
ここ たねまさ
もう い かさいのさぶろうきよしげは
こと ゆうしなり
爰に胤正申して云はく。葛西三郎C重者、殊なる勇士也。
せんねん かずさのくに かっせんのとき あいとも かっせん
と このたびまた あいぐすべ のよし おお
ふく られ ほつ うんぬん
先年、上総國での合戰之時、相共に合戰を遂ぐ。今度又、相具可し之由、仰せ含め被んと欲すと云々。
きよしげ とうじ おうしゅう
あ たねまさに しょうばんすべ のむね おんしょを
きよしげ くださる うんぬん
C重は當時、奥州に在り。胤正于相伴可し之旨、御書於C重に下被ると云々。
こ ほか ふるしょうさこんしょうげんよしなお きゅうろくけんじょうくにひら いか おうしゅう しょりょうあ のやから たいりゃくもつ かどで うんぬん
此の外、古庄左近將監能直、 宮六{仗國平 以下、奥州に所領有る之輩。大畧以て首途すと云々。
参考@國御家人は、在国御家人。所領地滞在の御家人。他に在京御家人と在鎌倉御家人とがある。
現代語文治六年(1190)正月小十三日戊辰。右武衛一条能保から手紙がきました。出雲大社の神主の小国資忠は、後白河法皇の命令に背いて、何度もお召しがあるにもこれに答えないで、関東の祈祷師をしているからと威張っている。おまけに内緒で関東へ出かけていると噂もあって、(関東の祈祷師だと云っているので)安易に取り扱えないので、京都朝廷の持っている神職任命権を使って役を辞めさせてもよいかと聞いてきているところです。
そこで、止めさせるべきかどうかは、任命権の無い関東では尚更判断が難しい。そういう権限外のことには口出しをすることではないと返事を出されましたとさ。
今日、東北地方の謀反人を鎮圧するために行きなさいと、上野(群馬県)や信濃(長野県)の所領地滞在の御家人に命令を出されました。それから足利上総介義兼は、相手を討伐する司令官の追討使として出発しました。また、千葉新介胤正は別働隊の大将軍に任命されました。そこで千葉新介胤正は頼朝様に申し上げました。「葛西三郎清重は特に優れた勇者です。以前の上総国で合戦があった時、一緒に戦いをいたしました。今度も一緒に行くように、云って戴きたいのですが。」だとさ。葛西三郎清重は、現在東北地方におります。千葉新介胤正と同道するように、命令書を葛西三郎清重宛に出してくれたんだとさ。そのほかに、古庄(大友)左近将監能直、宮六{仗近藤七国平を始めとする、東北地方に領地を持っている者は、殆どが出発したんだとさ。
文治六年(1190)正月小十五日庚午。雨時々降。二品二所御進發也。」千葉小太郎。今度奥州合戰抽軍忠之間。殊有御感。被遣御書。但合戰不進于先登兮。可愼身之由。被載之云々。 |
読下し あめときどきふる にほん にしょ ごしんぱつなり
文治六年(1190)正月小十五日庚午。雨時々降。二品、二所@へ御進發也。」
ちばのこたろう このたび
おうしゅうがっせん ぐんちゅう ぬき のかん こと
ぎょかん あ おんしょ つか さる
千葉小太郎。今度、奥州合戰に軍忠を抽んず之間。殊に御感有り、御書を遣は被る。
ただ かっせん せんとに
すすまずして み つつし べ のよし これ
の らる うんぬん
但し合戰に先登于進不兮、身を愼む可し之由、之を載せ被ると云々。
参考@二所は、二所詣でといって箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でる。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝が平家討伐を祈願した神社。
