建久元年(1190)庚戌六月
建久元年(1190)六月小六日己丑。太神宮役夫工料米事。信濃國未濟所々相交之由。造宮使言上之間。被差副雜色時澤於使。可催獻之旨被仰下云々。 |
読下し
だいじんぐう
やくぶくりょうまい こと しなののくに みさい しょしょ
あいまじ のよし
ぞうぐうし ごんじょう のかん ぞうしきときさわを
し さ そ られ もよお けん べ
のむね おお くださる うんぬん
造宮使B言上する之間、雜色時澤於使に差し副へ被て、催し獻ず可し之旨、仰せ下被ると云々。
参考@太神宮役夫工料米は、伊勢神宮の式年遷宮の大工などの人足に食べさせる米としての税金。
参考A未濟は、未払い。
参考B造宮使は、役夫工米を取り立てる専門官。
現代語建久元年(1190)六月小六日己丑。伊勢神宮の式年遷宮の費用について、信濃国の未払いがあちこちに残っていると、伊勢神宮の取立て専門官が云ってきたので、雑用の時沢を一緒に行かせて、ちゃんと納付するように命令を出して下さいましたとさ。
建久元年(1190)六月小十日癸巳。定綱申送云。今日〔五月丗日〕奉爲一條殿。御佛事遂行訖。御導師寺僧都御房〔公胤〕御願文草右中弁殿〔親經〕大宮大納言殿〔實宗〕右宰相中將殿〔實教〕新宰相中將殿〔公時〕爲聽聞有光臨之由云々。 |
読下し
さだつな もう おく い
きょう 〔ごがつさんじうにち〕
いちじょうどの
おんため おんぶつじ と おこな をはんぬ ごどうし じ そうづごぼう 〔きんいん〕
今日〔五月丗日〕一條殿の奉爲に、御佛事を遂げ行ひ訖。御導師は寺@の僧都御房〔公胤〕、
ごがんもん
そう うちゅうべんどの 〔ちかつね〕 おおみやだいなごんどの 〔さねむね〕 うさいしょうちゅうじょうどの 〔さねのり〕 しんさいしょうちゅうじょうどの 〔きんとき〕
御願文の草は右中弁殿〔親經〕、大宮大納言殿〔實宗〕、右宰相中將殿〔實教〕、
新宰相中將殿〔公時〕
ちょうもん ためこうりん
あ のよし うんぬん
聽聞の爲光臨有る之由と云々。
参考@寺は、三井寺。この時代山といえば比叡山延暦寺、寺といえば三井寺園城寺。
現代語建久元年(1190)六月小十日癸巳。佐々木太郎定綱が伝言してきたのには、今日〔五月三十日〕一条能保殿のために法事を行い終えました。法事の指導僧は三井寺園城寺の僧都のお坊さん〔公胤〕で、仏様へのお願いの草案文は右中弁殿〔親経〕が書き、大宮大納言〔藤原実宗〕と右宰相中将殿〔中御門実教〕と新宰相中将殿〔滋野井公時〕が、弔問のために来訪されたとの事です。
建久元年(1190)六月小十四日丁酉。二位家渡御小山兵衛尉朝政之家。御酒宴間。白拍子等群參施藝。今夜。依月蝕〔丑刻〕令止宿給云々。 |
読下し
にいけ おやまのひょうえのじょうともまさのいえ
とぎょ
ごしゅえん かん しらびょうし ら ぐんさん げい ほどこ こんや げっしょく 〔うしのこく〕
よつ ししゅくせし たま うんぬん
御酒宴の間、白拍子A等群參し藝を施す。今夜、月蝕〔丑刻〕に依て止宿令めB給ふと云々。
参考@小山兵衛尉朝政之家は、孫の長村の時代には若宮大路の車大路際に屋敷が在ったらしい。又、道の南側には遊女のいる料亭風があったらしい。
参考A白拍子は、水干姿の男装の踊り子。
参考B月蝕〔丑刻〕に依て止宿令むは、月食の光を浴びると穢れになるので、それを理由にして外泊した。(白拍子が沢山来ているから)
現代語建久元年(1190)六月小十四日丁酉。二位家頼朝様は、小山兵衛尉朝政の家へお渡りになられました。
宴会に舞の名人の白拍子が大勢来て、舞などの芸を披露しました。
今夜は月食〔午前二時頃〕なので、月光を浴びると縁起が悪いので泊まる事にしましたとさ。
