吾妻鏡入門第十一巻   

建久二年(1191)辛亥二月小

建久二年(1191)二月小四日癸未。前右大將家二所御參。辰剋。横大路於西行。先御參鶴岳宮。御奉幣後進發給。若宮大路南行。至稻村崎。整行列。
御先達
次先陣随兵
 下河邊庄司 三浦左衛門尉 小山田四郎 八田兵衛尉
 中山四郎  同五郎    所六郎   山内先二郎
 廣澤三郎  宇佐美小平二 新田四郎  吉香二郎
 工藤小二郎 宇佐美三郎  土屋兵衛尉 堀藤次
 比企藤二  中條平六   三浦太郎  筑井八郎
 鎌田太郎  小野寺太郎  大河戸四郎 山上太郎
 馬塲二郎  豊田太郎   伊澤五郎  加々美二郎
 武田兵衛尉 淺利冠者
次御乘替
次童一人〔上髪負征矢〕
次御引馬
次御甲着
 阿保五郎
次前右大將家〔御淨衣葦毛馬〕
次御調度懸
 勅使河原三郎
次御後〔淨衣立烏帽子〕
 相模守    上総介    越後守    伊豆守
 新田藏人   奈胡藏人   北條殿    江間殿
 北條五郎   山名小太郎  遠江四郎   小山左衛門尉
 同七郎    三浦介    畠山二郎   八田右衛門尉
 佐貫四郎   加藤二    梶原平三   同刑部丞
 佐々木三郎  安房判官代  伊佐三郎   伊達四郎
 前隼人佑   葛西兵衛尉
次後陣随兵
 村上判官代  新田三郎   和田左衛門尉 三浦平六兵衛尉
 千葉六郎大夫 葛西十郎   江戸太郎   品河太郎
 小山田五郎  小早河弥太郎 梶原左衛門尉 梶原兵衛尉
 横山權守   金子十郎   和田三郎   曾我小太郎
 岡部小二郎  堀四郎    海老名二郎  小河小二郎
 豊嶋兵衛尉  大井二郎   波多野五郎  沼田太郎
 中河小太郎  原宗四郎   河村三郎   新田六郎
 二宮小太郎  本間右馬允

読下し                    さきのうだいしょうけ にしょ  ぎょさん   たつのこく よこおおじ  さいこう    ま  つるがおかぐう  ぎょさん
建久二年(1191)二月小四日癸未。前右大將家二所@へ御参す。辰剋に横大路を西行し、先ず鶴岡宮に御参す。

ごほうへいご  しんぱつ  たま   わかみやおおじ なんこう   いなむらがさき いた  ぎょうれつ ととのへ
御奉幣後進發し給ふ。若宮大路を南行し 稲村崎に 至り行列を整る。

参考@二所は、二所詣でといって箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でる。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝が平家討伐を祈願した神社。