現代語文治六年(1190)正月小十五日庚午。雨が時々降っています。頼朝様は、二所詣でに出発です。千葉小太郎成胤は、今度の奥州合戦に忠節を表わしたので、特にお褒めがあり、感状が送られました。但し、合戦では先頭に進むようなことをせず、その身を大事にするように書かれましたとの事です。
文治六年(1190)正月小十八日癸酉。御坐伊豆山。而御奉幣以前。葛西三郎C重去六日飛脚自奥州參着。申云。兼任与御家人。箭合已訖。御方軍士之中。小鹿嶋橘次公成。宇佐美平次實政。大見平次家秀。石岡三郎友景等所被討取也。由利中八維平者。兼任襲至之時。弃城逐電云々。飛脚差進二人之處。一人依病留途中云々。二品仰曰。使者申詞有相違哉。中八者定令討死歟。橘次者逐電歟。兩人共兼日知食其意趣之上。暗可察事也云々。則被返遣彼使者。先被發遣軍士訖。無殊事歟。各不可有驚動思之旨。被仰下云々。大見平次注進此間事。其状没後到來云々。 |
読下し いずさん おは しか ごほうへい
いぜん かさいのさぶろうきよしげ さぬ むいか ひきゃく
おうしゅうよ さんちゃく
もう い かねとうと ごけにん やあわ すで をはん
申して云はく。兼任与御家人、箭合せ已に訖ぬ@。
みかた ぐんしのなか
おがしまのきつじきんなり うさみのへいじさねまさ おおみのへいじいえひで いしおかのさぶろうともかげら
う とられ ところなり
御方の軍士之中、小鹿嶋橘次公成A、宇佐美平次實政B、大見平次家秀、石岡三郎友景C等討ち取被る所也。
ゆりのちゅうはちこれひらは かねとう
おそ いた のとき しろ す ちくてん うんぬん
由利中八維平者、兼任襲ひ至る之時、城を弃て逐電すと云々。
ひきゃく
ふたり さ すす のところ ひとり やまい よつ とちゅう
とど うんぬん
飛脚二人を差し進める之處。一人は病に依て途中に留まると云々。
にほん おお い ししゃ もう ことば そうい あ
や ちゅうはちは さだ う し せしめ か きつじは ちくてんか
二品仰せて曰はく。使者の申す詞に相違有り哉。中八者定めて討ち死に令ん歟。橘次者逐電歟。
りょうにんとも けんじつ
そ いしゅ し め のうえ あん さつ べ
ことなり うんぬん すなは か
ししゃ かへ つか さる
兩人共に兼日に其の意趣を知ろし食す之上、暗に察す可き事也と云々。則ち彼の使者を返し遣は被る。
ま ぐんし はっけんせら をはん こと こと
な か おのおの きょうどう おも あ
べからずのむね おお くださる うんぬん
先づ軍士を發遣被れ訖ぬ。殊なる事無き歟。 各、
驚動の思ひ有る不可之旨、仰せ下被ると云々。
おおみのへいじ
こ かん こと ちゅうしん そ じょう ぼつご
とうらい うんぬん
大見平次此の間の事を注進す。其の状没後に到來すと云々。
参考@箭合せ已に訖ぬは、戦始めの儀式が終った。戦が始まった。
参考A小鹿嶋橘次公成は、元伊予宇和島の武士で平知盛に仕えていたが、治承4年12月に父と供に見切りをつけ源氏へ下ってきた。弓作りの名人。
参考B宇佐美平次實政は、中伊豆町。
参考C石岡三郎友景は、常陸国、茨城県北茨城市中郷町石岡。
現代語文治六年(1190)正月小十八日癸酉。頼朝様は熱海の伊豆山権現(走湯神社)におられます。
