吾妻鏡入門第十巻   

文治六年(1190)庚戌四月〔十一日改元建久元年

文治六年(1190)四月大二日乙酉。鶴岳末社三嶋社祭如例。廣元爲奉幣御使。

読下し                   つるがおか まっしゃ みしましゃさい れい  ごと    ひろもとほうへい おんし   な
文治六年(1190)四月大二日乙酉。鶴岳の末社 三嶋社祭 例の如し。廣元奉幣の御使と爲す。

現代語文治六年(1190)四月大二日乙酉。鶴岡八幡宮の末社の三島神社の祭りは何時もの通りです。(大江)広元がお参りを代参しました。

文治六年(1190)四月大三日丙戌。同八幡宮祭也。二品令參給。流鏑馬。幸氏。盛澄。C近等射之。

読下し                   おな   はちまんぐうさいなり  にほんさん  せし  たま    やぶさめ ゆきうじ  もりずみ  きよちから これ  い
文治六年(1190)四月大三日丙戌。同じく八幡宮祭也。二品參ぜ令め給ふ。流鏑馬幸氏、盛澄、C近等之を射る。

現代語文治六年(1190)四月大三日丙戌。前日同様に八幡宮のお祭です。頼朝様はお参りになられました。
流鏑馬の奉納は、海野小太郎幸氏と諏方大夫盛澄、藤沢二郎清親が射ました。

説明幸氏、盛澄、C近は、三人とも諏訪一族。

文治六年(1190)四月大四日丁亥。美濃國内地頭佐渡前司重隆并堀江禪尼妨公領。爲令沙汰其事。召使則國入部之處。菊松。犬丸等公文。陵轢之由依有訴。被尋下之間。二品殊令驚申給。其状内々可被遣權中納言許之由云々。
 召使則國申
  爲美濃國菊松公文末友。犬丸公文延末。被陵轢則國身由事
 件兩公文等之所行。何遁罪科候哉。早以御使。被召末友。延末。可被罪科候也。いかにも可有御裁定候。於尼公地頭職者。不日令停廢。以他人令改補候畢。返々其恐不少候事也。彼尼公不當第一奇恠に候。今者任法可追出候。兼重隆〔佐渡前司〕御分國ニ居住して。公領方ニ致妨之。不當ニ候はんニ於ハ。頼朝可懸ニ候はす。罪科候者。被仰付御目代候て。流罪にも被行。いかにも御沙汰候はんを。今不可支申候也。國間事ニ狼藉なる事共候を。自然ニ頼朝不知候輩事を。一定訴。罷負候歟。依其恐候。度々所令言上候也云々。

読下し                   みののこくない   じとう  さどぜんじしげたか  なら    ほりえぜんに   くりょう  さまた
文治六年(1190)四月大四日丁亥。美濃國内の地頭佐渡前司重隆@并びに堀江禪尼、公領Aを妨ぐ。

そ   こと   さた せし    ため  めしつか  のりくに にゅうぶ    のところ  きくまつ  いぬまるら   くもん  りょうりゃくのよし うった  あ    よつ
其の事を沙汰令めん爲、召使いB則國 入部する之處、菊松C、犬丸D等の公文E、陵轢之由訴へ有るに依て、

たず  くださる   のかん  にほん こと  おどろ もう  せし  たま    そ  じょう  ないない  ごんのちゅうなごん  もと  つか  さる  べ   のよし  うんぬん
尋ね下被る之間、二品殊に驚き申さ令め給ふ。其の状、内々に權中納言の 許へ遣は被る可し之由と云々。

参考@佐渡前司重隆は、清和源氏満政流で美濃源氏の頭領、美濃国山田荘(大和村)。後に山田次郎重隆で出演。
参考A公領は、本所分で、国衙領。
参考B召使は、宮中で雑事に使われた、身分の低い官人。
参考C菊松は、糸貫郷菊松名。岐阜県本巣市三橋に糸貫中学校あり。(旧本巣郡糸貫町大字上保字菊松の説あり)。
参考D
犬丸は、糸貫郷犬丸名(岐阜県本巣市三橋・旧本巣郡糸貫町)で供に八条院領。
参考
E公文は、雜色程度の身分の文士。

  めしつか のりくにもう
 召使い則國申す

  みののくに きくまつ  くもん すえとも  いぬまる  くもん のぶすえ  ため   のりくに  み   りょうりゃくさる   よし  こと
 美濃國菊松の公文末友、犬丸の公文延末が爲に、則國が身を陵轢被るの由の事

  くだん りょうくもんら の しょぎょう  なん  ざいか   のが そうろうや はや  おんし  もつ    すえとも  のぶすえ  めされ  ざいか さる  べ  そうろうなり
 件の兩公文等之所行。何ぞ罪科を遁れ候哉。早く御使を以て、末友、延末を召被、罪科被る可く候也。

           ごさいてい あ   べ そうろう  あまぎみ  じとうしき   をい  は   ふじつ  ていはいせし   ほか  ひと  もつ  かいぶせし そうらひをはんぬ
 いかにも御裁定有る可く候。尼公の地頭職に於て者、不日に停廢令め、他の人を以て改補令め候畢。

  かえ  がえ    そ   おそ すくなからずそうろうことなり   か   あまぎみ  ふとうだいいち  きっかい そうろう  いまは ほう  まか  おいだすべ そうろう
 返す々すも其の恐れ 不少 候 事也。 彼の尼公は不當第一、奇恠に候。今者法に任せ追出可く候。

  かね    しげたか  〔さどぜんじ〕  ごぶんこく に きょじゅう      くりょうかたに これ  さまた いた    ふとうに そうら    に をいては
 兼ては重隆〔佐渡前司〕御分國ニ居住して、公領方ニ之を妨げ致し、不當ニ候はんニ於ハ。

  よりとも かか べきにそうらはず   ざいかそうらはば   おんもくだい  おお  つけられそうらひ  るざい   おこなはれ          ごさた そうら
 頼朝懸る可ニ候はす。罪科候は者、御目代に仰せ付被候て、 流罪にも行被、いかにも御沙汰候はんを、

  いまささ  もう べからずそうろうなり  くに かん  こと に ろうぜき    ことどもそうろう  じねんに よりとも しらず そうろう やから こと
 今支へ申す不可候也。 國の間の事ニ狼藉なる事共候を、自然ニ頼朝不知 候 輩の事を、

  いちじょううった まか お そうらは か   そ   おそ そうろう よつ  たびたびごんじょうせし そうろうところなり うんぬん
 一定訴へ罷り負ひ候ん歟。其の恐れ候に依て、度々言上令め候所也と云々。

現代語文治六年(1190)四月大四日丁亥。美濃国内の地頭の前佐渡守山田次郎重隆と堀江禅尼が、国衙領を横取りしました。その事を調べて指図するために、宮廷の雑事官人則国が現地へ入ってきた所、糸貫郷菊松名と犬丸名の現地管理人に袋叩きに合ったと訴えてきたので、調べさせた所、とんでもない出来事に頼朝様は驚きになられました。その内容の手紙を内々に師中納言吉田経房に送るように命じられましたとさ。

