吾妻鏡入門第十一巻   

建久二年(1191)辛亥十二月大

建久二年(1191)十二月大一日乙亥。北條殿被献盃酒垸飯。同室家參御前給。縡已及御引出物云々。三浦介已下宿老輩候侍所行垸飯。此間出御母屋。武者所宗親。越後介高成等候陪膳。高成可令格勤于營中之由被仰下。日來北條殿眼代也。然而彼家人異他之上。爲室家外甥。又依有文章。被召出之云々。

読下し                     ほうじょうどのはいしゅ おうばん けん  らる    おな    しつけ ごぜん  さん  たま
建久二年(1191)十二月大一日乙亥。北條殿盃酒、垸飯を献ぜ被る。同じき室家御前に參じ給ふ。

ことすで  おんひきでもの  およ    うんぬん
縡已に御引出物に及ぶと云々。

みうらのすけ いか すくろう やから さむらいどころ こう  おうばん おこな
三浦介已下宿老の輩、 侍所 に候じ垸飯を行う。

かく  かん おもや   い    むしゃどころむねちか えちごのすけたかなりら ばいぜん こう
此の間御母屋に出で、武者所宗親、 越後介高成 等陪膳に候ず。

たかなり  えいちうに かくご せし  べ   のよしおお  くださる    ひごろ ほうじょうどの もくだいなり
高成、營中于格勤@令む可し之由仰せ下被る。日來北條殿が眼代也。

しかりて  か   けにん た  こと     のうえ  しつけ   がいしょうたり
然而、彼の家人他に異なる之上、室家の外甥爲。

また  もんじょうあ     よっ    これ  め   いださる    うんぬん
又、文章有るに依て、之を召し出被ると云々。

参考@格勤は、領地のない人が大倉御所に住み着いて一日あたり玄米五升の年俸で勤務する。恪勤とも書く。朝夕の祗候人とも云う。

現代語建久二年(1191)十二月大一日乙亥。北条時政殿が酒とご馳走振舞いを献上しました。同様に奥さん牧の方も、頼朝様の前に参りました。もう既に引き出物を提出しておりますとさ。
三浦介義澄以下の豪族達も侍所でご馳走に預かっています。この間に頼朝様は母屋へ出て行かれました。牧武者所三郎宗親と越後介高成が給仕をしています。
高成は御所に勤務するように頼朝様が云って下さいました。普段は北条時政殿の代官をしています。しかし彼は他の家来と違って、奥さん牧の方の姻族の甥です。又、物書きが得意なので、これを引き上げましたとさ。

建久二年(1191)十二月大六日庚寅。前右兵衛尉康盛。於腰越邊梟首之。左衛門尉義盛奉行之。去月景時所搦進也。

読下し                     さきのうひょうのじょうやすもり  こしごえへん をい  これ  きょうしゅ   さえもんのじょうよしもりこれ ぶぎょう
建久二年(1191)十二月大六日庚寅。前右兵衛尉康盛@、腰越邊に於て之を梟首す。左衛門尉義盛之を奉行す。

さんぬ つきかげときから  しん    ところなり
去る月景時搦め進ずる所也。

参考@康盛は、伊豆右衛門尉源有綱(頼政孫)の家来で、十一月十四日捕まった。

現代語建久二年(1191)十二月大六日庚寅。前右兵衛尉平康盛は、腰越の辺りで首を切られました。侍所長官の和田左衛門尉義盛が仕置きしました。
先月梶原平三景時が捕まえた奴です。

建久二年(1191)十二月大十五日己丑。故土佐房昌俊老母自下野國山田庄。參上之由申之。則召御前。申出亡息事頻涕泣。幕下太令歎給。被下綿衣二領云々。故豫州奉背幕下給之時。及欲被遣討手。勇士等申障之處。昌俊乍爲法躰領状。遂奉命於關東之間。至没後今。令引精兵之比量給云々。

読下し                       ことさのぼうしょうしゅん  ろうぼ  しもつけのくにやまだのしょうよ   さんじょうのよしこれ  もう    すなは ごぜん  め
建久二年(1191)十二月大十五日己丑。故土佐房昌俊@が老母、下野國山田庄A自り、參上之由之を申す。則ち御前に召す。

ぼうそく  こと  もう  いだ  しきり ていきゅう   ばっか はなは かん  せし  たま    めんいにりょう  くださる    うんぬん
亡息の事を申し出し頻に涕泣す。幕下太だ歎じ令め給ひ、綿衣二領を下被ると云々。