それなのに、おまいり前に葛西三郎清重の六日に出発した使者が東北から着き、報告申し上げるには、大河次郎兼任との戦闘開始の鏑矢の射合いはすでにおわり、合戦が始まりました。見方の軍隊のうち、小鹿嶋橘次公成、宇佐美平次実政、大見平次家秀、石岡三郎友景たちは討ち取られました。由利中八維平は、大河次郎兼任が責めてきたときに城を捨てて逃げましたとの事です。伝令の二人のうち一人は病気の爲に途中で休んでいるとの事です。
頼朝様が、おっしゃられるには「伝令の云う事に間違いが在ると思う。由利中八維平はきっと討ち死にをした事だろう。小鹿嶋橘次公成は逃げた方だろう。二人を前々からその性格を知っていれば、推察できることだ。」との事でした。すぐにその伝令を返しました。「まづ軍隊を出発させたので、心配ないだろう。皆、慌てる必要はないぞ。」と仰せになられましたとさ。
大見平次家秀がこの間の事を書いてよこしましたが、その手紙は死んだ後に届きました。
文治六年(1190)正月小十九日甲戌。C重飛脚内一人。病已平滅之間。自路次今日參會于伊豆國府。言上合戰次第。事同于去十八日參着使之口状。但兼任相向小鹿嶋之時。橘次者逃亡。依得最前之使。中八者馳出合戰。殞命畢之由申之。御旨忽以苻合。人鳴舌云々。 |
読下し きよしげ ひきゃく うち ひとり やまいすで へいめつのかん
ろじ よ きょう いずこくふ に さんかい
文治六年(1190)正月小十九日甲戌。C重が飛脚の内の一人、病已に平滅之間、路次自り今日、伊豆國府@于參會し、
かっせん しだい ごんじょう
合戰の次第を言上す。
こと
さぬ じうはちにち さんちゃく つか のこうじょうに おな
事、去る十八日に參着の使ひ之口状于同じ。
ただ かねとう おがしま あいむか のとき きつじは
とうぼう
但し、兼任小鹿嶋Aへ相向う之時、橘次者逃亡す。
さいぜんのつかい え よつ ちゅうはちは
は い かっせん いのち おと をはん のよし これ もう
最前之使を得るに依て、中八者馳せ出で合戰し、命を殞し畢ぬ之由、之を申す。
おんむね たちま もつ ふごう ひと
した な うんぬん
御旨、忽ちに以て苻合す。人舌を鳴らすと云々。
参考@伊豆國府は、三島。
参考A小鹿嶋は、秋田県男鹿市。
文治六年(1190)正月小廿日乙亥。及晩自二所御歸着鎌倉。於向後御參詣者。先有御奉幣三嶋筥根等。自伊豆山。可有御下向之由。今度被定之。日來先御參伊豆權現處。於路次石橋山。覽佐奈田与一。豊三等墳墓。御落涙及數行。是件兩人。治承合戰之時。爲御敵被奪命訖。今更被思食出其哀傷之故也。此事。於御參道。殊可憚之由。御先達申行間。如此云々。 |
読下し ばん およ にしょ
よ かまくら ごきちゃく
こうご
ごさんけい をい は ま みしま はこね
ら ごほうへい あ いずさん よ ごげこう あ べ のよし このたび
これ さだ らる
向後の御參詣に於て者、先づ三嶋、筥根等へ御奉幣有りて、伊豆山自り、御下向有る可し之由、今度之を定め被る。
ひごろ ま
いずごんげん ぎょさん ところ ろじ いしばしやま をい
さなだのよいち ぶんざ ら ふんぼ み ごらくるい
すうぎょう およ
日來先づ伊豆權現へ御參の處。路次石橋山に於て、佐奈田与一、豊三等の墳墓を覽て、御落涙數行に及ぶ。
これ くだん りょうにん
じしょう かっせんのとき おんてき ため いのち うばわれをはん いまさら
そ あいしょう おも め い さる のゆえなり
是、件の兩人は、治承の合戰之時。御敵の爲に命を奪被訖ぬ。今更に其の哀傷を思い食し出で被る之故也。