 出張雑事官人の則国の訴え
 美濃国内の糸貫郷菊松名の現地管理人末友と犬丸名の現地管理人延末の為に、則国が袋叩きにあった事について
 その二人の現地管理人の行為は、なんで罪を免れる事が出来ましょうか。早く別な使者を派遣して末友、延末を呼びつけて罰に服させるのが良いでしょう。どうぞご命令をされるように。堀江禅尼の地頭職は、即刻取上げて、他の人に変えて任命いたしました。ともかく、恐れ多いことでございます。その堀江禅尼は一番悪い奴でとんでもないことです。今となっては規則どおりに追い出してしまいました。又山田次郎重隆〔前佐渡守〕は、頼朝様の管理する国に住んでいながら、国衙領の年貢を横取りして不当な行為をしたのならば、頼朝が関わる事では有りません。罪があるのならば、国衙の代官に命じられて、流罪にでもするようにご命令を出されても、邪魔立ては致しません。国衙領の中で狼藉を行ったからといって、思いもよらない頼朝が知るわけも無い連中のやった事を、なんでも訴えてこられたって負い切れませんよ。それを恐れながら何度も申し上げているのであります。

だとさ。

文治六年(1190)四月大七日庚寅。被遣御書於下河邊庄司行平。有其召。是依可爲若君御弓師也。若君漸御成人之間。令慣弓馬之藝給之外。不可有他事。而可奉加扶持之輩。諸家雖有其數。行平適爲數代將軍後胤也。随而弓箭達者也。仍及此御沙汰。早可參上之趣。被載之云々。加之稱可駕之。被遣御厩御馬云々。

読下し                   おんしょを しもこうべのしょうじゆきひら  つか され  そ   めしあ
文治六年(1190)四月大七日庚寅。御書於下河邊庄司行平@に遣は被、其の召有り。

これ  わかぎみ おんゆみ し  た   べ    よつ  なり  わかぎみようや ごせいじん のかん  きゅうばのげい  な   せし  たま  のほか  たごと  あ   べからず
是、若君の御弓の師爲る可くに依て也。若君漸く御成人A之間、弓馬之藝に慣れ令め給ふ之外、他事有る不可。

しか     ふち   くは たてまつ ごと  のやから  しょけ そ   かず あ    いへど   ゆきひら たまた すうだいしょうぐん こういん  な  なり
而るに扶持を加へ奉る加き之輩、諸家其の數有りと雖も、行平、適ま數代將軍の後胤を爲す也。

したがって きゅうせん たっしゃなり よつ こ    ごさた   およ    はや  さんじょう べきのおもむき これ  の   らる   うんぬん
 随而 弓箭の達者也。仍て此の御沙汰に及ぶ。早く參上す可之趣。之を載せ被ると云々。

これ  くは  これ  が   べ     しょう   みんまや おんうま  つか  さる    うんぬん
之に加へ之に駕す可しと稱し、御厩の御馬を遣は被ると云々。

参考@下河邊庄司行平は、当世日本一の弓の名人。
参考
A若君漸く御成人は、壽永元年(1182)八月十二日誕生なので、数えの九歳。

現代語文治六年(1190)四月大七日庚寅。(頼朝様は)お手紙を下河辺庄司行平に出されて、呼びつけられました。
それは、若君(頼家)の弓の先生になって欲しいからです。若君もようやく大人になってきたので、弓馬の芸に慣れさせるようにするためで、他に何かある訳ではありません。それでも、若君の手伝いを出来る程の弓矢の芸を伝えている連中の、家系は沢山有りますけど、下河辺庄司行平は先祖が関東を治めた武人の子孫なのであります。ですから、弓矢の名人なのです。そこでこのような決断になった訳です。早く出てくるようにとの内容を書かれたたのだそうです。そればかりか、これに乗って来るようにと、御所の厩(うまや)の馬を一緒に送りましたとさ。

文治六年(1190)四月大九日壬辰。古庄左近將監能直。宮六兼仗國平等。于今在奥州。降人已下事。尋沙汰訖。能直近日依可歸參。國平同可參上之由申之。而討取雜色澤安之者。并同意餘黨事。又帶兵具之士人等事。能爲令糺断之。猶可在國之旨。今日注條々。被仰遣云々。

読下し                   ふるしょうさこんしょうげんよしなお  きゅうろくけんじょうくにひらら いまにおうしゅう あ
文治六年(1190)四月大九日壬辰。古庄左近將監能直@、 宮六兼仗國平等、今于奥州に在り。

こうじん いか   こと  たず  さた  をはんぬ よしなお きんじつきさんすべ    よっ    くにひらおな   さんじょう すべ のよし これ もう
降人已下の事、尋ね沙汰し訖。能直、近日歸參可きに依て、國平同じく參上可し之由之を申す。

しか    ぞうしきさわやす  う   と   のもの   なら    どうい     よとう   こと  また  ひょうぐ  たい     の どにん ら   こと
而るに雜色澤安を討ち取る之者、并びに同意する餘黨の事。又、兵具を帶する之士人等の事。

よ   これ  きゅうだんせし   ため  なおざいこくすべ のむね きょうじょうじょう  ちう     おお  つか  さる    うんぬん
能く之を糺断令めん爲、猶在國可し之旨。今日條々を注し、仰せ遣は被ると云々。

参考@古庄左近將監能直は、波多野の分家で大友(現小田原市東西大友)。

現代語文治六年(1190)四月大九日壬辰。古庄左近将監大友能直、宮六兼仗近藤国平達は、現在奥州におりますので、投降してきた捕虜の事などを手紙でお聞きになり、処理を命じました。その返事の中で、大友能直は近いうちに鎌倉へ戻る予定があり、それを聞いた近藤国平も鎌倉へ来たいと云って来ました。しかし、雑用の沢安を殺した犯人の事、又これに味方している連中の事、それに武器を手放さない土着民たちの事などを、きちんと片付けてしまうために、まだ奥州に居なさいと、今日、箇条書きにして命令を出されましたとさ。

建久元年(1190)四月大十一日甲午。若君始射小笠懸給。行平參上。獻御弓引目等之上。承別仰奉扶持之。三浦介進御的。千葉介奉御馬。小山田三郎献御鞍。八田右衛門尉進御行騰沓等。宇都宮左衛門尉朝綱進御水干袴。於南庭有此儀。朝政。遠元。重忠。重朝。義盛。景時等。依召候其砌。此外御家人等群參。三度射訖。下御。其藝禀性於天給之由。諸人感申之云々。二品賜盃酒於今日出仕之輩。行平賜御釼。依爲御弓師也。

読下し                     わかぎみはじ   こがさがけ   いたま     ゆきひらさんじょう  おんゆみ ひきめ ら   けん    のうえ
建久元年(1190)四月大十一日甲午。若君始めて小笠懸@を射給ふ。行平參上す。御弓、引目A等を獻ずる之上、