ごせんだつ
御先達

つぎ  せんじん ずいへい
次に先陣の隨兵

  しもこうべのしょうじ   みうらのさえもんのじょう
 下河邊庄司 三浦左衛門尉

  おやまだのしろう    はったのひょうえのじょう
 小山田四郎 八田兵衛尉

  なかやまのしろう    おな    ごろう
 中山四郎  同じき五郎

  ところのろくろう     やまのうちのせんじろう
 所六郎   山内先二郎

  ひろさわのさぶろう   うさみのこへいじ
 廣澤三郎  宇佐美小平二

  にたんのしろう      きっかわのじろう
 仁田四郎  吉香二郎

  くどうのこじろう      うさみのさぶろう
 工藤小二郎 宇佐美三郎

  つちやのひょうえのじょう ほりのとうじ
 土屋兵衛尉 堀藤次

  ひきのとうじ        ちゅうじょうのへいろく
 比企藤二  中條平六

  みうらのたろう       つくいのはちろう
 三浦太郎  筑井八郎

  かまたのたろう      のでらのたろう
 鎌田太郎  小野寺太郎

  おおかわどのしろう   やまがみのたろう
 大河戸四郎 山上太郎

  ばばのじろう       とよたのたろう
 馬場二郎  豊田太郎

  いさわのごろう      かがみのじろう
 伊澤五郎  加々美二郎

  たけだのひょうえのじょう あさりのかじゃ
 武田兵衛尉 淺利冠者

つぎ  おんのりかえ
次に御乗替

つぎ  わらわひとり 〔かみ  あ  そや  お 〕
次に童一人〔髪を上げ征矢を負う〕

つぎ  おんひきうま
次に御引馬

つぎ  おんよろいづけ
次に御甲著

    あぼのごろう
  阿保五郎

つぎ  さきのうだいしょうけ  〔ごじょうえ  あしげうま〕
次に前右大將家〔御淨衣、葦毛馬〕

つぎ  ごちょうどがけ
次に御調度懸

    てしがわらのさぶろう
  勅使河原三郎

つぎ  おんうしろ〔じょうい   たてえぼし
次に御後淨衣、立烏帽子

  さがみのかみ      かずさのすけ
 相模守   上総介

  えちごのかみ      いずのかみ
 越後守   伊豆守

  にったのくらんど    なごのくらんど
 新田藏人  奈胡藏人

  ほうじょうどの      えまどの
 北條殿   江間殿

  ほうじょうのごろう     やまなのこたろう
 北條五郎  山名小太郎

  とおとうみのしろう    おやまのさえもんのじょう
 遠江四郎  小山左衛門尉

  おな    しちろう   みうらのすけ
 同じき七郎 三浦介

  はたけやまのじろう   はったのうえもんのじょう
 畠山二郎  八田右衛門尉

  さぬきのしろう      かとうじ
 佐貫四郎  加藤二

  かじわらのへいざ    おな    ぎょうぶのじょう
 梶原平三  同じき刑部烝

  ささきのさぶろう     あわのほうがんだい
 佐々木三郎 安房判官代

  いさのさぶろう      だてのしろう
 伊佐三郎  伊逹四郎

  さきのはやとのすけ   かさいのひょうえのじょう
 前隼人佐  葛西兵衛尉

つぎ   こうじん  ずいへい
次に後陣の隨兵

  むらかみほうがんだい    にったのさぶろう
 村上判官代  新田三郎

  わだのさえもんのじょう    みうらのへいろくひょうえのじょう
 和田左衛門尉 三浦平六兵衛尉

  ちばのろくろうだいぶ    かさいのじゅうろう
 千葉六郎太夫 葛西十郎

  えどのたろう         しながわのたろう
 江戸太郎   品河太郎

  おやまだのごろう       こばやかわのいやたろう
 小山田五郎   小早河弥太郎

  かじわらのさえもんのじょう   かじわらのひょうえのじょう
 梶原左衛門尉 梶原兵衛尉

  よこやまのごんのかみ    かねこのじゅうろう
 横山權守   金子十郎

  わだのさぶろう        そがのこたろう
 和田三郎    曾我小太郎

  おかべのこじろう       ほりのしろう
 岡部小二郎  堀四郎

  えびなのじろう        おがわのこじろう
 海老名二郎   小河小二郎

  てしまのひょうえのじょう   おおいのじろう
 豐嶋兵衛尉   大井二郎

  はたののごろう        ぬまたのたろう
 波多野五郎  沼田太郎