こ こと
ごさんどう をい こと はばか べ のよし ごせんだつ もう
おこな かん かく ごと うんぬん
此の事、御參道に於ては、殊に憚る可し之由、御先達が申し行はるの間。此の如しと云々。
現代語文治六年(1190)正月小二十日乙亥。頼朝様は夜になって二所詣でから鎌倉へ帰って来ました。
今後の二所詣での参詣順は、まず三島・箱根にお詣り後に熱海から帰ってくることに、今回決められました。普段は、初めに熱海の伊豆山へ行かれるので、途中の石橋山で、佐那田余一義忠と豊三家康達の墓を見て、無念さを思い出し涙を流されるのです。この二人は、治承四年の石橋山合戦で敵の為に命を奪われました。今でも、そのことを可愛そうに思い出だされるからです。こういうことは、これから神様に詣でに行く途中なので、心静かに慎まなくてはならないことを、参詣案内人が頼朝様に申し上げるので、そういう事になりましたとの事です。
文治六年(1190)正月小廿二日丁丑。小諸太郎光兼者。已老耄之上。病痾纏身之由。雖聞食及。依爲殊勇士。今度重被差遣奥州。去年合戰之時。致功者也。彼時相具足之輩者。同從光兼可行向之旨。被仰云々。 |
読下し こもろのたろうみつかね は すで ろうもうのうえ
びょうあ み まと のよし
き め およ
いへど こと ゆうし な よつ このたび
かさ おうしゅう さ つか さる
聞こし食すに及ぶと雖も、殊なる勇士を爲すに依て、今度重ねて奥州へ差し遣は被る。
きょねん
かっせんのとき こう いた ものなり か とき あいぐそく のやからは おな みつかね したが ゆ
むか べ のむね おお らる うんぬん
去年合戰之時、功を致す者也。彼の時に相具足する之輩者、同じく光兼に從ひ行き向う可し之旨、仰せ被ると云々。
参考@小諸太郎光兼は、長野県小諸市。
現代語文治六年(1190)正月小二十二日丁丑。小諸太郎光兼は、既に年老いて、おまけに病気までしょいこんでいるとの事を聞かれておられますが、特別な勇士なので、今度も再び東北へ行くよう申し付けました。去年の奥州合戦でとても手柄を立てた人です。あの時に一緒に行動したものは、今回も同様に小諸太郎光兼に付いて一緒に行くようにと、命令されましたとの事です。
文治六年(1190)正月小廿四日己夘。去年合戰以後。預恩赦安堵私宅許之族。金剛別當郎等以下。悉以可追放之由。所被仰遣于奥州居住御家人等中也。 |
読下し きょねん かっせんいご おんしゃ
あずか したくばか あんどのやから
こんごうべっとうろうとう いか ことごと もつ
ついほうすべ のよし おうしゅうきょじゅう ごけにんら なかに
おお つか さる ところなり
金剛別當郎等以下、悉く以て追放可し之由、奥州居住の御家人等の中于仰せ遣は被る所也。
参考@私宅許りを安堵之族は、門田を含み食べていけるだけの分で、渇命所(かつめいどころ)という。流人時代の頼朝の蛭が小島も渇命所の郷である。
現代語文治六年(1190)正月小二十四日己卯。去年の奥州合戦の後、頼朝様から許されて、自分の家とその門田を従来どおり与えられていた連中は、金剛別当の家来達を始めとして、全て追い出すように、奥州に居住している御家人達へ命令を出されました。
疑問なぜ急に一旦恩赦した者達を追い出すのか、理解できない?或いは、彼らがひそかに大河次郎兼任と通じていると判断したのだろうか?又は、彼らがこの機会に蜂起でもするかもと、心配しているのであろうか?