建久元年(1190)六月小廿二日乙巳。女房三位局消息〔定綱執進〕參着。去十一日。於日吉社壇。以澄憲法印爲導師。供養五部大乘經。偏以御助成果宿願云々。 |
読下し
にょぼうさんみのつぼね しょうそこ 〔さだつなしつ しん〕 さんちゃく
さんぬ じういちにち
ひえしゃだん をい ちょうけんほういん もっ どうし な ごぶ だいじょうきょう くよう
去る十一日、日吉社壇に於て、澄憲法印@を以て導師と爲し、五部の大乘經Aを供養す。
ひとへ ごじょせい もっ すくがん
はた うんぬん
偏に御助成を以て宿願を果すBと云々。
参考@澄憲法印は、称名の創始者で、平治の乱で義朝に梟首された信西(藤原道憲)の息子。
参考A五部の大乗経は、大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)、大般涅槃経(だいはつねはんきょう)、大方等大集経(だいほうとうだいしつきょう)、大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)の5つからなり、全部で200巻。
参考B偏に御助成を以て宿願を果すは、高階栄子が六月に比叡山で法事を行うと聞いたので、5月23日条で砂金や反物を送った。
現代語建久元年(1190)六月小二十二日乙巳。仙洞の女官の三位局高階栄子から手紙〔佐々木定綱が仲介した〕が届きました。
先の11日に、比叡山の日吉社で、澄憲法師に法事の指導僧をしてもらい、五部の大乗経の読経を奉納しました。これも皆、(頼朝様の)援助のお蔭で、願いが叶ったとの内容です。
建久元年(1190)六月小廿三日丙午。去年令入奥州給之時。稱姫宮女姓出來。令尋問給之處。答申云。母者九條院官女也。吾彈箏之間。且就母之好。爲聞食其藝。暫在彼院中。後日有不慮之次。下向奥州云々。雖可疑之。肥後守資隆入道母。爲宮條勿論之由。令申之上。奥州住人一同存其儀。將又。秀衡賞翫之餘。雖欲令出家。不免云々。於爲一向狂人者。秀衡爭令賞哉之由。二品聊有御猶豫。仍爲王胤者。令居住田舎之條。稱可有其恐。被送進京都。付廷尉公朝。被申此子細訖。而無實之旨。被下 院宣。今日所到來也。則被奉御請文云々。 |
読下し
きょねん おうしゅう いりせし たま のとき ひめみや しょう にょしょういできた
たず と せし
たま のところ こた もう い
尋ね問は令め給ふ之處。答へ申して云はく。
ははは
くじょういん かんじょなり われ そう ひ のかん
かつう ははのよしみ つ そ げい き め ため
しばら か いんちゅう あ
母者九條院@官女也。吾は箏を彈く之間、且は母之好に就き、其の藝を聞こし食さん爲、暫く彼の院中に在り。
ごじつ
ふりょのついで あ おうしゅう げこう うんぬん
後日不慮之次有りて、奥州へ下向すと云々。
これ
うたが べ いへど ひごのかみすけたかにゅうどう はは みやた
じょう もちろんのよし もう せし のうえ おうしゅうじゅうにん
いちどう そ ぎ ぞん
之を疑ふ可しと雖も、肥後守資隆入道の母、宮爲るの條勿論之由、申さ令む之上、
奥州住人 一同に其の儀を存ず。
はたまた
ひでひらしょうがんのあま しゅっけせし ほつ いへど ゆるされず うんぬん
將又、秀衡賞翫之餘りに、出家令めんと欲すと雖も、不免と云々。
いっこう きょうじんた をい は ひでひら
いかで しょうせし やのよし にほん いささ ごゆうよ あ
一向の狂人爲るに於て者。秀衡
爭か賞令めん哉之由。二品聊か御猶豫有り。
よつ おういん
た ば いなか きょじゅうせし のじょう そ おそ
あ べ しょう きょうと おく しん
仍て王胤爲れ者、田舎に居住令む之條、其の恐れ有る可しと稱し、京都へ送り進じ、
ていい きんとも ふ かく しさい もうされをはんぬ
廷尉公朝に付して、此の子細を申被訖。