  なかがわのこたろう     はらのそうしろう
 中河小太郎  原宗四郎

  かわむらのさぶろう     にったのろくろう
 河村三郎   新田六郎

  にのみやのこたろう     ほんまのうまのじょう
 二宮小太郎  本間右馬允

現代語建久二年(1191)二月小四日癸未。前右大将家頼朝様は、箱根権現と伊豆山権現の二カ所に詣でる二所詣でに出かけます。辰刻午前八時頃に幕府前の六浦道横大路を西へ行き、まず鶴岡八幡宮へお参りです。お祈りが済んだら出発です。若宮大路を南へ進み、稲村ガ崎で行列をそろえて見ました。
お参りのリーダーの先達僧。
次ぎに先払いの武装儀杖兵
 下河辺庄司行平   三浦左衛門尉義連
 小山田四郎榛谷重朝 八田兵衛尉知重
 中山四郎重政    同五郎為重
 所六郎朝光     山内先二郎
 広沢三郎実高    宇佐美小平二
 新田四郎忠常    吉香二郎
 工藤小二郎行光   宇佐美三郎助茂
 土屋兵衛尉義C   堀藤次親家
 比企藤二      中条平六
 三浦太郎景連    津久井八郎
 鎌田太郎      小野寺太郎道綱
 大川戸四郎行平   山上太郎高光
 馬場二郎資幹    豊田太郎幹重
 伊沢五郎信光    加々美二郎長清
 武田兵衛尉有義   浅利冠者遠義
次ぎに乗り換え用の馬
次ぎにお下げの童髪が一人〔髪の毛を上げて戦闘用の矢を背負っている〕
次が神社へ寄附用の馬
次が頼朝様の鎧を着ている人 阿保五郎
次が頼朝様〔白い清浄な着物で葦毛に乗馬〕
次が頼朝様用の弓箭のセットを方に懸ける 勅使河原三郎
次ぎに直ぐ後ろのお供〔白い清浄な着物に立て烏帽子〕
 大内相模守惟義  足利上総介義兼
 安田越後守義資  山名伊豆守義範
 新田蔵人義兼   奈古蔵人義行
 北条時政殿    江間義時殿
 北条五郎時連   山名小太郎重国
 遠江四郎     小山左衛門尉朝政
 同七郎結城朝光  三浦介義澄
 畠山次郎重忠   八田右衛門尉知家
 佐貫四郎広綱   加藤次景廉
 梶原平三景時   同刑部丞朝景
 佐々木三郎盛綱  安房判官代高重
 伊佐三郎行政   伊逹四郎為家
 前隼人佑三善康C 葛西兵衛尉清重
次ぎにしんがりの武装
儀杖兵
 村上判官代基国  新田三郎
 和田左衛門尉義盛 三浦平六兵衛尉義村
 千葉六郎大夫胤頼 葛西十郎
 江戸太郎重長   品川太郎
 小山田五郎    小早川弥太郎遠平
 梶原左衛門尉景季 梶原兵衛尉景定
 横山権守時広   金子十郎家忠
 和田三郎     曽我小太郎祐綱
 岡部小二郎忠綱  堀平四郎助政
 海老名二郎    小川小二郎祐義
 豊島兵衛尉    大井二郎実春
 波多野五郎義景  沼田太郎
 中川小太郎    原宗四郎行能
 川村三郎義秀   仁田六郎忠時
 二宮小太郎光忠  本間右馬允義忠

建久二年(1191)二月小十日己丑。細雨降。自二所御歸着云々。

読下し                                    さいう ふる  にしょ よ    ごきちゃく  うんぬん
建久二年(1191)二月小十日己丑。細雨降。二所自り御歸着と云々。

現代語建久二年(1191)二月小十日己丑。霧雨です。二所詣でからご帰還です。

建久二年(1191)二月小十五日甲午。風烈。鶴岳若宮臨時祭。流鏑馬已下如例。今日被始行經供養。〔法華三部〕導師安樂房重慶。〔當宮供僧一和尚〕御布施導師裹物二。安房判官代取之。請僧口別帖絹二疋云々。及晩幕下歴覽大倉山邊給。爲建立精舎。得其靈地給之故也。是去々年征奥州給之時。合戰無為之後。鎌倉中可草創伽藍之由。有御立願。而彼年暮訖。去年奥州騒動。國土飢饉并御上洛等計會。依之無營作。於今者郡國悉靜謐。民庶皆豊稔之間。漸有其沙汰。善信。行政。俊兼等可奉行之云々。

読下し                                       かぜはげ  つるがおあかわかみや りんじさい   やぶさめ いげ れい  ごと
建久二年(1191)二月小十五日甲午。風烈し。 鶴岳若宮の 臨時祭@。流鏑馬已下例の如し。

きょう    きょうくよう ほっけ さんぶ     しぎょうせら     どうし  あんらくぼうちょうけい とうぐう ぐそう   いち   おしょう
今日、經供養〔法華三部〕を始行被る。導師は安樂房重慶〔當宮供僧の一の和尚〕

