吾妻鏡入門第十巻   

文治六年(1190)庚戌三月〔四月十一日改元建久元年

文治六年(1190)三月小一日乙夘。鶴岳大般若經轉讀。歴三十ケ日。今日結願。奉巻數二十部云々。又奥州凶徒等雖敗北。賊主兼任未知存亡。仍御家人等無左右不可參向之旨。被仰遣云々。

読下し                   つるがおか だいはんにゃきょう てんどく  さんじっかにち  へ    きょうけちがん    かんじゅにじゅうぶ たてまつ うんぬん
文治六年(1190)三月小一日乙夘。鶴岳の 大般若經の轉讀@。三十ケ日を歴て、今日結願す。巻數A二十部を奉ると云々。

また  おうしゅうきょうとら はいぼく   いへど   ぞくしゅ かねとう いま  そんぼう  し
又、奥州凶徒等敗北すと雖も、賊主兼任、未だ存亡を知らず。

よつ  ごけにん ら  そう  な   さんこう  べからずの むね  おお  つか  さる    うんぬん
仍て御家人等左右無く參向す不可之旨、仰せ遣は被ると云々。

参考@大般若經の轉讀は、災いの転換を祈る。
参考A
巻數は、お経の種類と回数の報告。

現代語文治六年(1190)三月小一日乙卯。鶴岡八幡宮で大般若経の略読みの勤めを三十日を経過して仕上げとしました。お経の回数は二十回拝んだとの事です。
一方、東北の反逆者達は負けましたけれども、大将の大河次郎兼任の生き死にがまだ分かりません。それなので、御家人達は安易に持ち場を離れて鎌倉へ向かってくることの無いよう、命令を伝えさせましたとさ。

文治六年(1190)三月小三日丁巳。鶴岳八幡宮法會如例。二品御出。

読下し                   つるがおかはちまんぐうほうえ れい  ごと    にほん ぎょしゅつ
文治六年(1190)三月小三日丁巳。鶴岳八幡宮法會、例の如し。二品御出す。

現代語文治六年(1190)三月小三日丁巳。鶴岡八幡宮での節句の法会は、何時もの通りです。頼朝様は出席なされました。

文治六年(1190)三月小九日癸亥。法金剛院領怡土庄事。可令去進地頭職給之由。度々被下 院宣畢。而奥州征伐之後。可随仰之趣。先日被獻御請文之間。義經泰衡滅亡畢。然而猶能盛法師難知行歟之由。有御沙汰。被下院宣今日到來云々。
 法金剛院領怡土庄地頭事。子細度々被仰畢。而去々年仰遣之處。奥州事切之後。可随重仰之由。令申給畢。於今者不及異儀事歟。加之。彼院領異他之上。能盛法師相傳所帶不知行之條。殊令歎申。非無其謂。不便聞食者也。不云是非。令止地頭給者。可宜事歟。依爲難去事。重所仰遣也。於委旨者。被仰含廣元畢。可令存知其旨給者。
 院宣如此。仍執啓如件。
     三月一日                權中納言藤
  謹上  源二位殿
   私啓
   地頭事。依令申置子細給。雖御猶豫候。至于此事。不便之由思食候也。尤可被停止候歟。爲御不審。所申候也。重謹言。

読下し                   ほうこんごういんりょう  いとのしょう  こと   じとうしき   さ   しん  せじ  たま  べ  のよし
文治六年(1190)三月小九日癸亥。法金剛院@領、怡土庄Aの事、地頭職を去り進じ令め給ふ可きB之由、

たびたび いんぜん くだされをはんぬ
度々、院宣を下被畢。

しか   おうしゅせいばつののち  おお    したが べ のおもむき  せんじつ おんうけぶみ けん  らる  のかん  よしつね  やすひら めつぼう をはんぬ
而るに奥州征伐之後、仰せに随う可き之趣、 先日、御請文を獻ぜ被る之間、義經、泰衡 滅亡し畢。

しかして なお  よしもりほっし ちぎょう  がた  か のよし  おんさた あ     くださる  いんぜん きょうとうらい    うんぬん
然而、猶、能盛法師C知行し難き歟之由。御沙汰有り。下被る院宣今日到來すと云々。