べつ  おお  うけたまは これ  ふち  たてまつ  みうらのすけおんまと  しん   ちばのすけおんうま たてまつ  おやまだのさぶろうおんくら  けん
別の仰せを承り之を扶持し奉る。三浦介御的を進ず。千葉介御馬を奉る。小山田三郎御鞍を献ず。

はったのうえもんのじょう おんむかばき  くつら   しん   うつのみやのさえもんのじょうともつな ごすいかんばかま しん    なんてい をい  かく  ぎ あ
 八田右衛門尉 御行騰B沓等を進ず。 宇都宮左衛門尉朝綱 御水干袴を進ず。南庭に於て此の儀有り。

ともまさ  とおもと  しげただ  しげとも  よしもり  かげときら めし  よっ  そ  みぎり そうらう  こ  ほか ごけにんら ぐんしゅう
朝政、遠元、重忠、重朝、義盛、景時等召に依て其の砌に候。此の外御家人等群參す。

みたび いをは    さが  たま    そ   げい  しょうをてん  う   たま  のよし  しょにんこれ  かん  もう    うんぬん
三度射訖りて下り御う。其の藝、性於天に禀け給ふ之由、諸人之を感じ申すと云々。

にほん はいしゅを きょうしゅっしのやから たま    ゆきひらぎょけん たま      おんゆみ  し   な     よっ  なり
二品盃酒於今日出仕之輩に賜ふ。行平御釼を賜はる。御弓の師を爲すに依て也。

参考@小笠懸は、流鏑馬同様走る馬から射るが、女手(めて)の足元に的を置く。
参考A引目は、鏑矢の矢尻をはずしたもので、正面から見ると鏑の鳴り穴が蛙の顔に似ている為そう呼ぶ
参考B行騰は、乗馬の際に袴の上から履く皮の上掛け、ローハイド。

現代語建久元年(1190)四月十一日甲午。若君頼家様が始めて小笠懸を射てみました。下河辺庄司行平が来て、弓と鏃の無い小さな鏑の付いた「引目矢」を献上し、特別に命じられて、面倒を見ながら手伝いをしました。
三浦介義澄は的を献上し、千葉介常胤は馬を捧げ、小山田三郎重成(稲毛)は鞍を献上しました。八田右衛門尉知家は、乗馬袴の行縢(むかばき)と乗馬沓を進め、宇都宮左衛門尉朝綱は水干と袴のセットを献上しました。御所の南庭でこの儀式をしました。
小山朝政、足立遠元、畠山重忠、小山田重朝(榛谷)、和田義盛、梶原景時達は、呼ばれてその場に来ております。其の他にも御家人達が大勢集っています。三回弓を撃ち終わって、控えに下がられました。その芸の腕たるや、さすがに武家の棟梁の家、生まれながらに天から才能を与えられておられると、皆関心して言っておりましたとさ。頼朝様は、今日来ている連中に酒を振舞われました。下河辺行平には、刀をお与えになりましたのは、頼家の弓の師匠だからなのです。

説明この日に、京都では改元をしている。大地震による。出典は晋書「建久安於万歳、垂長世於元窮矣」(元号事典から)

建久元年(1190)四月大十八日辛丑。美濃國犬丸。菊松。高田郷等地頭對捍乃貢事。同國時多良山地頭玄番助藏人仲經不從神事由事。就在廳申状。被下 院宣之間。二品所被遣下文也。
 下 美濃國犬丸菊松高田郷之地頭等
 右。犬丸。菊松之地頭。〔字美濃尼上〕高田郷地頭〔保房〕等。如私領知行。不致所當以下勤之由。依在廳訴申。自院被仰下。仍可致勤之由。度々下知。猶以對捍之間。重所被仰下也。然者。度々 院宣。其恐不少。於今者。件兩人地頭職。可改補他人也。早可退出郷内之状如件。以下。
     文治六年四月十八日
 下 美濃國時多良山地頭仲經
  可早任先例并留守所催令勤仕恒例佛神役事
 右件課役。不致其勤之由。在廳等經 奉聞。仍自院所被仰下也。自今以後。無懈怠可致其勤。若猶有難澁事者。爭遁過怠哉。更不可緩怠之状如件。以下。
     文治六年四月十八日

読下し                     みののくに いぬまる  きくまつ  たかだごうら   ぢとう    のうぐ   たいかん   こと
建久元年(1190)四月大十八日辛丑。美濃國犬丸@、菊松A、高田郷等の地頭、乃貢Cを對捍Dする事、

どうこく ときたらさん じとう げんばのすけくろうどなかつね  しんじ  したが ざる  よし  こと
同國時多良山地頭 玄番助藏人仲經、神事に從は不の由の事、

ざいちょう もうしじょう つ     いんぜん  くださる  のかん にほんくだしぶみ つか さる  ところなり
在廳の申状に就き、院宣を下被る之間、二品下文を遣は被る所也。

参考@犬丸は、糸貫郷犬丸名(岐阜県本巣市三橋・旧本巣郡糸貫町)で供に八条院領。
参考A菊松は、糸貫郷菊松名。岐阜県本巣市三橋に糸貫中学校あり。(旧本巣郡糸貫町大字上保字菊松の説あり)。
参考B高田は、岐阜県養老郡養老町高田。
参考C乃貢は、年貢、税金。
参考D對捍は、「反対する」が「無視する」となり、滞納の事を指す。
参考E時多良山は、岐阜県養老郡で昭和30年(1955)に時村と多良村他が合併して上石津村となり、現大垣市上石津町三ツ里に多良小学校あり。

  くだ    みののくにいぬまる  きくまつ  たかだごう の じとう ら
 下す 美濃國犬丸、菊松、高田郷之地頭等

  みぎ  いぬまる  きくまつ の じとう 〔 あざ   みののあまうえ 〕  たかだごう じとう  〔やすふさ 〕 ら   しりょう  ごと  ちぎょう
 右、犬丸、菊松之地頭〔字は美濃尼上〕高田郷地頭〔保房〕等、私領の如く知行し、

  しょとう いか    つと    いた  ざるのよし  ざいちょう うった  もう    よつ    いんよ   おお  くださる
 所當以下の勤めを致さ不之由、在廳が訴へ申すに依て、院自り仰せ下被る。

  よっ  つと    いた  べ   のよし  たびたび げち    なおもっ  たいかんの かん  かさ   おお  くださる ところなり
 仍て勤めを致す可し之由、度々下知す。猶以て對捍之間、重ねて仰せ下被る所也。

  しからば たびたび いんぜん  そ   おそ  すく からず  いま  をいては  くだん りょうにん じとうしき     ほか  ひと  かいぶすべ  なり
 然者、度々の院宣、其の恐れ少な不。今に於者、件の兩人が地頭職を、他の人に改補可き也。