おんふせ   どうし  つつみものに  あわのほうがんだいこれ と     しょうそう  くべつ  ちょうけんにひき  うんぬん
御布施は導師に裹物二。安房判官代之を取る。請僧は口別に帖絹二疋と云々。

ばん  およ  ばっか おおくらやまへん れきらん たま   しょうじゃ  こんりゅう  ため  そ   れいち   え たま      のゆえなり
晩に及び幕下大倉山邊を歴覽し給ふ。精舎を建立Aの爲、其の靈地を得給はんが之故也。

これ   おととし おうしゅう せい  たま  のとき  かっせん むい の のち    かまくらちう  がらん   そうそうすべ  のよし  ごりゅうがんあ
是、去々年奥州を征し給ふ之時、合戰無為之後は、鎌倉中に伽藍を草創可し之由、御立願有り。

しか    か   とし くれをはんぬ きょねんおうしゅうそうどう   こくど ききん なら    ごじょうらくら けいかい     これ  よつ  えいさく な
而るに彼の年は暮訖。 去年奥州騒動し、國土飢饉并びに御上洛等計會す。之に依て營作無し。

いま  をい  は ぐん くにことごと せいひつ  みんしょ みなほうじんの かん  ようや そ    さた あ     ぜんしん  ゆきまさ  としかねら これ ぶぎょうすべ   うんぬん
今に於て者郡、國悉く靜謐す。民庶 皆豊稔之間、漸く其の沙汰有り。善信、行政、俊兼等之を奉行可しと云々。

参考@臨時祭は、二月十五日は釈迦の命日なので、涅槃会と思われる。
参考A精舎を建立は、後の永福寺。

現代語建久二年(1191)二月小十五日甲午。強風です。鶴岡八幡宮の臨時のお祭です。流鏑馬などの奉納は何時もの通りです。
今日は、涅槃会なのでお経〔法華經三部〕を始めました。指導僧は安楽坊重慶〔当八幡宮の坊さん達の一番上の和尚さんです〕。坊さんへのお布施は、指導僧に風呂敷包みを二つ。大和判官代邦道が手渡しました。お供の坊さん達へは、一人あて帖絹(つむぎ)二匹(四反)だそうです。
夜になって、頼朝様は大倉山の辺りを見て歩きました。これは新しくお寺を建てる為、その霊験新たかな場所を見つけるためなのです。それは一昨年奥州を征服した時に、戦争が無事に終了したら、鎌倉の中にお寺を創建しようと願をかけたからです。しかし、その一昨年はあっという間に過ぎ去ってしまいました。
去年は、奥州で大河次郎兼任の乱で大騒ぎになり、農作物が不足で飢饉があったり、京都へ上られたりして、建設の閑がありませんでした。今となれば国も静かに落ち着き、民も豊年で余裕が出来たので、やっとそれを実行するとお決めになられました。
三善善信、藤原行政、筑後権守俊兼が担当するようにとのことなんだとさ。

建久二年(1191)二月小十七日丙申。雪降。積地五寸。幕下爲覽雪渡御鶴岡別當坊。佐貫四郎候御笠役。前少將時家供奉。路次有御連歌。別當献盃酒。此間仰盛綱親家等。取山邊雪。納長櫃。被送遣竪者坊。彼所屬山陰。日脚相隔。仍搆氷室。可消炎暑之由被仰。以此次。當參諸人運送白雪云々。

読下し                                       ゆきふる  ち   ごすん つも    ばっか ゆき  みんため  つるがおか べっとうぼう  とぎょ
建久二年(1191)二月小十七日丙申。雪降。地に五寸積る。幕下雪を覽爲、 鶴岡の別當坊に渡御す。

さぬきのしろう おんかさやく そうら   さきのしょうしょうときいえ ぐぶ      ろじ   ごれんが あ     べっとうはいしゅ  けん
佐貫四郎御笠役に候う。 前少將時家 供奉す。路次に御連歌有り。別當盃酒を献ず。

こ   かんもりつな  ちかいえら  おお      やまべ   ゆき  と     ながびつ  おさ   りっしゃ  ぼう  おく  つか  さる
此の間盛綱、親家等に仰せて、山邊の雪を取り、長櫃に納め、竪者@の坊へ送り遣は被る。