  ほうこんごういんりょう いとのしょう  じとう  こと  しさいたびたびおお  られをはんぬ
 法金剛院領、怡土庄の地頭の事。子細度々仰せ被畢。

  しか    おととし おお  つか    のところ おうしゅう ことき      ののち    かさ    おお    したが べ   のよし  もう  せし  たま をはんぬ
 而るに去々年仰せ遣はす之處。奥州、事切るる之後、 重ねて仰せに随ふ可し之由、申さ令め給ひ畢。

  いま  をい  は    いぎ   およばずことか  これ  くは    か  いんりょう た  こと    のうえ  よしもりほっしそうでん  しょたいちぎょうせざ  のじょう
 今に於て者、異儀に不及事歟。之に加へ、彼の院領他に異なる之上D、能盛法師相傳の所帶知行不る之條、

  こと  なげ  もう  せし
 殊に歎き申さ令む。

  そ  いはれ な  あらず  ふびん  きこ  め   ものなり   ぜひ  いはず   じとう   と   せし  たま  ば   よろし   べ   ことか
 其の謂無きに非。不便Eに聞し食す者也。是非を不云。地頭を止め令め給は者、宜かる可き事歟。

  さ   がた  こと た    よつ    かさ    おお  つか   ところなり  くは    むね  をい  は   ひろもと  おお  ふく  られをはんぬ
 去り難き事爲るに依て、重ねて仰せ遣はす所也。委しき旨に於て者、廣元に仰せ含め被畢。

  そ   むね  ぞんじせし  たま  べ   てへ     いんぜん かく  ごと    よつ  しっけい くだん ごと
 其の旨を存知令め給ふ可し者れば、院宣此の如し。仍て執啓件の如し。

           さんがつついたち                               ごんのちゅうなごんとう
     三月一日                權中納言藤F

    きんじょう   げんにいどの
  謹上  源二位殿

       し   けい
   私に啓すG

       じとう   こと  しさい  もう  お   せし  たま    よつ    ごゆうよそうろう  いへど   こ   ことに いた        ふびんのよし おぼ  め  そうろうなり
   地頭の事。子細を申し置か令め給ふに依て。御猶豫候と雖も。此の事于至りては、不便之由思し食し候也。

       もっと ちょうじせら  そうろうべ か   ごふしん   ため    もう そうろうところなり かさ    きんげん
   尤も停止被る候可き歟。御不審の爲にH、申す候所也。重ねて謹言す。

参考@法金剛院は、右京区花園扇野町に在り。鳥羽法皇建立。
参考A怡土庄は、筑前博多(福岡県怡土郡内で魏志倭人伝の伊都国)、元は原田種直領地平家没管領が関東御領になったので地頭を置いた。現実には執権が支配する。散在型荘園で、四至はない。領家は、仁和法金剛院。本家は後白河院。後に持明院系統で伝領。預所は藤原能成。待賢門院(鳥羽上皇の中宮で藤原障子)の近親者太宰大弐藤原經忠の斡旋で、在地領主達が連合して寄進した謂われる。145町貿易港今津を持つ。一旦頼朝は地頭を廃止するが、承久の乱後、地頭設置。
参考B去り進じ令め給ふ可きは、地頭職任命権を返納するよう要求してきている。
参考C能盛法師は、藤原氏で預所。本所は院。
参考D彼の院領他に異なる之上は、特に良い所なのに。
参考E不便は、不憫。
参考F權中納言藤は、藤原氏の吉田經房で初代関東申次。
参考G私に啓すは、個人的に云うならば。
参考H御不審の爲には、後白河上皇が不審がっているので。

現代語文治六年(1190)三月小九日癸亥。法金剛院の領地である怡土庄の事で、地頭職を廃止するように何度か院宣を出されていました。しかし、奥州合戦の後で、仰せのようにしましょうと、先日承諾文を京都へ出していましたが、義経泰衡が滅びて奥州合戦も終りました。しかし藤原能盛が地頭が威張っているのでちっとも支配できないと、後白河法皇からの命令があって、出された院宣が今日届きました。

 法金剛院の領地である怡土庄の事で、地頭を止めるように何度も命じました。一昨年の話では奥州の始末を終え次第言うとおりにすると云ってました。今になって反対にはいたしません。それよりか、あの院の領地は特に良い所なのに、能盛が代々続けて預所職でありながら治める事が出来ないと特に嘆いております。それも根拠の無い事ではありません。不憫に感じているのです。理屈を言わないで地頭を止めてくれればよいのですが、見逃しがたい事なので、重ねて命じているところです。詳しいことについては、大江広元に言い聞かしてあります。その事を良く理解して欲しいとの事ですので、院宣をこのとおりに言い伝えます。
          三月一日           権中納言吉田経