こよしゅう ばっか  そむ たてまつ たま  のとき   うって  つか  され    ほっ    およ    ゆうしら  さわ    もう  のところ
故豫州幕下に背き奉り給ふ之時、討手を遣は被んと欲すに及び、勇士等障りを申す之處、

しょうしゅん ほったいたりなが りょうじょう   つい いのちをかんとう たてまつ のかん  ぼつご  いま  いた    せいへいのひりょう  ひ   せし  たま    うんぬん
 昌俊、法躰爲乍ら領状し、遂に命於關東に奉る之間、没後の今に至り、精兵之比量Bに引か令め給ふと云々。

参考@土佐房昌俊は、義朝に使えていた渋谷金剛丸と言われる。
参考A
山田庄は、栃木県矢板市山田かも知れない?
参考B
比量は、くらべはかること。比較する事。

現代語建久二年(1191)十二月大十五日己丑。故土佐房昌俊の年老いた母が、下野国(栃木県)山田庄からやってきたと伝えられました。
直ぐに頼朝様は、目の前へお呼びになりました。老婆は、死んだ息子の事を話しながらとても泣いていました。頼朝様はとても同情なさって、綿入れを二着与えられましたとさ。
故伊予守義経がたてついた時、討伐隊を派遣しようとしましたが、御家人達は皆嫌がりました。土佐房昌俊は出家しているにもかかわらず承知して、遂に其の命を鎌倉幕府のために捧げましたので、亡くなった今でさえも、優秀な兵士の模範としているのだとさ。

建久二年(1191)十二月大十九日癸巳。爲鶴岡神事。遣山城江次久家以下侍十三人。可傳神樂秘曲之由。所被成下御教書於好方之許也。
 爲鶴岳八幡宮神事。山城江次久家以下侍十三人被遣之。爲弟子撰器量。早可被教立神樂一座之所作。忩被沙汰之後。如本社。始行二季御神樂。可被上洛也。星弓立哥者。爲秘事之由聞召。然者。相傳之仁重可被仰遣。且又其志可有御存知也者。鎌倉殿仰旨如此。仍執達如件。
      十二月十九日                    盛時〔奉在判〕
    右近將監殿

読下し                       つるがおかしんじ  ため  やましろえじひさいえ いか さむらいじうさんにん つか
建久二年(1191)十二月大十九日癸巳。鶴岡神事の爲、 山城江次久家以下 侍 十三人を遣はし、

かぐら   ひきょく  つた    べ   のよそ  みぎょうしょを よしかた のもと  な   くださる ところなり
神樂の秘曲を傳へる可し之由、御教書於好方@之許へ成し下被る所也。

  つるがおかはちまんぐうしんじ ため  やましろえじひさいえ いか さむらいじうさんにん これ つか  さる
 鶴岳八幡宮神事の爲、 山城江次久家以下 侍 十三人之を遣は被る。

   でし   な   きりょう  えら    はや  かぐら いちざの  しょさ   おし  たてらる  べ
 弟子と爲し器量を撰び、早く神樂一座之所作を教へ立被る可し。

  いそ   さた   さる  ののち  ほんじゃ  ごと     にき   おかぐら   しぎょう  じょうらくさる  べ   なり
 忩ぎ沙汰し被る之後、本社の如く、二季の御神樂を始行に上洛被る可き也。

  ゆだて  ほしうたは  ひじ たるのよし き     め     しからば  そうでんのじん  かさ   おお  つか  さる  べ
 弓立・星哥者、秘事爲之由聞こし召す。然者、相傳之仁、重ねて仰せ遣は被る可し。

  かつう また  そ こころざし ごぞんじなり あ   べ   てへ      かまくらどのおお   むねかく  ごと
 且は又、其の志、御存知也有る可き者れば、鎌倉殿仰せの旨此の如し。

  よっ  しったつくだん ごと
 仍て執達件の如し。

             じうにがつじうくにち                                           もりとき 〔ざいはんたてまつ〕
      十二月十九日                    盛時〔在判奉る〕

        うこんしょうげんどの
    右近將監殿

参考@好方は、多好方で当時一番のお神楽や邦楽の名人。弟好節が鎌倉に残り、その子孫が大野鎌倉彫と聞く。十月末に鎌倉へ来て十一月二十一日に帰った。

現代語建久二年(1191)十二月大十九日癸巳。鶴岡八幡宮の神事のために、山城大江久家を始めとする十三人を派遣して、お神楽の曲を教えるように、お手紙を多好方に送らせました。