か   ところ  やまかげ  ぞく    にっきゃく あいへだ    よっ  ひむら  かま    えんしょ  け   べ   のよしおお  らる
彼の所は山陰に屬し、日脚を相隔つ。仍て氷室を搆へ、炎暑を消す可し之由仰せ被る。

こ   ついで もっ    とうさん  しょにんしらゆき  はこ  おく    うんぬん
此の次を以て、當參の諸人白雪を運び送ると云々。

参考@竪者は、命題を主張する人。Goo電子辞書から

現代語建久二年(1191)二月小十七日丙申。雪が降りました。地上に五寸(15cm)も積もりました。
頼朝様は雪見のために八幡宮の筆頭坊さんの宿舎へ行かれました。佐貫四郎広綱が、笠をさしかけて、前少将時家がお供をしました。歩きながら和歌をしりとりする連歌をしました。
筆頭坊さんが酒を出しました。宴会中に頼朝様は佐々木三郎盛綱や堀藤次親家に命じて、山の綺麗な雪を取って着物などを収める長櫃に詰めて、命題主張担当の坊さんの宿舎へ持って行かせました。そこは山陰なので日が当たりませんので、氷を収める洞穴の氷室を作って夏の暑い時に食べるのだよとおっしゃられました。
それを聞いて今集っている人達は皆雪を運びましたとさ。

説明八幡宮南の地が、この氷室の下に当たるので「鎌倉市雪ノ下」の地名になる。

建久二年(1191)二月小廿一日庚子。畫像阿弥陀三尊一鋪被安置御持佛堂。是爲文學聖人沙汰。於京都日來所被奉圖繪也。今日有供養儀。導師安樂房重慶。請僧三口。御布施導師被物三重。野釼一柄。請僧口別裹物二。時家朝臣并源高重等取之。」又法住寺殿造營所課事被仰所々。

読下し                                       がぞう   あみださんぞん いちぼ  おんじぶつどう  あんちさる
建久二年(1191)二月小廿一日庚子。畫像の阿弥陀三尊一鋪を御持佛堂@に安置被る。

これもんがくしょうにん  さた   な     きょうと  をい  ひごろ ずえ  たてまつらる ところなり
是文學聖人の沙汰と爲し、京都に於て日來圖繪し奉被る所也。

きょう  くよう   ぎ あ     どうし  あんらくぼうちょうけい  しょうそう  みくち  おんふせ  どうしかづけもの みえ  のだちいっぺい  しょうそう くべつ  つつみものに
今日供養の儀有り。導師は安樂房重慶。請僧は三口。御布施は導師被物三重。野釼一柄。請僧は口別Aに裹物二。

ときいえあそんなら   みなもとのたかしげらこれ と       また  ほうじゅじでんぞうえいしょか  ことしょしょ  おお  らる
時家朝臣并びに 源高重等 之を取る。」又、法住寺殿造營B所課の事所々へ仰せ被る。

参考@持佛堂は、奥州征伐の際に、御所北側の山の中腹に立てた観音堂で後に法華堂になる。持仏堂は、日常的に礼拝する念持仏)を安置する堂
参考A口別は、坊主は口ばっかしで何の生産性も無いし、出家していて一般の人ではないので、一人二人と数えず、一口二口と口の数で数える。
参考B法住寺殿造営は、後白河が立てこもって、木曾冠者義仲に焼き討ちをされたので、立て直す。

現代語建久二年(1191)二月小二十一日庚子。絵画にした阿弥陀三尊象一幅を頼朝様専用のお守りのお堂に掛けました。
これは文覚上人の差配で、京都で作画されたものです。今日開眼供養の式典をしました。指導僧は安楽坊重慶。お供の坊さんは三人。坊さんへのお布施は、指導僧に被り物の布三枚と公卿用の飾り太刀です。お供の坊さんには一人づつ風呂敷包み二つづつです。前少将時家と源能勢高重が手渡し係です。
話し変って後白河法皇の
法住寺殿の建て直す負担についてあちこちへ命じられました。

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吾妻鏡入門第十一巻   

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