  はや  ごうない  たいしゅつすべ のじょうくだん ごと   もつ  くだ
 早く郷内から退出可し之状件の如し。以て下す。

          ぶんじろくねんしがつじうはちにち
     文治六年四月十八日

  くだ    みののくに  ときたらやま  じとう なかつね
 下す 美濃國時多良山の地頭仲經

    はや    せんれいなら   るすどころ  もよお   まか    こうれい  ぶっしん  えき  きんじ せし  べ   こと
  早く、先例并びに留守所の催しに任せて恒例の佛神の役を勤仕令む可き事

  みぎ くだん  かえき  そ   つと  いた  ざるのよし  ざいちょうら そうもん  へ     よつ  いんよ   おお  くださる  なり
 右、件の課役、其の勤め致さ不之由、在廳等 奉聞を經る。仍て院自り仰せ下被る也。

  いまよりいご    けたい な   そ   つと    いた  べ     も     なお  なんじゅう こと あ  ば  いかで けたい  のが    や
 自今以後、懈怠無く其の勤めを致す可し。若し、猶も難澁の事有ら者、爭か過怠を遁れん哉。

  さら  かんたい べからずのじょう  くだん ごと    もつ  くだ
 更に緩怠す不可之状、件の如し。以て下す。

          ぶんじろくねんしがつじうはちにち
     文治六年四月十八日

現代語建久元年(1190)四月十八日辛丑。美濃国の犬丸、菊松、高田郷等の地頭が、年貢を滞納した事、又、同国時多良山の地頭の玄番助蔵人仲経が通常の課役である神仏への納税をしなかった事など、国衙の在庁官人の訴えの手紙については、後白河法皇が文書で通知してこられたので、頼朝様から命令書を出されたのです。

 命令する 美濃国の犬丸、菊松、高田郷の地頭たちへ
 右の犬丸、菊松の地頭〔呼び名を美濃尼上〕と高田郷の地頭〔高田保房〕達は、自分達だけの領地のように支配して、決められている年貢や勤労奉仕をしないと、国衙の役人が訴えて来ていると、後白河院から云ってこられました。そこで、ちゃんと納税するように何度も命じています。それなのに尚も滞納しているので、重ねて命じているのです。だから、何度も院から云われるのは恐れ多い事です。今となっては、二人の地頭を他の人に取り替えます。早く郷の土地から立ち去るようにとの命令はこの通りです。命じる。
  文治六年四月十八日

 命令する 美濃国時多良山の地頭玄番助蔵人仲経
 早く、先例や留守所の言うとおりに、通常の義務の神仏への神事祭礼をきちんと勤めるべきこと
 右は、其の決められた年貢の納付をしていないと国衙の在庁官人が院へ訴えたので、院から苦情が来ました。今から以後は、怠けることなく、その納付をするようにしなさい。もし、なおも渋ったりしたならば、どうして罪を逃れる事が出来ようか。だから滞納しないようにとの命令はこの通りです。命じます。
 文治六年四月十八日

説明私領の如くと留守所は、この言葉からこの時期には未だ国衙の管理が活きている事が分かる。

建久元年(1190)四月大十九日壬寅。造太神宮役夫工米地頭未濟事。頻有職事奉書。神宮使又參訴之間。可致不日沙汰之旨。下知給。於有子細所々者。今日令注進京都給。因州并盛時俊兼等奉行之。其状云。
   内宮役夫工作料未濟成敗所々事
 信濃國  越後國
  件兩國未濟。付前國務沙汰人。可令究濟之由。与書状於神宮使畢。
 伊豆國  駿河國
  件未濟可致沙汰之由。令下知國沙汰人畢。但庄々所課。雖支配。不能國使之催促。早定使可令相催庄家也。重計事令下知畢。
 河内國 新關 冨嶋 三野和 長田
 摂津國 平野 安垣
  下知景時處。返事如此。相副之。
 同國 安冨
  相尋早河太郎遠平處。件所一切不知行之由申之。然者可被尋之。
 同國 武庫庄
 美濃國 小泉御厨 椎加納 大井戸加納
 尾張國 松枝保 御器所 長包庄
 伊勢國 新屋庄
 備前國 西院寺
  已上九ヶ所。以消息。別觸申右兵衛督畢
 近江國 頓定(宮)
参考頓定は、頓宮の間違い。
  下知親能畢。
  野間
  其所不覺悟之上。不知行之由。定綱申之。然者。能可被尋也。仍不能下知。
  報恩寺 同余田
  究濟由。成勝寺執行法橋昌寛申之。
 美濃國 蜂屋庄
  成勝寺執行昌寛陳状相副之。此外所々書抄注文。所相副下文也。
 上野國 常陸國 下野國
  三ケ國相副別使者於使。入遣畢。抑上野國白井河内分。去年冬使請取之畢。早可被尋請使也。
 伊賀國 鞆田 出作
  非家人知行之所。付本所可有沙汰歟。此外所々。載注文相副下文。
 伊勢國 小倭庄
  下知廣元畢。
  岡本 安冨 感神院
  阿射賀御厨
  志礼石御厨
  洞田御厨
  非知行所。阿射賀。志礼石。雖爲没取領。自院分給本領主云々。但於阿射賀者。補地頭所也。然者可加下知也。此外所々注文之上。相副下文。
 志摩國
  答志嶋〔淳和院〕 菅嶋〔本宮御領〕
  佐古嶋
  不知行所也。其中。菅嶋。佐古嶋地頭不分明。若依爲所々小名。獨不得其名所歟。此外所々下文上。相副請文。
美作國
  平大納言信國知行分。地頭前隼人佐康C。
  古岡北保 地頭相逢使弁濟畢。
  西高同郷 在下文。
  布施郷 下知親能畢。
  西美和 下知畢。
 尾張國 侍從押領
  不知行所也。此外所々成下文副注文。
 紀伊國 湯橋
  以消息。下知熊野尼上。
 淡路國
  國分寺 下知横山權守時廣。
  廣田郷 下知大和前司重弘。其状相副之。
 阿波國 高越寺 下知親能畢。
 土佐國 吾河 遣消息於若宮別當法橋。
 參河國 成下文。副注文。
 備中國 狹尾辺
  件未濟。早可致究濟之由。含地頭守定。仍又以使者申領家由所申也。
 備後國 歌嶋
  家C乍爲地頭。自大炊寮妨之云々。付寮可有其催也。
 周防國 津和地
  沙汰人行能相向使弁濟畢。
 長門國
  親能知行所。令下知畢。
 但馬國
  平大納言信國以消息直下知山城守實道。
 出雲國 飯生庄 在下文。
 若狹國 江取 下知丹後局畢。
 越前國
  鳥羽 得光 丹生北 春近 成勝寺執行相逢使。究濟畢由申之。
  藤嶋保 以牒状觸平泉寺。
 越中國 弘田御厨 同加納
  給主惟幸相向使。可究濟由申之。件所々。任造宮使注文。所々令成敗也。
 抑此内別紙注分所廿ケ所事。家人知行地内。未請取配苻庄々。同分之由分明也。就之尋子細。造宮始之後。至于今不付配苻云々。然者。非地頭對捍之儀歟。成于今被始催之條。若是爲吹毛歟。就中國々國司。庄々領家者。大畧在京也。先被催國司領家者。又可下知國衙庄家。其時号地頭之對捍。直及奏達。又令觸遣事。其理可然乎。以于今不催之所無分別。家人地頭未濟之由。被注申之條。未知其理矣。
    文治六年四月十九日