  謹んで申します   源二位頼朝殿

  個人的に言わせて戴くと、
詳しい事を聞かされたので躊躇しておられましたが、このことについては、後白河法皇が不憫に思っておられます。本当に止めてくれるかどうか不審を抱いているので、重ねてお伝えするところです。追伸します。

文治六年(1190)三月小十日甲子。大河次郎兼任。於從軍者。悉被誅戮之後。獨迫進退。歴花山。千福。山本等。越龜山。出于栗原寺。爰兼任着錦脛巾。帶金作太刀之間。樵夫等成恠。數十人相圍之。以斧討殺兼任之後。告事由於胤正以下。仍實檢其首云々。

読下し                   おおかはのじろうかねとう じゅぐん をい  は  ことごと ちうりくさる  ののち  ひと  しんたい  せま
文治六年(1190)三月小十日甲子。大河次郎兼任、從軍に於て者、悉く誅戮被る之後、獨り進退に迫り、

 けせん  せんぷく  やまもとら   へ     かめやま  こ    くりはらじ に いで
花山@、千福A、山本B等を歴て、龜山Cを越へ、栗原寺D于出る。

ここ  かねとう にしき  はばき  つ    こがねづく    たち   は    のかん  きこりら あやし  な    すうじゅうにん これ  あいかこ
爰に兼任、錦の脛巾を着け、金作りの太刀を帶く之間、樵夫等恠み成し、數十人で之を相圍み、

おの  もつ  かねとう  う   ころ   ののち  こと  よしを たねまさ いか   つ     よつ  そ   くび  じっけん    うんぬん
斧を以て兼任を討ち殺す之後、事の由於胤正以下に告ぐ。仍て其の首を實檢すと云々。

現代語文治六年(1190)三月小十日甲子。大河次郎兼任は、軍勢が全て殺されてしまった後、一人になって身体に窮まり、気仙沼、仙北郡、山本町などを通って、気仙沼の亀山を越えて、栗駒町の栗原寺(西沢上品寺)に出ました。大河次郎兼任は、綺麗な錦のスパッツ(ゲートル)をつけて、金で飾った刀を付けていたので、きこり達が手柄を立てようと数十人で囲んで、斧で叩き殺してしまった後で、その結末を千葉太郎胤正等の侍に届けたので、その首を確認しましたとさ。

参考@花山は、岩手県気仙郡か宮城県気仙沼?
参考A千福は、仙北町(宮城県?)?仙北市(田沢湖まわり角館等)も岩手県盛岡市仙北町。
参考B山本は、宮城県山本町?(千福・山本の名は正月六日の条にも出ているが、地域が違うので知ってる地名を書いたに過ぎないと思われる)
参考C龜山は、気仙沼市亀山(気仙沼大島内なので違う)。
参考D栗原寺は、宮城県栗駒町尾松字栗原西沢上品寺。

文治六年(1190)三月小十四日戊辰。右兵衛督〔能保〕書状到來。所被付廣元之使者也。被執進 院宣〔定長奉。〕并權中納言〔經房〕状等云々。其詞曰。
  二位卿被申條々事
 一 大内修造勸賞事
  委聞食畢。如此被申之上勿論歟。子細以廣元被仰畢。
 一 相摸伊豆兩國事
 雖何ケ國。知行不可爲過分。勳功重疊。超先規歟。相州事。猶有存旨者。可有沙汰。
 一 御馬廿疋被進事
  近年不及此程員數。所感思食也。毎事復舊歟。赤鹿毛馬事。只事次所被仰也。強不能尋求。戸立なと出來之躰。必可歴御覽歟。
 右。條々御氣色如此。仍上啓如件。
     三月五日        右大弁定長
  謹上  權中納言殿

読下し                     うひょうえのかみ 〔よしやす〕   しょじょうとうらい    ひろもとの ししゃ  ふ   らる ところなり
文治六年(1190)三月小十四日戊辰。右兵衛督〔能保〕が書状到來す。廣元之使者に付せ被る所也。

いんぜん 〔さだながほうず 〕  なら   ごんのちゅうなごん 〔つねふさ〕  じょうら  と   しん   らる   うんぬん   そ  ことば い
院宣〔定長奉る〕并びに權中納言〔經房〕が状等を執り進ぜ被ると云々。其の詞に曰はく。