参考@九條院は、忠道の幼女で近衛天皇皇后呈子。
しか じつ
な のむね いんぜん くだされ きょう
とうらい ところなり すなは おんうけぶみ ほうじらる うんぬん いんぜん い
而るに實無し之旨。院宣を下被、今日到來する所也。則ち御請文を奉被ると云々。院宣に云はく。
宮人と稱すの事、實無き也。全く王胤に非。聞こし食す如く者、善人に不ざる歟。在京然る不可。
はや かへ
つか べ のよし ないない みけしきそうろうなり よっ じょうけい くだん ごと
早く返し遣はす可し之由、内々に御氣色候也。仍て上啓、件の如し。
ろくがつここのか さんぎ
六月九日 參議
みや
しょう そうろう わうわく こと しさい つつし もつ うけたまは そうら をはんぬ もとよ
しん う がた そうろう
宮と稱し候
枉惑Aの事、子細 謹み以て 承り 候ひ 畢。 本自り信じ受け難く候。
しかれども じっぶ
うけたまは ため め しん せし そうろ のところ なおもつ かえ
あずか そうら をはんぬ
然而、實否を承らん爲、召し進ぜ令め候う之處、猶以て返し預り候ひ畢。
そ むね
ぞん べ そうろう ごじょう まか かんとう め くだ いまし べ そうろう いへど ことし さつざい
おか べからずそうろう
其の旨を存ず可く候。御定に任せて、關東へ召し下し、誡む可Bく候と雖も、今年は殺罪を犯す不可候。
しからば おんはから そうら て
めんがん きず つ られ ついほうさる べ そうろうか
然者、いかにも御計ひ候ひ天、面顔に疵をも付け被て、追放被る可く候歟。
しからずんば つねたか あわのくに きょじゅう そうら もの そうろう くだん おとこ あず
たま べ そろうろうか
不然者、經高、阿波國に居住し候う者に候。
件の男に預け給ふ可く候歟。
かんとう め くだ べ のよしの ごじょう
もう かへ そうろう そ おそ そうろう よっ
かく ごと しさい ごんじょうそうろうなり
關東へ召し下す可し之由之御定を申し返し候。
其の恐れ候に依て。此の如く子細を言上候也。
かく むね
もっ もう あ せし たま べ そうろう よりともきょうこうきんげん
此の旨を以て、申し上げ令め給ふ可く候。頼朝恐惶謹言。
ろくがつにじうさんにち よりとも
六月廿三日 頼朝
参考B誡む可くは、処罰をする。
現代語建久元年(1190)六月小二十三日丙午。去年、平泉へ行かれた時に、後白河法皇のご落胤姫宮だと云う女性が現れましたので、尋ねてみると次のように答えました。
お母さんは、近衛天皇の皇后九条院に仕える官女です。私は琴を弾きますので、お母さんの縁でその芸をお聞かせするために、暫く院の御所におりました。後に思いがけない出来事があり、東北へ下って来たそうなのです。
この話は怪しいと思ったのですが、出家している肥後守藤原資隆入道の母が姫宮だと保証したので、奥州の人達は一様に信じております。それに、藤原秀衡は可愛がっている余り、彼女の出家希望を許さなかったそうです。全くの狂った人なら、なんで藤原秀衡が可愛がったりするでしょうかと、頼朝様は様子を見て扱いかねておりました。もし、ご落胤ならば田舎に置いておくのは恐れ多いと仰せになられて、京都へ送り届けて検非違使大江公朝に頼んで、この事情を院へ申されました。しかし、その事実はないと院からの手紙が今日届いたのです。すぐに返事を書かれましたとさ。院宣には、
姫宮であると言っていることは事実では有りません。全くご落胤ではありません。聞いたとおり語っているのならば、良い人ではないでしょう。京都に置いておく事はないので、早く突っ返すようにとの、院の仰せなので、お伝えするのはこの通りです。