読下し                     ぞうだいじんぐう  やくぶくまい    じとう みさい  こと  しき    しきじ   ほうしょあ
建久元年(1190)四月大十九日壬寅。造太神宮の役夫工米@、地頭未濟Aの事。頻りに職事の奉書有り。

じんぐうし   またさんそ のかん  ふじつ    さた いた  べ   のむね   げち   たま
神宮使、又參訴之間。不日に沙汰致す可し之旨、下知し給ふ。

しさい あ   しょしょ  をい  は   きょう きょうと  ちうしんせし  たま    いんしゅう なら   もりとき  としかねら これ  ぶぎょう     そ   じょう い
子細有る所々に於て者、今日京都へ注進令め給ふ。因州并びに盛時、俊兼等之を奉行す。其の状に云はく。

参考@造太神宮役夫工米(やくぶくまい)は、伊勢神宮修理の人夫の食米や費用。
参考A未濟は、滞納。

      ないくう   やくぶくさくりょう   みさい  せいばい   しょしょ  こと
   内宮Bの役夫工作料の未濟、成敗する所々の事

参考B内宮は、伊勢神宮内宮。

  しなののくに    えちごのくに
 信濃國  越後國

     くだん りょうごく  みさい    まえ  こくむ さたにん   ふ     きゅうさいせし べ   のよし  しょじょうを じんぐうし  あた をはんぬ
  件の兩國の未濟は、前の國務沙汰人に付し、究濟令む可し之由、書状於神宮使に与へ畢。

  いずのくに    するがのくに
 伊豆國  駿河國

    くだん  みさい   さた いた  べ   のよし  くに   さたにん   げち せし をはんぬ ただ しょうしょう しょか   しはい    いへど   こくしの さいそく  あたはず
  件の未濟、沙汰致す可し之由、國の沙汰人に下知令め畢。 但し庄々の所課、支配すと雖も、國使之催促に不能。

  はや  じょうし  しょうか  あいもよおせし べ なり   かさ    こと  はか   げち せし をはんぬ
 早く定使、庄家を相催令む可き也。重ねて事を計り下知令め畢。

  かはちのくに しんせき  とみじま  みのわ   ながだ
 河内國 新關@ 冨嶋A 三野和B 長田C

  せっつのくに  ひらの  やすがき
 摂津國 平野D 安垣E

    かげとき   げち    ところ  へんじ かく  ごと    これ  あいそ
  景時に下知する處、返事此の如し。之を相副へる。

参考@新關は、河内國河内郡新開荘(東大阪市中新開)の間違い。
参考A
冨嶋は、大阪市西区富島町で摂津國西成郡。
参考B三野和は、河内國若江郡に三野の地名と美濃勅旨、箕輪の地名あり。東大阪市。
参考C
長田は、河内國若江郡東大阪市長田。

参考D平野庄は、大阪市平野区。
参考E安垣は、不明だが攝津國能勢郡に倉垣荘があった。島下郡には安井荘あり。

  おな    くに  やすとみ
 同じき國 安冨@

    はやかわのたろうとおひら あいたず ところ くだん ところ  いっさいちぎょうせずのよし これ  もう    しからばこれ  たず  らる  べ
  早河太郎遠平に相尋ねる處。件の所、一切知行不之由、之を申す。然者之を尋ね被る可し。

参考@安冨は、安富町は、兵庫県姫路市安富町(旧宍粟郡安富町)なので播磨の間違いではないか。摂津には見当たらない。

  おな    くに  むこのしょう
 同じき國 武庫庄@

  みののくに  こいずみのみくりや しいかのう   おおいどかのう
 美濃國  小泉御厨A 椎加納B 大井戸加納C

  おわりのくに まつえだのほう   ごきそ   ながねのしょう
 尾張國  松枝保D 御器所 長包庄

   いせのくに   にのみのしょう
 伊勢國  新屋庄G

  びぜんのくに  さいいんじ
 備前國  西院寺H

    いじょうきゅうかしょ  しょうそこ もつ    べつ  うひょうのかみ  ふ   もう をはんぬ
  已上九ヶ所、消息を以て、別に右兵衛督に觸れ申し畢I

参考@武庫庄は、兵庫県尼崎市武庫之荘(むこのそう)
参考A小泉御厨は、岐阜県可児郡御嵩町平家没官領。建久三年十二月十四日条で妹一条能保室に譲渡。
参考B椎加納は、帷加納の間違い。
参考C大井戸加納は、岐阜県可児郡河児町大井。承久三年六月三日大井戸の渡り。
説明
加納の意味は、農民が国衙領などの未開発地を開拓した出作新田で、農民の帰属する元の荘園に帰属する。
参考D
松枝保は、岐阜県羽鳥郡笠松町長池に松枝小学校有り。保は国衙領(名目上公領)
参考E御器所は、名古屋市昭和区御器所通。
参考F長包庄は、名古屋市瑞穂区中根町らしい。
参考G新屋庄は、三重県久居市新家町(にのみちょう)。
参考H西院寺は、西隆寺庄。岡山県岡山市東区西隆寺。
説明I右兵衛督は、一条能保に質問しておいた。領家だろうが、地頭も兼務しているか?これが鎌倉末期だと一円領主と呼ぶ。

  おうみのくに  とんぐう
 近江國  頓宮@

    ちかよし げち おはんぬ
  親能下知し畢。

参考@頓宮は、滋賀県甲賀市土山町頓宮。

     のま
  野間@

     そ  ところ  かくごせざるのうえ ちぎょうせざるのよし  さだつな これ もう   しからば  よ   たず  らる  べ   なり  よっ   げち   あたはず
  其の所、覺悟不之上、知行不之由、定綱之を申す。然者、能く尋ね被る可き也。仍て下知に不能。

参考@野間は、近江では不明。但し伊賀国阿拝郡野間村がある。近江に接している。

     ほうおんじ   どうよでん
  報恩寺@ 同余田A

    きゅさい      よし  じょうしょうじ しゅぎょう ほっきょうしょうかん これ  もう
  究濟するの由、成勝寺Bの執行Cの法橋昌寛、之を申す。

参考@報恩寺は、滋賀県高島市新旭町饗庭(あいば)。
参考A
余田は、追加的に荘園領主の土地として認定された土地。検地後に現れる。
参考B成勝寺は、京都岡崎六勝寺の一つ。白河鳥羽後白河三代院の建造。
参考
C執行は、財政担当。

  みののくに   はちやのしょう
 美濃國  蜂屋庄@

    じょうしょうじしゅぎょう しょうかん ちんじょう  これ  あいそ     こ   ほか  しょしょ しょしょう ちゅうもん    くだしぶみ あいそ   ところなり
  成勝寺執行 昌寛が陳状A、之を相副へる。此の外の所々の書抄B注文は、下文に相副へる所也。