 鶴岡八幡宮の神事のために、山城大江久家を始めとする十三人を派遣します。弟子にして才能のある者を選んで、早くお神楽の基本的動作を教えてください。急いで処理できれば、本社岩清水と同様に、春と秋の彼岸のお神楽を始めるために京都へ行かせるのです。弓立と星歌は、流儀の秘伝だと聞いております。なので、誰なら相伝させられるか教えてくれれば、続けて命じることにしましょう。と言う訳で、ご承知願いたいと、鎌倉殿からの命令はこのとおりです。それなのでこの通り書きました。
      十二月十九日          平民部烝盛時〔命じられて書きました。頼朝の花押有り〕
    右近将監多好方殿

建久二年(1191)十二月大廿四日戊戌。親能。廣元等使者自京都參着。去十七日。法住寺殿有御移徙之儀。毎事無爲云々。大理所被献其記也。其日出仕之人々。攝政殿。右大將〔頼實〕。新大納言〔忠良〕。左大將〔良經〕。藤中納言〔定能〕。右衛門督〔通親〕。坊門中納言〔親信〕。民部卿〔經房〕。權中納言〔泰通〕。別當〔能保〕。平中納言〔親宗〕。右衛門督〔隆房〕。左宰相中將〔實教〕。大宮權大夫〔光雅〕。藤宰相中將〔公時〕。左大弁〔定長〕。三位中將〔家房〕。左京大夫〔季能〕。藤三位〔雅隆〕。前宮内卿〔季經〕。六條三位〔經家〕。新宰相中將〔成經〕。頭中將〔實明朝臣〕。頭大藏卿宗頼朝臣已下也。自六條殿出幸。掃部頭安倍季弘朝臣候反閇。陰陽頭賀茂宗憲朝臣候新御所。又奉仕反閇。被引黄牛二頭。殷冨門院同入御。少納言頼房。勘解由次官C長候水火役。又女房二位局〔具前馳四人。衛府四人〕參上。入御之後供五菓。右大將被進之。役送定輔〔修理大夫〕經仲〔播磨守〕等朝臣。右大弁資實出殿上盃酌。左大將已下被着座。一献。定輔持參盃。二献。左大弁定長。三献。平中納言〔親宗〕云々。翌朝。前掃部頭親能〔薄織襖狩衣〕。大夫判官廣元〔白襖一斤染衣。平礼。不帶釼〕。依召參御所堂上。親能以左中將親能朝臣賜御釼〔入錦袋〕。廣元同給之。左少將忠行傳之云々。廣元載状申云。鴾毛御馬三疋。御移徙後朝引進之云々。今夜被置御所物。鈍色裝束〔裏代〕。御塗籠帖絹五百疋。繕綿〔ムシリ〕二千兩。紺小袖千領。御倉八木千石。御厩御馬二十疋。此外被献女房二治局物。白綾百疋。帖絹百疋。綿二千兩。紺絹百疋也。

読下し                       ちかよし  ひろもとら   ししゃ きょうとよ   さんちゃく   さんぬ じうしちにち  ほうじゅじでん ごいし の ぎ あ
建久二年(1191)十二月大廿四日戊戌。親能、廣元等の使者京都自り參着す。去る十七日、法住寺殿御移徙之儀有り。

 まいじ ぶい   うんぬん  だいり  そ  き   けん  らる ところなり  そ   ひ しゅっしのひとびと
毎事無爲と云々。大理@其の記を献ぜ被る所也。其の日出仕之人々。

せっしょうどの うだいしょう 〔よりざね〕 しんだいなごん 〔ただよし〕 さだいしょう 〔よしつね〕 とうのちうなごん 〔さだよし〕 うえもんのかみ 〔みちちか〕 ぼうもんちうなごん 〔ちかのぶ〕
攝政殿、右大將〔頼實〕新大納言〔忠良〕左大將〔良經〕藤中納言〔定能〕右衛門督〔通親〕坊門中納言〔親信〕

みんぶのきょう 〔つねふさ〕ごんのちうなごん 〔やすみち〕 べっとう 〔よしやす〕 へいちうなごん 〔ちかむね〕 うえもんのかみ 〔たかふさ〕 ささいしょうちうじょう 〔さねのり〕
民部卿〔經房〕權中納言〔泰通〕別當〔能保〕平中納言〔親宗〕右衛門督〔隆房〕左宰相中將〔實教〕