六月九日 参議(ご返事)姫宮と云っているのが狂乱だと言う事情は、謹んで承知いたしました。元から信用して受け入れ難かったのです。しかし、本当のところを確かめて戴くために連れて行かせたので、返して寄越すなら預かりますので、そのあたりを分かってください。院のご判断どおりに関東へ連れてきて懲らしめようかとも思いますが、今年は殺生をするわけにはいきません。ですから、そちらでどうにでも処分してください。顔に前科者のレッテルの傷をつけて追い出してはどうですか。でなければ、佐々木経高と云う、阿波国在住御家人がおりますので、彼にでも預けましょうか。関東へやれとの院のお言葉に逆らうことは、恐れ多いことなので詳しく申し上げております。この内容で院へお伝え戴く様に、頼朝が謹んで申しております。
六月二十三日 頼朝
建久元年(1190)六月小廿六日己酉。大内守護事。日者相副北國御家人等於散位頼兼。可令勤仕之由。二品被定申訖。而以彼國許。不可叶之旨。頼兼申之間。被 奏聞其趣云々。 |
読下し
だいだい しゅご こと ひごろ
ほっこく ごけにんら を さんに よりかね あいそ
ごんじ せし べ のよし
にほん さだ もうされをはんぬ
二品定め申被訖。
しか か
くにばか もつ かな べからずのむね よりかねもう のかん そ おもむき そうもんせら うんぬん
而るに彼の國許りを以て、叶ふ不可C之旨、頼兼申す之間、其の趣を奏聞被ると云々。
参考@大内は、大内裏のこと。
参考A散位は、位はあるが官職がない
参考B頼兼は、源三位入道頼政の四男。。
参考C彼の國許りを以て、叶ふ不可は、北国の御家人だけでは足りない。
現代語建久元年(1190)六月小二十六日己酉。京都御所大内裏の警備については、普段北陸道の国の御家人を散位源頼兼に付けて、勤務させるように、頼朝様がお決めになり命令されておられました。しかし、北国の御家人だけでは足りないと、源頼兼が云ってるので、その事情を院へ報告しましたとさ。
建久元年(1190)六月小廿七日庚戌。伯耆國住人海大成國被召下。爲囚人被預義盛。是去年窮冬之比。於彼國陵轢 院召次等訖。過已難遁刑法云々。 |
読下し
ほうきのくにじうにん かいだいなりくに め
くだされ めしうど な よしもり あず らる
これ きょねんきゅうとう のころ か くに をい いん
めしつぎら りょうれき をはんぬ とがすで けいほう
のが がた うんぬん
是、去年窮冬@之比、彼の國に於て、院の召次等を陵轢Aし訖。 過已に刑法Bを遁れ難しと云々。
参考@窮冬は、冬が窮まるで十二月。旧暦では冬は十月から十二月。
参考A陵轢は、踏みにじる。
参考B刑法は、死刑。
現代語建久元年(1190)六月小二十七日庚戌。伯耆国(鳥取県)の地侍の海内成国を呼び出されて、預かり囚人(めしうど)として和田義盛に預けました。
それは、去年の暮頃に、伯耆の国内で院からの年貢取り扱いの下役を踏みにじったのです。こではもう、死刑を免れそうにもないのだそうです。
建久元年(1190)六月小廿九日壬子。諸國地頭等造太神宮役夫工米事。多以有對捍之聞。造宮使頻申子細之間。重被仰下畢。仍日來被經其沙汰。且被觸仰地頭等。且被進請文云々。其状云。 |
読下し
しょこく ぢとうら ぞうだいじんぐう やくぶくまい こと おお
もつ たいかんのきこ あ
ぞうえいし しきり しさい
もう のかん かさ おお くだされをはんぬ
よつ
造宮使頻に子細を申す之間、重ねて仰せ下被畢。
ひごろ そ さた へられ かつう ぢとうら ふ おおせら かつう うけぶみ
しん らる うんぬん そ じょう い
仍て日來其の沙汰を經被、且は地頭等に觸れ仰被れ、且は請文を進ぜ被ると云々。其の状に云はく、
去る四月十一日の御教書、五月八日に到來す。
やくぶやたくまい あいだ こと ぶぎょう