参考@蜂屋庄は、美濃國加茂郡、岐阜県美濃加茂市南半から加茂郡坂祝町北東部、蜂屋町。
参考A陳状は、訴えられた側が釈明に出す。
参考B
書抄は、抜書き。

  こうづけのくに ひたちのくに  しもつけのくに
 上野國  常陸國  下野國

    さんかこく   べつ  ししゃを し   あいそ     い  つか   をはんぬ
  三ケ國は別な使者於使に相副へ、入れ遣はし畢。

  そもそも こうづけのくにしらい かはち ぶん    きょねん  ふゆ  し これ  う   と  をはんぬ はや うけづかい たず  らる  べ  なり
 抑、 上野國白井@河内の分は、去年の冬、使之を請け取り畢。早く請使に尋ね被る可き也。

参考@白井は、群馬県渋川市に白井の地名有り。臼井の間違いか?碓氷峠。

  いがのくに   ともだ    でづくり
 伊賀國  鞆田@の出作

    けにんちぎょうのところ あらず  ほんじょ  ふ    さた あ   べ   か   こ   ほか  しょしょ  ちうもん  の   くだしぶみ あいそ
  家人知行之所に非。本所に付しA沙汰有る可き歟。此の外の所々、注文に載せ下文を相副へる。

参考@鞆田は、三重県伊賀市中友田に鞆田神社、鞆田小学校あり。
参考A本所に付しは、現地に聞いて。

  いせのくに   おやまとのしょう
 伊勢國  小倭庄@

    ひろもと   げち  をはんぬ
  廣元に下知し畢。

参考@小倭庄は、三重県津市白山町と一志町。白山町中ノ村に倭出張所、倭診療所。上ノ村に倭小学校あり。六条院領で地頭は大江広元。後足利尊氏が建武三年に熊野神官にあてがっている。応仁の乱の頃になると戦乱を避けて足利義視が国司北畠を頼ってこの地へ来て、途中常光寺に滞在。戦国時代には小倭衆の一族七人が一揆衆を組んで、国司北畠氏の配下に入っている。

    おかもと  やすとみ  かじいん
  岡本@ 安冨 感神院

    あさかのみくりや
  阿射賀御厨A

    しれいしのみくりや
  志礼石御厨B

    ほらたのみくりや
  洞田御厨

    ちぎょうしょ  あらず  あさか     しれし   もっしゅりょう た   いへど   いんよ  ほんりょうしゅ  わか たま    うんぬん
  知行所に非。阿射賀、志礼石、没取領C爲りと雖も、院自り本領主に分ち給ふと云々。

  ただ   あさか   をい  は   ぢとう  ぶ    ところなり  しからば   げち   くは  べ   なり
 但し阿射賀に於て者、地頭を補する所也。然者、下知を加ふ可き也。

参考@岡本は、三重県伊勢市岡本町。
参考A阿射賀御厨は、三重県松坂市小阿坂町。
参考B志礼石御厨は、
三重県いなべ市藤原町志礼石新田
参考C没取領は、元平家没管領。

  こ    ほか  しょしょ  ちうもん の うえ    くだしぶみ あいそ
 此の外の所々の注文之上に、下文を相副へる。

  しまのくに
 志摩國

    とうしじま  〔じゅんないん〕    すがしま  〔ほんぐうごりょう〕
  答志嶋@〔淳和院〕 菅嶋A〔本宮御領〕

     さこしま
  佐古嶋B   

  ちぎょうせざ ところなり  そ  なか  すがしま  さこしま   ぢとう  ぶんめいならず  も   しょしょ  しょうみょうた   よっ    ひと  そ   な   えざるところか
 知行不る所也。其の中、菅嶋、佐古嶋の地頭は分明不。若し所々の小名爲るに依て、獨り其の名を不得所歟。

参考@答志嶋は、三重県鳥羽市答志島。
参考A
菅嶋は、三重県鳥羽市菅島。
参考B佐古嶋は、三重県鳥羽市坂手島であろう。

  こ   ほか  しょしょ  くだしぶみ うえ    うけぶみ  あいそ
 此の外の所々は下文の上に、請文を相副へる。

  みまさかのくに
 美作國

    へいだいなごんのぶくに  ちぎょうぶん  ぢとう  さきのはやとのすけやすきよ
  平大納言信國@の知行分、地頭は前隼人佐康CA

    ふるおかきたのほう ぢとう  し   あいあ     べんさい をはんぬ
  古岡北保B 地頭、使に相逢ひて弁濟し畢。

    にしたかだごう   くだしぶみあ
  西高同郷C 下文在り。

    ふせごう    ちかよし   げち をはんぬ
  布施郷D 親能に下知し畢。

    にしみわ     げち  をはんぬ
  西美和E 下知し畢。

参考@平大納言信國は、少納言らしい。
参考A前隼人佐康Cは、三善康信の弟で治承四年六月十九日使者として伊豆の頼朝の処へ危険を知らせに来ている。
参考B古岡北保は、旧柵原町(やなはらちょう)なので岡山県久米郡美咲町柵原
参考C西高同郷は、岡山県真庭市勝山。
参考D布施郷は、岡山県真庭市湯原温泉。
参考E西美和は、岡山県真庭市久世。

  おわりのくに  じじゅうおうりょう
 尾張國 侍從押領

    ちぎょうせざ ところなり  こ   ほか  しょしょ  くだしぶみ な     ちうもん  そ
  知行不る所也。此の外の所々は下文を成し、注文を副へる。

  きいのくに   いはせ
 紀伊國 湯橋@

    しょうそこ もつ    くまののあまうえ   げち
  消息を以て、熊野尼上Aに下知す。

 参考@湯橋は、和歌山県和歌山市岩橋(イワセ)。
  参考A熊野尼上は、爲義の娘鳥居善尼(田鶴原女房)が熊野へ嫁に行っている。

  あわじのくに
 淡路國

    こくぶじ   よこやまのごんのかみときひろ げち
  國分寺@ 横山權守時廣に、下知す。

    ひろたごう   やまとのぜんじしげひろ  げち     そ  じょうこれ  あいそ
  廣田郷A 大和前司重弘に下知す。其の状之を相副へる。

参考@淡路國分寺は、兵庫県南あわじ市八木国分。
参考A廣田郷は、兵庫県南あわじ市広田広田。西宮広田神社の荘園

  あわのくに   こうつじ   ちかよし   げち をはんぬ
 阿波國 高越寺@ 親能に下知し畢。

参考@高越寺は、徳島県吉野川市山川町井上に高越山高越寺あり。阿波忌部神社別当。

  とさのくに   あがは  しょうそこを わかみやべっとう ほっきょう つか
 土佐國 吾河@ 消息於 若宮別當 法橋に遣はす。

参考@吾河は、高知県吾川郡(いの町カ)。

  みかわのくに  くだしぶみ な    ちうもん  そ
 參河國  下文を成し、注文を副へる。

  びっちゅうのくに そのをのへ
 備中國  狹尾辺@

    くだん  みさい  はや  きゅうさい いた  べ   のよし  ぢとう もりさだ  ふく    よつ  また ししゃ   もっ   りょうけ  もう  よし  もう  ところなり
  件の未濟、早く究濟を致す可し之由、地頭守定に含む。仍て又使者を以て領家に申す由、申す所也。