だいくうごんのたいふ 〔みつまさ〕 とうのさいしょうちうじょう 〔きんとき〕 さだいべん 〔さだなが〕 さんみちうじょう 〔いえふさ〕 さきょうのたいふ 〔すえよし〕 とうのさんみ 〔まさたか〕
大宮權大夫〔光雅〕藤宰相中將〔公時〕左大弁〔定長〕三位中將〔家房〕左京大夫〔季能〕藤三位〔雅隆〕

さきのくないきょう 〔すえつね〕 ろくじょうさんみ 〔つねいえ〕 しんさいしょうちうじょう 〔なりつね〕  とうのちうじょう 〔さねあきあそん〕 とうのおおくらきょうむねよりあそん  いげなり
宮内卿〔季經〕六條三位〔經家〕新宰相中將〔成經〕頭中將〔實明朝臣〕 頭大藏卿宗頼朝臣 已下也。

ろくじょうでんよ  しゅっこう  かもんのかみあべのすえひろあそん へんばい そうら
六條殿自り出幸。 掃部頭安倍季弘朝臣 反閇Aに候う。

おんみょうのかみかものむねのりあそん しんごしょ  そうら   また  へんばい  ほうし
陰陽頭賀茂宗憲朝臣 新御所に候ひ、又、反閇を奉仕す。

あめうじ  にとう   ひかる    いんぶもんいん おな    にゅうぎょ   しょうなごんよりふさ  かげゆ のすけ きよなが すいか  えき  そうら
黄牛B二頭を引被る。殷冨門院C同じく入御す。少納言頼房、勘解由D次官C長水火の役に候う。

また  にょぼうにいのつぼね 〔まえがけよにん  ぐ     えふ  よにん 〕 さんじょう   にゅうぎょののち ごか  きょう   うだいしょうこれ  しん  らる
又、女房二位局〔前馳四人を具す。衛府四人〕參上す。入御之後五菓Eを供す。右大將之を進じ被る。

えきそう  さだすけ 〔しゅりのたいふ〕 つねなか 〔はりまのかみ〕 ら   あそん  うだいべんすけざね てんじょう い    はいしゃく   さだいしょう いか ちゃくざさる
役送は定輔〔修理大夫〕經仲〔播磨守〕等の朝臣、右大弁資實、殿上に出でて盃酌す。左大將已下着座被る。

いっこん   さだすけ さかずき  じさん    にこん    さだいべんさだなが  さんこん   へいちうなごん 〔ちかむね〕  うんぬん
一献は、定輔 盃 を持參す。二献は、左大弁定長。三献は、平中納言〔親宗〕と云々。

よくあさ  さきのかもんのかみちかよし 〔うすあおいろ おうかりぎぬ 〕 たいふほうがんひろもと 〔はくおういっこんぞめ ころも   ひれ   たいけんせず〕 めし  よっ  ごしょ   どうじょう さん
翌朝、 前掃部頭親能 〔薄織の襖F狩衣G大夫判官廣元〔白襖一斤染Hの衣。平礼。帶釼不〕召に依て御所の堂上に參ず。

ちかよし  さちうじょうちかよしあそん  もっ  ぎょけん 〔にしき ふくろ  い〕    たま      ひろもとおな   これ  たま      さしょうしょうただゆきこれ つた   うんぬん
親能、左中將親能朝臣を以て御釼〔錦の袋に入る〕を賜はる。廣元同じく之を給はる。左少將忠行之を傳うと云々。

ひろもとじょう の   もう    い       つきげ  おんうまさんびき   ごいし   のち  ちょう これ  ひ   しん   うんぬん
廣元状に載せ申して云はく。鴾毛の御馬三疋、御移徙の後、朝に之を引き進ずと云々。

こんや ごしょ  おかる   もの  にびいろ しょうぞく 〔うらじろ〕   おんぬりごめ  つむぎ ごひゃっぴき  むしり    にせんりょう  こん  こそでせんりょう
今夜御所に置被る物、鈍色Iの裝束〔裏代〕、御塗籠に帖絹五百疋、繕綿J〔ムシリ〕二千兩、紺の小袖千領。

みくら   やき せんごく  みんまや  おんうまにじっぴき
御倉に八木千石御厩に御馬二十疋。

こ  ほかにょぼうにいのつぼね けん  らる  もの  いろあやひゃっぴき ちょうけんひゃっぴき わたにせんりょう こんぎぬひゃっぴきなり
此の外 女房二位局に献ぜ被る物、 白綾百疋、 帖絹百疋、 綿二千兩、 紺絹百疋也。