べんのちかつねあそん ほうしょ つつし たまは そうら をはんぬ
役夫工米の間の事、奉行
弁親經朝臣の 奉書、謹みて給り候ひ畢。
ちぎょう
はっかこく あてぶみ なら へんしょうら べち
もくろく の これ ちうしん
知行八ケ國の宛文并びに返抄等、別に目録に載せ之を注進す。
こ
うち さがみ むさし は きんきょうそうろうのかん よ
げち くは せし さっそく きゅうさいのつと いた そうら をはんぬ
此の中、相摸、武藏者、近境候
之間、能く下知を加へ令め、早速究濟之勤めを致し候ひ畢。
じよ ろっかこく
は そ ほど あいへだ そうろうのゆえ こくむ さたにん
もう つ のかん せんれい まも さた
いた せし そうろうか
自餘の六箇國者、其の程を相隔て候之故に、國務沙汰人に申し付ける之間、先例を守り、沙汰致さ令め候歟。
しか おお くだされそうろうのむね おどろ ふる あてぶみ
たず そうろうのところ かく ごと ちう もう そうろうところなり
而るに仰せ下被候 之旨に驚き、古き宛文@を尋ね候之處、
此の如く注し申す候所也。
しさい くだん ちうもんら に み そうらは か
子細は件の注文等于見え候ん歟。
おわりのくに じゅうにん しげいえ しげただら しょか こと ほう まか ごさた あ べ そうろうなり
尾張國の住人重家、重忠等所課の事、法に任せ御沙汰有る可く候也。
およ きんごくのやから ことを
そう よ たいかん いた そうらはば ただ いかにも ごせいばい
あ べ そうろうなり
凡そ近國之輩、事於左右に寄せ、對捍A致し候はゝ、只いかにも御成敗有る可く候也。
ちかよし ひろもと ちぎょう しょしょ こと ぞうえいし もう じょう もつ かさ
げち せし そうらひをはんぬ
親能、廣元が知行の所々の事、造宮使が申し状を以て、重ねて下知令め候畢。
こ ほか
やから ことを よりとも よ みだ とんぴ
せし そうらはば かんし をも ちょう おんし をも さ つか ごさた あ べ なり
此の外の輩、事於頼朝に寄せB、猥りに遁避令め候者、官使をも廳の御使をも差し遣はして、御沙汰有る可き也。
てんか
らっきょの のち は ばんじ きみ ごじょう あお べ そうろうことなり
天下落居之後者、万事君の御定を仰ぐ可く候事也C。
しか けにん たいせつ ぞん そうらひ
ごじょう そむ そうらはんとは さら ぞんぜずそうろうことなり
而るに家人を大切と存じ候て、御定に背き候はんとハ、更に不存D候事也。
しからば
かかり おも たま べ そうらはず
ほう まか おお くださる べ そうろうなり
然者、拘り思ひ給ふ可しに候はす、いかにも法に任せ仰せ下被る可く候也。
とうとうみのくに こと つつし うけたは そうら をはんぬ
遠江國の事、
謹みて承り候ひ
畢。
よしなかはさんどう て な よしさだ
かいどう て な じゅらくのとき とうごく よしさだ もつ にん たま そうら をはんぬ
義仲ハ山道の手と爲し、義定は海道の手と爲し、入洛之時、當國は義定を以て任じ給ひ候ひ畢。
しからば よりとも きゅう あらざるのかん なにごと べつ
きんじ せし べ そうろうなり
然者、頼朝が給に非之間、何事も別して勤仕令む可く候也。
しか おお くだされそうろうのむね もつ
げち せし そうらひをはんぬ よしさだ さだ そう
もう あ せし そうろうか
而るに仰せ下被候之
旨を以て、下知令め候畢。 義定々めて左右を申し上げ令め候歟E。
じょうじょう かく むね もつ も
たつ せし たま べ そうろう そもそも くにぐに
あてぶみ め ととの ほつ そうろうのかん
條々 此の旨を以て、洩らし達さ令め給ふ可く候。抑、國々の宛文を召し調へんと欲し候之間、
ちち
