吾妻鏡入門第十一巻   

建久二年(1191)辛亥七月大

建久二年(1191)七月大十一日丁巳。安達新三郎自京都參着。大理御吉事。去月廿五日也。左幕下渡御彼一條室町御亭云々。

読下し                     あだちのしんざぶろうきょうとよ  さんちゃく   だいり  おんきちじ  さんぬ つきにじうごにちなり
建久二年(1191)七月大十一日丁巳。安達新三郎京都自り參着す。大理の御吉事、去る月廿五日也。

 さばっか か いちじょうむろまち おんてい  とぎょ    うんぬん
左幕下彼の一條室町の御亭へ渡御すと云々。

現代語建久二年(1191)七月大十一日丁巳。雑色の長の安達新三郎清恒が、京都から帰ってきました。
検非違使別当の一条能保のお目出度い出来事は先月の二十五日でした。婿の左大将良経(九条兼実の息子)が、あの一条室町の一条能保の屋敷へお渡りになられましたとさ。

建久二年(1191)七月大十八日甲子。内御厩〔十間〕立柱上棟。土肥二郎。岡崎四郎等沙汰之。

読下し                     うちのみんまや〔じっけん〕 りちゅうじょうとう    といのじろう   おかざきのしろうら これ   さた
建久二年(1191)七月大十八日甲子。内御厩〔十間〕立柱上棟す。土肥二郎、岡崎四郎等之を沙汰す。

現代語建久二年(1191)七月大十八日甲子。頼朝様の私邸の方の厩(十間)を柱を立て上棟式をしました。
土肥次郎実平と岡崎四郎義実がこれを負担しました。

建久二年(1191)七月大廿三日己巳。或僧〔其名生一〕此間參籠鶴岡。今日付別當法眼。奉佛舎利三粒於幕下。而仰云。佛舎利歸依太雖惟深。去比東大寺上人重源弟子空躰〔宋人云々〕於室生堀出數十粒佛舎利盜取。仍興福寺鬱陶。虜空躰畢。別當覚憲僧正申子細云々。今若彼類歟之由。非無疑心。忽然相傳。爭不憚後聞乎。然者不能納受云々。生一持歸之云々。若宮別當殊被感申云々。

読下し                     あるそう 〔そ   な  しょういつ〕  こ   かんつるがおか さんろう
建久二年(1191)七月大廿三日己巳。或僧〔其の名は生一〕此の間鶴岡に參籠す。

きょう べっとうほうげん  つ     ぶっしゃりさんつぶを ばっか たてまつ
今日別當法眼に付け、佛舎利三粒於幕下に奉る。

しか    おお    い
而るに仰せて云はく。

ぶっしゃり     きえ はなは これふか   いへど  さんぬ ころとうだいじしょうにんちょうげん  でし くうたい 〔そうじん  うんぬん〕 むろう   をい
佛舎利への歸依太だ惟深しと雖も、去る比東大寺上人 重源が弟子空躰〔宋人と云々〕室生に於て、

すうじっつぶ  ぶっしゃり  ほりいだ  ぬす  と
數十粒の佛舎利を堀出し盜み取る。

よっ  こうふくじ うっとう    くうたい  とりこ  をはんぬ  べっとうがっけんそうじょうしさい  もう    うんぬん
仍て興福寺鬱陶し、空躰を虜にし畢。別當覚憲僧正子細を申すと云々。

いまも   か   たぐいかの よし  ぎしん な   あらず  こつぜんあいつた  いかで こうぶん  はばか ずや  しからば  のうじゅ  あたはず  うんぬん
今若し彼の類歟之由、疑心無きに非。忽然相傳う、爭か後聞を憚ら不乎。然者、納受に不能と云々。

しょういつこれ  も   かえ    うんぬん  わかみやべっとうこと  かん  もうさる    うんぬん
生一 之を持ち歸ると云々。若宮別當殊に感じ申被ると云々。

現代語建久二年(1191)七月大二十三日己巳。或る坊さん〔その名前は生一です〕が、先日から鶴岡八幡宮へお篭りをしました。
今日、八幡宮長官の円暁法眼に預けて、お釈迦様の骨と云われる仏舎利を頼朝様へ差し上げました。
それなのに頼朝様がおっしゃられるのには、「仏舎利への崇拝はとても深く信じているけれども、何時だったか東大寺勧進上人の重源さんの弟子の空躰〔宋の人だそうだ〕が室生寺から数十粒の仏舎利を盗んだそうだ。それで興福寺では、頭へ来て空躰をとっ捕まえたそうだ。興福寺長官の学憲僧正が事情を話したんだそうだ。今もしかしてその関係かもと、疑いが無いわけではない。突然それを手に入れたら、世間の噂を考えなくちゃ。そう云う訳なので受け取れない。」とさ。生一はこれを持ち帰りましたとさ。
八幡宮長官は、特に感心されたんだそうだ。