    にいのきょう もうさる  じょうじょう こと
  二位卿申被る條々の事

 ひとつ だいだいしゅうぞう けんじょう こと
 一 大内修造の勸賞の事

    くは    き      め をはんぬ かく  ごと  もうさる  のうえ もちろん か   しさい  ひろもと  もつ  おお  られをはんぬ
  委しく聞こし食し畢。此の如く申被る之上勿論歟。子細は廣元を以て仰せ被畢。

 ひとつ  さがみ   いず りょうごく  こと
 一 相摸、伊豆兩國の事

  なんかこく  いへど   ちぎょうかぶんた  べからず  くんこう ちょうじょう せんき   こゆ  か
 何ケ國と雖も、知行過分爲る不可。勳功の重疊、先規に超る歟。

  そうしゅう こと  なお  ぞん    むね あ  ば    さた あ   べ
 相州の事。猶、存ずる旨有ら者、沙汰有る可し。

 ひとつ おんうまにじっぴきしん らる こと
 一 御馬廿疋進ぜ被る事

    きんねんこれほど いんずう およばず かん  おぼ  め  ところなり  ことごと   きゅう  ふく    か
  近年此程の員數に不及、感じ思し食す所也。事毎に舊に復する歟。

     あかかげ   うま  こと  ただこと ついで おお らる ところなり あながち たず もと     あたはず
  赤鹿毛の馬の事、只事の次に仰せ被る所也。強に尋ね求むるに不能。

    へたて    しゅつらいのてい   かなら ごらん  へ   べ   か
  戸立なと出來之躰は、必ず御覽を歴る可き歟。

  みぎ じょうじょう  みけしき かく  ごと    よつ しょうけいくだん ごと
 右の條々、御氣色此の如し。仍て上啓件の如し。

           さんがついつか                うだいべんさだなが
     三月五日        右大弁定長

   きんじょう   ごんのちゅうなごんどの
  謹上  權中納言殿

現代語文治六年(1190)三月小十四日戊辰。京都の一条能保からの手紙が届きました。大江広元の使者に託してよこしました。院宣〔定長が命を受けて聞き書きをしました〕と権中納言〔経房〕の手紙を届けてきました。

 頼朝様のおっしゃられる事柄に対して(の返事)
一つ 内裏の修理をした事に対する表彰の事(頼朝は断っている)
 詳しく話は聞きました。そのように云うことは最もなことでしょう。詳しいことは大江広元に話してあります。
一つ 相模、伊豆の二つの国を治める事
 何カ国を治めても、多すぎると云う事はありません。手柄が重なっているので、先例どおりにしましょう。相模の国の事でなお、要望があれば命を出しますよ。
一つ 馬を二十頭も献上した事
 最近これほどの沢山の馬を献上されたことはないので、有難く思っている。天皇家への忠誠の仕草が源平合戦以前に戻ってきているようだ。赤鹿毛の馬のこと(後白河のお気に入りの馬が行方不明になった)だが、ついでに話が出たことなので、本気で捜す必要はありません。毛並みが同じ馬が出て来た時は、必ずご覧になってください。
右の事柄についての上皇のご意向はこうなので、お伝えすることは、このとおりです。
     三月五日        右大弁定長
 謹んで差し上げます  権中納言殿

文治六年(1190)三月小十五日己巳。左近將監家景〔号伊澤〕可爲陸奥國留守職之由被定。住彼國。聞民庶之愁訴。可申達之旨。所被仰付也。

読下し                     さこんしょうげんいえかげ 〔いさわ  ごう 〕  むつのくに    るすしき   な   べ   のよし さだ  らる
文治六年(1190)三月小十五日己巳。左近將監家景@〔伊澤と号す〕陸奥國の留守職Aと爲す可し之由定め被る。

 か  くに  す      みんしょのしゅうそ  き     もう  たつ  べ   のむね  おお  つ   らる ところなり
彼の國に住みB、民庶之愁訴Cを聞き、申し達す可し之旨。仰せ付け被る所也。

参考@左近將監家景は、伊沢家景で、後に留守家景と名乗り、東北の大代名になる留守氏の祖。
参考A留守職は、本来国衙の在庁官人だが、ここでは鎌倉幕府東北方面総監部。
参考B彼の國に住みは、仙台市岩切。
参考C民庶之愁訴は、在家からの訴訟。年貢への不満。