参考@大理は、検非違使別当の唐名。ここでは一条能保。
参考A反閇は、〔中国の夏の禹王が治水のため天下をまわり足が不自由になったという伝説による〕片足を引きずって歩くこと。また、その人。この故事にならって呪文を唱えつつ千鳥足で歩くこと。(2)貴人が外出するとき、陰陽師が行う邪気を払う呪法。禹歩(うほ)とも云う。地団駄を踏むも似たようなもの。似たようなものに「呪師走り」があり、当初は法呪師だったが、後に民間に伝わり唱聞師となり、これが猿楽になっていく。
参考B黄牛は、飴色の毛の牛。上等な牛とされた。
参考C殷冨門院は、後白河院の長女亮子(あきこ)内親王。百人一首の「見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず」の人らしい。
参考D勘解由は、「勘解由使」の略。勘解由使は、平安初期、主に国司交代の際、事務引き継ぎを監督するために置かれた令外(りようげ)の官。新任者が前任者に交付する解由状を審査した。Goo電子辞書から
参考E五菓は、五種のくだもの。棗(なつめ)・李(すもも)・杏(あんず)・桃・栗。Goo電子辞書から
参考Fは、(1)武官の朝服。「闕腋(けつてき)の袍(ほう)」に同じ。(2)「狩衣(かりぎぬ)」に同じ。狩襖(かりあお)。Goo電子辞書から
参考G狩衣は、〔もと、狩りなどのときに着たところから〕盤領(まるえり)で脇を縫い合わせず、くくり緒のある袖が後ろ身頃にわずかに付いているだけの衣服。地質は、布(ふ)を用いるので布衣(ほい)とも呼んだが、のちに絹綾(きぬあや)のものもできた。平安時代には公家の平常の略服であったが、鎌倉時代以後は公家・武家ともに正服、または礼服として用いた。現在は、神官の服装に見られる。狩襖(かりあお)。かりごろも。Goo電子辞書から
参考H一斤染は、紅花一斤で絹一匹を染めた布。やや淡い紅色。
参考I鈍色は、染め色の名。橡 (つるばみ) で染めたねずみ色。喪服や出家した人の衣に用いた。
参考J繕綿は、絹をむしって造った綿。

現代語建久二年(1191)十二月大二十四日戊戌。掃部頭中原親能、(大江)広元達の使いが京都から到着しました。
先日の十七日に後白河法皇の法住寺殿への引越し式がありました。全ての作業が無事に終わりましたとさ。檢非違使別当の一条能保が、その記録を送って来ました。
その日に出席した人々は、摂政殿九条兼実、右大将頼実、新大納言藤原忠良、左大将九条良経、中納言藤原定能、
右衛門督久我通親、中納言坊門親信、民部卿吉田経房、権中納言坊門泰通、別当一条能保、中納言平親宗、右衛門督藤原隆房、左宰相中将中御門実実教、大宮権大夫葉室光雅、藤宰相中将滋野井公時、左大弁藤原定長、三位中将藤原家房、左京大夫藤原季能、藤三位藤原雅隆、前宮内卿季経、六条三位経家、新宰相中将成経、頭中将実明朝臣、頭大蔵卿宗頼朝臣以下です。

六条殿からお出ましです。掃部頭安倍季弘さんが、邪気払いの千鳥足歩きをしました。陰陽師の長官の賀茂宗憲さんは、新しい御所の方に行って、同様に邪気払いの千鳥足歩きをしました。黄色い立派な牛二頭に引かれて、院の長女殷富門院も同様に新御所へ入られました。少納言頼房と勘解由次官清長とが、水火の役を担当しました。又、女官二位局高階栄子〔露払い四人と近衛府の警備員四人を連れています〕が参りました。皆新御所へ入られた後、五種の果物((なつめ)・李(すもも)・杏(あんず)・桃・栗。)を召し上がられました。右大将頼実が提供しました。運び役は、修理大夫定輔と播磨守経仲の廷臣です。右大弁資実が御殿へ上ってお酌をしました。又、女官の二位局高階栄子〔露払い四人と近衛府からの護衛四人がついてます〕も参りました。新御所へ入った後、五種のくだもの五菓((なつめ)・李(すもも)・杏(あんず)・桃・栗。)を捧げました。右大将頼実が提供しました。運ぶ係りは、修理大夫定輔と播磨守経仲の朝廷役人です。右大弁資実は、御殿に上ってお酌をしました。左大将九条良経が座についておられます。一杯目は、定輔が盃を差し出しました。二杯目は左大弁藤原定長、三杯目は中納言平親宗だったそうな。