建久二年(1191)七月大廿八日甲戌。寢殿對屋御厩等造畢之間。今日御移徙之儀也。及亥剋。自藤九郎盛長甘繩家。入御新御亭。武藏守。參河守。上総介。伊豆守。越後守。大和守。千葉介。小山左衛門尉。三浦介。畠山二郎。八田右衛門尉。同太郎左衛門尉。土屋三郎。梶原平三。和田左衛門尉等供奉。梶原左衛門尉役御釼。橘右馬允公長懸御調度。河匂七郎着御甲。随兵十六人〔各騎馬〕
 先陣
  三浦左衛門尉義連 長江太郎明義 小野寺太郎道綱  比企四郎右衛門尉能員
  千葉四郎胤信   葛西三郎C重 小山五郎宗政   梶原三郎兵衛尉景茂
 後陣
  江間四郎殿    修理亮義盛  村上左衛門尉頼時 里見太郎義成
  工藤左衛門尉祐經 狩野五郎宣安 伊澤五郎信光   阿佐利冠者長義

読下し                     しんでん  たいのや みんまやら つく をはん のかん  きょう  ごいし  の ぎ なり
建久二年(1191)七月大廿八日甲戌。寢殿、對屋、御厩等造り畢ぬ@之間、今日御移徙之儀也。

いのこく  およ    とうくろうもりなが  あまなわ  いえよ     しんおんてい  にゅうぎょ
亥剋に及び、藤九郎盛長の甘繩の家自り、新御亭に入御す。

むさしのかみ みかわのかみ かずさのすけ  いずのかみ  えちごのかみ やまとのかみ  ちばのすけ  おやまのさえもんのじょう みうらのすけ はたけやまのじろう
武藏守、 參河守、上総介、 伊豆守、 越後守、大和守、 千葉介、 小山左衛門尉、 三浦介、 畠山二郎、

はったのうえもんんじょう おな   たろうさえもんのじょう  つちやのさぶろう  かじわらのへいざ  わだのさえもんのじょうら ぐぶ
八田右衛門尉、同じき太郎左衛門尉、土屋三郎、 梶原平三、 和田左衛門尉等供奉す。

かじわらのさえもんのじょうぎょけん えき    たちばなうまのじょうきんなが ごちょうど  か     かわわのしちろうおんよろい つ   ずいへいじうろくにん 〔おのおの きば 〕
 梶原左衛門尉 御釼を役す。 橘右馬允公長 御調度を懸く。河匂七郎 御甲を着く。随兵十六人〔 各 騎馬〕

  せんじん
 先陣

    みうらのさえもんのじょうよしつら   ながえのたろうあきよし        おのでらのたろうみちつな      ひきのしろううえもんのじょうよしかず
  三浦左衛門尉義連  長江太郎明義    小野寺太郎道綱   比企四郎右衛門尉能員

    ちばのしろうたねのぶ         かさいのさぶろうきよしげ       おやまのごろうむねまさ        かじわらのさぶろうひょうえんじょうかげもち
  千葉四郎胤信    葛西三郎C重    小山五郎宗政    梶原三郎兵衛尉景茂

  こうじん
 後陣

    えまのしろうどの            しゅりのりょうよしもり          むらかみのさえもんのじょうよりとき  さとみのたろうよしなり
  江間四郎殿     修理亮義盛     村上左衛門尉頼時  里見太郎義成

    くどうのさえもんのじょうすけつね  かのうのごろうのぶやす        いさわのごろうのぶみつ        あさりのかじゃながよし
  工藤左衛門尉祐經  狩野五郎宣安    伊澤五郎信光    阿佐利冠者長義

参考@造り畢ぬは、御所が三月四日未明の火事で燃えてしまったので、新築していた。

現代語建久二年(1191)七月大二十八日甲戌。御所の母屋の寝殿、離れの対の家、厩を造り終えましたので、今日は引越しの儀式です。
午後十時頃になって、藤九郎盛長の甘縄の家から、新築の御所へお入りになられました。大内武藏守義信、源参河守範頼、足利上総介義兼、山名伊豆守義範、安田越後守義資、大和守山田重弘、千葉介常胤、小山左衛門尉朝政、三浦介義澄、畠山次郎重忠、八田右衛門尉知家、八田太郎左衛門尉知重、土屋三郎宗遠、梶原平三景時、和田左衛門尉義盛などがお供をしました。

梶原源太左衛門尉景季が、刀持ちです。橘右馬允公長が弓矢を持って、河勾七郎政頼が頼朝様の鎧を着て、儀杖兵が十六人〔皆馬に乗っています〕。

前の儀杖兵
 三浦左衛門尉義連 長江太郎明義  小野寺太郎道綱  比企四郎右衛門尉能員
 大須賀四郎胤信  葛西三郎清重  小山五郎宗政   梶原三郎兵衛尉景茂
後の儀杖兵
 江間四郎義時殿  関瀬修理亮義盛 村上左衛門尉頼時 里見太郎義成
 工藤左衛門尉祐経 狩野五郎信安  伊沢五郎信光   浅利冠者長義

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