文治六年(1190)正月小廿七日壬子。小鹿嶋橘次公成自奥州參上。是一旦遁兼任之圍。可廻計於外之由。令思慮之處。彼合戰之趣。有傍輩讒之由傳聞。令馳參云々。 |
読下し
おがしまのきつじきんなり おうしゅう
よ さんじょう
これ
いったん かねとうのかこみ のが はかりを ほか
めぐ べ のよし しりょせし のところ
是、一旦は兼任之圍から遁れ、計於外へ廻らす可し之由、思慮令む之處、
か
かっせんのおもむき ぼうはい ざん あ のよし つた き
は さん せし うんぬん
彼の合戰之
趣、傍輩の讒有る之由を傳へ聞き、馳せ參ぜ令むと云々。
現代語文治六年(1190)正月小二十七日壬子。小鹿嶋橘次公成が、奥州から鎌倉へやってまいりました。
それは、先日六日の戦いで大河次郎兼任から攻められ、多勢に無勢で危ういので一旦は兼任の攻撃から逃れて、別な方法で戦うように策略を考えましたが、その戦振りを他の御家人が悪く陰口をたたいていると聞こえたので、駆けつけてきましたとさ。
文治六年(1190)正月小廿九日甲申。被遣御使〔雜色〕於奥州。是凶賊雖融所領内。御家人等爲立一身之勳功。以無勢於所々無左右企合戰。不可失其利。假令相待客人。不可似儲駄餉於所領之儀。令發遣之士。令在國之輩。各々無偏執令同心。相逢于一所。凝僉儀可遂合戰之旨。以御書。今日所被觸仰御家人等之中也。維平所爲。雖似可賞翫。請大敵之日。聊無憶持歟之由。有沙汰。及此御書云々。于時公成遠慮可然歟云々。 |
読下し おんつかい〔ぞうしき〕を
おうしゅう つか さる
これ きょうぞく しょりょうない とお いへど ごけにんら いっしんのくんこう た ため
是、凶賊、所領内を融ると雖も、御家人等一身之勳功を立てん爲、
ぶぜい もつ しょしょ をい そう な
かっせん くはだ そ り
うしな べからず
無勢を以て所々に於て左右無く合戰を企て、其の利を失う不可。
けりょう
きゃくじん あいま だしゅう を しょりょう もう のぎ に べからず
假令@客人を相待ち、駄餉A於所領に儲くる之儀に似せる不可。
はっけんせし のし ざいこくせし
のやから おのおの へんしつな どうしんせし いっしょに あいあ せんぎ
こ かっせん と べ のむね
發遣令む之士、在國令む之輩、各々、偏執無く同心令め、一所于相逢ひ、僉儀を凝らし合戰を遂げる可し之旨、
おんしょ もつ きょう ごけにんらのなか ふ おお
らる ところなり
御書を以て、今日御家人等之中へ觸れ仰せ被る所也。
これひら
しょい しょうがんすべ に いへど たいてき
う のひ
維平の所爲は、賞翫可きに似たりと雖も、大敵を請くる之日、
いささ おくじ
な か のよし さた あ こ おんしょ およ うんぬん
聊か憶持B無き歟之由、沙汰有りて、此の御書に及ぶと云々。
ときに
きんなり えんりょ しか べ か うんぬん
時于公成が遠慮C然る可き歟と云々。
参考@假令は、たとえば。
参考A駄餉は、弁当。
参考B憶持は、思慮分別。
参考C遠慮は、遠くを見通す配慮。
これは、反乱軍が自分の領土を通ったからと云って、御家人がこの時とばかりに手柄を立てようと少ない兵であっちこっちで意味もなく合戦を始めれば、不利になってしまう。例えば、客を待たせておいて弁当を領内に求めるようなものだ。
鎌倉から派遣された軍隊も、東北に住んでいる軍隊も、それぞれこだわらずに心を合わせて、一箇所に集まり、軍儀を重ねて作戦を立てて合戦をするように、今日手紙で御家人たちに命令しました。
由利中八維平の行動は、一見誉められるように思えるが、大勢の敵に対しては、多少考えるべきだったと判断を下したので、この命令書を書く運びとなりました。そう言う訳だと、小鹿嶋橘次公成の深慮遠謀な行動は、良かった事なんだろうね。