参考@狹尾辺は、岡山県岡山市南区妹尾・平家の侍大将妹尾太郎兼保出身地。

  びんごのくに うたじま
 備後國 歌嶋@

    いえきよ ぢとう た   なが    おおいりょうよ   これ  さまた   うんぬん  りょう  ふ   そ   もよお あ   べ   なり
  家C地頭爲り乍ら、大炊寮A自り之を妨ぐと云々。寮に付し其の催し有る可き也。

参考@歌嶋は、広島県尾道市向島町5600に歌島橋東詰交差点あり。
参考A大炊寮は、京都朝廷の役所の一つで、突き米雑穀を収納し他の役所へ分け与える役目。

  すおうのくに  つわぢ
 周防國 津和地@

    さたにん ゆきよし   し   あいむか   べんさい をはんぬ
  沙汰人行能、使に相向ひて弁濟し畢。

参考@津和地は、愛媛県松山市津和地が、周防大島と堺を接しているので間違えたか?津和野は石見国だし。

  ながとのくに
 長門國

    ちかよし  ちぎょうしょ   げち せし をはんぬ
  親能が知行所。下知令め畢。

  たじまのくに
 但馬國

    へいだいなごんのぶくに しょうそこ  もっ  じき  やましろのかみさねみち げち
  平大納言信國、消息を以て直に 山城守實道に 下知す。

  いづものくに いいなしのしょう くだしぶみあ
 出雲國  飯生庄@ 下文在り。

 参考@飯生庄は、島根県安来市飯梨町。

  わかさのくに  えとり   たんごのつぼね  げち をはんぬ
 若狹國  江取 丹後局@に 下知し畢。

参考@丹後局は、鎌倉幕府の女房に二人いる。

  えちぜんのくに
 越前國

     とば   とくみつ  にゅうきた   はるちか じょうしょうじしゅぎょう  し  あいあ    きゅうさい をはんぬよし これ もう
  鳥羽@ 得光A 丹生北B 春近C 成勝寺執行、使に相逢ひ、究濟し畢 由、之を申す。

    ふじしまのほう ちょうじょう もつ   へいせんじ  ふ
  藤嶋保D 牒状Eを以て、平泉寺Fに觸れる。

参考@鳥羽は、福井県鯖江市鳥羽。
参考A
得光は、福井県福井市徳光町。
参考B
丹生北は、福井県丹生郡、又は旧武生市。越前市府中に武生駅あり。
参考C春近は、福井県坂井市春江町針原。
参考D藤嶋保は、福井県福井市藤島町。
参考Eは、同格への手紙。参考に上から下へは符、下から上へは解(げ)。
参考F平泉寺は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63の平泉寺白山神社。

  えっちゅうのくに ひろたのみくりや  おな   かのう
 越中國  弘田御厨@ 同じく加納

参考@弘田御厨は、富山県富山市婦中町広田。

    きゅうしゅこれゆき  し  あひむか   きゅうさいすべ よし これ もう    くだん しょしょ  ぞうかんし  ちうもん  まか    しょしょせいばいせし なり
  給主惟幸、使に相向ひ、究濟可し由之を申す。件の所々、造宮使の注文に任せ、所々成敗令む也。

  そもそも こ  うち  べっし   ちう  わか  ところにじっかしょ こと  けにん ちぎょうち   うち  いま  はいふ   う    と      しょうしょう
 抑、此の内、別紙に注し分つ所廿ケ所の事、家人知行地の内、未だ配苻を請け取らざる庄々、

  おな   わか  のよしぶんめいなり  これ  つ   しさい  たず   ぞうえいはじめののち いまにいた      はいふ   ふ  られず うんぬん
 同じく分つ之由分明也。之に就き子細を尋ね。造宮始之後。今于至るまで配苻を付せ不と云々。

  しからば  ぢとう たいかんの ぎ  あらざ か  いまに な   はじ    もよおさる のじょう  も   これ  すいもう たるか
 然者、地頭對捍之儀に非る歟。今于成り始めて催被る之條、若し是、吹毛@爲歟。

  なかんづく くにぐに  こくし  しょうしょう りょうけは たいりゃくざいきょうなり
 就中、國々の國司、庄々の領家者、大畧在京也。

  ま    こくし   りょうけ  もよおさる ば  また  こくが  しょうけ   げち すべ
 先ず國司、領家に催被れ者、又、國衙、庄家に下知可し。

  そ   とき  ぢとうの たいかん  ごう    じき  そうたつ  およ    また  ふ   つか  せし  こと  そ ことわりしかるべ    と
 其の時、地頭之對捍と号し、直に奏達に及ぶ。又、觸れ遣は令む事、其の理然可きか乎。

  いまに もっ  もよおさざるのところ ふんべつな  けにん   ぢとう みさいの よし  ちう  もうさる  のじょう  いま  そ   ことわり  し     と
 今于以て催不之所、分別無く、家人、地頭未濟之由、注し申被る之條、未だ其の理を知らず矣。

参考@吹毛は、〔毛を吹いて隠れた疵 (きず) を探す意から〕強いて人の欠点をさがし出すこと。あらさがし。

現代語建久元年(1190)四月十九日壬寅。伊勢神宮の式年遷宮用の費用としての納税を滞納していると、盛んに朝廷の役人からの手紙が来ました。伊勢神宮の専門担当も同様に、院へ訴えたので、直ぐに処理するように、命じてきました。遅れている事情のある所については、今日、京都へ書き出して知らせます。大江広元と平民部烝盛時、筑後権守俊兼が担当します。その手紙に書いてあるのは。

 内宮の工事用人夫の食米の未納について処理する土地について

 信濃国と越後国について この両国の未納分は、前任の国衙管理人に対して、完納するようにとの命令書を、伊勢神宮の専門担当に与えました。

 伊豆国と駿河国について この両国の未納分は、国衙管理人に命令をしました。但し荘園達の負担分は分かりますので、国衙分からの催促は必要ありません。早くそちらの荘園管理者は荘園内の農家に催促してください。私からも命じておきましょう。

 河内国の新開、富島、箕輪、長田。摂津国の平野、安垣について 梶原平三景時に命じたところ、返事は次ぎの通りなのでそれを添えましょう。

 同じ摂津国の安富について 小早川弥太郎遠平に質問したところ、その場所は一切支配していないと云っております。よくお調べください。

 同じ摂津国の武庫庄。美濃国の小泉御厨、椎加納、大井戸加納。尾張国の松枝保、御器所、長包庄。伊勢国の新屋庄。備前国の西院寺の以上九箇所は、手紙で右兵衛頭一条能保に質問しておきました。