およ そうろう もつと もつ おそ おも たま そうろう よりともきょうきょうきんげん
遲々に及び候。尤も以て恐れ思ひ給ひ候。頼朝恐々謹言。
ろくがつにじうくにち よりとも
六月廿九日
頼朝
し けい
私に啓す
くにぐに へんしょう はそうもんののち
なおかへ たま そうろうて おのおの こくむさたにん かえ お べ のよし おも たま そうろうなり
國々の返抄Fハ奏覽之後、猶返し給はり候て、各、國務沙汰人に返し置く可し之由、思ひ給ひ候也。
かさ きょうきょうきんげん
重ねて恐々謹言。
参考@宛文は、割り当てた手紙。
参考A對捍は、年貢を怠って納めていない。サボリ。
参考B事於頼朝に寄せ、猥りに遁避令め候は、頼朝の権威を利用して、納税をのがれようとしている。
参考C天下落居之後者、万事君の御定を仰ぐ可く候事也は、九巻文治五年(1189)六月三十日条「軍中、將軍之令を聞き、天子之詔を不聞」の反語。
参考D背き候はんとハ、更に不存は、背こうなんて全然思っても居ませんよ。
参考E義定々めて左右を申し上げ令め候歟は、義定からも必ず云っていくと思いますが。
参考F返抄は、受け取りの手紙。
現代語建久元年(1190)六月小二十九日壬子。あちこちの国の地頭が、伊勢神宮の式年遷宮費用の年貢について、多くの者が滞納していると聞いております。伊勢神宮の造営費用催促専門官が盛んに文句を言ってるので、重ねて院から命じてきました。そこでここ数日審議をされ、地頭等に命令を出されて、院への返書を提出されましたとさ。その手紙の内容は、
先日の四月十一日付のお手紙が、五月八日に届きました。式年遷宮の費用について、担当の弁の藤原親経朝臣が書いた院のお手紙を謹んで拝見いたしました。私が監督している八カ国の割当書状と費用の受取証書などを別に箇条書きにしてお送りします。この内相模、武蔵は近所なので、良く命令が行き渡らせて、早速納付を致し終えました。他の六カ国は、若干離れているので、国衙の役人に命じておりますので、先例どおりにちゃんとしていると思っていました。それなのに催促があったので、驚いて昔の割り当て状を捜してみたら、そのようにちゃんと書かれてありましたよ。詳しくは、その書き出しに見るとおりでしょう。
尾張国の地侍の高田四郎重家や山田重忠達の負担は、規則どおりにご命令ください。だいたい、京都近郊の国の連中は、何かと言い訳をつけて滞納しているのならば、どうぞちゃんと懲らしめてください。中原親能と大江広元が管理しているあちこちについては、造営費用催促専門官の催促状を使って、尚も命令を出して置きました。その他の連中で頼朝の名を使って勝手に逃れているのならば、院の使いを差し向けて処理をさせてください。すでに世間は落ち着いておりますので、すべて院の判断を仰ぐべきであります。それなのに御家人を大切だと思って、院に逆らうような事は、考えてもおりません。そう云う訳なので、どうぞ気にしないで、規則どおりにご命令ください。
遠江国については、謹んで承知しました。木曽義仲は、北陸道の軍勢として、安田義定は東海道の軍勢として、京都へ進行した時にその国の守護に安田義定を京都朝廷が任命されました。頼朝が国を貰ったわけではありませんので、全て義定が勤めを果たすべきであります。それでも、仰せ戴いたことを義定に命じて置きましたが、義定が何か云っているのでしょうか。
以上の通りなので、この内容で院へ報告を願います。なお、国々への割当状を調べていたので、遅くなりましたので、恐れ多いことと思っております。頼朝が恐れ謹んで申し上げます。
六月二十九日 頼朝私ごとに申します。
各国の領収書は、院にご覧戴いた後、返していただき、それぞれ国衙の役人に戻しておきたいと思っております。
重ねて謹んで申し上げます。