現代語文治六年(1190)三月小十五日己巳。左近将監家景〔伊沢と申します〕を、陸奥国(東北地方)の幕府の代官としての留守職に任命することに決められました。かの国に住み着いて、民百姓の言葉を聴き、その統治内容を鎌倉へ伝えるように、命じられたのです。

文治六年(1190)三月小廿日甲戌。因幡前司廣元自京都參着。去年冬爲御使所上洛也。二品令申給條々。悉以有勅答。具言上其趣云々。亦付彼便宜。前大僧正公顯獻消息。去三日補天台座主訖。智證門人絶而無此例。仍山徒殊雖鬱申之。 勅命有限。請取 宣命。同六日上辞状云々。此僧正者二品御歸依僧也。八十一老後。有此慶賀云々。

読下し                   いなばのぜんじひろもと きょうと よ  さんちゃく   きょねん  ふゆ  おんし  な   じょうらく   ところなり
文治六年(1190)三月小廿日甲戌。因幡前司廣元京都自り參着す。去年の冬、御使と爲し上洛する所也。

にほん もう  せし  たま   じょうじょう  ことごと もつ ちょくとうあ    つぶさ そ  おもむき ごんじょう   うんぬん
二品申さ令め給ふの條々。悉く以て勅答有り。具に其の趣を言上すと云々。

また  か   びんぎ  つ   さきのだいそうじょうこうけん しょうそこ けん  さぬ みっか てんだいざす  ぶ をはんぬ  ちしょう  もんじんた  て かく  れい な
亦、彼の便宜に付け、前大僧正公獻消息を顯ず。去る三日天台座主に補し訖。智證@の門人絶へ而此の例無し。

よつ  さんと こと  これ  うつ  もう   いへど    ちょくめいかぎ  あ    せんめい  う   と     おな    むいか じじょう たてまつ  うんぬん
仍て山徒殊に之を鬱し申すと雖も、勅命限り有り。宣命を請け取り、同じき六日辞状を上ると云々。

こ   そうじょうは   にほん ごきえ   そうなり  はちじゅういち  ろうご  かく  けいが あ     うんぬん
此の僧正者、二品御歸依の僧也。八十一の老後に此の慶賀有りと云々。

参考@智證は、智証大師円珍で、天台座主に就任、天台密教を完成し、三井寺園城寺を復興して寺門派の祖となる。

現代語文治六年(1190)三月小二十日甲戌。因幡前司(大江)広元が、京都から帰りつきました。去年の11月から幕府の使者として京都へ行っていたのです。頼朝様が申し付けた事柄について、全て院からの返事がありました。広元は詳しくその内容を報告しました。また、この機会を利用して、前大僧正公献が手紙をよこしました。去る三日に天台座主(比叡山延暦寺筆頭長官)に任命されました智証大師円珍の門人は弟子の時代に比叡山から三井寺園城寺に分裂しているので、このような例はありません。それなので、比叡山の僧兵達が腹を立てて文句を言ったのですが、天皇家の命令は厳重なのです。ですからその命令を受け取って直ぐの六日には辞表を出しましたなんだとさ。この坊さんは、頼朝様が頼んでいる坊さんなのです。81歳になってこの名誉が有りましたとさ。

説明この記事の内容が「天台座主記115頁に」前大僧正公獻(本覚房)暦四箇日安芸守顕康子息 智証門徒、勝蓮阿闍梨潅頂弟子 文治六年庚戌三月四日任座主(年81)勅使少納言源雅房不及登山 南都受戒之人不可任座主之聞 覚忠僧正之時 事切了 しかるに公顕謬て任之ヨッテ大衆騒動之處 公顕者延暦寺受戒之人何爲訴訟哉之由 頻被下 院宣之間 無別儀同七日辞退 建久四年癸丑九月17日入滅 84歳

文治六年(1190)三月小廿五日己夘。兼任去十日被誅之由。奥州飛脚參申。又生虜及數十人云々。

読下し                     かねとうさぬ とおかちゅうさる  のよし  おうしゅう ひきゃくさん  もう    また  せいりょすうじゅうにん およ   うんぬん
文治六年(1190)三月小廿五日己夘。兼任去る十日誅被る之由、奥州の飛脚參じ申す。又、生虜數十人に及ぶと云々。

現代語文治六年(1190)三月小二十五日己卯。大河次郎兼任が先日の十日に殺されたと、東北からの伝令が申し上げました。又、捕虜は数十人も居るとの事だそうです。

四月へ

吾妻鏡入門第十巻   

inserted by FC2 system inserted by FC2 system