 近江国の頓宮は、式部大夫中原親能に命じて置きました。

 同国の野間は、そこは覚えが無く、支配していないと近江守護の佐々木定綱が云っているので、そちらでよく調べてください。だから命令はしません。

 同国の報恩寺と余田は、もう支払済みだと成勝寺の財政担当の法橋昌寛が云っています。

 美濃国の蜂屋庄は、成勝寺の財政担当の法橋一品房昌寛の弁明状を添えます。この国のその外の荘園の諸事情の抜書きを、私の命令書に添えます。

 上野国と常陸国及び下野国について、参加国へは特別な使いを伊勢神宮の専門担当と共に、現地へ行かせております。だいたい上野国の白井川分については、去年の十二月に伊勢神宮の専門担当が受け取っております。早くその専門担当にお聞きください。

 伊賀国の鞆田の出作りについては、私の御家人が管理している所ではありません。現地に聞いて処理してください。この国の他の所は、書き出しに命令書を添えます。

 伊勢国の小倭庄は、大江広元に命じてあります。

 同国の岡本、安富、感神院、阿射賀御厨、志礼石御厨、洞田御厨は、管理している所ではありません。阿射賀御厨と志礼石御厨は、平家から取上げた領地ですが、後白河院から元々の領主に分け与えられたんだそうです。しかし、阿射賀御厨には、地頭を任命しておりますので、命令を出して置きましょう。この国のその他の所は、状況を書き出して命令書を添えます。

 志摩国の答志島〔淳和院〕と菅島〔本宮御領〕、佐古島は、支配していない所です。その内でも菅島と佐古島の地頭は誰だか分かりません。もしかしたらあちこちの小字なので、私の方がその名を知らないだけなのでしょうか。この国の他の土地については、命令書にその承知の返事を添えましょう。

 美作国は、平大納言信国の領地で、地頭は前隼人佐三善康清です。古岡北保は、地頭が伊勢神宮の専門担当に逢って納付を済ましております。西高岡郷には命令書が出ています。布施郷は、式部大夫中原親能に命じてあります。西美和は命令済みです。

 尾張国の侍従が横取りしている分は、支配していない所です。この国の他の所は、命令書に書き出しを添えます。

 紀伊国の湯橋は、手紙で熊野の尼上に命じております。

 淡路国の国分寺は、横山権守時広に命じています。広田郷は、大和守山田重弘に命じていますので、その手紙を添えましょう。

 阿波国の高越寺は、式部大夫中原親能に命令済みです。

 土佐国吾河は、手紙を若宮長官法橋に出してあります。

 三河国は、命令書を出したので、書き出しを添えましょう。

 備中国狭尾辺りは、その滞納分を早く納付するように、地頭の守定に云ってあります。ですから使いを出して領家に話すと云っております。

 備後国の歌島は、家清が地頭なのに、朝廷の大炊寮から横取りしたそうです。寮に命じて催促させてください。

 周防国の津和地は、管理人行能が、伊勢神宮の専門担当に逢って納付し終えています。

 長門国は、式部大夫中原親能の支配地なので、命令してあります。

 但馬国は、平大納言信国が、手紙で直接山城守実道に命じてあります。

 出雲国の飯生庄は、命令書が出ています。

 若狭国の江取は、丹後局に命じました。

 越前国の鳥羽、得光、丹生北、春近は、 成勝寺の財政担当の一品房昌寛が、伊勢神宮の専門担当に会って、納付し終えたと云っております。

 同国藤島保は、手紙で平泉寺白山神社へ知らせました。

 越中国の弘田御厨と出作りの加納は、納税者の惟幸が、伊勢神宮の専門担当に向かい合って納付したと云っております。其の外の場所は、伊勢神宮の造営専門担当の文書のとおりに、それぞれ命じました。

これ等の内、別紙に分けて書き出した二十箇所については、私の御家人が管理している中で、未だに納税督促書を受け取っていない荘園等も、別にするのが当然でしょう。これらについて事情を聞いてみたら、伊勢神宮の造営工事が始まっていながら、今になっても催促を受けていないそうです。それですから、地頭が滞納している訳では、ないじゃないですか。今になって、やっと動き出しているだなんて、これはあら捜しではないですか。なかでも、国々の国司や荘園領主は、殆どが京都に在住しているでしょう。先ずは、国司や荘園領主の領家を通されて、国衙や荘園現地に命令してください。それを調べもせずに地頭の滞納だと、直ぐに院へ訴えているのですよ。まず、国司や荘園領主に申されるのが、道理では有りませんか。それを何もしていない所も、分けないで御家人や地頭の怠慢だなどと書いてこられたなんて、そんな理屈はきいた事がありませんよ。

建久元年(1190)四月大廿日癸夘。佐々木左衛門尉定綱飛脚參着。申云。去十三日亥刻。右武衛〔能保〕室依難産卒給云々。二位家殊歎息給。今年四十六云々。

読下し                    ささきのさえもんのじょうさだつな ひきゃくさんちゃく   もう    い       さんぬ じうさんにち いのこく
建久元年(1190)四月大廿日癸夘。佐々木左衛門尉定綱が飛脚參着し、申して云はく。去る十三日亥刻。

 うぶえい 〔よしやす〕 しつ  なんざん  よっ  そつ  たま    うんぬん  にいけ こと  たんそく  たま    ことし しじうろく  うんぬん
右武衛〔能保〕室、難産に依て卒し給ふと云々。二位家殊に歎息し給ふ。今年四十六と云々。

現代語建久元年(1190)四月大二十日癸卯。佐々木左衛門尉定綱の伝令が到着して云うのには、先日の十三日の夜11時頃に右武衛一条能保様の奥さん(頼朝の姉)が、難産のためお亡くなりになりました。二位家頼朝様は、とても悲しがられました。今年四十六歳なんですと。

参考数えの46歳だと西暦1145年生まれなので、頼朝は1147年生まれなので姉になる。

建久元年(1190)四月大廿二日乙巳。大和前司重弘爲御使上洛。是被訪申一條殿室家卒去事之故也。

読下し                     やまとのぜんじしげひろおんし  な   じょうらく
建久元年(1190)四月大廿二日乙巳。大和前司重弘御使と爲し上洛す。

これ いちじょうどのしつけそっきょ こと とぶら  もうされ のゆえなり
是、一條殿室家卒去の事を訪ひ申被ん之故也。

現代語建久元年(1190)四月大二十二日乙巳。大和前司山田重弘は、頼朝様の代理として京都へ上ります。それは、一条能保殿の妻(頼朝姉)の死へのお悔やみのためです。

建久元年(1190)四月大廿五日戊申。去十一日有改元。改文治六年爲建久元年云々。

読下し                     さんぬ じういちにちかいげんあ   ぶんじろくねん あらた けんきゅうがんねん な うんぬん
建久元年(1190)四月大廿五日戊申。去る十一日改元有り。文治六年を改め建久元年と爲す云々。

現代語建久元年(1190)四月大二十五日戊申。先日の十一日に改元がありました。文治六年を建久元年と変えました。

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