翌朝、前掃部頭中原親能〔薄青の織物の狩衣〕と大夫判官大江広元〔白の襖(裏つき狩衣)で一斤染の衣。平服に剣を持たず〕が呼ばれて御所の建物の上に参りました。中原親能は、左中将親能を通じて剣〔錦の袋入り〕を戴きました。大江広元も同様に戴きまいsた。左少将忠行が手渡しましたとさ。

大江広元は手紙に書いて云っているのは、頼朝様からの鴾毛の馬三頭は、引越しの後に、朝廷へ引いて行かせましたとさ。この夜に御所へ届けられた物は、ねずみ色の出家した人が切る衣装〔裏地は白〕。塗り壁の部屋には、紬千反、むしり綿二千両、紺の小袖千着。倉には米千石。厩には馬二十頭。この他に女官の二位局高階栄子に届けられた物が、白い綾絹二百反、紬二百反、綿二千両、紺色の絹の反物二百反。

建久二年(1191)十二月大廿六日庚子。去廿二日子剋。常陸國鹿嶋社鳴動。如大地震。聞者驚耳。是爲兵革并大葬兆之由。祢宣中臣廣親所註申也。幕下有御謹愼。則以鹿嶋六郎。被奉神馬云々。

読下し                       さんぬ のじうににちねのこく ひたちのくに かしましゃ めいどう    おおじしん  ごと    き   ものみみ  おどろ
建久二年(1191)十二月大廿六日庚子。去る廿二日子剋、常陸國 鹿嶋社 鳴動す。大地震の如し。聞く者耳を驚かす。

これ  へいかくなら   たいそう ちょうたるのよし  ねぎ なかとみのひろちか ちう  もう ところなり  ばっか ごきんしんあ
是、兵革并びに大葬の兆爲之由、祢宣 中臣廣親 註し申す所也。幕下御謹愼有り。

すなは  かしまのろくろう  もっ    しんめ  たてまつらる  うんぬん
則ち鹿嶋六郎を以て、神馬を奉被ると云々。

現代語建久二年(1191)十二月大二十六日庚子。先日の二十二日の夜中の十二時頃に、常陸国の鹿島神宮の建物が震えました。まるで大地震のようです。その音は聞く者の耳を驚かせました。
これは、兵乱と大物の葬儀の前触れだと、神社の役職禰宜の中臣広親が書いて送ってきました。頼朝様は身を謹んで控えの式をしました。すぐに鹿島六郎に命じて馬を奉納しましたとさ。

建久二年(1191)十二月大廿九日癸夘。戸部〔經房卿〕并女房二品局等状到着。法住寺殿修理被盡美事。所被賀申也。凡今年。於京都件造營。於關東又鶴岡遷宮。幕府新造。云是云彼。不費民戸而令成大功等給之條。人莫不感申〔矣〕。

読下し                        こぶ 〔つねふさきょう〕 なら    にょぼうにほんのつぼねら じょうとうちゃく
建久二年(1191)十二月大廿九日癸夘。戸部〔經房卿〕并びに女房 二品局 等の状到着す。

ほうじゅじでん  しょううり び  つくさる  こと  が   もうさる ところなり
法住寺殿の修理美を盡被る事、賀し申被る所也。

およ  ことし   きょうと  をい  くだん ぞうえい  かんとう  をい    また  つるがおか せんぐう  ばくふ  しんぞう
凡そ今年、京都に於て件の造營、關東に於ては又、鶴岡の遷宮、幕府の新造、

これ  ひ   か   い     みんこ  つい  さざる て たいこうら  な   せし  たま  のじょう  ひとかん  もう  ざる  な   〔や〕
是と云ひ彼と云ひ、民戸を費や不し而大功等を成さ令め給ふ之條、人感じ申さ不は莫き〔矣〕

現代語建久二年(1191)十二月大二十九日癸卯。民部卿吉田経房と二品局高階栄子の手紙が届きました。
後白河法皇の住まい法住寺殿の修理がとても綺麗に尽くしてくれたことへのお礼を述べていました。
だいたい今年は、京都ではその修造があり、関東では同様に鶴岡八幡宮の移転や、幕府の再建などと、あれといいこれといい、民百姓に負担を掛けないで大手柄を立てなされたと、感動を云わない人は有りませんでしたとさ。

閏十二月へ

吾妻鏡入門第十一巻   

inserted by FC2 system